今日は梅雨入り宣言が出た。六月六日に雨ざあざあ降ってきてって、絵描き歌だな。
それでは「東路記」の続き。
「藤沢、町の右に道場有。一遍上人開基の寺、時宗の本寺也。此里に白幡明神あり。義経の首、奥州より鎌倉におくり実検の後、此所におさめ祭りし社也。社の前に弁慶が首塚あり。此地に小栗塚とて石塔有。今より三百年以前、此二三里おくの里に小栗と云士ありしと云。小栗事、世にいひ伝へたる様々の事、多くは虚説なりと云。古き書には見えず。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.6)
今は遊行寺(ゆぎょうじ)と呼ばれ、国道一号線の遊行寺の坂は箱根駅伝でもお馴染みだが、昔は道場と呼ばれていた。宗長の『東路の津登』には「藤沢の道場」とある。藤沢山無量光院清浄光寺が正確な名称になる。時宗の総本山。
時宗は一遍上人を開祖とし、その指導者を代々遊行上人と呼んだ。ウィキペディアには、
「遊行上人(ゆぎょうしょうにん)とは、時宗集団における指導者に対する敬称。 特に開祖である一遍、その弟子で遊行派の始祖である他阿を指す事が多い。
二代他阿以降、代々他阿(他阿弥陀仏)の名をも継承している。時宗の総本山である清浄光寺の法主が継承しており、藤沢上人と同一視されることもあるが、本来は隠居した遊行上人を指す言葉であり、一方で遊行上人とならなかった藤沢上人も存在する。梅谷繁樹は、本来代々の遊行上人および藤沢上人が名乗った名は他阿弥陀仏のみであり、「真教」(二代)や「尊観」(12代)のような道号を用いるようになったのは近世以降ではないかと見ている。またこれらの道号は、江戸時代前期の42代上人他阿尊任の頃に整備され、以降の上人も道号を名乗るようになったのではないかと見ている。」
とある。
芭蕉も『奥の細道』の旅で敦賀に来た時、
月清し遊行のもてる砂の上 芭蕉
の句を詠んでいる。二代遊行上人の他阿(真教上人)が自ら敦賀の気比明神の参道の砂を運んだと言われている。
時宗の宗は「阿」の文字のつく法名を名乗ることが多く、その中には中世の芸術の頂点に立つ人も少なくない。和歌の頓阿(とんな)法師、連歌師の周阿、良阿、水墨画の能阿、芸阿、相阿、そして能の大成者である観阿(観阿弥)、世阿(世阿弥)も時宗の僧だった。
また、開祖の一遍上人は念仏踊りを広め、これが盆踊りの原型になっている。俳諧で「踊り」が秋の季語になっているのは、この盆踊りを指すからだ。田楽踊が元になっていて、それを布教に取り入れたという。
元禄七年の「柳小折」の巻二十四句目に、
薄雪の一遍庭に降渡り
御前はしんと次の田楽 芭蕉
の句がある。
遊行寺の坂を降りると境川を渡り、東海道の道は右に折れる。宿場の所はわざとクランクにしたりして真っすぐ侵入できないようにしてある。その藤沢宿の右側に入ったところに白幡神社がある。当時は白幡明神と呼ばれていた。
ウィキペディアによれば、元は「荘厳寺を別当とした神社で、相模国一宮の寒川神社の祭神を祀り、寒川神社と称していた。」という。
「文治5年(1189年)、閏4月30日に奥州平泉の衣川館で自害した義経の首級が鎌倉へ送られ、6月13日腰越で首実検が行われた後、この神社の付近に義経と弁慶の首級が葬られたという伝承と共に伝・源義経首洗井戸や弁慶塚が残され、宝治3年(1249年)に源義経を合祀したとしている。」(ウィキペディア)
という伝承があることで、源氏の白旗から白旗明神と呼ばれてきた。後に源氏が信仰していた八幡大神と結びついて、全国に白幡神社が作られていった。
義経の首については『吾妻鏡』に和田義盛と梶原景時が腰越の浜で首実検ことが記されているが、その後どうなったかは不明で、「奥州より鎌倉におくり実検の後、此所におさめ祭りし社也」というのは伝承に属する。
白旗明神と街道を隔てた反対側の今の中横須賀公園に弁慶塚がある。碑は後に建てられたものであろう。
「此地に小栗塚とて石塔有」とあるが、今ある伝承小栗塚之跡は藤沢宿から境川を遡った西俣野にある。中世の説教節の『小栗判官』の塚で、ウィキペディアには、
「藤沢市西俣野にある花応院には、焼失した近隣の閻魔堂より移された小栗判官縁起絵図が伝わる。主人公が満重の子・小次郎助重である、照手が横山大膳の娘である等、長生院の縁起と相違がみられる。なお、閻魔堂に祀られていた判官の墓がこちらにも現存する。」
とある。
「小栗事、世にいひ伝へたる様々の事、多くは虚説なり」とあるように、物語の主人公であり、架空の人物だが、物語の舞台になったところが今でいう「聖地」になるのはよくあることだ。
「上方より下るには、藤沢より鎌倉へ行道有。藤沢より鎌倉へ行には、絵の嶋へかかりては、腰越より極楽寺の切通を通り三里半有。甘繩通りは、建長寺、円覚寺の前を通り二里有。藤沢より絵の嶋へ一里有。藤沢の台の上より鎌倉山見ゆる。又、三浦のみさき見ゆる。絵の嶋の向ひに西に出たる崎なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.6)
宿場の京都側からの入口には上方見附という見張り所があった。「上方より下るには」というのは、藤沢宿上方見附を京都寄りに行った所という意味だろう。上方見附は今の小田急線藤沢本町駅の辺りにあった。江戸側には江戸見附がある。
昔の鎌倉街道上道は遊行寺の方を通っていたので、ここでいう「藤沢より鎌倉へ行道有」は辻堂古道だろうか。道筋はよくわからないが鵠沼から江の島(絵の嶋)の前を通って腰越から極楽寺の切通を通って鎌倉を入る道があったようだ。
宗長の『宗祇終焉記』の旅で、宗祇のいる越後直江津に向かう途中、相模国に入った時に鎌倉に立ち寄っているが、あるいはこの道を通ったか。
「甘繩通りは、建長寺、円覚寺の前を通り二里有」とあるが、建長寺円覚寺の前を通るなら、北鎌倉の方になる。甘縄神明宮は長谷の方にあるので、これも勘違いか。「タマ」とルビがあるから、藤沢宿から東の方へ行って、大船の玉縄から円覚寺・建長寺の前を通って鎌倉に入る別の道が二里ということだったか。
「藤沢より絵の嶋へ一里有」というのは、また別の藤沢宿から直接江の島へ行く「江の島道」であろう。
「藤沢の台」もどこなのかよくわからないが片瀬山のことか。今は宅地造成されてしまってどのあたりかわからないが、東に鎌倉山が見えて南に江の島から三浦半島に至る海の見渡せるビューポイントがあったのだろう。
「藤沢と平塚の間に馬入川あり。是、相模川なり。此川は甲州の猿橋より出る。源遠き故、大河なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.6)
相模川の下流域は馬入川とも言う。平塚市に馬入という地名があり、国道一号線の橋は馬入橋という。ウィキペディアには、
「相模川は東海道の難所として知られ、平安時代は浮橋で渡っていた。鎌倉時代、源頼朝が橋の落成式の出席後に落馬し、翌月に亡くなった(詳細は旧相模川橋脚を参照)。旧相模川橋脚の位置は現在の馬入橋の位置より東に2kmほどずれているが、本橋の名称や地名としての馬入の由来はこの逸話にちなんでいる。
江戸時代の相模川は現在の馬入橋付近に橋はなく、渡船による往来が行われていた。」
とある。
相模川の上流には津久井湖、相模湖があり、そのさらに上流の上野原から先は甲斐国になる。大月の手前に甲州街道の猿橋がある。橋脚がなく、岩盤に穴を開けて刎(は)ね木をさして、それを重ねて橋を支える「刎橋(はねばし)」になっている。現在ある猿橋は江戸時代の物ではなく、一九八四年に復元された物が架かっている。
「平塚より武蔵の厚木へ行道有。八王子へも此道よりゆく。昔は奥州へ此道をも通りし也。平塚と大磯の間に、花水の橋とて有。富士山見えて好景なり。其さきに、もろこしが原有。名所なり。又、十間坂と云所あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.6)
平塚から厚木へ行くのは平塚道になる。いつ頃からあった道なのかは定かでないが、古代に奥州へ向かっていたのは古代東海道で、今の海老名の辺りの浜田駅を経て武蔵国府のあった府中へ向かい、そこから東山道武蔵路で栃木県の足利へ抜けて、東山道で白河の関を越えた。
花水の橋は平塚宿の西の花水川を渡る橋で、もろこしが原は『更級日記』に、
「もろこしが原といふ所も、砂子のいみじう白きを二三日ゆく。」
とある。近くに高麗山があり高来神社があるところから、古代に帰化人の住んでいた地域で朝鮮半島系も中国系もいっしょくたにして「もろこし」だったのだろう。
十間坂は茅ケ崎の地名で、平塚宿より手前にある。
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