欧米の物価高騰にはいろいろ原因が重なっているのは確かだ。直接引き金になったのはロシアのウクライナ侵略で化石燃料と穀物の価格が急騰したことだが、それ以前にコロナ下でお金をばら撒きすぎて、通貨供給の過剰が生じていたのも原因の一つになる。
日本は国民がきちんと自粛に従い、ばら撒きが最低限で済んでいることと、穀物に関しては米がほぼ百パーセント自給できることで、欧米ほどの深刻な物価高騰は今のところ起きていない。
物価高騰にあえぐ欧米は、金利を上げることで通貨供給を減らして、通貨の価値を上げ、相対的に物価を下げようとしている。ただ、これをやると、企業の新規の事業への投資意欲が損なわれ、また株価の下落も起きてさらに資金調達が困難になり、景気が一気に減速するという副作用がある。
景気と物価を秤にかけて、日銀はなかなか難しい判断を迫られているし、少なくとも金利を上げれば魔法のようにインフレが静まるなんてうまい話ではない。
まして国家の中央銀行の行う金利政策は、基本的に政府から独立したもので、国民が選んだ国会議員とはいえ、大まかな目標を設定するぐらいしかできない。基本的には日銀とのすり合わせを必要とする案件だ。
今度の選挙でインフレ対策が焦点だといっても、どれほどの有効を提起できるのか、しっかり見てゆく必要がある。子供だましの減税連呼に騙されないように。また、ばら撒き公約はインフレ対策とは逆のものだ。
それでは「東路記」の続き。
「懸川の西にほそき川あり。其川をへだてて西なるを背川と云、東をば原川と云由、長明が記にみえたり。袋井と見付の間に三香野の橋あり。宗尊親王の歌有。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.15)
今の国道一号線が原野谷川を渡るその手前の所に掛川市原川という地名が残っている。江戸時代の東海道もこのあたりで川を渡っていた。川の反対側は今は国本という地名になっている。
「長明が記」は『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』の注に「海道記」のこと。当時は鴨長明作とされていた。」とあるが、『新日本古典文学大系51 中世日記紀行集』(一九九〇、岩波書店)の「海道記」「東関紀行」を見たがよくわからなかった。
「三香野の橋」は太田川に架かる三ヶ野橋で、
うかりけるみかのの橋の朽ちもせで
おもはぬ道に世をわたるかな
の歌が『歌枕名寄』にある。日文研の和歌検索データベースには「未入力」とあり、作者はわからない。
「見付の宿、東の入口に坂あり。其坂を下り、右へ三町程のぼりゆけば、天神の社有。舞車と云謡に此天神の事を作れり。見付の里、名寄に歌有。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.15)
見付宿は今の磐田で、太田川を渡ると行人坂という上り坂があるが、しばらく行くと道は下り坂になって左に見付愛宕神社がある。ここを下ったところから右側の小高い所に見付天神矢奈比賣神社がある。
謡曲『舞車』はコトバンクの「世界大百科事典 第2版「舞車」の解説」に、
「能の曲名。四番目物。非現行演目。作者不明。シテは鎌倉の男。遠江の見付(みつけ)では祇園会の当日泊まり合わせた旅人に,東西の舞車の上で舞を舞わせる習慣だった。祭りを明日に控えて舞の係り(ワキ)が待ち受けていると,鎌倉の男(シテ)が来かかるので舞を所望する。男は,都から連れ帰った女が留守中に父親から追い出されたので,探し求めて都に上る道中だった。翌日になり,西の舞車では旅の女性(ツレ)が《美人揃の曲舞(びじんぞろえのくせまい)》を舞う。」
とある。
『歌枕名寄』の見付の歌は日文研の和歌データベースではよくわからなかった。『十六夜日記』にある
誰か来て見付の里と聞くからに
いとど旅寝ぞそら恐ろしき
阿仏
の歌は『夫木抄』にもあるというのはわかった。
「〇見付の少西に、中泉といふ町有。昔は馬次にて宿なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.15)
中泉という地名はJR磐田駅の辺りに残っている。遠江国府に近いからその関係で宿場があったのだろう。
「〇見付の台より直に田の中を通りて、天竜川のほとり池田に出る小道有。本道よりちかし。馬は通らず。池田の里、名所也。古歌有。見付の南に、今の浦とて大なる池有。湖也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.15)
江戸時代の東海道は見付宿は県道岩田袋井線よりもさらに北にあり、だいぶ山側に寄っている。遠江國総社淡海國玉神社がある。
この先で南に折れて今のJR磐田駅の辺りまで来て、ここから北西へ折れて天竜川の渡河点である池田へ向かう。池田の地名は今でも磐田市池田として残っていて、国道一号線新天竜川橋の手前の北側になる。南に折れずに直進すれば、池田まで近道できる。
いつくさのあひ乱れたるたなつもの
池田の里に雲をなしつつ
の歌が『夫木抄』にあるが、日文研の和歌データベースでは番号外作者とあるのみで、作者が分からない。
今の浦は今之浦川のある辺りに地名が残っているが、その南に広範囲にわたる低地があり、田んぼになっているので、かつてここが浦だったのではないかと思う。大池がその名残なのだろう。
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