それでは「東路記」の続き。
「久能山に東照宮あり。社領三千石ありき。此所ははじめ家康公を葬奉りし地也。のち元和三年日光山にうつさせ給ふ。今も美麗なる宮あり。山上にたち給ふ。ふもとより八町上る。府中より三里あり。江尻よりもゆく。山上、石門あり。佳景也。山上に僧坊あり。井ふかし。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.13)
久能山の東照宮は日本平の南の海に面した所にある。府中(静岡)からも江尻(清水)から離れている。その華麗な姿は今にも残っている。
石門というのは拝殿と本殿の間にある石の間のことか。権現造りの特徴とされている。権現様で神仏習合なので、僧坊もある。「井戸ふかし」は勘助井戸で、深さ三十三メートルあるという。山本勘助が堀ったという伝承がある。
「府中に浅間の社有。是は富士浅間の新宮なり。延喜年中、富士本宮をここに勧請す。東照権現、御尊敬有し社也。宮づくり美麗なる大社也。日本にて神社の美麗なる事、日光を第一とし、浅間を第二とす。社領六百石つく。浅間の社官は、新宮左近、惣社宮内とて両人あり。浅間の社の上の山を、しづはた山と云。名所なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.13)
府中の浅間神社は今は静岡浅間神社と呼ばれている。ウィキペディアに、
「徳川家康は、幼少の頃今川氏の人質として当社の北方約1kmのところにある臨済寺に預けられていた頃から、生涯に渡って当社を篤く崇敬した。 まず1555年(弘治元年)、家康14歳の時、当社で元服式を行った。そして1582年(天正10年)、三河・遠江の戦国大名となっていた家康は、賤機山に築かれていた武田氏の城塞(賤機山城)を攻略するにあたり、無事攻略できたならば必ず壮麗な社殿を再建するとの誓いを立てた上で当社の社殿を焼き払い、駿河領有後に現在の規模と同程度の社殿を建造した。さらに家康が大御所として駿府在城時の1607年(慶長12年)には、天下泰平・五穀豊穣を祈願して、稚児舞楽(現、静岡県指定無形民俗文化財・4月5日奉奏)を奉納した。」
とある。
新宮左近は浅間神社の宮司で、惣社宮内は神部神社・大歳御祖神社を合わせた駿河国総社の宮司であろう。総社とはいえ、実質浅間神社なので、こういう二重行政になっていたのだろう。
賤機山(しずはたやま)は浅間神社の北に南北に連なる低山で、標高一七一メートル。「しずおか」の名の由来になっているという。
今朝見れば賎機山のこずゑより
紅葉の錦織りぞそめつる
藤原実清(夫木抄)
散りしける賎機山のもみぢ葉を
苔地に織れる錦とぞみる
藤原忠房(夫木抄)
などの歌に詠まれている。
「駿府の御城は慶長十二年成就し、東照宮御隠居ありて其年七月三日ここにうつらせ給ふ。其後、駿河大納言忠長卿、駿河、甲斐五十万石を領して爰に居城し給ふ。故ありて寛永九年上州高崎に配流せられ給ふ。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.13~14)
駿府城は十四世紀に国府となった今川氏によって築城された今川舘が前身となっていたが、ウィキペディアによると、
「ただし、今川館が現在の駿府城と同じ場所であったことを示す史料は無く、むしろ1982年に行われた駿府城の二ノ丸跡の発掘調査によって見つかった戦国時代の遺構はその規模から今川氏の重臣の邸宅跡と考えられたことなどから、後世の駿府城よりも西側の地域に今川館があったとする推測が強くなっているが、具体的な位置については現時点では不明である。」
とある。連歌師の宗長も丸子に柴屋軒を構える前は、今川館の近くに住んでいたという。
「駿府の御城は慶長十二年成就し」とあるが、ウィキペディアには、
〇1607年(慶長12年)
〇2月 駿府城拡張工事開始。
〇3月 家康、入る。
〇12月 失火により御殿・天守など本丸の全てを焼失。直ちに再建にかかる。
〇1608年(慶長13年) 本丸御殿・天守等完成。家康、18年ぶりに駿府城へ移る。
とある。出典は「田中省三 『大御所徳川家康と駿府城公園』羽衣出版、2012年11月1日。ISBN 978-4-938138-98-1。」とある。
駿河大納言忠長卿は徳川忠長で、ウィキペディアに、
「徳川 忠長(とくがわ ただなが)は、江戸時代前期の大名。極位極官が従二位大納言で、領地が主に駿河国だったことから、通称は駿河大納言(するがだいなごん)。徳川家康の孫にあたる。」
とある。
また、ウィキペディアには、
「寛永元年(1624年)7月には駿河国と遠江国の一部(掛川藩領)を加増され、駿遠甲の計55万石を知行し、この頃より隣国の諸大名等からは「駿河大納言」という名称で呼ばれる様になる。しかし、忠長は自分が将軍の実弟である事を理由に満足せず、大御所である父・秀忠に「100万石を賜るか、自分を大坂城の城主にして欲しい」という嘆願書を送るも、呆れた秀忠から要求を無視され、この頃より忠長は父に愛想を尽かされ始める。また、忠長の要求を知った家光からも、かつて祖父・家康が敵対した豊臣家が所有し、大坂の陣で落城させた大坂城を欲しようとしている忠長に、謀反の意思があるのではないかと疑われる様になり、幕臣達も諸大名に持て囃される忠長の姿を「まるで将軍が二人いるようだ」と評し、神経を尖らせていく。」
とある。
家光の弟で従二位大納言の官位を貰い、嫡男の家光と対立する。源義経といい、足利直義といい、徳川忠長といい、またこのパターンかという感じがする。
「〇阿部は、名所なり。阿部川のさきに手越と云町あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.14)
安部は「安部の市」として歌枕になっている。
いとどしく安部の市人さわぐらし
坂越えかかる夕立の雲
二条為明(新続古今集)
君がため弥生になればよつまさへ
安部の市路にははこ摘むなり
源俊頼(夫木抄)
などの歌がある。
安部川を越えると手越になる。手越は千手の前のいた所で、『平家物語』に描かれ、謡曲『千手』にもなっている。ウィキペディアには、
「千手の前(せんじゅのまえ、永万元年(1165年) - 文治4年4月25日(1188年5月23日))は平安時代末期の女性。『平家物語』によると駿河国手越長者の娘。ただし『平家物語』や『吾妻鏡』は捏造部分も多いため実在については怪しまれている。」
とある。
「〇阿部川のあたりより北にあたりて、雪白き高山遠く見ゆる。是、甲斐の白峯と云。甲斐が峯とも云。平家物語十巻海道下にも、「手越を過て行けば北に遠ざかりて雪白き山あり。問へば甲斐の白根といふ」とあり。府中と鞠子の間に木枯の森有。安倍川の上也。鞠子と岡部の間、右の山中に、連歌師宗長が居たりし寺有。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.14)
南アルプスは南北に長く、静岡市街からも小夜の中山からも見ることができる。甲斐が峯(ね)、甲斐の白根は今は北岳だけを限定的に指すことが多いが、かつては南アルプス全体を指してそう呼んでいた。
木枯の森はウィキペディアに、
「木枯森(こがらしのもり)または木枯ノ森は、静岡県静岡市西部を流れる安倍川最大の支流、藁科川の河川敷にある中州である。静岡県指定の名勝となっている。」
とある。
木枯らしの森の下草風はやみ
人のなげきはおひそひにけり
よみ人しらず(後撰集)
消えわびぬうつろふ人の秋の色に
身を木枯らしの森の下露
藤原定家(新古今集)
などの歌に詠まれている。
連歌師宗長は永正元年(一五〇四年)に丸子の宇津ノ谷に柴屋軒を作って住むことになる。宗祇の死後になる。
宗長の柴屋軒は宗長の死後、今川氏親によって吐月峰柴屋寺に改められたといわれていて、その後荒れ果てていたのを徳川家康が改修し、茶室や庭園を整えて今に至っている。
「〇宇津の谷の上の山、宇津の山なり。名所なり。〇岡部は名所也。岡部に岡部の六弥太居たりしと云は虚説なり。六弥太が屋敷のあとは武蔵の岡部に有り。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.14)
宇津ノ谷峠は『伊勢物語』九段の、
駿河なる宇津の山辺のうつつにも
夢にも人に逢はぬなりけり
在原業平(新古今集)
の歌でよく知られている。地の文に「宇津の山にいたりて、わが入らむとする道は、いと暗う細きに、つたかへでは茂り、もの心ぼそく」とあるところから「蔦の細道」とも言われている。
宗長の時代から十団子が名物で、
十団子も小粒になりぬ秋の風 許六
の句もかつてはよく知られていた。元禄五年頃米価が高騰した時のステルス値上げを詠んだ句であろう。
岡部は一応、
うち靡き暮れぬ岡べの花薄
宿とふ人の袖にまがへて
覚助(嘉元百首)
夕月夜さすや岡べの秋風に
霧晴れて鳴く小男鹿の声
宗良親王(李花集)
の歌があるが、地名なのか一般名詞なのか何とも言えない。
岡部には西行ゆかりの笠掛松がある。ネット上の大坪利絹さんの『去来付句「歌の奥義を知らず候」考─西行説話との関連─』によると、弟子の西住が松に掛けた笠に、
西へ行く雨夜の月やあみだ笠
影を岡部の松に残して
と書いてあったのを見て、
笠はありて身のいかにして無かるらん
あはれ儚き天が下とは」
と返したという伝承が近代の『志太郡志』に記されているという。
中世の『西行物語』には西住の「岡部の松」の歌はなく「我不愛身命 但惜無上道」の詩が書きつけてあったことになっている。
つまり、この歌がいつ頃作られたのかは不明ということになる。
岡部の六弥太は岡部忠澄のことで、ウィキペディアに、
「岡部 忠澄(おかべ ただずみ)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての武将、御家人。武蔵七党の猪俣党の庶流岡部氏の当主。事績については詳細に乏しいが、『平家物語』における平忠度を討ち取ったエピソードで知られている。」
とある。岡部氏の本拠地は埼玉県深谷市岡部の周辺で、JR高崎線にも岡部駅がある。岡部六弥太の墓もここにある。
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