随分早く梅雨明け宣言が出た。
それでは「東路記」の続き。
「慶長五年、家康公は、石田治部少輔等退治のために関東より御上り有て、九月十四日、赤坂の南なる岡山につかせ給ふ。此時、敵は大垣に籠城す。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.21)
これは大垣城の戦いのことで、ウィキペディアに、
「大垣城に駐留していた西軍は9月14日夜、大垣城に守備兵として福原長堯以下7,500名を配置して主力を関ヶ原へ移動した。
本丸は福原長堯、熊谷直盛、二の丸は垣見一直、木村由信、木村豊統、相良頼房、三の丸は秋月種長、高橋元種らが受け持った。また、守備に携わる武将の中に山田去暦がおり、その娘おあんが残したおあむ物語がこの戦いの城内の様子を描いたものとして残っている。
9月15日払暁に水野勝成、松平康長、西尾光教、津軽為信ら東軍が三の丸に攻撃を開始。三の丸はその日のうちに陥落したと思われる。また、関ヶ原の戦いもこの日で決着がついたので大垣城は敵地に取り残されることとなる。
9月16日夜に相良頼房、秋月種長、高橋元種が水野勝成との交渉によって東軍に寝返り、9月18日に守将の垣見一直、木村由信、木村豊統、熊谷直盛らを軍議を名目に呼び出し謀殺し、大垣城の主だった武将は福原長堯のみとなった。
福原長堯は二の丸が陥落した後も抗戦を続けたが徳川家康の使者の説得により9月23日に松平康長に降伏を申し入れ、開城した。
福原長堯は剃髪後に伊勢朝熊山にこもるが許されず後に切腹した。」
とある。
岡山本陣跡は今のJR美濃赤坂駅の南西にある。中山道赤坂宿の南になる。
「家康公は、態(わざと)、本道をば通り給はず、清州より海道の東の方を御通り、長柄川を御越、横大路、呂久川を御渡り、西の保斤山を御通り、赤坂のうしろ、虚空蔵山と其北、南禅寺山との間にある、金地越と云道を御通り、岡山へ御着陣あり。
西の保村、御通りの時、八条村の瑞苑寺の禅僧、大なる柿を献ず。家康公、是を御取、『大柿、はや手に入たる』と仰ありて、御感悦あり。其寺を『柿の寺』と名を賜る。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.21)
保斤山(ほきやま)はどこかわからないが、清州から西というと養老山脈の方か。横大路も長良川、呂久川と並べ垂れているから横大路川という川があったのだろう。今の大江川か。
虚空蔵山は大垣の明星輪寺(みょうじょうりんじ)のことであろう。ウィキペディアに、
「通称「赤坂虚空蔵」、「虚空蔵さん」、「こくぞうさん」。日本三大虚空蔵の一つという。(京都法輪寺、伊勢朝熊山金剛證寺、他の説もある)
本尊は虚空蔵菩薩。洞窟(岩屋)の中にある彫刻。言い伝えによれば、役小角が彫刻したものという。」
とある。周辺は石灰採掘場になっていて、昔の影もない。金地越は金生山を越える道だったか。
西の保村は西保村でウィキペディアに、
「西保村(にしのほむら)は、かつて岐阜県安八郡に存在した村である。現在の安八郡神戸町西保に該当する。」
とある。明星輪寺の北東で養老鉄道の広神戸駅の南西になる。
八条村も岐阜県安八郡の一つで。安八郡神戸町に八条という地名が残っている。養老鉄道広神戸駅と東赤坂駅の中間あたりで、瑞雲寺という寺がある。
神戸町のホームページの白山神社のところにこの瑞雲寺の僧から家康が柿を得た話が記されている。
あえて大垣城の背後を突く形で養老山の麓の方から赤坂宿の北の方を回って岡山本陣に入ったようだ。
「〇赤坂辺より、岐阜の山、近く見ゆる。信長公の嫡孫、岐阜の中納言秀信卿の城あと也。是、稲葉山と云。名所なり。此城も関ケ原陣の前に落城す。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.21~22)
赤坂から金華山は結構距離はあるが、間に遮るものはない。何でここでという感じもするが、貝原益軒先生は鎌倉街道美濃路を通ってきたため、大垣の手前の安八町を通る辺りで金華山が一番近くなる。
ウィキペディアに、
「1600年(慶長5年) - 織田秀信は、石田三成の挙兵に呼応し西軍につく。関ヶ原の戦いの前哨戦で、岐阜城に立てこもるが、福島正則や池田輝政らに攻められて落城(岐阜城の戦い)。秀信は弟秀則と共に自刃しようとしたが、輝政の説得で降伏する(のち1605年(慶長10年)に死亡した)。
1601年(慶長6年) - 徳川家康は岐阜城の廃城を決め、奥平信昌に10万石を与えて、加納城を築城させる。その際、岐阜城山頂にあった天守、櫓、山中、山麓の石垣などは加納城に、焼け残った御殿建築は大垣市赤坂のお茶屋敷に移されたという。」
とある。
元禄七年伊賀での「残る蚊に」の巻十七句目に、
かち荷は舟を先あがる也
美濃山はのこらず花の咲き揃ひ 芭蕉
の句があるが、これが金華山のことかどうかはよくわからない。
稲葉山は
稲葉山雪の松風冴えくれて
村雲白く出る夜の月
行能(建保名所百首)
稲葉山松の嵐や寒からむ
秋の麓に衣打つなり
後鳥羽院(後鳥羽院御集)
などの歌に詠まれている。
「〇美濃国に名物多し。美濃紙は岐阜の北、いぢらの谷と云所より出る。広き谷也。尾州君の御領地なり。
又、にう山と云所よりも出る。是は赤坂の北、十里ばかりにあり。松平丹波殿の領内なり。
つるし柿は岐阜の近所、はち屋と云所より出る故に、はちや柿と云。
真桑瓜は岐阜の西、赤坂よりうしとらの方二里に、真桑と云所あり、其地より出る。
関と云所に、昔より鍛冶多し。今も然り。岐阜より五町ばかり有。いぢらの谷に近し。広き町有。海道にはあらず。郡上_近所なり。郡上は、北美濃の山中也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.22)
「いぢらの谷」は伊自良村であろう。ウィキペディアに、
「伊自良村(いじらむら)は、岐阜県山県郡にあった村である。2003年(平成15年)4月1日に山県郡の美山町・高富町と共に合併し山県市となった。」
とある。岐阜市の北にある。
古代は関が原に近い垂井で作られていたというが、室町時代後期には製紙業の中心は山県市の方に移った。コトバンクの日本大百科全書(ニッポニカ)「美濃紙」の解説に、
「応仁(おうにん)の乱(1467~1477)後、美濃一帯を統治した土岐成頼(ときしげより)の施政により、中世以降この地方の一大産業としての地位を確保した。京都へ送られた美濃紙は、当時の五山の禅僧の詩文に多く表れてその名を知られ、大矢田(おおやた)(美濃市)は紙の集産地として栄えた。また和本の用紙にも使われて、美濃本あるいは美濃判の名が一般化した。美濃紙の名は、1603年(慶長8)刊の『日葡(にっぽ)辞書』にも採録されている。代表的な美濃紙としては、厚手の森下(もりした)、薄手の典具帖(てんぐじょう)があるが、これらは現在でも長良(ながら)川支流の板取(いたとり)川、および武儀(むぎ)川に沿った地方で漉(す)かれている。」
とある。板取川は山県市の西の美濃市側になるが、武儀川は山県市を流れている。伊自良川も同じく山県市で、低い山を隔てて並行に流れている。
にう山はよくわからないが、かつて垂井の北の揖斐川流域だろうか。
松平丹波殿はこの時代だと加納藩の松平光永がいる。あとはよくわからない。
「はち屋」は美濃加茂市の蜂屋であろう。
真桑と言えば支考の出身地も真桑瓜の産地で、『梟日記』の旅で中津街道の大橋(今の行橋)に来た時、
「柳浦亭にまねかれて、手作の瓜畠など見あるきけるに、古里の眞桑もいまや盛ならんとおもへば、なにがしの僧正の哥のこゝろまでおもひやられて、
美濃を出てしる人まれや瓜の華 支考」
の句を詠んでいる。
甜瓜(マクワウリ)は美濃の真桑村で古代から作られていたもので。近代に西洋メロンが普及するまでは夏の味覚を代表するものだった。真桑村は現在の本巣市の南部で樽見鉄道に北方真桑という駅がある。支考の出身地も美濃国山県郡北野村西山でそう遠くない。
関と言えば関の孫六が有名だが刀鍛冶が多かった。関は郡上への入口で長良川鉄道が通っている。昔は国鉄越美南線だった。
「赤坂の北、虚空蔵山に虚空蔵堂あり。赤坂の宿は、昔、熊坂の長半が源義経よりうたれし処なり。東照宮の御陣所、岡山は、赤坂の南にあるひきき山なり。大垣の方よりは北に見ゆる。勝山と名を改させ給ふ。其南に今も御殿あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.22)
虚空蔵山は先にも出てきた明星輪寺で、家康はここを通って岡山の陣所に入った。途中大きな柿を貰った。
「ひきき山」は前にも「ひきき木山」とあったが単に低き山のことか。
熊坂長範はウィキペディアに、
「室町時代後期に成立したと推定される幸若舞『烏帽子折』、謡曲『烏帽子折』『熊坂』などに初めて登場する。
源義経に関わる大盗賊として広く世上に流布し、これにまつわる伝承や遺跡が各地で形成され、後世の文芸作品にも取り入れられた。
幸若舞『烏帽子折』による、熊坂長範に関わる話の筋は次のようなものである。
鞍馬寺を出奔し金売吉次の供に身をやつした牛若丸は、近江鏡の宿で烏帽子を買い求め、自ら元服して九郎義経を名乗った。美濃青墓宿の長者の館に着いたとき、父義朝、兄義平・朝長の三人が夢に現れ、吉次の荷を狙う盗賊が青野が原に集結していることを知らされる。このとき、熊坂長範は息子五人を始め、諸国の盗賊大将七十余人、小盗人三百人足らずを集めていた。青墓宿を下見した「やげ下の小六」は義経の戦装束を見て油断ならぬものと知らせるが、長範は常ならぬ胸騒ぎを覚えるものの、自らの武勇を恃んで青墓宿に攻め寄せた。待ちかまえていた義経は長範の振るう八尺五寸の棒を切り落とし、三百七十人の賊のうち八十三人まで切り伏せる。長範は六尺三寸の長刀(薙刀)を振るって激しく打ちかかるが、義経の「霧の法」「小鷹の法」に敗れ、真っ向から二つに打ち割られた。
謡曲『烏帽子折』『熊坂』は、舞台を美濃赤坂宿とし、義経との立ち回りに細かな違いは有るものの長範に関わる筋立ては同様である。」
とある。延宝六年春「さぞな都」の巻七十九句目にも、
甲頭巾に駒いばふ春
熊坂も中間霞引つれて 信章
の句がある。
「青墓は、昔は宿駅なり。今は小里なり。町なし。名所なり。古歌有。長者が屋敷の跡有り。朝長(ともなが)の社は、青墓の西の道より北の谷のおくに四五町にあり。朝長八幡と云。
其北の山の上に、朝長の墓有り。青墓の西に青野村あり。其西は、青野が原なり。名所也。古歌あり。『熊坂の長半が物見の松』とて、大なる松あり。
赤坂より西に行けば南に見ゆ。大垣より行けば北に見ゆる。
垂井の少まへに川有て、大垣へ行道と、赤坂の方、木曽路の筋へ行道と、ちまたわかる。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.22)
青墓宿はウィキペディアに、
「青墓宿(あおはかのしゅく)は、美濃国不破郡青墓村(現在の岐阜県大垣市青墓町)にあったとされている古代・中世の東山道の宿駅。青波賀,奥波賀,遭墓,大墓,青波加,青冢とも書く]。
不破関の東側にある宿駅で、平安時代末期から鎌倉時代に遊女や傀儡子が多くいたことで知られ、『梁塵秘抄』などに伝承が遺されている。『十訓抄』によると、『詞花和歌集』6巻の「はかなくも今朝の別れの惜しきかな いつかは人をながらえて見し」は、青墓の傀儡女、名曳(なびき)が詠んだものといわれる。」
とある。
赤坂宿と垂井宿の間にあったと思われる。青墓のよしたけあん跡が今もある。
はかなくも今朝の別れのおしきかな
いつかは人をながらへてみし
くぐつなびく(詞花集)
の歌の外に、
ひとよみし人のなさけはたちかへり
こころにやどる青墓の里
慈円(夫木抄)
尋ねばやいづれの草の下ならむ
なおおおかたの青墓の里
飛鳥井雅経(明日香井集)
などの歌に詠まれている。
「熊坂の長半が物見の松」は『冬の日』の「狂句こがらし」の巻二十一句目の
いまぞ恨の矢をはなつ声
ぬす人の記念の松の吹おれて 芭蕉
の記念の松のことと思われる。
中山道の南、美濃路の北にあり、垂井町立東小学校裏の綾戸古墳に今も説明板が立っている。
青野が原は、
伊吹山さしも待ちつる郭公
青野が原をやすく過ぎぬる
飛鳥井雅縁(為尹千首)
の歌に詠まれている。
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