選挙は明日公示ということで、今のうちに言っておきたいが、今回の選挙の最大の争点は減税やばら撒きの多い少ないではなく、憲法改正だ。
何度も言っているように、今の日本にはロシアが攻めてきても人権がない。防衛のための戦力の保持を憲法に明記しなくてはならない。
武力に対して丸腰でデモをやってもミンチにされるだけだ。ウクライナを見てもわかるように、国際世論なんて何もしてくれない。自分の国の物価高の方が大事だ。
金持ちや西洋にコネがある奴だけさっさと亡命して国境のない世界だの奇麗ごとを言っていられるけど、庶民は取り残されて虐殺とレイプが待っている。
逃げればいいなんて金のあるやつはお気楽なことを言っているけど、逃げられない人の方が圧倒的に多い。
日本は最低限自分の国を守る力を持たなくてはならない。武器の供与が受けられなければ自力で生産する力も必要だ。また、同盟国が侵略をうけた場合には、武器を輸出する能力も持たなくてはならない。そのためにも日本の高度な科学技術が生かせるように、道を開かなくてはならない。
NATOもフィンランドが侵略を受けた時には、NATO加盟国(仮)ということで、トルコ抜きでも出撃してほしい。コルピクラーニやチュリサスやフィントロールの国を守ってほしい。
それでは「東路記」の続き。
高師山は『海道記』には、
「やがて高志山にかかりぬ。石利を踏て火敲坂を打過れば、焼野原に草の葉萌出て、杪(こずゑ)の色煙をあぐ。此林池を遥に行ば、山中に堺川あり。是より遠江国に移ぬ。
下るさへ高しといへばいががせん
のぼらん旅の東路の山」
とある。これだと境川の向こう側ということで、豊橋鉄道高師駅の方に近くなる。
ただ、そのあとに、
「此山の腰を南に下て遥に見くだせば、青海浪々として、白雲沈々たり。海上の眺望は此処に勝たり。」
とあるので、潮見坂にまで到る広い範囲が高師山と見て間違いない。
『東関紀行』には、
「参川、遠江のさかひに、高師山と聞ゆるあり。山中に越えかかるほど、谷川の流れ落ちて、岩瀬の波のことごとしく聞ゆ。境川とぞいふなる。
岩つたひ駒うちわたす谷川の
音もたかしの山に来にけり」
とこの参川は遠江の境ということで境川のことと思われる。やはりこの辺り一帯が高師山だった。
「引佐細江(いなさほそえ)、遠州前坂より一里ほど東へ行て、道の左くぼき所有。真藤生たり。万葉集など其外歌集に歌あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.16)
前坂は舞阪のこととおもわれるので、ふたたび浜名湖の方の名所を振り返る。爰より東一里というと天竜川河口に近くなる。中田島砂丘の辺りか。北は当時「今の浦」だったと思われる。砂丘に松原があって、そこに藤が掛かっていたということか。
引佐細江は今は一般的には浜名湖の北の細江湖とされている。気賀宿に近い。
万葉集に
遠江引佐細江のみをつくし
あれを頼めてあさましものを
よみ人しらず(『万葉集』巻十四、三四二九)
の歌がある。他にも、
逢ふことは引佐細江の澪標
深きしるしもなき世なりけり
藤原清輔(千載集)
雁金も羽しをるらむますけおふる
引佐細江にあまつつみせよ
源俊頼(夫木抄)
などの歌がある。
「吉田の川より船にのり、伊勢の白子にわたる。〇江戸より京までの間に大橋四あり。武蔵六郷のはし、百九間。吉田の橋、百二十間。矢はぎの橋、二百八間。瀬田の橋、九十六間也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.16)
二川宿の次は吉田宿になる。今は豊橋の市街地で豊橋公園がすぐそばにある。豊川が流れていて、そこから伊勢への船が出ていたか。
芭蕉の『野ざらし紀行』の旅でも、小夜の中山越えてからいきなり短期間で伊勢に着いて謎だったが、芭蕉もこの船に乗ったか。
この豊川には吉田橋が架かっていた。「豊橋」の名の由来にもなっている。これを看ると矢矧の橋がだんとつに長い。俳諧によくネタにされている瀬田の橋が意外に一番短いのが分かる。
六郷橋は前にも触れたが、貞享五年に流されて、それ以降再建されなかった。
「赤坂と藤川の間、山中と云所に、法増寺とて浄土寺あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.16)
吉田と赤坂の間には御油の宿がある。御油から赤坂までは僅か二キロ、当時で言う半里。
夏の月御油より出でて赤坂や 桃青
の句がある。まあ、談林の頃のいかにもネタに走った句だ。
赤坂から藤川までは軽い山越えの道になり、国道一号線は通っているがJR東海道線は海側の蒲郡の方を通っている。御油赤坂藤川は名鉄名古屋本線の沿線になる。その名鉄線に名電山中駅がある。
法増寺は名電山中の一つ手前の本宿にある法蔵寺のことか。ウィキペディアに、
「かつては、二村山出生寺と称し、法相宗の古刹であった。飛鳥時代、行基は観音菩薩像を安置し出生寺を創建した。平安時代、空海の来訪により真言宗となる。南北朝時代、竜芸上人により浄土宗に改宗し、二村山法蔵寺と改称した。その後、徳川家の始祖・松平親氏が伽藍を建立して、松平家の菩提寺とした。徳川家康(幼名・竹千代)が、時の住持・教翁上人に就いて、読書きを習ったという(硯箱・硯石・手本・机などが残っている)。江戸時代、深草派三河三檀林のひとつとなる。」
となっている。
徳川家康ゆかりの寺ということで、当時はそこそこ有名だったのだろう。
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