この頃は老後の花見て過ごせる場所を求めて移住を計画し、ばたばたしていてなかなか風流の方にも身が入らない。鈴呂屋も住み代わる世ぞ‥‥、その後が続かない。
もうすぐ参議院選挙が始まるが、ロシアが侵略戦争を開始して、日本もロシアと国境を接している以上、いつそれが日本にもふりかかってくるかわからないこの国難の時代に、残念ながら岸田政権は左翼マス護美に媚びた発言を繰り返して弱々しい。これじゃあまるで日本のマクロンだ。調整型の首相の弱点とも言える。
保守票をまとめられなければ、自民惨敗の可能性もある。とはいえ受け皿となる保守政党はない。つまり選挙はどうしようもなく盛り下がる可能性がある。
それでは「東路記」の続き。
「浜松の北に広き原あり。御方が原と云。浜松の町の北に五所大明神の社有。大社也。台徳院公御誕生の産宮也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.15)
三方原は今の浜松市の市街の北のはずれの方になる。畑が多いが宅地化の波が押し寄せてきている。元亀三年(一五七三年)には三方ヶ原の戦いがあった。ウィキペディアには、
「三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)は、元亀3年12月22日(1573年1月25日)に、遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)で起こった武田信玄と徳川家康・織田信長の間で行われた戦い。
信長包囲網に参加すべく上洛の途上にあった信玄率いる武田軍を徳川・織田の連合軍が迎え撃ったが敗退した。」
とある。
浜松の五所大明神は今のJR浜松駅に近い。浜松城の南側にある。一九六〇年に諏訪神社が合祀されて、現在は五所神社・諏訪神社となっている。ウィキペディアに、
「戦国時代初期の曳馬城(後の浜松城)主・久野越中守が城内に創建したのに始まるといわれる。後に徳川家康が浜松城主になり、天正7年(1579年)に三男長松(後の徳川秀忠)が誕生すると当社を産土神とし、現在地に社殿を建立して天正8年(1580年)7月に遷座、社領15石を寄進した。慶長15年(1610年)に秀忠から100石が寄進された。寛永11年(1634年)の家光上洛の際、東照宮(徳川家康)を勧請し、200石が加えられ、以降、300石の朱印地を領することとなった。」
とある。台徳院は徳川二代将軍秀忠のことで、徳川秀忠生誕の地ということでかつては徳川幕府に保護された大社だった。
「〇浜松より御方が原を通りて浜名と云所へ行く。本坂越と云道を過て、吉田の町の少東の方へ出る道有。浜名にも荒江のごとく番所有。三河の鳳来寺へも、此道よりゆくと云。鳳来寺山上に薬師堂、又僧坊あり。甚佳景の処なり。御油より九里有。寺領七百四十石つけり。天台宗なり。鳳来寺に東照宮おはします。御社領七百廿石附。
浜松の近所、かんまと云所あり。蒲冠者範頼の在所と云。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.15~16)
本坂越えの道は三方ヶ原から浜名湖の北の気賀宿、三ケ日宿を経て、本坂峠を越えて吉田宿の方へ抜ける道で、古代の二見道が通っていた。
三河なる二見の道よりわかれなば
我が背も我も一人かも行かむ
高市黒人(歌枕名寄)
の歌がある。
その吉田宿は今のJRの新豊橋のあたりにある。ここから豊川を遡っていた山の中に鳳来寺がある。その途中にある三河新城(しんしろ)では元禄四年に芭蕉、支考、桃隣の参加する「其にほひ」の巻、「此里は」の巻の興行があり、
其にほひ桃より白し水仙花 芭蕉
此里は山を四面や冬籠り 支考
の発句が詠まれている。
鳳来寺はウィキペディアに、
「鳳来寺(ほうらいじ)は、愛知県新城市の鳳来寺山の山頂付近にある真言宗五智教団の寺院。本尊は開山の利修作とされる薬師如来。
参道の石段の数が1,425段あり、徳川家光によって建てられた鳳来山東照宮(神仏分離以降は神社として独立、別項参照)及び仁王門は国の重要文化財に指定されている。鳳来寺山に多く生息し愛知県の県鳥であるコノハズクでも有名である。」
とある。
江戸時代は天台・真言両方の僧坊があったが、ウィキペディアに、
「困窮の窮みにあった明治38年(1905年)には、高野山金剛峯寺の特命を受けた京都法輪寺から派遣された服部賢成住職に当山の再建は託された。そこで、翌39年(1906年)11月2日、並存していた天台・真言の両宗派は真言宗に統一されて高野山の所属となり、寺院規模の縮小で存続が図られた。」
とあり、今は真言宗の寺になっている。
蒲冠者範頼は源範頼のことで、ウィキペディアには、
「源 範頼(みなもと の のりより)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。河内源氏の流れを汲む源義朝の六男。源頼朝の異母弟で、源義経の異母兄。
遠江国蒲御厨(現・静岡県浜松市)で生まれ育ったため蒲冠者(かばのかじゃ)、蒲殿(かばどの)とも呼ばれる。その後、藤原範季に養育され、その一字を取り「範頼」と名乗る。治承・寿永の乱において、頼朝の代官として大軍を率いて源義仲・平氏追討に赴き、義経とともにこれらを討ち滅ぼす大任を果たした。その後は源氏一門として、鎌倉幕府において重きをなすが、のちに頼朝に謀反の疑いをかけられ伊豆国に流された。」
とある。
「〇俗説に新江の十町西に橋本と云所有。爰にむかし浜名の橋有しと云。此説いぶかし。橋本は今新江前坂の間にあり____。
昔、浜名に湖ありし故、此国遠つあはうみと云を略して、とをたうみと云。都に遠きみづうみと云意なり。都にちかき湖は近江也。
浜名の橋は、浜名の湖より海に流れ出る川にかけし橋なり。後土御門院、明応八年六月十日、大地震して湖と海との間きれて、海とひとつになり入海となる。今切、是なり。
一説に洞の貝、此処より多く出て、湖と海との間きれたりと云。浜名の橋ありし処を橋本と云。」」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.16)
原書に一部欠落があるようだ。
新江は新居のことで新江前坂は新居舞阪であろう。iとeが交替している。いずれも同街道の宿場で、この間に今切という浜名湖と遠州灘の繋がる場所がある。元は川で浜名の橋が架かっていた。歌枕で、
汐満てる程に行きかふ旅人や
浜名の橋と名付けそめけん
平兼盛(拾遺集)
あつまぢの浜名の橋をきてみれば
昔こひしきわたりなりけり
大江廣経(後拾遺集)
などの歌に詠まれている。
浜名川湊はるかに見わたせば
松原めぐる海士のつり舟
宗尊親王(夫木抄)
の歌もあり、川に架かる橋だったことが分かる。明応七年(一四九八年)八月二十五日の明応地震の時に海に繋がり「今切」になったと言われている。
ただ、今日も新居宿を西に少し行った所の浜名川に浜名橋跡碑がある。
「〇潮見坂は白須賀の町の西にある坂也。高師山は其さき二川の方にあり。白須賀と二川の間に境川あり。三河、遠江のさかひなり。〇潮見坂ココニカクベシ。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.16)
江戸時代の東海道は新居宿の次が白須賀宿で、その次が二川宿になる。潮見坂は新居宿から白須賀宿の間の、海岸の道から内陸に入る所にある。
ここから先はしばらく内陸の道になるので、上方から下る旅人からすれば、ここで海が見えて感動する所だろう。白須賀の東になる。
境川は今は田んぼになり、小さな小川になっているが、かつてはそれなりの川だったのだろう。今もここから向こう側が豊橋市になっている。
高師の地名は豊橋鉄道高師駅に残っているが、それとは別に新居宿のすぐ西にも高師山がある。
高師山夕越え暮れて麓なる
浜名の橋を月に見るかな
平政村(続古今集)
の歌があるが、高師山を越えて海に出たのなら、これは潮見坂であろう。となると二川から白須賀の辺り一帯の台地を高師山と言ってた可能性はある。
古代東海道はこの辺りの近世の東海道の道をより直線的に通っていたと思われる。
朝風に湊を出づるとも船は
高師の山の紅葉なりけり
西行法師(夫木抄)
の高師の山と同じ所かどうかはわからない。ただ、高師山がこの辺りの台地のかなり広い地域を表していたとすれば、港に近い高師山もあってもおかしくない。
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