曽我兄弟の陰謀説って、結局一九七九年の大河ドラマ『草燃ゆる』(永井路子原作)の丸パクリだったようだ。「草燃ゆる」改め「草生える」。
筆者の子供の頃から大河ドラマは親父が必ず見ていたので一緒に見ていたが、『草燃ゆる』は何か親父がつまらないだとかぶつぶつ言って見るのをやめたのを思い出す。人間関係をあまりに現代のメロドラマ的に解釈しているのが面白くなかったようだ。それは今の鎌倉殿にも言える。
筆者の「超訳『源氏物語』─とある女房のうわさ話─」も、現代的な言葉をしゃべらせているという所は三谷さんの影響があるけど、世界観はできるだけその時代を再現しているつもりだ。現代的解釈はしていない。
曽我兄弟の陰謀説が間違いなのは、簡単に言えば幕府の側からすれば仇討を「美談」とする理由がないからだ。『曽我物語』でも仇討は美化されていない。周囲の人々、特に女性の悲しみとともに描かれている。仇討は人情であり、抑えることのできない衝動によるもので、それが義に反するからこそ曽我兄弟は処刑されている。
戦場では多くの人が死んでいる。それに対していちいち仇討を行っていたなら収拾がつかなくなる。謡曲『摂待』もその恨みの連鎖を断つことをテーマとした物語だった。
基本的に仇討は人情であり、いつの時代でも「義」は仇討を禁じている。それは忠臣蔵でも同じだ。今日の死刑廃止の議論を見ても、死刑廃止は義であり死刑存続は人情だ。
たとえば源平合戦が源義朝の仇討の戦いだったとしたら、実際に仇を討ったのは頼朝ではなく義経になる。その義経を討った頼朝に何で仇討を美談にする必要があったのか。
頼朝は清和天皇以来の源氏の正当な血筋である義朝の嫡男であるというだけで、最初から正統な後継者なのであって、仇を討ったことで正統な後継者になったのではない。仇討の美化は頼朝政権の根底を覆してしまう。
『曽我物語』でなぜ最初に長々と源氏の系譜のことを語っているのかというと、最初から仇討はあくまで人情によるもので、それが明らかに秩序に反するものであることを、源氏の血筋を語ることによって前置きする必要があったからだ。
ロシアのウクライナ侵略によって引き起こされた食糧危機は、アフリカの農業の問題を考えるきっかけにしてゆく必要がある。
アフリカの多くは農業国でありながら、なぜ食料自給率が低いのか。二つ原因がある。一つは前近代的な生産性の低い農業がおこなわれていること。もう一つはその一方で欧米や日本へ向けての大規模な商品作物栽培に農地の多くを取られていること。
今回の食糧危機はウクライナには何の非もなく、全面的にロシアに非があるのは勿論の事、小麦に依存した今の世界を考え直すきっかけにすべきではないかと思う。
日本は食料自給率が低いとはいえ、米はほぼ自給できている。そのため、今の日本では食料に対する危機感はまったくないと言って良い。パンが食えないならご飯を食べればいい、で済んでいる。アフリカにも本来彼らが先祖代々食べてきた穀物があったはずだ。
伝統的な食生活を変えて欧米流の小麦依存体質にすることのリスクを、今こそ知るべきではないか。
不思議なのは、これだけ小麦の不足が叫ばれていて、それに円安も加わっているというのに、パスタの価格が全然上がっていない。これはデュラム小麦の生産地である北アフリカや中東地域の食糧危機を回避するヒントになるのではないか。
ちなみに国産パスタはカナダ産のデュラム小麦が使用されている。これらの地域に直接関係はない。
それでは「東路記」の続き。
延宝八年の災害については、ネット上の「防災情報新聞」に、
「○延宝8年閏八月台風、東海道筋、江戸、強風と高潮に襲われる[改訂]
1680年9月28日(延宝8年閏8月6日)
強烈な台風により、東海道筋と江戸など沿岸地帯が強風と高潮に襲われた。
東海地方の被害は、三河(愛知県)では三河湾沿岸の西尾、吉田(現・豊橋市)、田原に高潮が押し寄せ(山鹿素行先生日記)、特に吉田藩では39人死亡、家屋倒潰1699軒の被害となった。(玉露叢)
遠江(静岡県)では浜松、横須賀(現・掛川市)、掛川の被害が大きく、浜松藩では大風により、浜松城の本丸から天守、二の丸、三の丸の櫓や塀が破損、城下では358軒の侍屋敷や町家が倒潰した。横須賀藩では高潮に襲われ、300人余死亡、城の櫓(やぐら)1棟、武士・町人の家6000余軒が流失(徳川実紀)。掛川藩は暴風雨で水損した田畑5700石余、民家の倒潰2794軒と記録されている(玉露叢)。駿河(静岡県)では湾沿いの吉原(現・富士市)、原(現・沼津市)に高潮による被害があり、吉原での300人をはじめ、倒潰した家屋や死亡した人は数え切れない程だという(山鹿素行、玉露叢、浅間文書纂)。」
とある。『東路記』は「津波」と書いているが、延宝八年にあったのは高潮だった。延宝五年の間違いではなく、「津波」の方が間違っていた。
「〇吉原より今泉を通り富士のすそ野を経て大宮にゆく道あり。吉原より大宮に行道一里ばかりにあつ原と云村有。曾我十郎、五郎が社、一所に両柱あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.12)
今泉の地名は今も富士市にあり、岳南鉄道の吉原本町の隣の本吉原駅も富士市今泉一丁目になる。江戸から行くと、吉原宿入口の手前になる。ここから北の地域が今泉になる。ここから富士宮の浅間神社へ行く道があったようだ。これより百年後になると富士講が盛んになり、多くの人が訪れることになる。
厚原という地名も今日に残っている。JR身延線や県道の富士富士宮線よりも山側を通っていたのだろう。五郎の首洗い井戸というのが今でもあり、近くに今も曽我八幡宮がある。
それよりさらに南西に行き、富士富士宮線を越えた所に曽我寺があり、曽我兄弟の墓がある。かつては本地垂迹で曽我八幡宮と一体だったのだろう。富士講の名所だったに違いない。
富士の巻狩りの行われた藍沢は富士山の御殿場側で、今も自衛隊の演習場がある。「首洗い井戸」のことがこの『東路記』にない所を見ると、富士講が盛んになった江戸後期に後付けで作られた名所である可能性がある。五郎十郎の霊は富士講が盛んになるはるか前から、何らかの理由でここに祀られていたのだろう。
「〇吉原と蒲原の間、うるい川有。大宮の方より出る川なり。此辺、富士のすそのより出る小川多し。富士川は甲州のおくより出、見延をへて下る。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.12)
東海道の方に戻るが、吉原宿を出てすぐの所に潤井川がある。富士山の西の大沢崩れを水源として、浅間神社の西側を通って田子の浦にそそぐ。
その先に富士川がある。今日では甲府盆地で釜無川と笛吹川が合流し、そこから下が富士川になっている。見延を経て富士市の西側にそそぐ。
笛吹川は甲武信ヶ岳の方に発し、釜無川は甲斐駒ヶ岳の北西を水源とする。
富士川というと芭蕉の『野ざらし紀行』に、
「富士川のほとりを行くに、三つばかりなる捨子の、哀気(あわれげ)に泣くあり。この川の早瀬にかけてうき世の波をしのぐにたえず。露ばかりの命待つまにと、捨置きけむ、小萩がもとの秋の風)、こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂より喰物なげてとをるに、
猿を聞く人捨子に秋の風いかに
いかにぞや、汝ちちに悪(にく)まれたるか、母にうとまれたるか。ちちは汝を悪むにあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯これ天にして、汝の性(さが)のつたなきをなけ。」
とある。
多産多死の時代には捨て子は珍しいものではなく、捨て子を収容するような施設もなかった。捨て子の命はただ天命であり、泣くこと以外に何もできなかった。
有限な大地の有限な自然の恵みでは、自ずとそこに棲める人の数も限られる。生まれてきた人のすべてが生きれるわけではなかった。それは定員の限られた小舟に乗っているようなものだった。みんなが乗ったら船が沈んでしまう。そこで厳密な掟を作って、命に序列をつけ、生きることに優先順位を付けざるを得なかった。
この掟は天であり絶対的なものである必要があった。そうしないと生き残りをかけて親子兄弟の間でも血で血を洗う争いになる。事実歴史上、親子兄弟同士が合戦をした例は限りなくある。
武家などの上層階級は寺が余剰になった子供の受け皿になったが、下層階級は捨て子をした。
「由井と興津の間に、薩埵山あり。昔、足利尊氏と其弟直義と兄弟合戦ありし所也。太平記に見えたり。爰に下道、中道、上み道とて三筋あり。
下道はおやしらず子しらずとて、海辺の岩間を通る難所也。ここを岫(くき)が崎と云。夫木に歌あり。中道は、明暦元年、朝鮮の信使来りし時始て開く。上道は近年開く。
明暦元年より前は、下道ばかりにて、中道、上道はなし。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.12)
「薩埵峠の戦い」は南北朝時代のものと戦国時代のものとがある。戦国時代の方はウィキペディアに、
「薩埵峠の戦い(さったとうげのたたかい、薩埵山の戦いともいう)は、戦国時代の1568年(永禄11年)12月から翌月にかけて駿河国薩埵峠(静岡県静岡市清水区)において、武田信玄の軍勢と今川氏真・北条氏政の軍勢との間で2度にわたって行われた合戦である。」
とある。
『東路記』にあるのは南北朝時代の方で、これもウィキペディアに、
「薩埵峠の戦い(さったとうげのたたかい、薩埵山の戦いともいう)は、南北朝時代の正平6年/観応2年(1351年)12月、駿河国の由比(静岡県静岡市清水区)・内房(静岡県富士宮市)一帯において、足利尊氏の軍勢と足利直義の軍勢とで行われた合戦である。戦の行われた場所から桜野の戦いともいう。」
とある。
これもよくある兄弟合戦で、足利直義は尊氏の同母弟になる。鎌倉幕府を倒す時は協力し合っていて、建武の乱の時も湊川の戦いで共に楠木正成を討ち取っている。
その後義直が官位を得て公卿になったというあたりは、どこか源義経と似た所がある。尊氏の方は征夷大将軍になると南朝から直義追討の綸旨を得て、実の弟と戦うことになった。
頼朝の場合もそうだが、基本的に国の支配者のポストは一つしかない。兄に優先権があるのは誰しも認めることだった。そこに弟が朝廷と組んでその優先権を脅かす恐れがあるということになると、兄弟でも容赦しない。それはよくあることだった。
誰もが分かり切った単純な理屈ではあるが、その不条理もまた誰もが感じていることで、それが判官贔屓を生んだと言っても良いだろう。いわゆる義理と人情のはざまで、判官贔屓は人情の方だった。人情、その言葉は西洋の「人権」に相当する日本の言葉だった。
芭蕉の富士川の句にしても、捨て子が「天」だというのは義理であり、それを泣くのは人情だと考えればわかりやすい。
薩埵峠には三つの道があった。
下道は古代同街道の時代からある海辺の波を被る道で、『東関紀行』には、
「岫(くき)が崎といふなる荒磯の、岩のはざまを行過るほどに、沖津風はげしきに、うちよする波も隙なければ、急ぐ塩干の伝ひ道、かひなき心地して、干すまもなき袖の雫までは、かけても思はざりし旅の空ぞかしなど打詠られつつ、いと心ぼそし。
沖津風けさあら磯の岩づたひ
波わけごろもぬれぬれぞ行」
とある。
さらぬだにかはらぬそでを清見潟
しばしなかけそなみのせきもり
源俊頼(続詞花集)
の歌もあるように、ここには清見が関の関守とは別に波の関守がいると言われていた。人の関守は通しても、波の関守はなかなか通してくれなかった。
「おやしらず子しらず」は北陸道の難所で、『奥の細道』にも市振のところに、
「今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなど云北国一の難所を越てつかれ侍れば」
とある。それに匹敵する難所だったということだろう。
近代でも国道一号線と東海道線はここを通っている。
そのため江戸時代になって明暦元年(一六五五年)に第六回朝鮮通信使が来た時に、薩埵峠を越える道が作られ、これが中道になる。
この時の中道は薩埵峠を興津側に下る時に、海岸へ出てたようだが、後に瑞泉寺の北側を大きく迂回するルートが作られ、これが上道になる。これが江戸時代の東海道のスタンダードになった。
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