梅雨が早く明けたとはいっても、何のかんの言っても六月は明日で終わり。旧暦では今日からが水無月になる。
いろいろ古い本やレコードやCDを引っ張り出しては要るものと要らないものに仕分けしている。「夢の大掃除」というタイトルのCDが出てきて、今の気分にピッタリだ。
それでは「東路記」の続き。
「栗原山は、南宮山の東のはし也。南宮山につづけり。少ひきし。其下に栗原村有。関が原陣の時、長曾我部土佐守、陣せし処也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.23~24)
栗原山は南宮山の山塊の南東の端になる。栗原城跡がある。
長宗我部土佐守盛親はウィキペディアに、
「盛親は東軍に与する伏見城や安濃津城などを落としながら関ヶ原に向かい、毛利秀元・吉川広家・安国寺恵瓊・長束正家らとともに家康本陣背後の南宮山に布陣した。
しかし、合戦においては徳川家康に内応する吉川広家によって毛利隊は動けず、毛利隊の後方に布陣していた長束隊や長宗我部隊も毛利隊の動向が分からず、動くことができなかった。最終的に戦闘に参加しないまま西軍は敗退した。」
とある。
「野上の里、名所なり。古歌多し。今は駅にあらず、民家少あり。垂井と関が原の間なり。其南に鶏籠の山とてあり。野上の西に、桃くばりと云野原あり。是、関が原御陣の時、其日の御本陣也。小家二三軒ある所の、少東なり。天武帝も野上に陣し給ふ。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.24)
野上は垂井宿と関が原宿の間にある。東山道の駅があったと言われているが、『延喜式』には不破駅はあるが、野上の名はない。不破駅とそう離れてないため、同じ駅なのか、後に多少移動して名前が変わったかではないかと思う。
野上には鶏籠山真念寺があり、その南側の山が鶏籠山なのだろう。南宮山の北西になり、同じ山塊に属する。真念寺のすぐ裏に大海人皇子野上行宮跡がある。
その少し西に今も桃配運動公園がある。このあたりが桃くばりという野原だったのだろう。そのまた少し先に桃配山・徳川家康最初陣跡がある。
桃配山はウィキペディアに、
「672年に起きた壬申の乱のおり、大海人皇子(後の天武天皇)が野上の行宮からここ不破の地に出陣して名産の桃を全兵士に配り戦いに快勝した。その奇縁により、桃配山とか桃賦野(ももくばりの)と呼ばれるようになった。
のちに安土桃山時代に起きた関ヶ原の戦いにて、東軍の総大将徳川家康はその故事にならい、ここ桃配山に最初の陣を置き勝利を得た。」
とある。
野上の里は、
露しげき野上の里の仮枕
しをれていづる袖の別れ路
冷泉為秀(新拾遺集)
東路や伊吹颪の激しさに
野上の里に吹雪しにける
藤原親隆(為忠家後度百首)
などの歌に詠まれている。
「関が原の東北に、磐手山あり。其ふもと、竹中氏の在所なり。磐手のおくの谷の中に、菩提と云所あり。信長公の時、竹中半兵衛重治の居城也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.24)
野上の北の山に菩提山城跡がある。ウィキペディアに、
「菩提山城(ぼだいさんじょう)は、岐阜県不破郡垂井町の菩提山にあった山城である。竹中重元が岩手弾正を滅ぼした後、竹中氏の居城として新たに築城したものとされ、麓に竹中氏陣屋が築かれるまで使用された。西美濃では最大級の山城である。」
とある。この辺り一帯が磐手山だったのだろう。岐阜県不破郡垂井町岩手という地名が残っている。昔の人が「山」といった場合は特定のピークを指すのではなく、辺り一帯の山全体を指す場合が多い。甲斐が根だとか白根山だとか言っても今の北岳だけを指すのではないのと同じだ。
「〇関が原の谷の間、南北の広さ、凡八九町程に見ゆ。道より両山の下まで、各四町余もあらんか。町の東の野、此四五十年前までは木もなくて、只かや原なりしが、今は林のごとく木ども多くおひしげれり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.24)
関が原の合戦場は一面のススキが原だったのだろう。ただ、貞享の頃には既に雑木林に遷移していた。
「関が原の町の中、北の方に八幡宮あり。其前の道は、即、越前へ通る北国街道也。其道を行て、八幡の社の後の野、関が原陣の時の古戦場也。小関村は、北国へ行く道筋にて関が原へ近し。小池村_、小関村の少さきにあり。関が原の西にひきき山、三並べり。其南のはしなる山を、天満山と云。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.24)
関が原に八幡神社は幾つもあるが、北の方というと笹尾山・石田三成陣地跡の近くの八幡神社だろうか。近くに関ケ原古戦場決戦地もある。
ここでいう北国街道は北国脇往還のことであろう。関が原と琵琶湖の北の木ノ本の間を結んでいた。今の藤川春照線と国道365号線に受け継がれている。
関ケ原古戦場決戦地の南の国道365号線に小池北・小池南という信号があり、小池村の地名はこの辺りに残っている。
天満山は関が原の開戦地に近く、北側に池寺池がある。後の二つの山はよくわからない。城山と岩倉山か。
「松尾山は、海道の南にあり。道より少遠し。関が原の南西の方也。関が原陣の時、筑前中納言秀秋卿の陣所なり。高山の上に陣をとられし也。山上は城あとのごとく見ゆる。其昔は、不破河内守、居城なりといふ。秀秋の陣所の時には城なし。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.24)
不破の関跡の南側の山全体を松尾山というのだろう。小早川秀秋陣跡があり、松尾山城跡がある。ウィキペディアには、
「関ヶ原の戦いでは小早川秀秋が陣を構えたのがこの松尾山である。陣を構えたのは東軍・西軍の配置が一望できるということもあるが、元々この地には南北朝時代から戦国時代の城である松尾城があり、布陣のさいにその跡を利用したという。現在も土塁、主曲輪、曲輪などの跡が残る。松尾山城址は関ケ原町指定史跡となっている。」
とある。
不破河内守は不破光治のことか。ウィキペディアに、
「不破 光治(ふわ みつはる、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。斎藤氏・織田氏の家臣。不破直光(勝光)、不破源六の父。太郎左衛門尉・河内守。」
とある。一五七九年まで城主だったという。
0 件のコメント:
コメントを投稿