「笑う芭蕉」をKindle ダイレクト・パブリッシングの方にアップしたのでよろしく。俳諧の入門書のようなものを書いてみたかったので、出来るだけ難しい話を抜きにして、新書を意識した感じで「ですます」調で書いてみました。
内容は『冬の日』から「狂句こがらし」の巻、『猿蓑』から「市中は」の巻、『ひさご』から「むめがかに」の巻、『続猿蓑』から「猿蓑に」の巻と、名作を並べ、おまけに伊賀の宗房時代のことを書いた「芭蕉がまだ伊賀にいた頃」を付けてみました。
選挙が始まるとネット上はどうせネガキャンの嵐なんだろうな。しばらくニュースは見ないようにしようかな。このごろ2ちゃんねるも終わったなという感じがする。前はたまにあったようなまともな書き込みも、今はまったく見られなくなった。
それでは「東路記」の続き。
「岡崎の東北の方に松平の里あり。其上の山道より見ゆる。松平家御先祖の住給ひし所也。奥平と云所も松平に近し。岡崎に大樹寺あり。浄土宗也。寺領五百石つけり。六所大明神有。大社也。東照宮の御誕生の産霊也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.17)
松平氏はウィキペディアに、
「松平氏(まつだいらし)は、武家・華族だった日本の氏族。室町時代に三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)に興った小豪族であり、松平家康の代に徳川氏に改姓し江戸幕府征夷大将軍家となった。
とある。今の愛知県豊田氏松平町はその通りに岡崎の北東にある。松平城跡や松平氏発跡地碑、松平東照宮、松平郷展望テラスなどがある。奥平はどこにあるのか不明。
岡崎の大樹寺は岡崎の市街地にある。愛知環状鉄道の大門駅が最寄り駅になる。徳川氏が松平氏だった頃からの菩提寺だった。
徳川家康はウィキペディアによれば、「三河国の土豪である松平氏の第8代当主・松平広忠の嫡男として天文11年12月26日(1543年1月31日)寅の刻(午前4時)に岡崎城 にて誕生」したという。
「山本勘助が在所、牛久保の里も岡崎の東にあり。岡崎と池鯉鮒の間、小浜と云所に行く海道有。其辺の茶屋を小浜茶屋と云。此東に足助と云所有。吉良も此辺よりちかし。矢矧の北に宮地山と云名所あり。南に二村と云名所有。衣の里も近にあり。名所也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.17)
山本勘助は武田信玄の伝説的な軍師で、ウィキペディアには、
「近世には武田二十四将に含められ、武田の五名臣の一人にも数えられて、武田信玄の伝説的軍師としての人物像が講談などで一般的となっているが、「山本勘助」という人物は『甲陽軍鑑』やその影響下を受けた近世の編纂物以外の確実性の高い史料では一切存在が確認されていないために、その実在について長年疑問視されていた。しかし近年は「山本勘助」と比定できると指摘される「山本菅助」の存在が複数の史料で確認されている。」
とある。生誕地についても、ウィキペディアには、
「『甲陽軍鑑』などには三河国宝飯郡牛窪(愛知県豊川市牛久保町)の出とある。」
とある。他に資料がないなら、あとは『甲陽軍鑑』を信用するかどうかの問題になる。
小浜は今の駒場町の辺りだという。kobama,komabaうーーん。まあ、bとmの交替は「けむり=けぶり」「なむる=なぶる」など多いからね。
昔は鎌倉街道が通っていて、小浜茶屋も鎌倉街道の茶屋だったのだろう。鎌倉街道は江戸時代の東海道よりも内陸寄りを行く。
足助という地名は松平町よりももっと北東に行った所にある。吉良町は反対側で南の三河湾の方になる。後に忠臣蔵で有名になる吉良上野介義央の所領だった。
赤坂宿の南側に宮路山はあるが、そのことか。
君かあたり雲井に見つつ宮ち山
うちこえゆかん道もしらなく
よみ人しらず(後撰集)
嵐あらしこそ吹き来こざりけれ宮路山
まだもみぢ葉の散らで残れる
菅原孝標娘(玉葉集)
などの歌がある。古代東海道に宮地駅があったが、赤坂宿の辺りであろう。
二村山は池鯉鮒と鳴海の間の内陸寄りで、かつては鎌倉街道が通っていた。古代東海道に両村駅があり、この辺りの鎌倉街道は古代東海道をそのままなぞっていたと思われる。
くれはとりあやに恋しく有りしかば
ふたむら山もこえずなりにき
清原諸実(後撰集)
唐衣たつををしみし心こそ
ふたむら山のせきとなりけめ
よみ人しらず(後撰集)
などの歌がある。
衣の里は今の豊田市挙母町で豊田市の中心部にある。
たちかへりなほみてゆかむ桜花
衣の里に匂ふさかりは
三河守左近中将呉氏(夫木抄)
わきもこが衣の里の梅の花
さぞくれなゐの色に咲くらむ
宗尊親王(夫木抄)
などの歌に詠まれている。
「八橋は、池鯉鮒の半里ばかり東の海道より、北へ半里ほどに村有、八橋村と云。昔、橋を八かけたると云所有。かきつばたの名所也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.17)
八橋は『伊勢物語』九段に、
「三河のくに、八橋といふ所にいたりぬ。そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つわたせるによりてなむ八橋とはいひける。その澤のほとりの木の陰に下りゐて、乾飯食ひけり。その澤にかきつばたいとおもしろく咲きたり。‥略‥
から衣きつつなれにしつましあれば
はるばるきぬる旅をしぞ思ふ
とよめりければ、皆人、乾飯のうへに涙おとしてほとびにけり。」
のように描かれている。芭蕉の貞享二年に、
杜若われに発句のおもひあり 芭蕉
の句を詠むことになる。
同じ頃の「ほととぎす」の巻十二句目に、
触事も田舎となればゆるやかさ
蜘でのはしのかけつはづしつ 閑水
の句がある。
八橋も古代東海道から鎌倉街道へ受け継がれた道にあった。
「ちりふの町の右に長き池有。神(かう)の池なり。毎年四月に池鯉鮒の原に、一月の間、大なる市たつ。諸方より種々のうり物あつまる。原ひろし。此辺、刈屋の城あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.17)
神池は今の知立神社にある。
木綿市や馬市があったことは、元禄五年秋の「青くても」の巻三十三句目の、
筵片荷に鯨さげゆく
不断たつ池鯉鮒の宿の木綿市 芭蕉
の句に詠まれている。鯨も売っていたようだ。刈屋城は今は亀城公園になっている。ウィキペディアに、
「刈谷城(かりやじょう)は、三河国碧海郡刈谷、現在の愛知県刈谷市にあった日本の城。正しくは「刈屋城」であるが、刈谷市が1950年(昭和25年)4月以降に市制施行してから「刈谷」と表記されるようになった。」
とある。「亀城」とも呼ばれていた。刈屋藩の城だった。
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