わたしも投票します。
まあ、投票日になったらね。いつも一応投票してるからね。
まあ、どっち方面に投票するかは、この日記読んでれば大体わかると思うけど。
でも、筆者なんぞがこんなことを言っても、勝手に行けばあ、になりそうだな。「わたしも投票します」と言って、何か良いことをしているとか評価されたり賞賛されたりする人がうらやましい。
それでは「東路記」の続き。
「池鯉鮒と鳴海の間、今岡村と云所に、三河と尾張の境あり。又、鳴海より一里東の道ばたの南に、桶狭間と云所に谷あり。是、信長公八千の勢を以て今川義元三万の勢に打勝て、即、此所にて義元を打取給ふ。義元を討たる所あり。義元の墓あり。此山の南に桶狭間と云村有。此谷の東北五町ばかりに千人塚有り。山上なり。千人の首を埋し所といふ。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.17)
今岡村は今の刈谷市今岡町に名前が残っている。池鯉鮒宿からそれ程離れてはいない。名鉄線の一ツ木駅と富士松駅の中間になる。
その富士松駅の先、豊明、前後の次の中京競馬場前駅から南西に行った所に桶狭間古戦場公園がある。園内に「義元首洗いの泉」「今川義元の墓碑」がある。ウィキペディアには、
「本来的には知多半島の基部にあたる丘陵地を指し、後述するように室町時代初期にその発祥をみて以来現在に至るまで、尾張国知多郡桶廻間村とその村域を明治時代以降にほぼ踏襲した行政区域を指す地名でもある。行政区域としては2019年(令和元年)現在、名古屋市緑区を構成する町のうち11町に桶狭間の名が冠されている(「名古屋市緑区桶狭間」、「名古屋市緑区桶狭間上の山」、「名古屋市緑区桶狭間北二丁目」、「名古屋市緑区桶狭間北三丁目」、「名古屋市緑区桶狭間切戸」、「名古屋市緑区桶狭間清水山」、「名古屋市緑区桶狭間神明」、「名古屋市緑区桶狭間西」、「名古屋市緑区桶狭間巻山」、「名古屋市緑区桶狭間南」、「名古屋市緑区桶狭間森前」の11町とそのほかにこれらの町の母体となった「名古屋市緑区有松町大字桶狭間」)。」
とあり、これらが「桶狭間と云村」だったと思われる。
千人塚は今は戦人塚になっていて、地名は仙人塚になっている。首塚のイメージを払拭しようと、ちょっとばかり美化されている。
「鳴海と熱田との間より左の方に遠き出崎見ゆ。是、野間の内海なり。是、源義朝を長田庄司が討し所なり。又、織田三七信孝も此所にて切腹せらる。又、伊勢の山田の山、伊勢の朝熊が岳見ゆる。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.17~18)
野間の内海は名鉄知多線の野間駅と内海駅にもなっている。知多半島の真ん中にある。
芭蕉の『笈の小文』の旅での元禄四年初冬、三河新城滞在中の「此里に」の巻二十四句目に、
海少へだたる水のしははゆき
秋風すごし義朝の墓 桃先
の句がある。大御堂寺野間大坊にある源義朝の墓を詠んでいる。
この辺りで知多半島は東へ曲がっていて、南西の海岸から見ると、伊勢が対岸になる。
「〇鳴海と熱田の間に笠寺の観音在り。竜福寺転林山と号す。戸辺村有。今川の家臣、戸辺新左衛門が居たりし所なり。又、星崎村あり。名所なり。宵月の浜は、熱田と鳴海の間の南の方の浜辺なり。海人の塩屋見ゆ。夜寒の里は星崎の西にあり。浦に近し。松風の里も夜寒の里にならべり。皆、名所なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.18)
笠寺というと、芭蕉が貞享四年十一月、『笈の小文』の旅の時に訪れている。
笠寺は天林山笠覆寺で笠寺観音と呼ばれている。名鉄線本笠寺駅の近くにある。ウィキペディアには、
「寺伝によれば、天平5年(733年、一部文書には天平8年 - 736年)、僧・善光(または禅光)が浜辺に打ち上げられた流木を以て十一面観音像を彫り、現在の南区粕畠町にその像を祀る天林山小松寺を建立したのが始まりであるという。
その後1世紀以上を経て堂宇は朽ち、観音像は雨露にさらされるがままになっていた。ある時、旅の途中で通りかかった藤原兼平(藤原基経の子、875年 - 935年)が、雨の日にこの観音像を笠で覆った娘を見初め、都へ連れ帰り玉照姫と名付け妻とした。この縁で兼平と姫により現在の場所に観音像を祀る寺が建立され、笠で覆う寺、即ち笠覆寺と名付けられたという。笠寺の通称・地名等もこの寺院名に由来する。」
とある。笠地蔵の原型のような話だ。
鳴海の造り酒屋だった知足が出家して笠寺に入って寂照になり、この笠寺の句を芭蕉にお願いしていた。貞享四年春(三年春説もある)の寂照(知足)宛書簡に、
「この御寺の縁記(起)、人のかたるを聞侍て
かさ寺やもらぬ岩屋もはるのあめ
武城江東散人芭蕉桃青
笠寺の発句度々被仰下候故、此度進覧申候。よきやうに清書被成、奉納可レ被レ成候。委曲夏中可得御意候。 以上
寂照叟」
とある。そして十一月に『笈の小文』の旅でここを訪れた時に、この句を立句として歌仙一巻が興行された。
星崎と言えば、芭蕉にも、
星崎の闇を見よとや啼千鳥 芭蕉
の句がある。同じく『笈の小文』の旅の句だ。
星崎や熱田のかたの漁火の
ほのもしりぬや思ふ心を
藤原仲実(堀河百首)
わたの原空もひとつの朝凪に
波間に見ゆる星崎の浦
明日香井雅経(明日香井集)
などの歌に詠まれている。
宵月の浜は、
鳴海潟夕波千鳥たちかへり
ともよひ月の浜に鳴くなり
厳阿上人(新後拾遺集)
よそにのみ鳴海の海人の宵月に
身をうら風のこすとしらせよ
正徹(草根集)
などの歌に詠まれている。
の歌に詠まれている。
夜寒の里は、
袖かはす人もなき身をいかにせむ
夜寒の里に嵐吹くなり
源顕仲(夫木抄)
もろともに鳴きあかしつるきりぎりす
夜寒の里の草の枕に
藤原仲実(夫木抄)
などの歌に詠まれている。JR熱田駅と熱田神宮公園の中間あたりに熱田区夜寒町の名前が残っている。
松風の里の歌はよくわからない。松風は古里、山里などによく詠まれる。
「勢州鈴鹿の関は昔坂の下の東、関と云所に有し也。故、今も関と云。地蔵有所也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.18)
古代東海道も近世の東海道も鈴鹿越えのルートを通っていた。古代東海道の鈴鹿関は今の亀山市関町にあったという。江戸時代には東海道の関宿があった。
今も関地蔵院がある。天平十三年(七四一年)行基菩薩によって開かれたという。
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