まあ、普通に考えて、ロシアが日本に攻めてきたとしても、あの国の人たちが日本のために命を落とすなんてことは考えるはずがない。軍事同盟というのはそれくらい信用できないものだということは頭に入れておくべきだろう。
日米同盟にしても盤石ではない。日本にも約十五パーセントくらいの反米勢力がいるし、奴らはマス護美を牛耳っているから、いくらでも日本国民のすべてが日米同盟に反対しているかのような印象操作はできる。そんな国をアメリカが助けるかどうか、ということにもなる。
国を守るために戦うことすら「人殺し」呼ばわりする連中のいる国に、誰がわざわざロシア兵と戦いに行くかって話だ。
守ってやったのに「人殺し、出ていけ!」と石を投げてくる国なんざ、俺だったら絶対行きたくない思う。そうやって日本を孤立させるのが奴らの狙いだ。
そういうわけで、軍事同盟を過信しないことも大事だ。結局最後は「信じられるものは俺たちだけだ」ということになる。
それでは「東路記」の続き。
「三嶋より北条へ行道あり。又、是より伊豆の下田へもゆく也。下田は大廻りの船のつく湊也。番所あり。三嶋より十五里十五町あり。山坂難所也。下田より志摩、鳥羽へ七十五里あり。是を遠江なだと云。三島には時鐘ありて、毎日十二時をつぐる。時守は町中より養ひおくなり。三嶋の社は大山祇神也。光仁帝御時、伊予国三嶋より此地にうつさる。社領五百三十石つけり。此辺君沢郡なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.7)
北条という名の郡や村はなく、かつて北条氏が納めていた辺りを指して、漠然と「北条」と呼ばれることもあったのだろう。韮山代官所が治める幕府領の辺りであろう。代々江川太郎左衛門が支配していた。
下田への道はいわゆる「天城越え」の道になる。江戸時代は二本杉峠を越えていた。
下田は菱垣廻船の湊があり、須崎に番所があった。
「下田より志摩、鳥羽へ七十五里あり。是を遠江なだと云。」とある。今でいう遠州灘になる。
三島の時の鐘は今も三石神社の境内にある。ただ、鐘本体は何度も改鋳されていて、当時のものではない。
「三嶋の社」は今の三嶋大社で、ウィキペディアには、
「社名は戦前は「三島神社」と称したが、戦後は「三嶋大社」を称している。歴史的には、史料上で次の呼称が見える[1]。
〇三島大社/三嶋大社 (『続日本後紀』[原 1])
〇伊豆三島神社/伊豆三嶋神社 (『延喜式』神名帳[原 2])
〇三島社/三嶋社 (『吾妻鏡』、北畠顕家文書、北条氏綱文書)
〇三島宮/三嶋宮 (矢田部家文書等)
通説では、「三島」の呼称は伊豆諸島に対する尊称「御島(みしま)」に由来するとされる。伊豆諸島を指す地名の「三島」としては、古くは天平13年(731年)に「伊豆三島」の記載が、平安時代の『和名類聚抄』では伊豆国賀茂郡に「三島郷(みしまごう)」の記載が見える。なお、別説として小市国造が奉斎した伊予国一宮の大山祇神社(「大三島神」)を由来とする説がある。
現在の鎮座地の地名は「三島」であるが、これは先の伊豆諸島を指す「三島」とは異なり、古代の史料には見えない地名である。当地は、古代には伊豆国の国府があったことから「国府(こう)」と称された。そして三嶋神が国府に祀られたのち、13世紀末頃から大社にちなんで地名も「三島」と呼ぶようになったとされる。」
とある。
祭神は本来大山祇命(おおやまつみのみこと)だったが、江戸後期に平田篤胤が事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)説を唱えたことで、今日ではこの二神を祭神としている。
「光仁帝御時、伊予国三嶋より此地にうつさる」とある通り、この時代は伊予国一宮の大山祇神社(三島宮)がこの地に移されたものとされていた。
光仁天皇は和銅二年(七〇九年)から天応元年(七八二年)まで在位した。ほぼ奈良時代と重なる。
「〇三嶋の西のはづれに川あり。伊豆・駿河の境なり。三島の方よりむかへにかくる樋あり。伊豆より駿河へ水をとる也。千貫樋といふ。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.7)
千貫樋はウィキペディアに、
「千貫樋 (せんがんどい)は、静岡県三島市と駿東郡清水町の境、狩野川水系境川に架かる鉄筋コンクリート構造の樋(水路橋)。」
とあるが、勿論元から鉄筋コンクリートだったわけではなく、大正十二年(一九二三年)の関東大震災までは木製だった。ウィキペディアに、
「創設された経緯については諸説あるが、1555年(天文24年)、今川、武田、北条の三家が和睦(甲相駿三国同盟)した際に、北条氏康から今川氏真に聟引出物として、小浜池から長堤(蓮沼川)を築き、駿河の今川領に送水させたというのが一般的な説である。」
とある。
「〇三嶋と沼津の間に黄瀬川とて、川有。此川は富士のすそ野の方より出る。川西に黄瀬川と云町有。源九郎義経、此所にて頼朝と兄弟初て対面有し所なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.7~8)
義経と頼朝は富士川の戦いで水鳥の羽音に驚いた平氏が撤収したあと、ここで対面した。ウィキペディアには、
「合戦の翌21日(11月10日)、黄瀬川駅(静岡県駿東郡清水町)で若い武者が頼朝との対面を願い出た。『吾妻鏡』によると「弱冠一人」、『源平盛衰記』によると20余騎を率いていた。頼朝の挙兵を聞いて奥州平泉から駆けつけた弟の九郎義経であった。
土肥実平、岡崎義実、土屋宗遠は怪しんで取り次ごうとしなかったが、騒ぎを聞きつけた頼朝は「その者の歳の頃を聞くに、陸奥にいる九郎であろう」と言い、対面がかなった。頼朝は後三年の役で源義家が苦戦していた時、その弟の義光が官職を投げうって駆けつけた故事を引いて、義経の手を取って涙を流した。」
とある。まあ『源平盛衰記』の記述は脚色が多く、あまりあてにならない。
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