ウクライナの戦争も長くなってくると、次第にほかのニュースに埋もれて忘れ去られてゆく。それでもロシアを許すなの声を上げて行こう。戦争は御免だ。平和に賛成。侵略国家を許すな。
輝かしい未来への道はもうすぐそこに見えている。
市場経済による最も効率の良い生産様式によって、世界中が誰一人餓えることなく豊かになること。
経済がある程度成長し、高度な医療と健康管理によって乳幼児の死亡率が減れば、自ずと多産多死は解消され、少産少死の時代が来る。
その少産少死が世界中に広まることで、この地球が人口増加圧から解放されれば、生きるための生存競争も不要なものになる。(良きパートナーをめぐっての生存競争のみが残る。)
生存競争がなくなれば戦争のない平和な世界が実現できる。豊かで誰も餓える心配のない社会なら、誰も命をかけて他人の土地を奪う必要もなくなる。
世界中の人が労働者であると同時に資本家になれば、階級闘争も終わらせることができる。
やがて世界の生産の多くはAIとロボットによって自動化され、生産性が極限にまで高まれば、人は多くの労働から解放され、遊んで暮らせる時代が来る。
これ以上のシナリオがあるというなら聞かせてほしい。
みんなが同じ夢を見る必要はない。ただ互いに足を引っ張り合わなければいい。それには、お互いの違いを認め合うことだ。簡単なことだ。
思うに生存競争そのものが完全になくなるということはない。ただ、敗者が生存できる状態なら、既に多くの先進諸国が達成している。つまりいくら企業間が厳しい競争にさらされていて、企業内でも熾烈な出世争いがあるにしても、負けたからと言って死ぬことはない状態であれば、「生存」を掛けた競争ではない。あくまでより豊かな生活や自分の夢のための生存+α競争にすぎない。
もちろん多くの先進国でも、稀にその保護から漏れてしまう不幸な人たちがまだいる。それを根絶する努力は必要だ。しかし、競争のない社会なんてのは無理というよりも糞だ。
経済的な意味で生存競争を終わらせるというのは、基本的には敗者が死なない社会で良いと思う。戦争もなければ、飢餓もない。さらに病気や老齢や失業に何のセーフティーネットもない、いわゆる最低限の生活が保障されない状態から脱却していれば、既に一つの目標を達成している。
なお、生物学的な意味での生存競争はあくまで子孫を残す戦いであって、どんな大金持ちでも、絶対的な権力を持つ独裁者でも、子供がいなければ生物学的には敗者だ。貧乏人でも子沢山ならビクトリー、それが生物学的な意味での生存競争になる。
それでは『阿羅野』の仲夏の発句の続き。
はじめて葎室をとぶらはれける比
ここらかとのぞくあやめの軒端哉 秋芳
「あやめの軒端」は端午の節句の飾りで、菖蒲葺のことをいう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「菖蒲葺く」の解説」に、
「端午の節句の行事として、五月四日の夜、軒にショウブをさす。邪気を払い火災を防ぐという。古く宮中で行なわれたが、後、武家、民間にも伝わった。《季・夏》
※山家集(12C後)上「空はれて沼の水嵩(みかさ)を落さずはあやめもふかぬ五月(さつき)なるべし」
とある。例文にもあるように和歌にも詠まれている。
元禄十一年の支考の『梟日記』にも、
「五月五日
備前國
此日岡山の城下にいたる。殊にあやめふきわたして、行かふ人のけしきはなやかなるを見るにも、泉石の放情はさらにわすれがたくて、
松風ときけば浮世の幟かな」
とその華やかな街の様子が記されている。
街で一斉に菖蒲葺きが行われているのはもとより、人里離れた八重葎に埋もれた隠士の家でも屋根が菖蒲で葺かれていて、それを見ればここに人が住んでいるとわかる。
蚊のむれて栂の一木の曇けり 小春
いわゆる蚊柱という現象であろう。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「蚊柱」の解説」に、
「昆虫類のカ、ユスリカ、ヌカカ、ガガンボなど双翅(そうし)目長角群の昆虫が、上下左右に飛びながら柱状に群集する現象をいう。蚊柱は全体として上下に移動するが、地上にある突起物や周囲と色の違う紋様を中心にその上方でつくられ、木の梢(こずえ)の上、枝先の下でみられることもある。構成は普通、雄だけで、雌がこれに飛び入り雄と交尾することが観察されているので、生殖のための行動といわれているが、雌だけの群飛や1種類だけでない場合もある。蚊柱ができるのは夕暮れ、夜明けが多いが、種類と天候により日中にもできる。双翅類以外でも蚊柱と同じ現象が、カゲロウ、トビケラ、カワゲラ、クビナガカメムシなどでみられる。[中根猛彦]」
とある。
草深きしづの伏屋の蚊柱に
いとふ煙を立てぞふるかな
藤原定家(拾遺愚草)
夕ま暮杣木もしらぬ蚊柱を
たつるはあるる夏の古郷
正徹(草根集)
など、歌にも詠まれている。
かやり火に寐所せまくなりにけり 杏雨
蚊柱は和歌では珍しい題材だが、蚊遣火は意外に多くの歌に詠まれている。
夏なれば宿にふすぶる蚊遣火の
いつまでわが身したもえをせむ
よみ人しらず(古今集)
上にのみおろかに燃ゆる蚊遣火の
よにもそこには思ひこがれし
よみ人しらず(後撰集)
などの古歌にも恋の情に掛けて詠まれる。
蚊遣火は火鉢で焚くので、狭い部屋だと結構場所を取るように感じられる。今の蚊取り線香ができたのは明治に入ってからのこと。
雨のくれ傘のぐるりに鳴蚊かな 二水
雨の日に傘の中に蚊が入って来ると、結構嫌なものだ。追払おうとして傘を回す。
「傘のぐるり」は蛇の目傘のようにも思えるが、コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「蛇の目傘」の解説」には、
「雨天に用いる和傘の一種で、多くは女性のさすものである。この傘は、中央と周囲に紺の土佐紙を張り、その中間に白紙を張り巡らすのが特徴で、傘を開くと、太い輪の蛇の目模様が出るところからこの名が生まれた。元禄(げんろく)年間(1688~1704)に番傘を改良して考案されたものである。徳川8代将軍吉宗(よしむね)の時世に、定紋をつけることが起こり、これが女性や通人の間で流行した。渋(しぶ)蛇の目は中央と周囲を渋と「べんがら」を混ぜて塗り、中間を白く抜いたもの、奴(やっこ)蛇の目は周囲だけを薄黒くしたものである。
享保(きょうほう)・元文(げんぶん)(1716~41)のころから、柄(え)を細くした軽い傘が好まれ、のちにはこれを細傘といって腰にさして歩いた。幕末以降、欧米文化がもたらされて、和傘よりもじょうぶな金属骨の洋傘が入ってきてからはあまり使われなくなった。現在では歌舞伎(かぶき)や粋(いき)向きの趣好品と化している。[遠藤 武]」
とあり、年代的には微妙だ。
蚊の痩て鎧のうへにとまりけり 一笑
さすがに鎧の上から刺すことはできないか。でも鎧の下に入り込まれたら、痒くても掻くことができない。
藻の花をかづける蜑の鬘かな 胡及
貞徳の『俳諧御傘』には「藻の花 夏也。 塩海のもにはあらず。」とあるから、本来藻の花と呼んでいたのは、清流に咲くバイカモの花ではなかったかと思う。
夏になるとバイカモ(梅花藻)は梅のような小さな花をつける。
ただ、江戸後期の曲亭馬琴編『増補 俳諧歳時記栞草』には、葉の長さが二三寸で相対する「馬藻」と、細かくて糸か魚の鰓の形をした「水藻」の二種を上げていて、項目には「藻刈・藻舟・藻の花」とあるが、花については説明していない。
あるいはこの時代には海の藻の豊かに茂る様を「藻の花」と呼ぶようになっていたか。
それだと、藻が茂る様はまるで海女の髪の毛のようだ、という句になる。
塩引て藻の花しぼむ暑さかな 兒竹
この句も同様、はっきりと「塩」の文字があるので、海の藻であろう。塩が引くとゆらゆら揺れていた藻は立つことができずにペタッとなる。それを花のしぼむのに喩える。
足伸べて姫百合草おらす昼ね哉 此橘
「姫百合草」までで「ひめゆり」と読む。姫百合は、
夏の野の茂みに咲ける姫百合の
知られぬ恋は苦しきものを
坂上郎女(続後拾遺集)
百済野のちがやの下の姫百合の
ねもころ人に知られぬぞ憂き
藤原仲実(夫木抄)
などの歌に詠まれ、茂みに埋もれた花を本意とする。今のヒメユリと同じものかどうかはわからない。
草に埋もれているから、草の上で昼寝していると、知らずに折ってしまうことがある。
竹の子に行燈さげてまはりけり 長虹
竹の子は曲亭馬琴編『増補 俳諧歳時記栞草』には「凡竹筍は淡竹(はちく)を上とし、苦竹(くれたけ)次之。」とある。苦竹はマダケのこと。今のような孟宗竹の太いタケノコが一般に広まったのはもっと後のことのようだ。
そのせいか、食材としてのタケノコを詠んだ句は少ない。ここでも行燈を下げるのに用いている。
なお、淡竹やマダケの竹の子は地面に出ているものを収穫するので、孟宗竹のように掘る必要はない。
笋の時よりしるし弓の竹 去来
竹弓にはマダケが用いられるようだ。マダケの竹の子は皮が黒くて艶があり、竹の子の頃から見た目が美しいということか。粽に使う竹の皮もマダケを用いる。
聞おればたたくでもなき水鶏哉 野水
水鶏の明方の鳴き声が戸を叩く音に似ているので、その鳴き声は、
叩くとて宿の妻戸をあけたれば
人もこずゑのくひななりけり
よみ人しらず(拾遺集)
里ごとにたたく水鶏のをとすなり
心のとまる宿やなからん
藤原顕綱(金葉集)
などの歌に詠まれている。よく聞けば実際に戸を叩いてないのはわかる。
0 件のコメント:
コメントを投稿