昨日は晴れたけど、まだ風が強く、そんなに暑さを感じなかった。
今朝は晴れて久しぶりに末の三日月と金星や木星を見た。暑くなって梅雨明けのような一日だった。
日本ではさして問題になってないが、欧米ではアメリカの銃規制と中絶問題の二つの司法判断が大きなニュースになっていた。
そこで、ちょっと昨日書いたことを思い出した。
「日本には仏教改革の指導者が現れなかった。その代りを果たしたのは、神仏儒道をその貫道するものは一つということで相対化する、俳諧の風流だったのかもしれない。」
日本では顕密仏教が、西洋ではカトリックが、かつては巨大な力を持っていた。それは彼らが「余剰人口」の生殺与奪権を握っていたからだ。
ただ、商工業の発達によって生産性が向上し、社会の定員が少しづつ増えて行くようになると、その分宗教的権威の力は衰えて行く。
宗教的権威というのはかつては心の問題ではなく、余剰人口の救済という社会的役割を持っていた。それが失われた時、西洋では信仰はそうした社会的制度に係わらず心の問題だということで宗教改革が起きて行った。
免罪符の問題も余剰人口を支えるのに欠かせない資金集めだったのだが、それを宗教的な堕落であるかのように宣伝したのはこの改革派だった。
日本の顕密仏教にはこうした動きはなかった。仏教内部からの改革はなく、信長による殺戮で決着をつけてしまった。そして江戸時代に徳川幕府が朱子学を国教化したものの、実際に庶民の間に広まったのは神仏儒道の相対主義だった。
もともと本地垂迹という形で、日本の仏教界は神道に譲歩してきた。仏教を普遍的な真実として、神道はそのローカルバージョンだという主張だが、やがて唯一神道がこれは逆で神道が本地で仏教こそインドのローカルだと主張し始めた。
国教になれば、今度は朱子学の理こそが普遍的なもので、仏教も神道もその垂迹とする考えることもできた。ここまで来ると結局最終的には陰陽不測の人間の理解を越えた天地自然が真実だという所に行きつく。
この「貫道するものは一つ」という所で神仏儒道を相対化する感覚は、今日の日本人にも染み付いている。
だから日本の保守層に宗教的な原理主義者はほとんどいない。ごく少数の新興宗教の人たちがいるだけだ。創価学会は結構いい加減な宗教で、勧誘はうるさいけどいわゆる原理主義者ではない。原理主義だったらあそこまで広まらなかった。
欧米、特にアメリカは原理主義者が大きな力を持っていて、パヨチンと原理主義者との板挟みになる。
あと、「ほととぎす(待)」の巻と「郭公(来)」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。
それでは「東路記」の続き。
「清州に南北、町二あり。長さ一里ありと云。福嶋左衛門大夫正則の城あとは、町の北のはづれの東の方に有。道より右に見ゆる。家康公と秀吉と御合戦ありし小牧山は、清州の東にあり。ひきき木山也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.20)
清州はJR東海道本線で名古屋を出ると枇杷島の次の駅になる。清州会議で有名な清州城がある。ウィキペディアには、
「小田原征伐後の豊臣秀吉の国替え命令に信雄が逆らって除封され、豊臣秀次の所領に組み込まれた後、文禄4年(1595年)には福島正則の居城となった。」
とある。慶長十八年(一六一三年)に名古屋城が完成して廃城になった。平成元年(一九八九年)に鉄筋コンクリートの天守閣が立って、今に至っている。
小牧山は清州の北東にある。標高八十六メートルの山でかつては織田信長の居城があった。今は公園になっていて昭和四十二年(一九六七年)に天守閣の形をした小牧市歴史館が建てられた。
天正十二年(一五八四年)、小牧・長久手の戦いがあった。ウィキペディアに、
「小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)は、天正12年(1584年)3月から11月にかけて、羽柴秀吉(1586年、豊臣賜姓)陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた戦い。尾張北部の小牧山城、犬山城、楽田城を中心に、尾張南部、美濃西部、美濃東部、伊勢北部、紀伊、和泉、摂津の各地で合戦が行なわれた。また、この合戦に連動した戦いが北陸、四国、関東でも起きており、全国規模の戦役であった。名称に関しては、江戸時代の合戦記では「小牧」や「長久手」を冠したものが多く、明治時代の参謀本部は「小牧役」と称している。」
とある。
「ひきき木山也」はよくわからない。
「〇清州と稲葉の間、右の方に、尾張の国府の宮あり。大社なり。正月十三日、此辺を通る人をとらへて、一夜神前に置て明日かへす。是を名づけて、なをひと云。「儺追」と書。古のおにやらひなる由いへり。元亨釈書に、大宰府観世音寺、儺の時も、行人をとらへし事あり。是に同じ。此故に其日は此道を旅人通らず。近村の人も往来せず。人をとらゆるには、此里の者、つく棒、さすまた、熊手など、いろいろのせめ道具を持て、路行く里人を追かけとらゆる也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.20)
稲葉は今の金華山で岐阜城がある。貞享四年十一月二十六日に芭蕉が名古屋の荷兮亭で興行した時、岐阜から落梧が来ていて、
凩のさむさかさねよ稲葉山 落梧
の句を詠んでいる。尾張国府の宮は今日の尾張大国霊神社で、JRだと清州の次の稲沢だが、名鉄線の国府宮駅が近い。尾張国の国府もこの辺りにあったとされている。
儺追神事(なおいしんじ)は今では裸祭りで有名になっている。
今は儺負人の選定式が行われ、神籤(みくじ)によって儺負人を決定している。裸祭が終わった後、夜儺追神事(よなおいしんじ)の時に天下の厄災を搗き込んだとされる土餅を背負わされて礫で境外へ追出すという。この役をかつては通行人をひっ捕らえてやっていたのだろう。
元禄六年の「蒟蒻に」の巻八句目に、
坊主とも老ともいはず追立歩
土の餅つく神事おそろし 芭蕉
の句がある。たまたまそこを通りかかれば、老いた乞食坊主といえども容赦なかったようだ。
「〇尾越川は、尾越の町の西ぎはにあり。凡、此道に三の大河有。尾越川は三の内、第一の大河也。木曾川の末なり。大田の渡も此川上也。尾越と洲の股の間に、尾張と美濃のさかひあり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.20)
前に岩塚と万場の間の川も「尾越川の下也」とあったが、この川は今は庄内川で上流は土岐川になる。
尾越川は木曾川の下流のことで、かつては木曾川の下流も庄内川も一緒になった複雑な流れになっていたのかもしれない。あるいは五条川が木曾川と庄内川を繋ぐ形になっていたのかもしれない。
木曾川は信州塩尻の方から流れて来るが、途中で合流する飛騨川は飛騨高山の少し手前の乗鞍岳の方を水源としているので、飛騨高山から越中富山へ抜ける道筋になる。それで尾越川だったのだろう。
岐阜市へ入る手前に木曽川があり、JRの木曾川駅がある。
中山道の太田宿にある太田の渡しは犬山・鵜沼より上流の美濃太田にある。
洲の股は今の墨俣で、昔の木曾川は笠松から西へ流れて墨俣で長良川に合流していて、それが尾張と美濃の境になっていた。天正十四年(一五八六年)の木曾川の氾濫で木曾川の流れが変わり、ウィキペディアには、
「1589年(天正17年)豊臣秀吉の命により、新しい木曽川を尾張国と美濃国の境とし、美濃国側を羽栗郡に改称した。同時に中島郡・海西郡も2国にまたがる郡となったが、こちらは改称されていない。」
とある。今も柳津の西に境川があるが、古い木曾川の名残であろう。
「洲の股川は、町の東ぎはにあり。尾越川に次で、第二の大河なり。此川上に合渡の渡有。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.21)
洲の股川はそうすると長良川の下流ということになる。合渡の渡しは西岐阜の方にあった。中山道の河渡宿があった。洲の股(墨俣)はここよりも下流になる。この辺りの中山道が直線的に東西に通っているのは、古代東山道の名残であろう。
「佐渡り川は、洲の股と大垣との間にあり。洲の股に次で、第三の大河也。此川の西に、佐渡と云村あり。此川は呂久川の下なり。合渡も呂久も木曽路へ行道筋也。佐渡川は、はばせばけれど水ふかし。飛騨山、美濃の郡上の方より出る川也。此川の少東に、むすぶ村有。結の神有。名所也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.21)
佐渡り川は今の揖斐川になる。佐渡は東大垣の辺りで、鎌倉街道美濃路はここを通っていた。中山道はここよりやや上流の呂久というところに呂久の渡しがあった。今は鷺田橋になっている。
上流と下流で呂久川、佐渡川と名前が変わっていたのだろう。
中山道は大垣の北の赤坂宿を通る。養老鉄道に東赤坂という駅がある。古代東山道もこの辺りを通っていて大野駅がこのあたりにあったと思われる。
揖斐川は呂久の辺りで根尾川が合流している。ともに能郷白山の方を水源としている。郡上から流れるのは長良川で、加賀白山の南側を水源とする。
結(むすぶ)村はウィキペディアに、
「結村(むすぶむら)は、かつて岐阜県安八郡に存在した村である。
現在の安八郡安八町の北西部に該当し、揖斐川東岸の地域である。
村名は、かつてのこの地域の通称、結之里に由来する。
古くは鎌倉街道・美濃路が通過していた村であり、交通の要所であった。現在も旧・岐垣国道(現・岐阜県道31号岐阜垂井線)、国道21号(岐大バイパス)が通過する。」
とある。安八町は揖斐川と長良川に挟まれた地域で、その北の端の鎌倉街道美濃路沿いに今も、結神社がある。
君見ればむすぶの神ぞうらめしき
つれなき人をなにつくりけん
よみ人しらず(拾遺集)
心さへむすぶの神やつくりけむ
とくるけしきも見えぬ君かな
能因法師(詞花集)
などの歌に詠まれている。
「〇佐渡川の西の峯より川ばたをのぼり、大垣へ行かずして赤坂へ行道有。二あり。佐渡より垂井に行には、大垣を通りたるも赤坂へ行たるも道程は同じ。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.21)
峯は岸の間違いか。結神社のところから揖斐川を渡って、そのまま川に沿って行けば中山道に出て赤坂宿へ行ける。
美濃路でそのまま大垣を通っても、中山道で赤坂宿を経由しても、次の垂井宿で合流することになる。
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