2021年6月30日水曜日

 異世界というのは結局妄想の世界で、多くの人の願望の反映される世界だからね。その異世界が様々な種族の共存する世界だというのは、結局みんなそういう社会を願っているんだと思うよ。
 種族だけでなく、様々な性的嗜好を持った人がそこにいるしね。そのなかで勇者はただ覇権主義とだけ戦ってほしいんだ。
 今読んでいるのは米織さんの『捨てられ聖女の異世界ごはん旅』で、やはりグルメ物はいいね。料理の描写が多いから料理の好きな人向けかな。
 前に「すかすか」の作者の枯野瑛さんが、多種族の共存する世界のイメージはスターウォーズから来ているようなことを言っていたと思った。西洋人も基本的にそういう世界が好きなんだと思うし、こういうのは人類共通なんじゃないかな。
 尽きることない排除なき共同体の夢。ヘテロトピア(混在郷)。
 昔ロックは宗教だと言ってた人がいたが、異世界も宗教なのかもしれない。

 それでは「三味線に」の巻の続き、挙句まで。

 二十五句目。

   鐘木の恋を見習ふてやる
 松坂もこえぬ踊の汗くさき    素行

 伊勢踊りであろう。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 「伊勢参宮信仰に伴って近世初頭に流行した風流踊(ふりゅうおどり)。庶民の伊勢参宮流行の歴史は934年(承平4)の記録までさかのぼるが、1614年(慶長19)に大神宮が野上山に飛び移ったという流言がおこって、にわかに伊勢踊が諸国に流行した。この爆発的流行に翌年には禁令も出された。1635年(寛永12)に尾州徳川家から将軍家光の上覧に供した伊勢踊は、裏紅の小袖(こそで)に、金紗(きんしゃ)入りの緋縮緬(ひぢりめん)の縄帯(なわおび)、晒(さらし)の鉢巻姿の、日の丸を描いた銀地扇を持った集団舞踊で、「これはどこの踊 松坂越えて 伊勢踊」などの歌詞が歌われている。1650年(慶安3)にお陰参りが始まるまでが、伊勢の神を国々に宿次(しゅくつぎ)に送る神送りの踊りとしての伊勢踊の流行期であった。現在は伊豆諸島の新島(にいじま)や愛媛県八幡浜(やわたはま)市などに残存している。[西角井正大]」

とある。
 二十六句目。

   松坂もこえぬ踊の汗くさき
 かほはほこりに宵の間の月    素民

 踊っていると汗臭くなり、顔も埃まみれになる。
 二十七句目。

   かほはほこりに宵の間の月
 盆北に吹直したる浦の波     去来

 盆北は秋風のこと。夕暮れで風向きが海の方から山の方に変わる。
 二十八句目。

   盆北に吹直したる浦の波
 愛宕の坊でちよつと盃      先放

 愛宕山や愛宕神社は全国至る所にあるので、特にどこのということでもないのだろう。涼しい風が吹いたので涼みがてらに一杯飲む。
 二十九句目。

   愛宕の坊でちよつと盃
 虱かと何やらかゆき旅姿     風叩

 昔の夏場の旅に虱はつきものだった。旅体に転じる。
 三十句目。

   虱かと何やらかゆき旅姿
 あたまに隙のとれる若イ衆    素行

 髪型を整えるのに時間がかかるということか。若衆ではなく「若イ衆」だから普通に若者の意味。
 二裏。
 三十一句目。

   あたまに隙のとれる若イ衆
 かんがりと取ひろげたる窓明り  支考

 「かんがり」は「がんがり」のことか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「がんがり」の解説」に、

 「〘副〙 (「と」を伴って用いることもある)
  ① 物の隙間のあるさま、あいているさまを表わす語。
  ※雑俳・すがたなぞ(1703)「口をがんがりがんがり・にくみやった兄に七分の遺言状」
  ② うす明るいさま、また、ほのぼのと空が明るくなるさまを表わす語。
  ※仮名草子・東海道名所記(1659‐61頃)六「夜ははやがんがりと明にけり」
  ③ ものがはっきりみえるさまを表わす語。
  ※俳諧・毛吹草(1638)六「がんがりとはねまでみゆる月夜哉〈一正〉」

とある。
 髪を整える時にはっきり見えるようにと窓を開ける。これも其場也。
 三十二句目。

   かんがりと取ひろげたる窓明り
 まだほつこりとならぬ二月    去来

 「ほっこり」は暖かいということ。二月ではまだなかなか暖かくならない。
 三十三句目。

   まだほつこりとならぬ二月
 西腰はつぼんだ迄に地主の花   卯七

 西腰はよくわからない。植物か。地主(じしゅ)は地主神社で、その土地の守り神。
 三十四句目。

   西腰はつぼんだ迄に地主の花
 かねかり達の春はうかるる    風叩

 カリガネは冬鳥でそろそろ北へ帰って行く頃か。
 三十五句目。

   かねかり達の春はうかるる
 うちつづき治る世こそめでたけれ 素民

 春三句続いて、春は五句まで続けることができるが、ここでは祝言に転じる。
 挙句。

   うちつづき治る世こそめでたけれ
 ことしで丁ど長百になる     先放

 長百はよくわからない。百歳のことか。

2021年6月29日火曜日

 『異世界転生者殺し』というタイトルを聞いた時にすぐに浮かんだのが有象利路さんの『賢勇者シコルスキ・ジーライフの大いなる探求』だった。
 まあ、何でも逆の立場で考えてみようというのはNHKの子供番組でもやっていることで、人間の勇者が魔王を倒すドラクエ的な物語も魔王の側からすれば人間の方が侵略者で、魔王の治める国は実は多種多様な種族の共存する多様性社会なのに対し、人間の国は人間中心主義でレイシズムなのではないか、ということにもなる。
 だから、最近では勇者をパロディーにする物語も多いし、人間による獣人族の虐殺と戦うというのも定番化してきている。「re:ゼロ」だってハーフエルフ差別と戦っているし、異世界物のほとんどは多種族共存の側に立って書かれている。
 『異世界転生者殺し』が間違ったのは、こうした転生者のヒーローをレイシズムを暗示させる側に立たせてしまったからではないか。全部オリジナルキャラなら「賢勇者シコルスキ」といっしょでアリだと思う。
 それにしても『異世界かるてっと』で一人だけハブられたカズマって‥‥。あと『異世界食堂』のアレッタは転生者ではなく魔族。

 それでは「三味線に」の巻の続き。

 十三句目。

   うき世めぐりて跡はしら雲
 孫八に聞けば秩父も息才に    風叩

 孫八は秩父の本間孫八か。横瀬町のホームページの「札所五番語歌堂」のところに、

 「小川山語歌堂(臨済宗)といい、本尊は准胝観音である。本間孫八が慈覚大師作と伝えられる准胝観音を安置するために建立した。また、孫八は詩歌の道を極めようと精進していたが、ある日、旅僧が観音堂を参拝に訪れ、二人で夜を徹して和歌の道を語り合い、明け方近くになって遂に和歌の奥義を体得したという。これにより、語歌堂と名付けたといわれている。」

とある。前句をこの僧のこととしたか。
 十四句目。

   孫八に聞けば秩父も息才に
 とろろ数奇かとおもふ出来相   先放

 出来相(合)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「出来合」の解説」に、

 「① 注文を受けて作るのでなく、すでにできているもの。既製のもの。あつらえに対していう。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ※浄瑠璃・三浦大助紅梅靮(1730)一「誂へなりと出来合なと、いざ召ませい」

とある。よほどとろろが好きなのか、いつでも食べられるように作りだめしてある。
 十五句目。

   とろろ数奇かとおもふ出来相
 惣々が御輿おがみに打明て    主筆

 「惣々」はその場にいるすべて。「打明」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「打明・打開」の解説」に、

 「[1] 〘他カ下一〙 うちあ・く 〘他カ下二〙 (「うち」は接頭語)
  ① 閉じてあるものを開く。あける。
  ※平家(13C前)八「人の倉をうちあけて」
  ② 中のものを出して空にする。容器にはいっているもの、または持っているものを全部出す。
  ※虎明本狂言・煎物(室町末‐近世初)「水をうちあくるまねする」
  ③ 家を留守にして外出する。
  ※浄瑠璃・心中二つ腹帯(1722)三「市の側(かは)から打ちあけて、参る程にける程に」
  ④ 心のうちなどを包み隠さないで話す。隠すところなくすっかり語る。
  ※浮世草子・好色敗毒散(1703)五「打明けたる女の底に俄に隔てを入れらるる事、縁の切れ時か」

 祭りで神輿を見に来た人がみな家を留守にして、みんな作ってあったとろろを食って鍋を空にする。②と③を掛けている。
 十六句目。

   惣々が御輿おがみに打明て
 河原ばたけのあるる麦の葉    素行

 河原の麦畑が御輿が来たので踏み荒らされてしまう。
 十七句目。

   河原ばたけのあるる麦の葉
 鵯も鳩も寝による藪のはな    支考

 河原に籔で、河原者の集落を連想させる。藪の中にも桜の花がさいているが、鵯や葉との塒になっている。「其場也」であろう。「鵯も鳩も寝による」に一工夫ある。
 十八句目。

   鵯も鳩も寝による藪のはな
 春の小雨の座敷鞠ける      去来

 鵯や鳩が塒にいるのを雨のせいとして、雨だから座敷の中で蹴鞠の練習をする。まあ、今でいうリフティングだ。
 蹴鞠は江戸時代前半の一時期、庶民の間でも流行した。ウィキペディアには、

 「江戸時代前半に、中世に盛んだった技芸のいくつかが町人の間で復活したが、蹴鞠もその中に含まれる。公家文化に触れることの多い上方で盛んであり、井原西鶴は『西鶴織留』で町民の蹴鞠熱を揶揄している。」

とある。元禄三年刊之道編の『江鮭子(あめこ)』に、

 椑柿や鞠のかゝりの見ゆる家   珍碩

の句がある。
 二表。
 十九句目。

   春の小雨の座敷鞠ける
 よその子の覗に来たる雛飾り   卯七

 雛飾りを見に来ながらも、結局毬を蹴って遊ぶ。男の子が雛をひっくり返したりする。
 二十句目。

   よその子の覗に来たる雛飾り
 うそ八百に咄す商人       風叩

 雛飾りを売りに来た商人か。子供相手にホラ話をする。
 二十一句目。

   うそ八百に咄す商人
 幸とおぶくいただく昼さがり   素民

 「おぶく」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「御仏供」の解説」に、

 「〘名〙 (「お」は接頭語) 仏前にあげる供物(くもつ)。御仏飯(おぶっぱん)。おぶっく。
  ※虎明本狂言・福の神(室町末‐近世初)「われらがやうなる福殿に、いかにもおぶくを結構して」

とある。供え物のご飯をちょうど下げる所に商人がやってきたか。
 二十二句目。

   幸とおぶくいただく昼さがり
 榎の木に陰る門のほし物     支考

 榎の影になったので門の辺りに干した洗濯物を移動させようとすると、偶然にも「おぶく」をいただく。これも其場也。
 二十三句目。

   榎の木に陰る門のほし物
 おか様はいなせてかのに嶋ざらし 先放

 「おか様」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「おか様」の解説」に、

 「〘名〙 (「おかさま」の変化した語)
  ① 「おかさま(━様)」のややくだけた言い方。また、江戸吉原などで茶屋や揚屋などの女主人を敬って呼ぶ語。
  ※雑俳・軽口頓作(1709)「たりませぬ・おかさん起てにぎらしゃれ」
  ② 「おかあさん(御母様)」の変化した語。
  ※わらべうた・ずいずいずっころばし(1890頃か)「お父(と)さんが呼んでも お母(カ)さんが呼んでも 行きっこなァしよ」

とある。
 「嶋ざらし」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「縞晒・島晒」の解説」に、

 「〘名〙 縞のあるさらし布。また、島でさらして製した布ともいう。
  ※俳諧・懐子(1660)三「えりうらはほのぼのとあかし嶋さらし〈重頼〉」

とある。手下(てか)のための衣か。
 二十四句目。

   おか様はいなせてかのに嶋ざらし
 鐘木の恋を見習ふてやる     卯七

 鐘木は「しゅもく」。鐘木の恋は不明。何か出典があるのか。

2021年6月28日月曜日

 ツールドフランスの事故のyoutube動画を見たが、日本では考えられないね。コロナ下であんなに密になっているし、それにあんな狭い道で観客との距離が近すぎて、間にガードマンがいないし。日本じゃ小犬が飛び出しただけでニュースになるのに。
 前回のリオデジャネイロオリンピックでもトップクラスの選手のオリンピック辞退があいついだ。表向きはジカ熱と治安への懸念だが、実際は過密スケジュールの中で金にならないオリンピックに出たくないというのが本音だとも言う。
 この事情はゴルフでも同じだとも言う。野球でも大リーガーは出ないし、日本でも罰ゲームだなんて声も聞こえてくる。
 まあ、勝てばヒーローだけど、負ければぼろ糞叩かれそうだし、罰ゲームというのもわからないでもない。興行的に成功しているプロスポーツは大体そんなもんなんだろうな。
 そんな中で出てくれる人は本当にありがたい。
 オリンピックを本当に必要としているのは、興行的に成功してないマイナースポーツで、こうしたスポーツのためにオリンピックがあると言ってもいい。野球・サッカー・テニス・ゴルフのようなメジャースポーツは削っても良いと思うが、客寄せに残した方が良いかもしれない。
 アニメの「灼熱カバディ」は面白かったけど、オリンピック種目になったら見てみたい。
 ラノベの方は「ひきこまり吸血姫の悶々」を五巻まで読み終わり、特に四巻は風刺が利いてていろいろ勇気をもらった。やはり言うべきことはばしっと言わないとね。
 あとアニメの方では「ゾンビランドサガ リベンジ」の最終回を見た。どうしてオリパラをああいうふうにできなかったのか、本当に残念だ。
 元はといえば復興五輪だったじゃないか。逆境に立ち向かうための五輪だったじゃないか。コロナ禍で世界中の傷ついた心に勇気を与える場に何でできなかったんだ。バラバラになった世界をもう一づ繋ぎ合わせるイベントに何でできなかったんだ。
 ただ、コロナ禍をチャンスとばかりに世界をひっくり返そうという奴らと、リスクを取りたがらない官僚や政治家によってボロボロにされてしまった。
 これは勝利の記念なんかではない。これからもコロナと戦い続け、最後には勝利するために、そのために心を一つにする本当の意味での「復興五輪」に何でできなかったんだ。
 いっそのこと次のオリンピックからスポーツ振興のためのチャリティーイベントにできないだろうか。スポンサーに依存するのではなく、みんなで金を出し合って行うオリンピックにできれば、ライブ・エイドのように盛り上がるのではないか。

 さて、「西華集」で長崎に来たところで、去来・卯七編『渡鳥集』にある素行亭興行の歌仙を読んでみようと思う。

 発句。

   素行亭興行
 三味線に秋まだ若し凉み舟    支考

 長崎の素行亭での興行。元禄十一年の支考の『梟日記』の旅で長崎に来た時、たまたま去来も先祖の墓が長崎にあるということでお盆に帰省していた。その時の興行になる。
 『梟日記』によれば、長崎の卯七の十里亭に着いたのが旧暦七月九日で、翌十日には素行にいざなわれて清水寺に詣で、丸山花街の遊女よりも禿の少女の方に心を留め、禿賦を記している。
 去来が長崎に着いたのは翌十一日で、十七日まで支考と去来という芭蕉の高弟二人が長崎にいたことになる。
 この興行もその間に行われたものと思われる。
 三味線に涼み舟を詠んでいるところから、清水寺に行き丸山花街を通った時の記憶のまだそう遠くないうちであろう。秋もまだ始まったばかりで残暑の厳しい中、川には納涼船が浮かび、どこからともなく三味線の音が聞こえてくる。
 脇。

   三味線に秋まだ若し凉み舟
 西瓜西瓜の橋の夕月       素行

 舟に乗っている人は皆西瓜を食っていて、夕月のかかる橋をくぐっていく。
 第三。

   西瓜西瓜の橋の夕月
 よい宿をさがせば庭に萩咲て   卯七

 発句の水辺の景色から陸を行く旅人に転じる。宿場町を良い宿を探して歩いていけば、萩の咲く庭があり、橋のたもとでは夕月を見ながら西瓜を食べている人がたくさんいる。
 四句目。

   よい宿をさがせば庭に萩咲て
 むすこの将棋肝のつぶるる    去来

 宿の縁側で庭の萩を見ながら息子と将棋を指す。萩に見とれていたら息子の思いもしない一手にはっとする。
 五句目。

   むすこの将棋肝のつぶるる
 昼食はこちで喰ふたる呼使    素行

 揚屋の情景であろう。遊女の方から呼び出しに来る呼使(よびづかひ)も、いまは将棋をして待っている客と一緒に飯を食っている。
 六句目。

   昼食はこちで喰ふたる呼使
 雨があがればちと用もあり    風叩

 昼食をこちらで食べていた呼使も、雨が上がれば「ちと用が」と言って出て行く。何の用かというと、いわゆる「やぼ用」か。

初裏
 七句目。

   雨があがればちと用もあり
 肥後米は石で八十三匁      先放

 肥後の米相場は全国の米相場を占う指標とされていたようだ。元禄七年閏五月の「牛流す」の巻三十四句目に、

   吸物で座敷の客を立せたる
 肥後の相場を又聞てこい     芭蕉

の句がある。
 ウィキペディアの「米価」のところの「『日本史小百科「貨幣」』『近世後期における物価の動態』を基に作成した銀建による米価の変遷」によると、延宝の頃の米価は一石五十から八十匁だったが、元禄に入ってから米相場は高騰し、百匁を越えるようになったので、おそらくそれで許六の十団子も小粒になったのだろう。それからすると「八十三匁」は安い。
 ここでは米が安いので買い付けに行くということか。
 八句目。

   肥後米は石で八十三匁
 夕べの坊は面白イぼん      支考

 肥後の坊に泊まれば盆の上の料理も面白い。名物の水前寺海苔であろう。支考流の付け筋としては「時節也」であろう。
 『梟日記』の旅では熊本から八代、佐敷へ行き、そこから船で長崎入りしている。
 九句目。

   夕べの坊は面白イぼん
 俳諧で隠居の疝気さたもなし   素行

 俳諧興行の始まる前の夕食とする。俳諧と聞くと御隠居さんの疝気も止む。疝気はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「疝気」の解説」に、

 「〘名〙 漢方で疝は痛の意で、主として下腹痛をいう。疝病。疝気病。あたばら。せん。
  ※大山寺本曾我物語(南北朝頃)一「居易がせんき思ひ出でられたり」
  ※浄瑠璃・鑓の権三重帷子(1717)上「此方は腰をお引きなさるるが疝気でも起ったか」 〔史記‐倉公伝〕
  [補注]下腹部一帯の痛みを広く指すため、諸症状に適用され、俗間で男性特有の陰嚢・睾丸の病とされた。患部が特定できないため「疝気の虫」のせいにされたりもした。」

とある。
 十句目。

   俳諧で隠居の疝気さたもなし
 柿にブドウに秋は来にけり    卯七

 柿や葡萄は腹を冷やしそうだが、俳諧が薬になるから大丈夫。
 十一句目。

   柿にブドウに秋は来にけり
 みわたせば月は宝輪嵯峨の寺   去来

 柿と言えば落柿舎で嵯峨野。嵐山に智福山宝輪寺がある。渡月橋の向こう側にあり、虚空蔵宝輪寺とも言い、芭蕉の『嵯峨日記』の四月十九日の所に、

 「大井川前に流て、嵐山右ニ高く、松の尾里につづけり。虚空蔵に詣ル人往かひ多し。」

とある。
 十二句目。

   みわたせば月は宝輪嵯峨の寺
 うき世めぐりて跡はしら雲    素民

 嵯峨野宝輪寺を尋ねる水雲の僧として旅体に転じる。

2021年6月27日日曜日

 テレビでピーターラビットの映画をやってたようだが見なかった。日本ではあまり評判が良くないようで、これも文化的な背景の違いなんだろうな。
 西洋だとマイノリティーが暴力的な手段で相手の弱点を突くような形で反乱を起こすのは、「あるある」まではいかなくても「さもありなん」なのだろう。
 アニメの「日本沈没」もヨーロッパで賞を取ったようだが、日本ではシュールすぎて笑えるとまで言われていた。確かに権力に空白ができて無法状態になれば麻薬のコロニーができるということは、欧米人の感覚では「さもありなん」なんだろう。ただ、そこまでドラッグカルチャーが浸透してない我々から見ると、「どこの国の話だよ」になる。
 是枝監督の『万引き家族』も、欧米人の感覚では「さもありなん」なんだろうな。『パラサイト』もどっちかというと「あれが韓国人だ」みたいな見方をされていた。
 西洋の「さもありなん」が日本では通用しない。これは喜ぶべきことなのか悲しむべきことなのか。「アーヤと魔女」も一回日本で放送されたらしいが、多分これもグローバルスタンダードを狙いすぎたんだろうな。

 今回はちょっと「西華集」の方は一休みして、支考の「葛の松原」の前半部分の、支考俳論の原点を探ってみようと思う。

  葛の松原
       野盤子支考述
       潜淵庵不玉撰
「〇冬の雪の寒からむ事をしれる人もあらかじめ水無月のきぬを重むとにあらねど網にかかる鳥のたかく飛ざるをうらみ鉤をふくむ魚のうゑをしのびざる事をかなしむ。そのまどひふかくおもはざるの源ちかし世の風雅に志をよする人も万分が一もなかるべからず。是故に支考が随聞をしるして東の人の記念にはつたへ侍る。」

 冬になって雪が降れば寒いということは誰でも知っているが、だからと言って水無月から厚着をするわけではない。とはいえ、網にかかった鳥はもっと高く飛べばよかったと思うし、釣り針に食いついた魚は空腹を我慢できなかったのを公開する。
 風雅の道を志す人も、無駄な備えは必要ないが、後で後悔することのないように、ここに俳諧の心得を記すことにする、という前置きであろう。


「〇芭蕉庵の叟一日嗒焉トシてうれふ。曰ク風雅の世に行はれたるたとへば片雲の風に臨めるがごとし。一回は皂狗となりて一回は白衣となつて共にとどまれる處をしらず。かならず中間の一理あるべしとて春を武江の北に閉給へば雨静にして鳩の聲ふかく風やはらかにして花の落る事おそし。弥生も名残おしき比にやありけむ。蛙の水に落る音しばしばならねば言外の風情この筋にうかびて蛙飛こむ水の音といへる七五は得給へりけり。晋子が傍に侍りて山吹といふ五文字をかふむらしめむかとをよづけ侍るに唯古池とはさだまりぬ。しばらく之ヲ論ルニ山吹といふ五文字ハ風流にしてはなやかなれど古池といふ五文字は質素にして實也。實は古今の貫道なればならじ。されど華實のふたつはその時にのぞめる物ならじ。柿本人丸のひとりかもねむと読る歌ハかばかりにてやみなむもつたなし。定家の卿もこの筋にあそび給ふとは聞侍しや。しかるを山吹のうれしき五文字を捨てて唯古池となし給へる心こそあさからね。頓阿法師は風月の情に過たりとて兼好浄弁のいさめ給へるとかや。誠に殊勝の友なり。」

 嗒焉は嗒然と同じで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「嗒然」の解説」に、

 「〘形動タリ〙 思いを忘れるさま。われを忘れてうっとりとするさま。嗒焉(とうえん)。
  ※艸山集(1674)一七・山居「相遇相忘寂寞浜、嗒然無レ主亦無レ賓」

とある。
 この話は天和二年の春で、芭蕉庵は第一次芭蕉庵であろう。
 延宝八年の冬、芭蕉は深川に隠棲し、翌延宝九年の春に李下から芭蕉一株を贈られる。
 七月には其角、揚水、才丸と二百五十韻興行を行い、『俳諧次韻』を刊行して蕉風の確立を世に知らしめることになる。
 さらにこの秋に、

   茅舎ノ感
 芭蕉野分して盥に雨を聞く夜哉  芭蕉

の句を詠み、翌天和二年三月に刊行された千春編『武蔵曲』で芭蕉翁桃青と表記され、芭蕉翁の名を広めることになる。
 天和二年の春は、その意味で宗房でも桃青でもなく「芭蕉」という名前生まれた瞬間でもある。そして三十九歳の芭蕉は既に「翁」と呼ばれるようになっていた。支考の文にも「芭蕉庵の叟」とある。叟も「おきな」と読む。
 隠棲し世俗の仕事から解放され、ゆとりもできた。そこに『俳諧次韻』の成功、そして千春編の『武蔵曲』でも、俳諧での自らの地位を不動のものとした。こうした充足感こそが「嗒焉」と呼ぶにふさわしいものだったのだろう。
 談林の流行によって、俳諧は単なる連歌入門のための補助的なものではなく、庶民の生き生きとした生活を表現する独立したジャンルにのし上がっていった。ただ、その熱狂も既に陰りが見られるようになってきた。
 寺社での聴衆を集めての百韻興行というスタイルそのものに、大衆を引き付ける力がなくなってきた。それはおそらく歌舞伎や人形芝居などの新しい舞台芸術の勃興によるものだろう。これに対し俳諧を書物で読む面白さをアピールしたのが『俳諧次韻』だった。そこにはこれまでの俳書にない様々なテキストの遊びが盛り込まれていた。
 そして芭蕉は常にその次を見据えていた。一つの成功体験を終生引きずるようなことは、芭蕉に限っては全くなかったといえよう。
 俳諧の将来を思うとそれは「片雲の風」のように思えた。この言葉は後の一所不住の旅に出ることを暗示させる。まあ、支考がこれを書いたときは既に結果を知っていたわけだが。
 「一回は皂狗となりて一回は白衣」の「皂狗」は字義の通りだと黒い犬だが、何を意味するかはよくわからない。「白衣」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「白衣」の解説」に、

 「〘名〙 (「びゃく」「え」は、それぞれ「白」「衣」の呉音)
  ① 白い色の衣服。はくい。はくえ。
  ※日本往生極楽記(983‐987頃)春素「其使禅僧一人。童子一人。共着二白衣一」
  ② 白小袖に指貫(さしぬき)または袴などだけを着て、直衣、素襖(すおう)、直垂(ひたたれ)、肩衣(かたぎぬ)などの上着を着けない下着姿。
  ※源平盛衰記(14C前)一三「大口許に白衣(ビャクエ)にて、長押に尻懸」
  ③ 法師が墨染の衣を着なかったり、武士が袴を着けずにいたりするなど非礼な服装。転じて、無礼・非礼をいう俗語。
 ※発心集(1216頃か)一「白衣(ビャクヱ)にてあしださしはきをりけるままに、衣なんどだにきず」
  ④ (インドでは俗人は多く白の衣を着ていたところから) 仏語。俗人のこと。僧侶が黒衣(墨染の衣)を着けるのに対していう。はくえ。
  ※法華義疏(7C前)四「能忍二白衣諸難一」 〔維摩経‐上〕」

とある。ここでは単に黒衣の僧にもなろうとしたこともあったが、全くの俗人になろうとしたこともあった、という意味かもしれない。
 そして結局僧にも俗にもなれず、というところだろう。これは『猿蓑』所収の「幻住庵記」の、

 「ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは佛籬祖室の扉に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ」

から取ったのだと思う。支考のみならず、門人は皆周知のことだ。
 このどちらでもない生き方を模索していた時、「春を武江の北に閉給へば雨静にして鳩の聲ふかく風やはらかにして花の落る音しばしばならねば言外の風情この筋にうかびて蛙飛こむ水の音といへる七五は得給へりけり。」ということになった。
 後に近代の正岡子規はこの文脈を貞門の駄洒落、談林の滑稽を離れる道を探したというふうに読み替えているが、これはあくまで子規の解釈にすぎない。強いて言えば俳諧の笑いや泪の軟弱さを捨て、西洋流の戦うための文学を作ろうとしていた子規自身の問題意識を、芭蕉に仮託したと言っていいだろう。
 支考はあくまでここは聖と俗との間を取り持つ俳諧という文脈で語っている。
 「蛙飛こむ水の音」の七五を得て、上五が座らない。そこで晋子(其角)が「山吹や」の五文字を冠す。
 ここで重要なのは、この『葛の松原』が芭蕉の存命中の元禄五年に刊行されたということだ。つまり芭蕉がこれを読んでなかったはずはなかろう。
 そして元禄七年には支考は伊賀から大阪での終焉まで、ずっと芭蕉の旅に寄り添い、最後は介護までして芭蕉に寄り添っている。もしここに書かれていたことが嘘だったら、当然芭蕉本人から咎められることになっていただろう。だが、そのようなこともなかった。
 おそらく天和の頃に既に下七五があって、其角が「山吹や」の案を示したことは、当時の門人の間である程度共有されてた事実ではなかったかと思う。
 たとえば「八九間空で雨降る柳かな 芭蕉」の句が、実は奈良の東大寺の近くのあの柳を詠んだということを去来も支考も知っていたことが、支考の『梟日記』に記されているように、芭蕉が門人に語って聞かせた裏話の一つだったのではないかと思う。
 支考はこの聖と俗の問題を聖の実と俗の花という二元論に持っていって、山吹は花やかだが俗で、古池は質素だが実にして聖ということになる。ここではまだ虚実の論は現れてない。
 柿本人麻呂の、

 あしびきの山鳥の尾のしだり尾の
     ながながし夜をひとりかも寝む
             柿本人麻呂(拾遺集)

の歌だが、これは『万葉集』巻十一(二八〇二)の、

 足日木乃山鳥之尾乃四垂尾乃長永夜乎一鴨将宿

の歌を元にしている。「あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも」まではほぼそのまま読める。最後の「将宿」も残り二文字という意味では「ねむ」と読むのが順当な所だろう。
 「ひとりかもねむ」は「ひとりねむかも」の倒置になる。「かも」は「けやも」で今日の名古屋弁の「きゃーも」にその名残をとどめている。「哉」や関西弁の「がな」と一緒で治定の詞だ。
 この歌が藤原定家の『小倉百人一首』に選ばれたということでも、定家がいかにこの歌を高く評価していたかが分かる。花には乏しいが最後の「ひとりかも寝む」に実が具わっている。
 しかし一方で、定家はこの歌を本歌として、

 ひとりぬる山鳥の尾のしだり尾に
     霜置きまよふ床の月影
             藤原定家(新古今集)

の歌を詠んでいる。上五七五を実として「霜置きまよふ床の月影」の花に遊んでいる。
 これが其角の「山吹や」の上五に通じるということなのだろう。
 兼好法師というと『徒然草』第137段の「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは」の段は有名だが、恋に関しても、

 「逢はで止みにし憂さを思ひ、あだなる契りをかこち、長き夜を独り明し、遠き雲井を思ひやり、浅茅が宿に昔を偲ぶこそ、色好むとは言はめ。」

とある。まあ、今でもむしろ失恋ソングこそがラブソングの王道だが。
 「頓阿法師は風月の情に過たりとて兼好浄辨のいさめ給へる」というのは、どこかに出典があるのか。頓阿、兼好、浄辨、慶運は和歌四天王と呼ばれていた。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「和歌四天王」の解説」に、

 「各時代、各門派の和歌に優れた4人を称するが、和歌史では、鎌倉末期から南北朝時代の歌壇で活躍した二条為世(ためよ)門の4人の法体歌人をさすのが普通。『今川了俊(りょうしゅん)歌学書』によると、浄弁(じょうべん)、頓阿(とんあ)、兼好、能与(のうよ)をあげているが、『正徹(しょうてつ)物語』では早く世を去った能与にかわり、浄弁の子慶運(きょううん)が入る。彼らは為世、為定らの率る二条派歌壇に重きをなした。後世、各人の秀歌により「沢田の頓阿」「芦の葉の浄弁」「手枕(たまくら)の兼好」「裾野(すその)の慶運」とよばれた。また、江戸時代では澄月(ちょうげつ)、慈延(じえん)、小沢蘆庵(ろあん)、伴蒿蹊(ばんこうけい)を和歌四天王と称する。[稲田利徳]」

とある。
 花を見ても散るのを悲しみ、あるいは荒れた家にあだに咲くのを惜しむのは風流の王道だし、月も涙に曇るのは人の心だ。月花の外見の美しさに留まらず、その本意本情はあくまで人の心にある。それが風雅の誠というものだ。
 支考が「山吹」に花を見、「古池」に実を見たのも、大事なのはその心だというところにあった。ここに後に『続五論』や『俳諧十論』で展開される支考の俳論の原点があったのだろう。


「〇そもそも風雅はなにの為にするといふ事ぞや。孔子の三百篇ハ草木鳥獣のいぶかしき物をしらじ。倭には三十一字をつらねて上下の情にいたらしむ。その詩歌にもらしぬる草木鳥獣の名をさして高下を形容せむものハいまの風雅これなるべし。しかるに俳諧といふ文字ハ史には不根の持論といへりければ、諧ノ言ハ吾しらじ。この比その名をあらためむ事を阿叟に申侍れバ古今集ハ已に俳諧の名を立たり。いまの者これをせむ事よからず。是故に韓子が昼寝も魯論ハけづらず。華厳の丈瑠璃もその奥にしるしたり。俳諧ハ世の変相にして風雅は志の行ところなりと吾がともがら是なからむや。」

 孔子の三百篇は言わずと知れた『詩経』のことで、全305篇から成る。ウィキペディアには、

 「『史記』孔子世家には、もともと三千以上存在した詩から、孔子が善きものを選び取って現行の三百五篇に編纂したとする説があり、これを「孔子刪定説」と呼ぶ。」

とある。かつては多くの人に信じられていた。
 その『詩経』の影響を受けて日本でも三十一文字の和歌を集めた『古今和歌集』が編纂された。この古典の風雅から漏れた草木鳥獣を題材として、今の風雅が成り立っている。この辺りで支考がそれほど人事の新味というものに注意を払ってなかったのではないかと思う。江戸時代特有の社会の変化、新しい風俗、それもまた俳諧の新味の重要な要素だったはずだ。
 風雅は『詩経』も『古今和歌集』も等しいのであれば、何で俳諧の「諧」の文字があるのかということになる。『史記』には滑稽列伝はあるが、そこに俳諧の文字はないから、「諧の言は吾しらじ」なのだろう。芭蕉に聞くと『古今和歌集』に既に「俳諧歌」があるという。
 「俳諧は世の變相にして風雅は志の行ところなり」は『詩経』大序の、

 「詩者志之所之也。在心為志、發言為詩。」((詩は志すところのものである。心にあるにを志しといい、言葉にして発すれば詩になる。」
 「至于王道衰、礼儀廃、政教失、国異政、家殊俗、而変風変雅作矣。」(周の王道が衰え、礼儀が廃れ、政教も失われ、国ごとに異なる政治が行なわれ、家ごとに風俗が異なるようになって、変風変雅の作が生じた。)

を踏まえたものだろう。
 「韓子が昼寝」はよくわからない。『韓非子』に「昔者、韓昭侯、酔而寝。」というのがあるが、法の厳格な適用を説いたもので、俳諧に関係があるとは思えない。『論語』の「宰予昼寝す」は昼寝してひどく怒られた話だが、関連がよくわからない。
 「華厳の丈瑠璃」は西方浄土に対し東方にあるものを「東方浄瑠璃浄土」といい、「浄瑠璃世界」と呼ばれていることと関係があるのだろうか。
 支考の俳諧の基本にあったのは『詩経』大序の、

 「上以風化下、下以風刺上、主文而譎諫。言之者無罪、聞之者足以戒。故曰風。(為政者は詩でもって民衆を風化し、民衆は詩でもって為政者を風刺する。あくまで文によって遠回しに諌める。これを言うものには罪はなく、これを聞くものを戒めることもない。それゆえ風という。)
 「至于王道衰、礼儀廃、政教失、国異政、家殊俗、而変風変雅作矣。(周の王道が衰え、礼儀が廃れ、政教も失われ、国ごとに異なる政治が行なわれ、家ごとに風俗が異なるようになって、変風変雅の作が生じた。)

の風刺の精神があったのは確かだろう。これが今後の支考俳論の形成によって花実とどう結びついてゆくのかというと、王道の誠が変風変雅の中で、詩経・古今集の古い体を不易とし、これに流行を対比し、不易の実、流行の花という形で分けて行くことになるのだろう。


「〇いにしへの俳諧ハ如来禅のごとくその理一貫して線のごとし。いまの風雅は祖師禅のごとく捺(ナツ)着すれば即轉ズ。かならずしも理智にかかはらねば寸心かけづといへるたぐひなるべし。」

 この言葉は『去来抄』に、

 「支考曰、昔の俳諧は如来禅の如し。今の俳諧は祖師禅の如し。捺着すれば則転ず。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.66)

と、「支考曰」として転載されているから、芭蕉が言ったのではなく支考の考えであろう。
 如来禅はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「如来禅」の解説」に、

 「〘名〙 仏語。如来の教えに従い、自心は本来清浄であることを悟る禅法。もとは楞伽経(りょうがきょう)に説くが、祖師禅が起こってからは、それよりも低次のものとされた。
  ※元亨釈書(1322)一六「我有二心法一。曰二如来禅一」

とあり、祖師禅はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「祖師禅」の解説」に、

 「〘名〙 祖師達磨によって伝えられた禅。経典等の教義によらないで、以心伝心で悟るもの。如来禅。
  ※大燈国師語録(1426)上「進云。如来禅与二祖師禅一。相去多少」
  ※俳諧・去来抄(1702‐04)修行「今の俳諧は祖師禅の如し」

とある。漸悟説と頓悟説にも似ている。きちんと勉強して修行も積んだうえで悟るか、何もせずに突然ひらめいて悟るかのちがいで、儒教でも朱子学は格物窮理によって誠に至り、陽明学は何もしなくても誠に至るとする。
 科学と精神論の差で、日本では結構精神論の好きな人が多く、支考の俳論にはまる人は精神論の好きな人なのかもしれない。
 悟りというのは、西洋哲学的に言えば、現象学的なエポケー(判断中止)によるもので、これによって、既存の発想から自由になり、じかに現象を直観することによって真理に至ろうという方法ではあるが、ただ、その真理は実は自由であることそのもののうちにしかない。マルチン・ハイデッガーは「真理の本質は自由である。」と言う。
 神秘主義というのは、この空白に付け込んで、実証性のないドグマを信じ込ませるところに生じるもので、せっかく日常の様々な先入見から開放されたものの、すぐに他のもっと有害な先入見で覆ってしまうのである。悟りというのは、ただ沈黙である限りにおいて悟りであり、いつでもそのつど自由であるということ以上の意味はない。この沈黙をジャック・デリダは太陽に向かって飛び立ったイカロスに喩えた。
 自由を見出すには、日常の先入見を排除すべく、必要な修行をしなくてはならない。禅はあくまでその一つにすぎない。
 俳諧もまた基本的には俳諧の自由が重要であり、前句の意味や情に捉われずに、絶えず発想の転換が要求される。
 古い俳諧は連歌の時代から研究されてきた上句と下句を整合させるための「てには」の使い方や、物付け、心付け、違え付け、相対付けなどの付け筋が様々に研究されてきた。
 それに対し、芭蕉が『奥の細道』を終え、伊賀に帰省したあたりから、従来になかった「匂い付け」を試みるようになった。こうした新しい付け筋を模索していた頃に支考も芭蕉に入門し、多分過去の付け筋に囚われずに自由に付けるように指導されたのであろう。
 こうした新しい付け筋を芭蕉と一緒に作って行くことになった支考は従来の付け筋を「如来禅」に例え、匂い付けを「祖師禅」に喩えたのであろう。
 「捺(ナツ)着すれば即轉ズ」は仏道ではなく書の言葉で、止めるべきところは止めてからしっかりとはねるという呼吸をいう。この呼吸は俳諧でも重要だという意味。
 ただ、芭蕉は貞門や談林の時代の技術を一通り身に着けた上で軽みを提唱したが、支考の世代はその過程を経ていない。ここに支考の限界があったのかもしれない。芭蕉自身も古い技法の蓄積のない人たちにいきなり初期衝動だけで句を作るように指導したことも、結果的には無謀だったのかもしれない。
 結局支考の俳諧は、古い付け筋も後期蕉門の匂い付けも引き継げずに、其場、其人、時節、天相、曲といった付け筋に単純化されていった。自由と言われてもどうしていいかわからず、結局自らルールを作って行くしかなかったのだろう。

 余談だが、カール・ポパーは帰納法の限界を指摘し、クルト・ゲーデルは絶対無矛盾の体系の不可能を証明した。それに加えてハイデッガーは現象学的な真理が「自由」であり、何ら命題に至らないことを示したことで、二十世紀の中ごろに絶対的な哲学的真理が不可能だということで、いわゆる「哲学の終わり」となった。
 我々にあるのは科学という仮説検証の繰り返しによる真理の近似値だけで、絶対的な真理はない。哲学の終わりの時代を生きている。

2021年6月26日土曜日

 日本の左翼の間でオリンピックそのものに反対する人がなぜ多いかというと、戦前の体育教育が軍事教練と結びついていたからだ。戦後になっても長いことスポーツ=軍隊というイメージが払しょくできなかった。そのため一九六四年のオリンピックの時にも、「オリンピックは本来各ポリスがこれだけ強い兵隊がいるんだぞという軍事デモストレーションの場だった」などとしたり顔でいう知識人がたくさんいた。(プラトンやアリストパネスの著作を読む限りでは、オリンピックは若者を軟弱にすると言われてたようだが。)
 まあ、野球にその名残が一番残っているね。ジャイアンツは正しくは読売巨人軍だし、高校野球はいまだに兵隊頭でやっているし、旭日旗を四分の一にしたような旗を振って応援している。
 そういうわけで今回のオリンピックを誘致した段階でも、安倍が戦争を起こそうとしているというデマを流すとともに、オリンピックもその侵略戦争のための準備だということにされていった。韓国では結構これが信じられていたりする。
 そのため、結局今回の都議会選でも左翼はオリンピック阻止を頑なに掲げることとなった。それを都民がどう評価するか。
 安倍さんの時代は良かったが今のガースーは根っからの下僕体質で自分の意思がなくて、主流派と反主流派の間でふらふらしている。党内でも石破だけでなく岸田までがマス護美に媚びだしたから、案外自民党の内紛でムー編集長の予言は当たるかもしれないが。

 それでは「西華集」の続き。

肥前
   長崎
 秋たつや朔日汐の星ししみ    卯七
   はらりとしたる松に早稲の香 素行
 姥捨の哥には誰も袖ぬれて    支考
   白髪ばかりの庵の酒盛    雲鈴
 見違る隣の亀か嫁入前      一介
   櫻の花で持った開帳     野青
 鶯の日和になりて味をやる    楓里
   米斗出す庭の春風      千流

 第一 不易の眞也何に初秋のさやかにはあらねど星しし
    みの冷々として明ぼのの海原見やりたる風情也
 第二 其場也片岨の田へりにはらはら松の早稲の香にぞ
    よき合たるたしかに初秋のけしきをさだめたり
 第三 曲也朔日の汐には月を得がたく星しらみの打越又
    さら也さればとて春秋無念なれば姥捨の哥に月を
    籠たる句法也前句の山田を更科の田毎と見なした
    る此時の一興也いづこにも月をぬくべきとてかく
    いひたらんは前句のうつろひ詮なかるべし

 発句は、

 秋たつや朔日汐の星ししみ    卯七

だが、「星ししみ」は意味不明。googleブックスの老鼠堂永機・其角堂機一校訂『支考全集』(東京博文館蔵版、明治三十一年)には「星しゝみ」とあるが「星しらミ」か。「ゝ」と「ら」の草書体は似ている。
 月のない朔日の明け方、星空の白んでくるその光がどこか冷え冷えとして見えることで秋を感じるというなら、「不易の眞」といえよう。
 卯七は『続猿蓑』に、

 京入や鳥羽の田植の帰る中    卯七

の句がある。また、元禄十年刊許六・李由編『韻塞』には、

 爪紅の濡色動く清水哉      卯七

の句がある。

 脇。

   秋たつや朔日汐の星ししみ
 はらりとしたる松に早稲の香   素行

 明け方の海の景色に松と海に近い田んぼの早稲の香を付ける。「其場也」になる。
 素行は宝永元年刊去来・卯七編の『渡鳥集』に、

 秋風や浪をしのぎて雲に鳥    素行
 きりぎりす鳴き落したる日景かな 同

などの句がある。

 第三。

   はらりとしたる松に早稲の香
 姥捨の哥には誰も袖ぬれて    支考

 秋の三句目だが打越(発句)に「星」という天象があるので月は出せない。そのため「姨捨」を出して月を匂わす。

 四句目。

   姥捨の哥には誰も袖ぬれて
 白髪ばかりの庵の酒盛      雲鈴

 姨捨の歌に涙するのは年寄りばかりだった。

 五句目。

   白髪ばかりの庵の酒盛
 見違る隣の龜か嫁入前      一介

 龜は唐突だが竈の間違いか。嫁が来るので竈を直して見違えるようだというならわかる。
 一介は『西華集』に、

 鉢巻のあやめにたつや女武者   一介
 唐門や松葉こぼれて夕涼み    同

などの句がある。

 六句目。

   見違る隣の龜か嫁入前
 櫻の花で持った開帳       野青

 秘仏の開帳で桜の咲くお寺に着て、隣はとなる。
 野青は『西華集』に、

 我影をふまぬ合点に田植哉    野青

の句がある。

 七句目。

   櫻の花で持った開帳
 鶯の日和になりて味をやる    楓里

 「味をやる」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「味をやる」の解説」に、

 「① うまい事をする。うまくとりさばく。
  ※浮世草子・浮世親仁形気(1720)三「ずいぶんあぢをやって親の名まであげてくれよ」
  ② 気のきいた事をする。なまいきな事をする。
  ※評判記・満散利久佐(1656)大夫「座敷つき、あいさつ者にて、あぢをやりたがる」

とある。今日では「味なことをやる」という。前句の開帳のことをいう。
 楓里は『西華集』に、

 食時や馬草の中のきりぎりす   楓里

の句がある。

 八句目。

   鶯の日和になりて味をやる
 米斗出す庭の春風        千流

 味なことをやったのでご祝儀か。
 千流は『西華集』に、

 かまきりの水にたき込稲葉哉   千流
 一所帯雪降り埋む庵かな     同

の句がある。

   仝
 燈籠や此松はよき釣所      鞍風
   野つらの月に虫は鳴ぬか   逸雲
 清酒の門も杉葉の秋は来て    支考
   そこらの者の味噌つきによる 望郷
 昼過はとろりと曇る天気相    盤谷
   又手をかへてあそぶ兀山   北溟
 鐘つきの鐘楼にのぼる鎰の音   雲鈴
   洗あけたる膳の清ふき    六出

 第一 不易の眞也是は盆の燈籠と見るべしその夜あるじ
    のはたらかれたる庭前の気色也
 第二 其場也此住ゐ淋しげに垣のあなたは野山につづき
    て虫の声々もをのづからならんとおしはかりた
    る当座也
 第三 其場の一轉にして時節也ただ野中の出見世と見る
    べし
               一休和尚
   極楽をいづこのほどとおもひしに
        杉葉たてたる又六が門

 発句は、

 燈籠や此松はよき釣所      鞍風

で盆灯籠をつるのに良い松がある。一般的には灯籠は庭に設置する。支考の故郷の方では切子灯籠や折掛け灯籠を用いる。
 長崎では『梟日記』の七月十五日の所に、

 「今宵は法性院の欄干に月を賞す。この流にさしむかへる山は、この地の墓所とかや。松の木の間にかけわたしたる燈籠百千の數をしらず。」

とある。翌日は精霊流しでこうした燈籠が川を流れ、

 「十六日
 今宵又なにがし鞍風にいざなはれて、いざよひのかげに小船を浮たれば、かの數千の燈籠、そのひかり水面につらなる。」

となる。
 鞍風は元禄七年刊泥足編の『其便』に、

 無造作に小僧ねてゐる暑サ哉   鞍風
 何魚の餌食とならん磯ざくら   同

の句がある。

 脇。

   燈籠や此松はよき釣所
 野つらの月に虫は鳴ぬか     逸雲

 「野つら」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「野面」の解説」に、

 「① 野原の表面。野原。
  ※合巻・正本製(1815‐31)初「のづらに育つやぶの梅」
  ② 切り出したままで加工してない自然の石のはだ。また、自然のままの石。野面石。
  ※浄瑠璃・曾我虎が磨(1711頃)上「露滑らかに苔蒸して、手がかりもなき野づらの石」
  ③ 「のづらづみ(野面積)」の略。
  ※浄瑠璃・用明天皇職人鑑(1705)五「野づらの石垣麦藁塀要害うとしと申せ共」

とある。野原なら虫はいくらでも鳴いていそうだ。支考の注に「垣のあなたは」とあるから、家の中から燈籠を吊った松を眺めて、向こうの野原では虫が鳴いてるかな、という意味に解している。「其場也」になる。
 死者を迎える燈籠という意味では、三途の川原が連想される。
 逸雲は元禄十二年刊朱拙編『けふの昔』に、

 小狐の眠りたらぬに時雨かな   逸雲

の句がある。

 第三。

   野つらの月に虫は鳴ぬか
 清酒の門も杉葉の秋は来て    支考

 この比杉玉があったかどうかはよくわからないが、杉の葉を飾って新酒を知らせる習慣はあったようだ。
 支考が、

 極楽をいづこのほどとおもひしに
     杉葉たてたる又六が門
              一休和尚

の歌を引いているように、古くは杉の葉を立てて飾ったいたようだ。
 時節で月見のための野中の出見世とする。

 四句目。

   清酒の門も杉葉の秋は来て
 そこらの者の味噌つきによる   望郷

 「味噌つき」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「味噌搗」の解説」に、

 「〘名〙 味噌を製するため、味噌豆をつくこと。《季・冬》
  ※仮名草子・仁勢物語(1639‐40頃)下「みそつきに傭ふ女有けり」

とある。晩秋の頃と見て味噌搗きを付ける。

 五句目。

   そこらの者の味噌つきによる
 昼過はとろりと曇る天気相    盤谷

 天候を付ける。

 六句目。

   昼過はとろりと曇る天気相
 又手をかへてあそぶ兀山     北溟

 昼前も遊んで、午後はまた手をかえて遊ぶ。

 七句目。

   又手をかへてあそぶ兀山
 鐘つきの鐘楼にのぼる鎰の音   雲鈴

 鐘撞が鐘楼にのぼるということは、入相の鐘を撞くところか。鐘が鳴れば日も暮れて御開きだが、また場所を変えてという、今でいう二次会というのもあったか。

 八句目。

   鐘つきの鐘楼にのぼる鎰の音
 洗あけたる膳の清ふき      六出

 「清ふき」はコトバンクの「デジタル大辞泉「清拭き」の解説」に、

 「[名](スル)濡(ぬ)れた布でふいたあと、仕上げとしてさらに乾いた布でふくこと。」

とある。鐘の鳴る頃にはお膳も洗い終わり、片付けに入る。茶店などの情景か。
 六出は『西華集』に、

 梅が香の庵ありとは杉の奥    六出
 川せみのふみ折蓮や枯はじめ   同

などの句がある。

2021年6月25日金曜日

  天皇の政治利用は戦後七十五年に渡る平和の歴史をひっくり返すものだし、本来こうしたことに神経質だったはずの左翼連中が狂喜乱舞している。
 まあ、喩えて言えば、みんなで動かしていたこっくりさんの駒を一人が強引に動かしてしまったということだ。これをやられると、たった一人の意見でも「国民の総意」になってしまう。
 天皇が神だというのは記号論的に言えば「能記」が人間で「所記」が神というところだ。天皇は能記としてはただの人間なんだから、そりゃ毎日ニュースを見ながらいろいろなことを考えるだろうし、一人の人間としての意見を持っている。
 ただ、それが神の言葉として発せられれば、その影響が果てしなく大きい。だから私人としての意見ならともかく、宮内庁の公式な見解として発表されるべきではない。
 一人の人間としてオリンピック開催中の感染拡大を心配するのは当然のことだ。オリンピックの最も強硬な推進派だってコロナに無関心なはずはない。ただ、それとアスリートの夢、国民の夢、そしてスポーツが世界を結ぶという世界の夢とを秤にかけて、ぎりぎりの開催を模索してきている。
 今回の宮内庁の発言が容認できないのは、日本国民の総意をも、世界中のアスリートやスポーツファンの夢をも冒涜するものだからだ。

 それでは「西華集」の続き。

   佐敷
 槇の戸や我にはあまる月の照   幻遊
   朴の廣葉の風あれて飛    谷吹
 村雨の笠着て渡る鳥もなし    支考
   けふも山道明日も山みち   魏吽
 いつかたもただ佛法の世となりて 露葉
   生て居るほど人はめでたき  龍千
 酒もあり肴はやがて海ちかく   全睡
   あそぶ心のかはる五節供   随吟

 第一 不易の眞也今宵此月のおもしろき三公にもかふま
    じと槇の戸に知足し給へる老法師の心いとたふと
    し
 第二 時節也その比はただ何となく風のたちゐも俄かま
    しくてさひさひとしてる暮秋の風情なるべし
 第三 曲也ただ山かげの渡鳥也笠とは鶯の笠にたよりあ
    れば也されば此五もしに百練の工夫あり村雨にと
    いへば當前也降気色は前句に対してよからず村雨
    のといへばただ笠といふべき枕ならんか

 発句は、

 槇の戸や我にはあまる月の照   幻遊

で、名月が自分には明るすぎるという謙虚な句だ。「不易の眞也」とあるように、特に目新しい面白みはない。
 幻遊は『西華集』に、

 秋や今隠者の髪の剃はじめ    幻遊
 彌時雨そめはむかしぞ破衣    同

の句がある。

 脇。

   槇の戸や我にはあまる月の照
 朴の廣葉の風あれて飛      谷吹

 朴というと朴葉味噌でおなじみだが、あの大きな葉が風で飛んで行く。山の中の槇の戸の情景を付ける。朴落葉は近代では冬だが、ここでは秋の扱いになる。
 谷吹は『西華集』に、

 なら漬に酔ふ人もあり初桜    谷吹
 我庵や落葉をあてに冬籠     同

の句がある。

 第三。

   朴の廣葉の風あれて飛
 村雨の笠着て渡る鳥もなし    支考

 前句の風に村雨を付けるが、「笠着て渡る鳥もなし」が特に何の景になっているわけでもないが、一句の取り囃しとして「曲也」になっている。まあ、暗に村雨に自分もまた笠がないということか。

 四句目。

   村雨の笠着て渡る鳥もなし
 けふも山道明日も山みち     魏吽

 前句を旅体として山道を付ける。
 魏吽は『西華集』に、

 夕がほの煤のはけめや繩の跡   魏吽
 稲こきの出入むづかし繩簾    同

の句がある。

 五句目。

   けふも山道明日も山みち
 いつかたもただ佛法の世となりて 露葉

 巡礼の道として、「山道」を仏道に見立てる。
 露葉は『西華集』に、

 春雨や枕はなるる食の時     露葉
 一葉ちる道淋しくて念仏かな   同

の句がある。

 六句目。

   いつかたもただ佛法の世となりて
 生て居るほど人はめでたき    龍千

 前句の「仏法の世」を周りがみんな仏さまになっとして、まだ生きている人は目出度きとする。
 龍千は『西華集』に、

 それぞれの名をいふて摘若菜哉  龍千
 一里松までは新酒のにほひ哉   同

などの句がある。

 七句目。

   生て居るほど人はめでたき
 酒もあり肴はやがて海ちかく   全睡

 酒と魚があれば生きていてよかったと思うが、海辺で肴も生きが良ければもっと良い。
 全睡は『西華集』に、

 掛鯛の鹽のからさよ初わらひ   全睡
 酔ざめや茶碗にうごく雲の峰   同

の句がある。


 八句目。

   酒もあり肴はやがて海ちかく
 あそぶ心のかはる五節供     随吟

 海の近くで迎える節句は、また今までにない肴で酒が飲める。
 随吟は『西華集』に、

 兀山の麓や岩に蔦紅葉      随吟

の句がある。

   仝
 桐の葉の跡先に置く扇かな    攬夷
   酒に寐ころぶ宵の間の月   洞翠
 若衆もはやらぬ城下秋暮て    支考
   今年の稲も風に吹るる    野風
 砂川に取ひろげたる日のひかり  路角
   藥師の奉加旅フ人につく   雲鈴
 饅頭も名所となりて花の春    成也
   雁啼帰る残雪の山      水流

 第一 流行の眞也初秋の扇に桐の葉をとりあはせて一度
    に世をしまふといひなしたる流行の作意ありて扇
    置といふ所は眞也此さかいは古風の人のまどふべ
    き一場也
 第二 時節也人也扇置といふ所には客人遊人のあしらひ
    ありて何となく面白し宵の間とは初秋の余情也
 第三 其場也前句の余情何とやらん此酒もおかしからず
    とて脇さし指ながら寐ころびたるは此ほど都かへ
    りの若ウ人なるべし我国本もしばしは心まどひし
    つべし

 発句は、

 桐の葉の跡先に置く扇かな    攬夷

で、桐の葉の落ちる頃に扇もそろそろしまおうかなという頃になる。
 桐の散る寂しさの本意は取らずに、普通の生活感を述べる所で「流行」になるのか。
 それ以上に特に面白い要素もなく、「眞」ということになる。
 攬夷は『西華集』に、

 籔神やいくちもはれずにごり酒  攬夷
 残りてや十日の菊のすまし顔   同

などの句がある。

 脇。

   桐の葉の跡先に置く扇かな
 酒に寐ころぶ宵の間の月     洞翠

 季節的に名月の比ということで、「時節也」になる。ただ月をだすのではなく「酒に寐ころぶ」という所に一人気ままに過ごす人物の姿が浮かぶ。
 洞翠は『西華集』に、

 酒盛や人を酔せて秋の暮     洞翠

の句がある。

 三句目。

   酒に寐ころぶ宵の間の月
 若衆もはやらぬ城下秋暮て    支考

 前句の一人っきりの月見から、若衆遊びもできない弱小藩の若侍とする。

 四句目。

   若衆もはやらぬ城下秋暮て
 今年の稲も風に吹るる      野風

 田舎の弱小藩の雰囲気で、城下をちょっと出れば田んぼが広がっている。
 野風は『西華集』に、

 落栗の流れて来たる筧哉     野風

の句がある。

 五句目。

   今年の稲も風に吹るる
 砂川に取ひろげたる日のひかり  路角

 実った稲に日が射し、近くの干上がった砂川は日の光に満ち溢れている。
 路角は『西華集』に、

 女とも若衆とも見し月の松    路角

の句がある。

 六句目。

   砂川に取ひいけたる日のひかり
 藥師の奉加旅フ人につく     雲鈴

 「旅フ」は「たび」の動詞化か。前句を巡礼の風景とする。

 七句目。

   藥師の奉加旅フ人につく
 饅頭も名所となりて花の春    成也

 旅人がたくさん訪れれば饅頭屋が並び、名物になる。
 成也は『西華集』に、

 五月雨や花の名残のかび畳    成也
 瓜の香や渡し場ちかき馬の錫   洞

などの句がある。

 八句目。

   饅頭も名所となりて花の春
 雁啼帰る残雪の山        水流

 花の季節は、雁は北に帰って行き、山にはまだ雪が残る。

2021年6月24日木曜日

 65歳以上のワクチン接種率が昨日で50パーセントを越えた。一日130万回ペースで増えている。医療従事者を加えればワクチン接種回数は三千五百万回を越えている。
 コロナの新規感染者数は東京を中心に感染の拡大が起きている。全国的には実効再生産数0.88だが、これから夏の旅行シーズンで、抑えるべき所を抑えなければ間違いなく全国に拡大する。ただ、高齢者のワクチン接種率は田舎へ行くほど高いので、感染が拡大しても重症者数や死者数はそれほど増えないと思う。
 イギリスでも感染は拡大したが、今のところ重症者数も死者数もほとんど増えていない。ワクチンは有効だ。
 ワクチンで後回しにされた若者を中心とした感染拡大が心配されるが、老人が守られていればそれほど重症者数も死者数も増えない。重症者が増えなければ医療崩壊も起きない。
 ワクチン接種と自粛体勢に深刻な妨害活動が起きない限り、第五波はさざ波で終わり、オリパラも無事に終わらせることができる。デマや誇張された恐怖を煽る報道に騙されないように。
 昨日オリンピックに反対するデモがあったようだが、彼らは「今後のオリンピックも廃止してほしい」と訴えている。「反五輪の会」はオリンピックそのものに反対してきた団体で、一般的な国民の声とは程遠い。そこを読み違えると世間のマスコミ離れは加速するし、政治家は選挙でえらい目にあうよ。もちろん海外の人も騙されないように。

 それでは「西華集」の続き。

   玖珠
 跡むいて腰のす坂の早百合哉   投錐
   日をくるはする夕立の雲   曲風
 黄檗の掃除に鶴の出あるきて   支考
   八百屋たよりに渋紙が來る  女鶴
 分限者の面白さうに年の暮    雲鈴
   今度の家は誰にあるやら   可庭
 さらさらと月照わたす門の川   長洲
   うれしき空になりし初秋   繁貞

 第一 不易の行也木幡の里に馬はあれど杖つきのぼる老
    の坂ならば早百合が下もしばしのやすらへならん
    跡を見むきたらんには海原の猟船も木の葉のやう
    に見ゆらんかし
 第二 天相也坂といひ早百合といへば凉しきやうにあつ
    きやう也さるは日影の雲のくるはするぞと発句の
    余情をよくさだめたり
 第三 曲也ただ掃除日にむれたちて雨前のいそぎと見る
    べし打越むづかしければ黄檗といへ鶴といふ名目
    にたよりたる一轉のみなるべし

 発句は、

 跡むいて腰のす坂の早百合哉   投錐

 腰のす坂は坂の名前なのか。あるいは単に腰を伸ばすということか。百合の花が咲いていたので足を止めたついでに後ろを振り返り、腰を伸ばして遙後ろの景色を眺める。
 「木幡の里に馬はあれど」は、

 山城の木幡の森に馬はあれど
     思ふがためは歩みてぞ来る
              柿本人麻呂(古今六帖)

であろう。馬ではなく老人の杖ついて登る坂なら、「海原の猟船も木の葉のやうに見ゆらん」とする。この景色は「木幡の里」とは特に関係なさそうだ。旅路のありがちなことで不易の行。
 投錐は元禄十二年刊朱拙編『けふの昔』に、

 誰か笠ぞぼくぼく夏の葉の梢   投錐
 梅もはや咲たり月も雪もふる   同

の句がある。

 脇。

   跡むいて腰のす坂の早百合哉
 日をくるはする夕立の雲     曲風

 前句の天候を付ける「天相也」になる。振り返り眺めたのは夕立の雲だった。
 曲風は元禄十二年刊朱拙編『けふの昔』に、

 びいどろの盃いざや衣かへ    曲風
 桐の葉や眠て居たる門の鳩    同

の句がある。

 第三。

   日をくるはする夕立の雲
 黄檗の掃除に鶴の出あるきて   支考

 お寺の掃除の場面に転じる。
 黄檗は隠元和尚を開基とする宗派で、中国式のきらびやかなお寺なので鶴を連想したのであろう。

 四句目。

   黄檗の掃除に鶴の出あるきて
 八百屋たよりに渋紙が來る    女鶴

 渋紙はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「渋紙」の解説」に、

 「〘名〙 (現在は「しぶがみ」とも) 紙をはり合わせ、柿渋を塗ってかわかしたもの。防寒・雨よけの衣類とし、敷き物、荷物の包装などに用いる。
  ※多聞院日記‐天文一三年(1544)八月一三日「しふ紙仕り了んぬ」

とある。
 八百屋は本来いろいろなものを売る店で、野菜だけでなく、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「八百屋」の解説の[補注]に、

 「「人倫訓蒙図彙‐四」(一六九〇)には「一切(いっさいの)精進の調菜、乾物(ひもの)、海草(うみくさ)、木実、草の根、あらゆるもの也」とあり、「八百屋」が多種のものを扱っていたことが知られる。」

とある。つまり肉や魚以外の食材を扱う店だった。お寺の食糧は大体八百屋でまかなえる。
 渋紙はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「渋紙」の解説」に、

 「柿渋(かきしぶ)で加工した和紙。柿渋は古くは柿油ともいって、晩夏のころに青柿より絞り取る。この生渋(なましぶ)を半年以上置くとさらに良質の古渋になるが、成分はシブオールというタンニンの一種で、これを和紙に数回塗布することによって耐水性ができ、じょうぶになる。江戸時代には紙衣(かみこ)、合羽(かっぱ)、敷物、荷札、包み紙などに広く使用された。また、捺染(なっせん)の型紙も渋紙の一種である。とくに渋とべんがら(紅殻・弁柄)を混ぜたものは、雨傘の「渋蛇の目(しぶじゃのめ)」の塗料とされた。[町田誠之]」

とある。大量に買い付ける時に、荷造りのために渋紙を用意してくるのであろう。
 女鶴は『西華集』に、

 出かはりやこなたの雨もけふばかり 女鶴

の句がある。

 五句目。

   八百屋たよりに渋紙が來る
 分限者の面白さうに年の暮    雲鈴

 分限者は金持ちのこと。金持ちの年末の正月準備で、八百屋で大量に買い付ける。

 六句目。

   分限者の面白さうに年の暮
 今度の家は誰にあるやら     可庭

 今度の家は誰のものになるか、ということか。立派な屋敷を買い取った分限者のことが気になる。
 可庭は『西華集』に、

 朝鉢の卯の花ほむる垣ね哉    可庭
 熊笹に中休して落葉かな     同

の句がある。

 七句目。

   今度の家は誰にあるやら
 さらさらと月照わたす門の川   長洲

 立派な屋敷の門の辺りの情景に月を添える。
 長洲は『西華集』に、

 出がはりや親もうなづく江戸心  長洲
 朝鷹の小鳥も居らず又寝哉    同

などの句がある。

 八句目。

   さらさらと月照わたす門の川
 うれしき空になりし初秋     繁貞

 前句の時期と付ける。「時節也」であろう。
 繁貞は元禄十二年刊朱拙編『けふの昔』に、

 杉の葉にぬれ色こぼす小鮎かな  繁貞
 池に来てさびしさびしと鴛一羽  同

の句がある。

   八代
 烏子の踏ならひてや桐の花    理曲
   瓜で出來たる新田の家    露亭
 鉢坊に洗濯物を盗まれて     支考
   今朝から風のただ吹にふく  含莿
 方々を聞合たる江戸だより    柳水
   舟こぎよする河岸はたの蔵  山卜
 明月に座頭はどこへ袴着て    棟祇
   日は暮かかるとんぼうの影  林木

 第一 不易の草也烏といふもののいとをしみすくなく春
    花秋葉にのさばりたる稚ならひには桐の花をやふ
    みそめけむと時節を合たる句也
 第二 其場也此新田に瓜つくりそめていとこも家つくり
    甥も見世出したればそこら大かたに居くろみと烏
    殿のをとづれも殊に此瓜の比なるべし
 第三 其人也亭主は畠に行女房は河戸に干菜きざみ居た
    るが鉢ひらきの通りがてに洗濯物をはづしたりと
    里はなれのさまをいふ也かかるをりふしはなにが
    し法師の八卦さへあはぬもふしぎにこそ

 発句は、

 烏子の踏ならひてや桐の花    理曲

で、霧の花の咲いているところにカラスが止まっているというもの。
 桐の花の時節に無風流なカラスが「踏ならひて」とするところに、逆説的に桐の花を引き立てる。
 桐の花の咲くのをよろこぶ情は不易だが、カラスとの散文的な取り合わせが「草」となる。
 理曲は『西華集』に、

 瓜畑の小家凉しや棟ひとつ    理曲
 枝かゆる蝉の羽音に嵐かな    同

の句がある。

 脇。

   烏子の踏ならひてや桐の花
 瓜で出來たる新田の家      露亭

 新田の家は先祖伝来の田を守っているのではなく、後から移り住んできた人だろう。片手間に瓜も作り、なかなかのやり手の農家で、積極経営で立派な家を立て、庭の桐の木には花も咲いている。
 前句の桐の花に、それにふさわしい景色を付けるので「其場也」になる。
 露亭は『西華集』に、

 鼻かみて雨戸明けり梅の花    露亭
 茶筵の上にも寐たき卯月哉    同

などの句がある。

 第三。

   瓜で出來たる新田の家
 鉢坊に洗濯物を盗まれて     支考

 鉢坊は托鉢の乞食坊主で、注にある「鉢ひらき」も同じ。
 新田の家の主人は畠に行き、妻が干菜を刻んでいる隙に、というのは支考の想像だが、ありがちなことだったのだろう。新田の家に出没しそうな洗濯物泥棒を付けるということで、「其人也」になる。

 四句目。

   鉢坊に洗濯物を盗まれて
 今朝から風のただ吹にふく    含莿

 前句にただ天候を付けただけのように見えるが、

 人住まぬ不破の関屋の板びさし
     荒れにし後はただ秋の風
              藤原良経(新古今集)

の「ただ」を連想もあり、洗濯物のない物干しに、ひゅーとただ風だけが吹いている。
 「風」の比喩がこうした用例を繰り返すことで慣用句化してゆく。
 含莿は『西華集』に、

 玉棚に燈おかむ童部かな     含莿
 腰張に狂言の絵を火燵哉     同

の句がある。

 五句目。

   今朝から風のただ吹にふく
 方々を聞合たる江戸だより    柳水

 前句を風の噂とする。
 柳水は『西華集』に、

 鳫行て鷗一羽の入江かな     柳水

の句がある。

 六句目。

   方々を聞合たる江戸だより
 舟こぎよする河岸はたの蔵    山卜

 河岸(かし)に諸国からの船が着くたびに、その船の人から聞いた江戸の噂が広まって行く。
 山卜は『西華集』に、

 簑ぬげば松風残る鵜舟哉     山卜
 鉢たたき上戸さう也今の聲    同

の句がある。

 七句目。

   舟こぎよする河岸はたの蔵
 明月に座頭はどこへ袴着て    棟祇

 座頭はかつては古浄瑠璃などを語っていたが、この時代にはすっかり廃れてしまい、支考は『梟日記』に周防柱野で琵琶法師を初めて見たと言って、

 ほとゝぎすむかしなつかし琵琶法師 支考

の句を詠んでいる。その前に安芸竹原では、

   箸も一度に切麦の音
 あたまはるまねに座頭のにつとして 支考

の第三を付けている。この場合は按摩をイメージしていたようだ。
 ここで袴を着た座頭の職業はよくわからないが、按摩だとしたら立派な蔵を持っている豪商に呼ばれたか。
 棟祇は『西華集』に、

 花売につれたつ町の胡蝶かな   棟祇
 我庵は草に草ふくあやめ哉    同

などの句がある。

 八句目。

   明月に座頭はどこへ袴着て
 日は暮かかるとんぼうの影    林木

 名月の昇る頃の景色を付ける。
 材木は『西華集』に、

 梅が香の爰こそ闇の下馬が橋   材木
 あたまつき是の男や鳴子引    同

の句がある。

2021年6月23日水曜日

 怒りや恨みや嫉妬といった人間のネガティブな感情がこの世界を薄い煤の霧のように覆い、そこから生まれた化け物が人間のふりをしているということなのか。あのコーヒーのような飲み物の出典はひょっとしてTHE BACK HORNの「サニー」なのかな。ああ、これはあのアニメの話。
 まあ、現実のtwitterも煤まみれだが。そういうわけできょうもみんな、笑おう。
 今日は一九四五年の沖縄戦敗北の日で、過去の戦争の罪は平和の文化を世界に広めることで償っていこう。

 それでは「西華集」の続き。

豊前
   中津
 蚊遣火の影ほの白し嫁の顔    竿水
   祭の宵に笠のせむさく    萬草
 お屋敷は門ンの出入に鎰さけて  支考
   今は鱸のとれる最中     吐雲
 明月に扨おもしろい土手の松   萬草
   萩さきかかるかりの雪隠   竿水
 梅の木の藥を買に一はしり    吐雲
   ほろりと人をだます雨粒   雲鈴

 第一 不易の行也闇き方は蚊の喰ふにさそうゐうゐしき
    花嫁ならんとおもふに白き顔に蚊遣火にほのめき
    たるゆかしさえもいふまじ
 第二 其人也嫁入もちかきほどは歩あるきの笠もあへず
    あすの祭にいかでかふらさらんとかゐそひの姥な
    ど世話やきたるにこそ
 第三 其場也地也かかるお屋敷は気のつまりてさる方の
    さそひもしのびたらんとをしはかりたる世情也

 発句は、

 蚊遣火の影ほの白し嫁の顔    竿水

で、嫁の顔が蚊遣火にほの白く映し出されるというもの。
 蚊遣火はウィキペディアに、

 「蚊遣り火(かやりび)とは、よもぎの葉、カヤ(榧)の木、杉や松の青葉などを火にくべて、燻した煙で蚊を追い払う行為、あるいはそのために熾された火や煙である。季語などで蚊遣火と書く。」

とあり、近代の蚊取り線香のような弱々しい火ではなく、結構しっかりと燃えていて、煙かったのではないかと思う。夜は焚火に映る顔のようなものだったのだろう。不易の行になる。
 竿水は『西華集』に、

    別僧
 世は瓜に小角豆もまたぬ別哉   竿水

 これは六月九日に支考が中津を発ち、日田へ向かう時の句か。『梟日記』のこの日のところに、

 「この日仲津に歸る。その夜源七のなにがし、我に初眞瓜おくられければ、
 源の字はわすれじ今宵初眞瓜   支考」

と記されている。瓜は間に合ったが小角豆(ささげ)を待たずに旅立っていった。
 もう一句、

    悼妻
 喰ふて着る秋だに寒し苔の下   竿水

 「影ほの白し嫁の顔」の発句は実は悲しい句だったか。

 脇。

   蚊遣火の影ほの白し嫁の顔
 祭の宵に笠のせむさく      萬草

 発句を祭りに行く時の準備の情景にする。「せむさく」は穿鑿で、あれこれ言うということか。「姥など世話やきたる」とする。
 萬草は『西華集』に、

 幾春か鼾なれたる家桜      萬草
 南天の花も咲たり一夜鮓     同

などの句がある。

 第三。

   祭の宵に笠のせむさく
 お屋敷は門ンの出入に鎰さけて  支考

 前句の場所をお屋敷の門のあたりとするので、「其場也」となる。「地也」もその地ということか。鎰は鍵で、立派な屋敷なら門番の爺さんが持ってきて開けるのだろう。
 『猿蓑』の「市中は」の巻十二句目に、

   魚の骨しはぶる迄の老を見て
 待人入し小御門の鎰かぎ     去来

の句があるが、これは『源氏物語』の末摘花を尋ねる場面だという。

 四句目。

   お屋敷は門ンの出入に鎰さけて
 今は鱸のとれる最中       吐雲

 鱸(すずき)は秋が旬。時分也であろう。
 中国いう松江鱸魚はヤマノカミという別の魚だが、九州では獲れるという。
 萬草は『西華集』に、

 鶏頭の埒もあかざる盛かな    吐雲

の句がある。

 五句目。

   今は鱸のとれる最中
 明月に扨おもしろい土手の松   萬草

 秋に転じたということで名月に土手の松を付ける。

 六句目。

   明月に扨おもしろい土手の松
 萩さきかかるかりの雪隠     竿水

 萩の露を小便と掛けての雪隠はいかにもな展開。

 七句目。

   萩さきかかるかりの雪隠
 梅の木の藥を買に一はしり    吐雲

 「梅の木の薬」は梅木村の薬、和中散のことか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「和中散」の解説」に、

 「〘名〙 江戸時代、時候あたりや風邪などにきくとして諸国に流布した薬。枇杷葉(びわよう)・桂枝・辰砂・木香・甘草などを調合したもの。本家は近江国栗太郡梅木村(滋賀県栗東市六地蔵)で、江戸では大森に三軒、店を並べて売っていたと伝える。〔咄本・狂歌咄(1672)〕」

とある。

 八句目。

   梅の木の藥を買に一はしり
 ほろりと人をだます雨粒     雲鈴

 雨粒が目の所に落ちると、ほろりと涙がこぼれたかのように見える。

   日田
 大名に笠きらひある暑さかな   朱拙
   草に百合さく山際の道    獨有
 我こころちいさい庵に目の付て  支考
   淋しい時は世の中に飽    芝角
 秋の來て牛房大根の月の影    愚信
   濱の鳥井に鶉をりをり    幽泉
 若衆の念者まつこそ袖の露    釣壺
   躍の聲を余所のおもひ寐   雲鈴

 第一 流行の草也此殿の人あまた供せられたるか祭のさ
    はがしきやうにはあらで岩手の山のいはでもあつ
    からんと見送りたるさまいとよし
 第二 其場也日うけの山際に百合の花の咲たらんを草の
    字くははりて至極の暑也句を作るの法なるべし百
    合咲とばかりいはば凉しきかたにもかよひぬべし
 第三 行脚の観相也大家高城もかつてうらやまず早百合
    の道のほそぼそとかくても住れけるよと目のつき
    たるは泉石烟霞のやまひいゆる時なからんと我心
    をとがめたる余情也
    打越の論は前の自他に翻轉すべし

 発句は、

 大名に笠きらひある暑さかな   朱拙

 大名行列というと円盤状の一文字笠のイメージがあるが、大名行列図を見ていると、笠を被っている人と被ってない人がいたり、笠を被らない行列が描かれているものもある。藩によって、身分によって、笠を被れない人がいたのだろうか。
 武家の堅苦しさの風刺も含まれていて、「きらひある」は連歌や俳諧で「去り嫌い」と使っていて、言葉の面白さもある。芭蕉なら喜びそうな句だ。支考はこれを「流行の草也」とする。
 季節のいい時は騒がしい行列も暑いと無言になる。「岩手の山のいはでも」は、

 おもへどもいはでの山に年を経て
     朽ちや果てなん谷の埋もれ木
              藤原顕輔(千載和歌集)

などの歌に詠まれている。岩手山は平泉から尿前の関に行く途中にあり、芭蕉も桃隣も近くを通っている。陸羽東線に岩出山駅がある。
 朱拙はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus「坂本朱拙」の解説」に、

 「1653-1733 江戸時代前期-中期の俳人。
承応(じょうおう)2年生まれ。豊後(ぶんご)(大分県)の人。医を業とした。中村西国に談林風をまなび,元禄(げんろく)8年来遊した広瀬惟然の影響で蕉風に転じた。九州蕉門の先駆者。編著に「梅桜」「けふの昔」など。享保(きょうほう)18年6月4日死去。81歳。通称は半山。別号に守拙,四方郎,四野人。」

とある。九州を代表する俳諧師で、他にも享保九年刊朱拙・有隣編『ばせをだらひ』がある。
 元禄十一年刊浪化編の『続有磯海』に、

 鶯や鼠ちり行閨の隙       朱拙

の句がある。

 脇。

   大名に笠きらひある暑さかな
 草に百合さく山際の道      獨有

 大名行列の進む道を付けるので「其場也」となる。
 「百合さく」だけだと涼しげに聞こえるのを、「草に百合さく」とすることで暑苦しく感じさせる。
 獨有は『西華集』坤巻に、

 五月雨や面かはりする山の晴   獨有

の句がある。、
 元禄十五年知方編『はつだより』の、

  岩角にそれてや立る女郎花  豊後日田 獨優

はあるいは獨有か。

 第三。

   草に百合さく山際の道
 我こころちいさい庵に目の付て  支考

 前句の道を行脚の道として、小さい庵を見つけては心惹かれる。
 「打越の論は前の自他に翻轉すべし」は打越(発句)に「大名」という人倫があり、この句にも「我」という人倫があるということで、ここでは自他を違えていれば問題ないとしている。

 四句目。

   我こころちいさい庵に目の付て
 淋しい時は世の中に飽      芝角

 前句を庵の住人の自称とする。世の中に飽きて小さな庵に隠棲し、淋しいと思う時には世の中に飽きた時のことを思い出して自分を勇気づける。
 芝角は元禄十二年刊朱拙編『けふの昔』に、

 草庵とおもへど年の炭大根    芝角
 魚鳥の面白かれや暖さ      同

などの句がある。

 五句目。

   淋しい時は世の中に飽
 秋の來て牛房大根の月の影    愚信

 名月というと芋名月だが、そんな世俗の風習は気にせず、牛蒡や大根でもいいではないか。
 愚信は『西華集』坤巻に、

 傘の日影もあつし百合の華    愚信
 摺小木で蠅を追けりとろろ汁   同

などの句がある。

 六句目。

   秋の來て牛房大根の月の影
 濱の鳥井に鶉をりをり      幽泉

 田舎の月見として、浜の神社に鶉の鳴くのを付ける。椎田の濱の宮(今の綱敷天満宮)だろうか。
 幽泉は『西華集』坤巻に、

 朧月出たちの膳の眠りかな    幽泉
 鴨の首まげて身をかく小春哉   同

の句がある。

 七句目。

   濱の鳥井に鶉をりをり
 若衆の念者まつこそ袖の露    釣壺

 若衆と念者の恋とする。
 釣壺は元禄十二年刊朱拙編『けふの昔』に、

 物置の櫃の先まで雪あかり    釣壺
 春風に雪のよごれや道の下    同

などの句がある。

 八句目。

   若衆の念者まつこそ袖の露
 躍の聲を余所のおもひ寐     雲鈴

 恋に悩み、愛しい人を待つ若衆には、盆踊りではしゃぐ人の声も余所事にしか思えない。

   仝
 秋ちかき杉のあちらや雲の峰   里仙
   露うちわたす膳のなでしこ  野紅
 傾城の所帯綺麗に持なして    支考
   朝観音にまいる朔日     紫道
 うす雪にむかひ近江のむら烏   雲鈴
   役者の旅の武士にまぎるる  沙遊
 宵月の包をはしる肴うり     呼丁
   早稲の穂なみの吹そろふ風  若芝

 第一 不易の眞也杉のあちらといへば秋やや近きこころ
    せられて青白のうつろひあしからず風情さらに寂
    寞たり
 第二 其場也世の中もややおもしろくなりてかかか膳立
    の凉しさは発句に残したる余情也四格のはたらき
    いかでかむなしからん
 第三 其人也膳になでしこの風情はよのつねの家の類に
    はあるまじ傾城の世帯ならんに客数寄もなどふつ
    つかならず傾城の二字は曲にして一轉也

 発句は、

 秋ちかき杉のあちらや雲の峰   里仙

 雲の峰に杉林を取り合わせることで夏でも涼しさを感じさせる。特に取り囃しもなく何の変哲もない句は「不易の眞也」となる。何か面白いネタで取り囃すと不易の行になる。そうなるとやはり「不易の眞也」は凡句を褒めて言う言い回しで、「流行の草也」が一番面白いということか。
 里仙は元禄十二年刊朱拙編『けふの昔』に、

 年頭は紙子の上の花紋紗     里仙
 さびしさの猶秋ふかし枯ぼたん  同

などの句がある。

 脇。

   秋ちかき杉のあちらや雲の峰
 露うちわたす膳のなでしこ    野紅

 発句を背景として撫子を添えたお膳を出す。風流も世に行き渡って、お膳にこうした一工夫をする習慣も広まっていったのだろう。
 野紅は元禄十二年刊朱拙編『けふの昔』に、

 牛馬によらしよらしとくれの市  野紅
 三日月にふすりのかかる蚊遣哉  同

などの句がある。

 第三。

   露うちわたす膳のなでしこ
 傾城の所帯綺麗に持なして    支考

 前句の撫子を添えたお膳を遊郭の料理とする。其人を付け、傾城は「曲」となる。

 四句目。

   傾城の所帯綺麗に持なして
 朝観音にまいる朔日       紫道

 朝観音はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「朝観音」の解説」に、

 「〘名〙 朝早く、観音に参詣すること。特に、観音の縁日にあたる毎月一八日の朝、参詣すること。
  ※俳諧・花千句(1675)上「朝観音とこころざす袖〈季吟〉 ほんのりと十八日の影うつり〈正立〉」

とある。この場合は朔日なので、特に縁日でもなさそうだ。朔日というのは何か遊女ならではの事情があるのか。
 紫道は元禄十二年刊朱拙編『けふの昔』に、

 芋の葉の軒につられて秋の風   紫道
 蝶々や風の吹日のたをやかさ   同

の句がある。

 五句目。

   朝観音にまいる朔日
 うす雪にむかひ近江のむら烏   雲鈴

 雪にカラスは目立つ。朝の景色に琵琶湖周辺の景色を付ける。

 六句目。

   うす雪にむかひ近江のむら烏
 役者の旅の武士にまぎるる    沙遊

 東海道と中山道は近江の草津で合流する。ここから先は人通りも多く、役者も武士もごちゃ混ぜになって通る。
 沙遊は元禄十二年刊朱拙編『けふの昔』に、

 分別もせずに海行つばめかな   砂遊
 鶯に笠きて見する日和かな    同

などの句がある。

 七句目。

   役者の旅の武士にまぎるる
 宵月の包をはしる肴うり     呼丁

 役者も武士も団体行動が多く、肴売にとっては上客であろう。酒の肴を入れた包みをもって夕暮れ時を走り回る。
 呼丁は元禄十二年刊朱拙編『けふの昔』に、

 から馬のかたむく影や麦の波   呼丁
 はつ月の片われ落す柳かな    同

などの句がある。

 八句目。

   宵月の包をはしる肴うり
 早稲の穂なみの吹そろふ風    若芝

 これは「其場也」であろう。肴売の走る場所を付ける。
 若芝は元禄十二年刊朱拙編『けふの昔』に、

 山や想ふ馬屋の猿も松錺     若芝
 在家やら寺やらあれは梨の花   同

などの句がある。

2021年6月22日火曜日

 世界は相変わらず悲しいことが多いけど、日本は平和だ。
 日本を悲しくする必要はない。世界が日本のように平和になるように頑張ろう。
 そのためには我々自身の文化をきちんと見つめ、発信してゆきたい。自虐は何も生まない。
 鈴呂屋は平和に賛成します。

 それでは「西華集」の続き。

安芸
   宮島
 松かげや烏のとまる早苗船     尚政
   日は焦たる黴の夕晴      雲鈴
 やれ客と座敷の子共掃出して    支考
   隣もちかき籔のくくり戸    林角
 馬の血のこぼれて水の濁り行    祖扇
   時雨に笠も持ぬ境界      尚政
 達磨忌の夜は片岡の月を見て    林角
   名はさまざまに紅葉ちりけり  祖扇

 第一 不易の行なり五文字におかけといはざれば下の烏
    求め過たらんに一句のあしらひいとよし
 第二 天相なり江邊の暮色ならばくもりておかしからず
    殊に五月雨の夕日の雲にこがれたらん風光いふば
    かりあるまじ
 第三 其人也是は地の曲ともいふべし山寺の和尚など旦
    那見舞に出給へるもかかる黴の晴間なるべしやら
    とて座敷とりたつるに麥から馬も張皷も次の間に
    掃出されて起あがり小法師といふものは行先ぬか
    らで起あがりたるをのれが在所こそやすからぬ物
    なれ

 発句は、

 松かげや烏のとまる早苗船     尚政

 早苗舟にカラスの止まる景にお目出度い松を添えるのだが、影と控えめにするところで品良く田植の目出度さを引き立てる。不易だが、カラスの止まる早苗船は紋切り型にならずに、行となる。
 尚政は『西華集』坤巻に、

 竹釣瓶もてあつかふや梅の花    尚政
 船の帆の今かくれけり花樗     同

などの句がある。

 脇。

   松かげや烏のとまる早苗船
 日は焦たる黴の夕晴        雲鈴

 「焦たる」は「こがれたる」。「黴」は黴雨(つゆ)。梅雨の雲の合間を真っ赤に染めて日が沈む。
 前句の季節の天候を付ける。

 第三。

   日は焦たる黴の夕晴
 やれ客と座敷の子共掃出して    支考

 客が来たからと子供を外へ追払う。梅雨の晴間なので、もう少しそとで遊んでいろということだが、広い所で子共が集まってくるというところで、お寺を連想するのが普通だったのだろう。
 麦藁の馬や張り子のおもちゃなど掃き出されて、というのは支考自身の幼少体験か。
 梅雨の夕暮れに追い出す人追い出される子供が「其人」になる。住職と小坊主のドラマがある所が「地の曲」ということか。

 四句目。

   やれ客と座敷の子共掃出して
 隣もちかき籔のくくり戸      林角

 追い出された子供は隣の薮のくくり戸の中へ逃げ込む。
 林角は『西華集』坤巻に、

 分別もなしに出けり山さくら    林角
 荒てよき物や月見の浜やしき    同

などの句がある。

 五句目。

   隣もちかき籔のくくり戸
 馬の血のこぼれて水の濁り行    祖扇

 籔から賤民の連想で、死んだ馬の解体場を付ける。
 祖扇は『西華集』坤巻に、

 人はいさ戻りともなし秋の庵    祖扇
 人買の船はむかしや浦千鳥     同

の句がある。

 六句目。

   馬の血のこぼれて水の濁り行
 時雨に笠も持ぬ境界        尚政

 落ち武者であろう。時雨に降られても職人芸能や巡礼者は笠を被り、公界を往来するが、軍に破れた者には笠すらもない。

 七句目。

   時雨に笠も持ぬ境界
 達磨忌の夜は片岡の月を見て    林角

 片山時雨という言葉もある。時雨は岡の片側だけを降るだけで、降ってない方には月も見える。
 達磨忌は十月五日で時雨の季節になる。

 八句目。

   達磨忌の夜は片岡の月を見て
 名はさまざまに紅葉ちりけり    祖扇

 達磨忌は少林忌とも初祖忌ともいう。お寺の庭には紅葉が散る。


豊前
   大橋
 かりの世の住ゐや蚊屋に顔ばかり 柳浦
   うそのやうなる夏の明ぼの  元翠
 かの君か五條あたりの月を見て  支考
   俄さむさの露ぞしぐるる   一袋
 ささ栗に猿鳴わたる山つたひ   雲鈴
   此ごろ出來た村になもなし  不帯
 物知の京から居る西方寺     桐水
   たばこと酒に十兩の金    野吹

 第一 不易の行也わかき者どもは手ばやに寐つきたるを
    老の身の律儀にねられぬままの口すさみなるべし
 第二 時分也夏の夜はねぬにあけぬといへる物おもはぬ
    人なるべしとりしめもなき明ぼののさまただかり
    そめの轉寐としりぬ
 第三 其場也曲也まことしからぬ明ぼのをおもへば五條
    あたりにと読けむ辻君のわかれもおもひやらるる
    かし此句を辻君といはば打越の人倫わづらはし越
    のはなれは自他のならひもあるべし

 発句は、

 かりの世の住ゐや蚊屋に顔ばかり 柳浦

で、俳諧の友が集まったりして小さな蚊帳の中に何人も入って一緒に寝たのだろう。若いものは早々と寝てしまい、年寄りが蚊帳の中を見回して、蚊はいない、顔ばかりだ、と思う。
 『嵯峨日記』でも蚊帳の中で五人て寝ようとするが眠れなくて、という話がある。
 蚊帳で眠れないのは不易だが、蚊ではなくて顔のせいにするところに新味があり、不易の行になる。
 柳浦は『西華集』坤巻に、

 何事に腹のたつべき花さかり   柳浦
 誰か礫遠く行らん凉み川     同

などの句がある。

 脇。

   かりの世の住ゐや蚊屋に顔ばかり
 うそのやうなる夏の明ぼの    元翠

 眠れなくて悶々としていたが、知らないうちに寝てしまい、気づいたら夜が明けていた。
 ただでさえ早い夏の朝が、余計早く感じられる。
 蚊帳に寝て曙を付ける。時分になる。
 元翠は元禄十二年刊朱拙編『けふの昔』に、

 雪何と北の家陰の梅もはや    元翠

の句がある。

 第三。

   うそのやうなる夏の明ぼの
 かの君か五條あたりの月を見て  支考

 「かの君」は支考の注に辻君とある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「辻君」の解説」に、

 「〘名〙 夜間、道ばたに立ち、通行人を客として色を売った女。夜発(やほち)。夜鷹。辻傾城。辻遊女。立ち君。古くは、町の路次内に店をかまえた下等の売女をいった。
  ※咄本・正直咄大鑑(1687)黒「むかしよりいひつたへたる辻君(ツジギミ)と云者」

とある。今日の五条あたりに出没する。前句の明ぼのから遊女の後朝として月を添える。
 「五条」が其場で「かの君」が曲になる。

 四句目。

   かの君か五條あたりの月を見て
 俄さむさの露ぞしぐるる     一袋

 夕暮れの客待ちの遊女に転じ、その心情に露の時雨を添える。
 一袋は『西華集』坤巻に、

 蝙蝠の出られて戻る華見かな   一袋
 たなばたに着たり借たり夏羽織  同

の句がある。

 五句目。

   俄さむさの露ぞしぐるる
 ささ栗に猿鳴わたる山つたひ   雲鈴

 前句の気候に猿の鳴く山を付ける。

 六句目。

   ささ栗に猿鳴わたる山つたひ
 此ごろ出來た村になもなし    不帯

 山奥に逃れてきた落人の村か。出来たばかりでまだ名前もない。
 不帯は『西華集』坤巻に、

 掃寄せてをけば又ちる芥子の花  不帯

の句がある。

 七句目。

   此ごろ出來た村になもなし
 物知の京から居る西方寺     桐水

 「居る」は「すはる」か。西方寺は特にどこのということでもなく、西方浄土にちなんだ名前の寺は何処にでもありそうな、ということか。
 桐水は『西華集』坤巻に、

 華咲て日酒参るか山の神     桐水
 念仏も売ぬ師走の月夜哉     同

の句がある。

 八句目。

   物知の京から居る西方寺
 たばこと酒に十兩の金      野吹

 京から来たというので、煙草を栽培し酒を醸造し、十両もの収入がある。
 野吹は『西華集』坤巻に、

 朔日をこらへかねたるしぐれかな 野吹

の句がある。

2021年6月21日月曜日

 思うに、平和にするには「平和のために戦え」という矛盾をいかに回避するかが大事なんだと思う。同じように民主化するにも「民主化のための意思統一」が結局独裁を生む。
 思うに西洋のプラトン以来の「哲人政治」という幻想が一番いけないのだと思う。哲学に絶対はないし、むしろ「無知の知」を知り、理性の限界を知るのが哲学なのだから、為政者に必要なのは哲学の無力を知る謙虚さにほかならない。理屈では割り切れないのがこの世の中というもので、理屈が支配したらこの世界は終りだ。
 まあとにかく、この世界を知の力で支配できるなんて思わないことが大事だ。力も知も用いず、無為にまかせたとき、多分世界は一つになるのだろう。それを「一つ」というかどうかは問題だが。無数の多様なものが混然として一つという状態と言った方がいいのだろう。
 ジョン・レノンもlet it beと言ってたし、基本的にこの考え方がimagineを生んだのだと思う。力も知も必要ない。風(air)があればいい。
 ところで、去年の夏に読んだ連歌三巻を「連歌集」という形で鈴呂屋書庫にアップしたので、よろしく。

 それでは「西華集」の続き。

安芸
   竹原
 蓮池は吹ぬに風の薫かな      一雨
   箸も一度に切麦の音      時習
 あたまはるまねに座頭のにつとして 支考
   雨の降日は淋しかりける    孤舟
 磯ちかき野飼の牛の十五六     雲鈴
   宿かりかねし旅の御僧     梅睡
 あらし立今宵の月は細々と     一故
   粟苅れても鶉啼なり      如柳

 第一 不易の真也吹ぬに風のと轉倒したる所よりミれは
    かならず蓮池の薫のミならんやかの琴上の南風な
    るべし
 第二 其場也箸も一度にといひよセて切麦の凉しき音を
    あつめたる廣き寺かたのありさまなるべし。
 第三 其人の一轉也給仕の者の手もとちかく末座はかな
    らず按摩の座頭ならんされは此下の五もしにいた
    りて一朝一夕の工夫にあらす百錬の後こゝにいた
    る句に雑話をはなるゝ事誠にかたしとうけたまハ
    りしか

 発句、

 蓮池は吹ぬに風の薫かな      一雨

の句は、蓮の咲いている池に風が吹いてないのに風の薫りがする、という意味で、風がなくても自ずと蓮の香が漂ってくるという所に、支考は天下泰平の風だと解釈する。
 琴上の南風は『十八史略』に、

 舜彈五絃之琴、歌南風之詩、而天下治。詩曰、

 南風之薫兮 可以解吾民之慍兮
 南風之時兮 可以阜吾民之財兮

とあるという。
 まあ、風流の基本は天下の太平をよろこび、笑い合うことにあるわけで、そうした和を感じさせる挨拶は基本的に風雅の誠に適うもので「不易の真」ということになる。
 一雨は『西華集』坤巻に、

 一日は心にも似よ白牡丹      一雨
 庵の月人に見せけり鉢坊主     同

の句がある。

 脇。

   蓮池は吹ぬに風の薫かな
 箸も一度に切麦の音        時習

 切り麦はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「切麦」の解説」に、

 「〘名〙 (「麦」は麺(めん)の意) 小麦粉を練り、うどんより細く切った食品。多くは、夏季、ゆでて水に冷やして食べる。ひやむぎ。切麺。《季・夏》
  ※多聞院日記‐永正三年(1506)五月二六日「今日順次沙二汰之一了〈略〉後段〈うとん・きりむき・山のいも・松茸〉」

とある。
 夏の暑い時に風もないということで、一気に冷や麦をすする。
 切麦や切蕎麦は寺で出すことが多い。一斉に冷や麦をすする音に寺の広さというのは、実際の興行の場のことを言っているのだろう。
 時習は『西華集』坤巻に、

 岩藤のちる時水の濁りかな     時習

の句がある。

 第三。

   箸も一度に切麦の音
 あたまはるまねに座頭のにつとして 支考

 まあ、楽しく会食していると、誰かがボケてそれにパシッと突っ込みを入れるふりをしたりって昔からあったのだろう。
 座頭はこの突込みの頭を張る場面が見えてはいないが、研ぎ澄まされた聴覚で何が起きているかはわかっていて、にっと笑う。
 「につと」は今日の「にやっと」のニュアンスではなく「にこっと笑う」の意味。元禄七年の「鶯に」の巻三十二句目に、

   参宮といへば盗みもゆるしけり
 にっと朝日に迎ふよこ雲      芭蕉

の句がある。
 お寺での会食に按摩の座頭がいるのはあるあるだったのかもしれない。切麦の場に按摩を取り合わせたところに、ふざけて頭を張る真似をしたところで座頭がにっと笑うという取り囃しというか、今でいうネタを即座に持って来れるのは、俳諧師としての修行の賜物であろう。日頃から日常の何か面白いことを探し求め、それをたくさん頭の中にストックしているからできる。

 四句目。

   あたまはるまねに座頭のにつとして
 雨の降日は淋しかりける      孤舟

 雨に降る日は淋しすぎるから、なんとか紛らわそうと笑わせようとする、ということだろう。四句目はこのようにさっと流すのは悪くない。支考の注は第三までしかない。

 五句目。

   雨の降日は淋しかりける
 磯ちかき野飼の牛の十五六     雲鈴

 雨の日の野飼いの牛は、たくさんいても淋しそうに見える。「磯ちかき」で水辺に転じる。

 六句目。

   磯ちかき野飼の牛の十五六
 宿かりかねし旅の御僧       梅睡

 磯の傍で家もなく雨宿りする所もない。前句をその旅の風景として旅体に転じる。
 梅睡は『西華集』坤巻に、

 あつき日や淵に童の長くらべ    梅睡
 師走より咲て居りけり梅の花    同

の句がある

 七句目。

   宿かりかねし旅の御僧
 あらし立今宵の月は細々と     一故

 あらし立(たつ)は「風立ちぬ」と同様に嵐が吹いてくること。三日頃の月で細い月が心細くて吹き散りそうだ。宿のない旅僧の心境にに重なる。
 一故は『西華集』坤巻に、

 どちからも青田なるべし一庵    一故

の句がある。

 八句目。

   あらし立今宵の月は細々と
 粟苅れても鶉啼なり        如柳

 粟と鶉は和歌にも詠まれていて、

 うづらなく粟つのはらのしのすすき
     すきそやられぬ秋の夕ベは
              藤原俊成(夫木抄)

などの歌がある。それを粟すらなくて鶉が鳴くからもっと淋しい、とする。
 如柳は『西華集』坤巻に、

 春雨や僧に馴たる猫の声      如柳

の句がある。


   仝
 山陰は哥の遠のく田植哉      春草
   昼寐そろハぬ庵の凉風     釣舟
 から笠に皆俳諧の名をかきて    支考
   三日四日の月の宵の間     流水
 雁啼て湖水を渡る鐘の声      似水
   早稲も晩稲もあるゝ軍場    樗散
 今の世は子共も酒をよく呑て    雲鈴
   もたれかゝれはこかすから紙  高吹

 第一 不易の行なり田植の比はそともにきはひてをのれ
    か内々の淋しさ何となくいろ心なしてあしからず
 第二 其場也観音坊の心よげに在家の蠅の中よりはと明
    暮に遊人のたへざるかさるは小たかき所の庵と見
    るべし
 第三 其人也昼寝のうちに日和あかりて我は夕食の約束
    ありかれは鏨よりの手つたひにとて一度に立さわ
    ぎたるか傘のまぎれ殊にやかましかかる道楽は俳
    諧師ならんと見られたるいと口おし

 発句は、

 山陰は哥の遠のく田植哉      春草

で、田植歌の目出度さを詠みながらも、山陰に来るとそれがそれが急に遠のいたかのように感じられる。
 本意を踏まえつつもそれを少し外すあたりが「不易の行」になる。
 春草は『西華集』坤巻に、

 雨の脚しろきは入梅のあかり哉   春草
 水仙を見て有がたき十夜かな    同

などの句がある。

 脇。

   山陰は哥の遠のく田植哉
 昼寐そろハぬ庵の凉風       釣舟

 前句の「遠のく」を山の中の庵に帰るためだということで治定する。田植歌の遠のくその場所を付けているので「其場也」になる。田植歌が聞こえる範囲だからそれほど山奥でもなく「小たかき所の庵」という。
 「観音坊」というのは観音堂のあるところの坊ということか。「昼寝そろわぬ」というから昼のしているのは複数で、在家の僧も家では蠅が鬱陶しいからと、こういう所に集まってくるというのは、当時のあるあるだったのだろう。

 第三。

   昼寐そろハぬ庵の凉風
 から笠に皆俳諧の名をかきて    支考

 前句を俳諧興行で集まった連衆とする。昼寝して涼しくなったら興行開始という所だろう。前句に対して、その昼寝している人物を付けるので「其人也」になる。「殊にやかましかかる道楽は俳諧師ならん」というのは、要するに自虐ネタということか。

 四句目。

   から笠に皆俳諧の名をかきて
 三日四日の月の宵の間       流水

 「時節也」であろう。時候を付ける。俳諧興行と言えば月の宵であろう。
 流水は『西華集』坤巻に、

 悟ても中々淋し秋の暮       流水

の句がある。

 五句目。

   三日四日の月の宵の間
 雁啼て湖水を渡る鐘の声      似水

 月の宵なので雁に湖水に鐘の音と景物を重ねる。瀟湘八景の「平沙落雁」であろう。

 似水は『西華集』坤巻に、

 鷺たつや枯野の川の水車      似水

の句がある。

 六句目。

   雁啼て湖水を渡る鐘の声
 早稲も晩稲もあるゝ軍場      樗散

 これは「国破れて山河在り」の心で、戦場となって田んぼは滅茶苦茶にされてしまったが、湖水に降り立つ雁と御寺の鐘の音は昔のまんまだ。
 樗散は『西華集』坤巻に、

 鐘遠き弥生の花や夕飯後      樗散

の句がある。

 七句目。

   早稲も晩稲もあるゝ軍場
 今の世は子共も酒をよく呑て    雲鈴

 違え付けで、昔は軍ばかりで田んぼも荒れ果てて食う物にも困っていたが、今は酒造用に回す米もふんだんにあって、子供までもが酒を飲んでいる。

 八句目。

   今の世は子共も酒をよく呑て
 もたれかゝれはこかすから紙    高吹

 酔っ払っては唐紙(襖)を倒す。
 高吹は『西華集』坤巻に、

 独かと蚊帳をのぞく男かな     高吹

の句がある。

2021年6月20日日曜日

 今読んでいるラノベは小林湖底さんの『ひきこまり吸血姫の悶々』で、一気に三巻読んで、今四巻目に入っている。何も考えずに読めるし、これだけ暴力シーンがあってもちゃんと平和を愛することの大切さを説いている辺り、世界観設定がいいのと絶妙なシリアス破壊のおかげだろう。日本のエンターテイメントの底力だ。筆者も引きこもり生活が始まって半年になる。
 今期のアニメではやはり『シャドーハウス』が良かったかな。結局人格というのはある程度は親や周囲の人を見ながら形成されるものだから、誰もがシャドーの部分がある。

 それでは「西華集」の続き。

   倉敷
 箒にも蠅ははかれぬ在郷かな    除風
   田植の戻る門の簑笠      漏角
 売ものに聖の笈をのぞかせて    支考
   秋の節句のどこもあま風    我々
 川むかひ相撲の聲も宵月夜     幸舌
   今年わびたる庵の菊萩     尚雪
 質置て旅に出るも風雅也      雲鈴
   こちの名所は阿知潟の海    青楮

 第一 流行の草也家あるじの食もりにかからんとてまつ
    座敷掃時の蠅なるべし趣向いひなしていとよし
 第二 時分也今朝は五月雨の降もふらず昼食の雨間に照
    わたされて蠅どものむらだちたるその家のさま見
    るやう也
 第三 其人の一転也下司をんなのはしたなくて帷子の裏
    襟は望なけれど祭帯は一筋ほししなど笈のうしろ
    にのびあがりのぞき合たるかならず買むとにはあ
    らず門のひじりを見つけたればならじ

 発句、

 箒にも蠅ははかれぬ在郷かな    除風

の句も、本来は挨拶の意味があったのだろう。蠅が五月蠅い所ですが、蠅は箒で掃くこともできません、こんな辺鄙な田舎で失礼します、というへりくだった挨拶句であろう。
 「在郷」は「ざいご」と読む。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「在郷」の解説」に、

 「① (━する) 郷里にいること。田舎に住みつくこと。
  ※神宮雑書‐建久三年(1192)八月日・伊勢大神宮神領注文「倶以勅免神領、在郷名号各別之地也」
  ② 都会から離れた地方。田舎。ざい。〔文明本節用集(室町中)〕
  ※浄瑠璃・信州川中島合戦(1721)三「在郷に引込み、鋤鍬取て自(みづから)だがやし」
  [語誌]近世期の類義語に「在所」があるが、「在郷」は、複合語も含めて、上方での使用がそれほど一般的でないのに対し、「在所」は上方で使用される傾向が強い。」

とある。
 「流行の草也」というのは、特に古典の趣向を借りているわけではなく、夏のコオロギが櫛をはじく音に似ているというような発見があるわけでもなく、その場のおもてなしの興で述べただけの句なので、書の楷書・行書・草書になぞられて、草書のような句とする。その場の興で手早く作る句というニュアンスであろう。
 田舎へ行く程一昔前の挨拶句の習慣が残っているということか。
 除風は元禄十六年『番橙(ざぼん)集』を編纂刊行している。

 脇。

   箒にも蠅ははかれぬ在郷かな
 田植の戻る門の簑笠        漏角

 「時分也」とあるように田植の頃と季節を付ける。
 田植は神事なので簑笠を着る。楽などを奏でながら、一種のお祭りになる。
 漏角は『西華集』坤巻に、

 稲の穂や心ばかりの鮩膾      漏角
 人心四月あたらし薮の垣      同

の句がある。

 第三。
 
   田植の戻る門の簑笠
 売ものに聖の笈をのぞかせて    支考

 前句の門をお寺のこととして「聖の笈」を付ける。
 「其人の一転也」というのは、前句の田植から戻る人を一転して、田植の人の中を戻る笈を背負った聖僧に転じたからであろう。集まってきた早乙女たちに笈の中身をのぞかせ、実際に何かを売るわけではないけど、いかにもお店を開いたみたいにはたから見るとそう見える。

 四句目。

   売ものに聖の笈をのぞかせて
 秋の節句のどこもあま風      我々

 時候と天気を付ける。あま風は雨に降りそうな湿った風のこと。秋の節句は七夕か重陽か。
 我々は『西華集』坤巻に、

 烏帽子着て見やれば古し杜若    我々

の句がある。

 五句目。

   秋の節句のどこもあま風
 川むかひ相撲の聲も宵月夜     幸舌

 前句が秋に転じたので、定座を繰り上げて月を出す。節句に相撲を付ける。
 幸舌は『西華集』坤巻に、

 ふり袖や田植とちがふ木綿とり   幸舌

の句がある。

 六句目。

   川むかひ相撲の聲も宵月夜
 今年わびたる庵の菊萩       尚雪

 川向の相撲に川のこちら側の侘びたる庵を付け、菊と萩を添える。
 尚雪は『西華集』坤巻に、

 暮合を見たし蛍の水ばなれ     尚雪
 冬枯の柳や雪にその姿       同

の句がある。

 七句目。

   今年わびたる庵の菊萩
 質置て旅に出るも風雅也      雲鈴

 侘びた庵の住人が旅に出ようと思い立つ、「質置て」が取り囃しになる。
 雲鈴はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus「雲鈴(1)」の解説」に、

 「?-1717 江戸時代前期-中期の俳人。
陸奥(むつ)盛岡藩士だったが,僧となり,俳諧(はいかい)を森川許六(きょりく),各務(かがみ)支考にまなぶ。元禄(げんろく)13年大坂から北上して,佐渡に滞在,のち南下して京都にいたるまでの紀行「入日記(いりにっき)」を16年に刊行した。享保(きょうほう)2年2月2日死去。別号に摩詰庵(まきつあん)。」

とある。正徳五年(一七一五年)に『笈のわか葉』を刊行する。信州・越後などの旅が記されている。

 八句目。

   質置て旅に出るも風雅也
 こちの名所は阿知潟の海      青楮

 旅立ちということで地元の名所、阿知潟を付ける。コトバンクの「世界大百科事典内の阿知潟の言及」に、

 「…古くは島であった児島半島と本土との間は,多数の島が散在し吉備の穴海(あなうみ)と呼ばれ,ここが瀬戸内海航路の主要ルートであった。高梁(たかはし)川,笹ヶ瀬川,旭川,吉井川の堆積作用で近世初頭には児島が陸繫され,西側は阿知潟,東側は児島湾となった。湾は北岸から干拓が進められたが,大規模なものとして17世紀の沖新田,19世紀の興除新田,明治期の藤田組による藤田開墾(藤田農場),第2次大戦後の六区および七区がある。…」

とある。今は干拓され児島湾もわずかな児島湖を残すのみで見る影もないが、かつては児島半島は島で、本土との間は巨大な干潟だった。
 源平合戦の藤戸の戦いはこの干潟を渡っての戦いで、源氏方の佐々木盛綱が漁夫に浅瀬の場所を教えてもらって勝利するものの、その時他の者にも教えるのではないかと疑い、先陣を取りたいがためにその漁夫を切り殺したことが謡曲『藤戸』の物語となっている。
 江戸時代には半島は陸続きになり、かつて干潟を渡った藤戸も田んぼになっていた。
 青楮は元禄十六年刊除風編の『番橙(ざぼん)集』に、

 傘の空にふかぬかとらが雨     青楮

の句がある。「虎が雨」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「虎が雨」の解説に、

 「曾我の雨,虎が涙ともいう。旧暦5月 28日に降る雨をいう。この日は曾我兄弟の仇討ち決行の日で,曾我十郎祐成に愛された大磯の遊女虎御前が,十郎の死を悲しんで流す涙が雨となって降るというもの。もともと5月 28日の前後は,田の神を送るさなぶりの祝いのためにも雨が待たれ,たとえ数滴であれ,この日には雨が降ると伝えられた。しかし,この雨が虎御前と結びつけられたいわれは明らかでない。おそらく仇討ちの日が大雨であったとされること,また曾我狂言における虎御前の貞女ぶりが涙雨のイメージを呼んだことなどによると思われる。」

とある。

   仝
 白妙や名も凉しげに風車      露堂
   木末の蝉の高き石壇      素秋
 旅人も一歩か銭に草臥て      支考
   囲炉裏のはたに灰焼を見る   稚志
 葺かへの手柄になりしけふの雨   枳邑
   伯母のむかひの駕籠戻しけり  如草
 息災で酒のむ月のめでたさよ    簑里
   早稲のにほひの広き新田    和水

 第一 不易の行也夏の花の白きものあまたならんに名も
    凉しとおもひよせたるそのかたちはさら也
 第二 其場也ただ石壇のたかき也木末の蝉とはをきあは
    せたり高の字よくはたらきて風車の風情はるか也
 第三 其人也一句のさま古めきたれど高き石壇をこなた
    より見あげたるに旅人の草臥の外又あるまじきに
    や中の七もしをかへたらんには草臥の二字石壇に
    あたりてよからず此時さらに新趣をもとむまじき
    か

 発句は、

 白妙や名も凉しげに風車      露堂

 風車は植物の名前で、ウィキペディアに、

 「カザグルマ (風車、学名:Clematis patens C.Morren et Decne.) は、キンポウゲ科センニンソウ属 の落葉性つる性多年草。本州、四国、九州北部、東アジアに分布し、おもに林縁に生える。鑑賞用にも植えられている。」

 「茎は褐色で木質化する。葉は長さ3-10 cmの小葉3-5枚からなる羽状複葉、5-6月に短い若枝の先に白色または淡紫色の花を単生する。」

とある。支考の注にあるように、夏の白い花のたくさんある中で、名前が涼しげだという所に心を留める。夏の涼しさというテーマに白い花や風の連想は不易だが、カザグルマという花があまり詠まれることのない花なので、楷書・行書・草書でいえば行書に当たる。
 露堂は享保二年刊露川・燕説編『西国曲』に、

 魚に餌をあたえてあそべ春の暮  露堂

の句がある。

 脇。

   白妙や名も凉しげに風車
 木末の蝉の高き石壇        素秋

 「其場也」とあるように、カザグルマの花の咲く場所を付ける。石壇は石で作られた祭壇。それを取り囲むようなさらに高い木があってそこで蝉がしきりに鳴いているなかで、カザグルマが涼し気に咲いている。
 カザグルマは蔓性なので「高き石壇」を出すことで、それよりも上の高い所に咲いているという連想を誘う。
 素秋は元禄十六年『番橙集』に、

 よの中はかくのごとしや水海月   素秋
 九輪迄笠まくらるる野分哉     同

の句がある。

 第三。

   木末の蝉の高き石壇
 旅人も一歩か銭に草臥て      支考

 高き石壇を見上げている人物を登場させるので「其人也」になる。高き石壇や梢を見上げる旅人は、草臥れて一息つく旅人になる。
 一歩(いちぶ)の銭を節約するために馬にも乗らずに歩いたということか。ただ草臥れた旅人で終わらせずに、ネタを一つ折り込み取り囃す。

 四句目。

   旅人も一歩か銭に草臥て
 囲炉裏のはたに灰焼を見る     稚志

 「灰焼」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「灰焼」の解説」に、

 「① (「焼灰」とも書く) 大嘗祭の白酒(しろき)、黒酒(くろき)にまぜる灰をつくる役。一一月上旬に造酒司の酒部に率いられて山にはいり、山神をまつって薬灰一石をつくった。
  ※儀式(872)三「使造酒司酒部一人率二焼灰并夫五人一向二卜食山一」
  ② 山などで木を焼いて染色に用いる紺屋灰(こんやばい)をつくること。」

とある。大嘗祭ではないだろう。
「紺屋灰」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「紺屋灰」の解説」に、

 「〘名〙 染料として使用する藍の発酵建に使う灰。燃焼した薪炭の木灰に、タバコの茎を焼いて作った灰またはタバコの茎を水に浸して得た赤褐色の液を加えたもの、あるいは、木灰にタバコ灰、炭酸ソーダ、苛性ソーダなどの溶液を混ぜたもの。こうやばい。」

とある。少量だったら囲炉裏の脇を使って作ることもあったのか。
 草臥れた旅人の民家に泊めてもらったときの情景であろう。
 稚志は元禄十六年『番橙集』に、

 鳥の巣を吹ちる松のうねり哉    稚志
 小半の我も出さずや虎が雨     同

の句がある。

 五句目。

   囲炉裏のはたに灰焼を見る
 葺かへの手柄になりしけふの雨   枳邑

 屋根の葺き替えが終わったところで雨が降り、早く葺き替えておいて良かった。雨のなので家の中で灰焼をする。
 枳邑は元禄十五年刊惟然編の『二葉集』に、

 あたまからないて見せけり猫の恋  枳邑
 蜘の子の雨をいやがる住居かな   同

の句がある。

 六句目。

   葺かへの手柄になりしけふの雨
 伯母のむかひの駕籠戻しけり    如草

 雨なので伯母を迎えに行く予定を中止し、駕籠を戻す。

 七句目。

   伯母のむかひの駕籠戻しけり
 息災で酒のむ月のめでたさよ    簑里

 伯母が病気か何かで駕籠を呼んだが、元気になったので駕籠を戻す。
 とりあえず無事を祝って月見の酒を飲む。
 簑里は享保二年刊露川・燕説編『西国曲』に、

 馬の屁の首途さびしき冬の月    簑里
 烏帽子着ぬ時の寒さや蕗の塔    同

の句がある。

 八句目。

   息災で酒のむ月のめでたさよ
 早稲のにほひの広き新田      和水

 前句の目出度さを、広い新田の早稲の豊作の目出度さとする。
 和水は元禄十六年『番橙集』に、

 吾ままに鳥のはいるや花の庵    和水
 入梅晴や腰をのしたる草の庵    同

の句がある。

2021年6月19日土曜日

 三年前の夏に日記に書いた『嵯峨日記』と『幻住庵記』をようやく多少書き直して、鈴呂屋書庫に『嵯峨日記─緩い隠棲生活─』としてアップしたので、よろしく。
 それでは「西華集」の続き。

   岡山
 旅人よ宿は酒煎る隣あり      晩翠
   行燈の傍に宵の五月雨     雲鹿
 敲かせてをけは水鶏のいつも来て  支考
   一里堤の松に栴檀       梅林
 買に出る煤掃の日の古道具     舊白
   御隠居様は今か食時      晩翠
 有明の鐘もきこゆる川施餓鬼    梅林
   風に吹るる稲の初華      舊白

 第一 時宜也市中に行脚の僧をとどむるといへる題あり
    と見はをのづからあるしの貧閑もしりぬべし
 第二 其場也五月雨の行燈にさしむかひ居たりといへば
    隣は富貴の蔵方にしてこなたは淋しき住ゐなりと
    脇にてさだめたる句也
 第三 曲也ただ五月雨の水鶏を哢してたたかせてをけば
    といひなせるまで也

 発句、

 旅人よ宿は酒煎る隣あり      晩翠

 「時宜也」というのは挨拶句ということだろう。その時に合った句という意味。旅の支考さんを迎え、隣では酒を煎っていると、もてなしの意思を告げる。
 酒を煎るといっても煮詰めるわけではあるまい。熱燗にするという意味だろう。
 芭蕉の『奥の細道』の旅の頃はこうした挨拶句が普通に交わされていたのだが、次第に発句に挨拶の意味が薄れていったか、「行脚の僧をとどむるといへる題あり」と思って読むようにとわざわざことわっている。
 「貧閑」もしりぬべしとあるが、かつてはへりくだって立派な家でもそういうふうに詠むものだった。九年で俳諧も随分変わったものだ。

 脇。

   旅人よ宿は酒煎る隣あり
 行燈の傍に宵の五月雨       雲鹿

 これも興行の席のその場の状況を詠んだもので、宵の五月雨に行燈を灯す。
 「隣は富貴の蔵方にしてこなたは淋しき住ゐなり」は挨拶と切り離して読む場合で、あるいは積極的に挨拶句をやめようとして、こういう解釈を広めたかったのかもしれない。
 雲鹿は元禄十六年刊除風編の『番橙(ざぼん)集』に、

 傘にくさきの花の落にけり     雲鹿
 豆腐には此間遠し心太       同

の句がある。

 第三。

   行燈の傍に宵の五月雨
 敲かせてをけは水鶏のいつも来て  支考

 敲(たた)かせてというのは水鶏が戸を叩くような声を出すところから、戸を叩くような音がしても放っておけばいい、いつもの水鶏だとする。五月雨の宵に水鶏の声へと発展させることで「曲也」となる。
 水鶏の声は戸を叩く音に似ているというので、古来和歌に詠まれている。「日本野鳥の会京都支部」のホームページには、

 「ヒクイナが夜にけたたましく「キョッ、キョッ、キョキョキョキョ…」と鳴く声は、とても戸を叩く音には聞こえません。ところが、野鳥の声の録音の第一人者・松田道生さんが一晩中タイマー録音したところ、早朝に「コッ」とか「クッ」という声を1.5秒間隔で出し続けて鳴いていたそうです。昔の人はその声を「戸を叩く音」に例えていたわけです。」

とある。

 四句目。

   敲かせてをけは水鶏のいつも来て
 一里堤の松に栴檀         梅林

 水鶏の来るあたりの景色を付ける。一里続く堤防に松や栴檀が生えている。
 梅林は露川・燕説編の『西国曲』の表六句に、

   鶴に舞はれて若芝の家
 永き日の何にくれたる隙もなし   梅林

の第三がある。
 また、元禄十六年刊除風編の『番橙(ざぼん)集』に、

 はるの日や雉子のかくるる麦のたけ 梅林

の句がある。

 五句目。

   一里堤の松に栴檀
 買に出る煤掃の日の古道具     舊白

 一里の堤防の道をたどる人物を付ける。煤掃きのための道具を買いに行く。

 六句目。

   買に出る煤掃の日の古道具
 御隠居様は今か食時        晩翠

 御隠居様が飯を食っている間に買い物に行く。

 七句目。

   御隠居様は今か食時
 有明の鐘もきこゆる川施餓鬼    梅林

 年寄りは朝起きるのが早く、まだ夜も明けぬ前に起きて、飯を食う頃には有明の鐘が聞こえ、折からお盆の川施餓鬼が営まれている。位付け。

 八句目。

   有明の鐘もきこゆる川施餓鬼
 風に吹るる稲の初華        舊白

 お盆の頃なので稲の花が咲く。

2021年6月18日金曜日

 世界的にコロナワクチン接種が進んでくると、単純に新規感染者数だけでその深刻さがはかりにくくなる。ワクチンは感染を防ぐことはできなくても重症化を防ぐから、感染者数に対し重症化率や死亡率が下がっているかどうかが重要になる。
 ワクチンがかなり行き渡った段階でも、新規感染者数が増えることはいくらもあると思う。それだけで過剰な恐怖を煽られないように気を付けよう。
 日本もようやくワクチン接種回数が2880万回になった。ふたたび新規感染者数が増えたとしても、65歳以上の高齢者の40パーセント以上が少なくとも一回のワクチン接種を受けているから、重症化率はかなり減るのではないかと思う。
 変異株も長期的に見れば感染力が高く死亡率の低い変異株が生き残り、最終的にはコロナはただの風邪になる。変異株がすべて悪ではない。
 それでは「西華集」の続き。

播磨
   姫路
 淋しうもちつたる芥子の一重哉   千山
   葵ちかよる翠簾の有明     厚風
 盃に老の泪をこぼすらん      支考
   反古しまハば国々の状     全夷
 今の間に樹の葉の雪の降かかり   臨川
   高瀬の米の下る山川      鷗正
 風呂敷は宗祇に似たる二人連    丈松
   焼火の影も更る夜あらし    蘭辱

 第一 不易の眞也淋しうもちつたるといひつめて目の前
    にいみしうも仕つたりと芥子に意をもたせたる所
    あしからず
 第二 其場也其人也此君のいかなればかくあさましき住
    ゐにおりゐ給て翠簾のあふひもいたづらにちかよ
    るといへば都ちかき片里の淋しきありさまもおも
    ひやるるかし
 第三 時の観想也老臣の君をおもふこころ君の老臣をあ
    はれみ給へるかかる盃の一節にこそむかしもしの
    ばるる物なれ

 発句、

 淋しうもちつたる芥子の一重哉   千山

は芥子の花の散るのが寂しいという句で、特に新味もなく「不易の眞也」となる。花が咲くのをよろこび、花の散るのを悲しむのは、生命への共感という風雅の眞(まこと)の基本と言えよう。それが「芥子に意(こころ)をもたせたる」ということになる。
 千山はこの四年後に惟然が播磨を訪れ、元禄十五年に『花の雲』を編纂し、同年の惟然の『二葉集』とともに独特な超軽みの風を発信していくことになる。

 脇。

   淋しうもちつたる芥子の一重哉
 葵ちかよる翠簾の有明       厚風

 「葵ちかよる」は葵の咲く時期も近寄るということか。芥子の散った後、翠簾(みす)を上げると差し込んでくる有明の月の光に、葵がもうすぐ咲こうとしているのが見える。
 庭の花が間近に見えるような、小さな家で、隠士の姿が思い浮かぶ。その意味で「其場也其人也」となる。発句にその場所とそこにいる人を付けている。支考の言う「都ちかき片里の淋しき」は、

 我庵は都のたつみしかぞすむ
     世をうぢ山と人はいふ也
             喜撰法師(古今集)

の心と見てのものだろう。
 厚風は元禄十五年刊惟然編の『二葉集』に、

 あれちらせ上野の梅に猫のこゑ   厚風
 ぬげるやら着ぬでもなしに秋の空  同

などの句がある。

 第三。

   葵ちかよる翠簾の有明
 盃に老の泪をこぼすらん      支考

 前句の翠簾に葵を見る人の位付けになる。風景の句に人を付ければ「其人也」となるが、前句の人にその情を付けているから、それを支考は「時の観想也」と言う。
 支考の意図としてはこれは君を思う老臣で、君が身罷り、士は二君に仕えずと隠棲している老人とする。酒に昔のことを思い出しながら泪する。

 四句目。

   盃に老の泪をこぼすらん
 反古しまハば国々の状       全夷

 国々の旧友に向けて手紙を書こうとしては反古にする。
 手紙を書こうと思っては上手く描けないまま反古にしているうちに、旧友の訃報が届いたりしたのだろう。前句の泪の理由を付ける。
 全夷は『西華集』坤巻に、

 松までは遠しここらに夕凉み    全夷
 大根引日和や里のむらがらす    同

の句がある。

 五句目。

   反古しまハば国々の状
 今の間に樹の葉の雪の降かかり   臨川

 季節を冬に転じる。部屋の中に木に積ってた雪が落ちてきて、広げていた反古を急いで片付ける。
 臨川は元禄五年刊才麿編の『椎の葉』に、

 淡雪や白魚とる夜の七ッ過     臨川
 はり合のなくておかしき枯野哉   同

などの句がある。

 六句目。

   今の間に樹の葉の雪の降かかり
 高瀬の米の下る山川        鷗正

 これは「其場也」であろう。雪の降る外の景色の遠くを眺めると、米を運ぶ高瀬舟が下ってゆく山川がある。高瀬舟と平田舟はかつて河川の物流を支えてた船で、小型のものが高瀬舟、大型のものを平田舟という。
 鷗正は元禄五年刊才麿編の『椎の葉』の鷗嘯か。

 書写増位いづれ栬の早稲をくて   鷗嘯

 七句目。

   高瀬の米の下る山川
 風呂敷は宗祇に似たる二人連    丈松

 これは「其人也」になる。高瀬舟に宗祇とその従者を彷彿させるような風呂敷を持った人が乗っている。
 風呂敷という言葉は江戸時代に広まったもので、それ以前は「平包み」とか「袱紗(ふくさ)」とか言っていたらしい。宗祇の風呂敷は何か元ネタがあるのか、よくわからない。
 丈松は『西華集』坤巻に、

 淡雪の野や絵にかける春の駒    丈松
 我宿のきぬたを聞に野寺かな    同

などの句がある。

 八句目。

   風呂敷は宗祇に似たる二人連
 焼火の影も更る夜あらし      蘭辱

 これは明応八年宗祇独吟何人百韻の挙句、

   雲風も見はてぬ夢と覚むる夜に
 わが影なれや更くる灯       宗祇

であろう。
 二人連れは実は宗祇(に似た人)とその影で、嵐の夜も更けて行く。
 蘭辱は『西華集』坤巻に、

 かげろふにもゆるばかりぞ蝶の羽  蘭辱
 鴫立て稲株ばかり日暮哉      同

などの句がある。


   仝
 櫛鳴らす音や夏野のきりぎりす   元灌
   すくり立テたる稗にむら雨   洛茨
 夕顔の小家も今は絵になりて    支考
   心ほそさは旅の明暮      幸夕
 秀衡の所で飽しとろろ汁      春亭
   山は残らず秋風が吹      元灌
 水を出て笹の葉はしる月の影    洛茨
   笠着て馬に初雁の聲      春亭

 第一 流行の眞也秋の野のきりぎりすのかれがれならん
    よりは櫛の歯ひきならすたとへには夏野のきりぎ
    りすいきほひ有ていとよし夏秋のさかひに眼を付
    ざらんや
 第二 其日の天相也稗すくる比の雨恋しきに一村雨のふ
    り過たるほどは草葉の露も日影にかがやきてきり
    ぎりすのいきほひ殊にたしかならん
 第三 曲也ただ片山里の小家がちなるあたりに夕かほの
    花の咲わたりたるこなたより見やりたるけしきば
    かり也

 発句、

 櫛鳴らす音や夏野のきりぎりす   元灌

は夏野のキリギリス(コオロギ)が櫛を鳴らす音に似ているという句。櫛の歯の先をこするとリーリーりーりーとコオロギの声に近い音が出る。
 夏野のコオロギの古典の情とは関係ないため、「流行の眞也」となる。秋の弱々しいコオロギの声ではなく夏のコオロギの勢いある様が出ていると、支考は評価する。
 元灌は千山、厚風とともに後の惟然の風の中心人物となる。

 脇。

   櫛鳴らす音や夏野のきりぎりす
 すくり立テたる稗にむら雨     洛茨

 「すぐり立」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「選立」の解説」に、

 「〘他タ下二〙 よりすぐってそろえる。えらびぬく。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ※御伽草子・まんじゆのまへ(室町時代物語大成所収)(江戸初)上「かうそう、きそう、卅人すくりたて、かんたんをくだき、いのらるる」

とある。間引いた後の稗ということだろう。
 夏野のキリギリスに村雨を付けるという所で「其日の天相也」となる。一雨来て草も生き生きとして、キリギリスも元気に鳴く。
 洛茨は『花の雲』に、

 猫の居る木は何じややら何じややら 洛茨

の句がある。

 第三。

   すくり立テたる稗にむら雨
 夕顔の小家も今は絵になりて    支考

 前句の稗畑の風景に夕顔の咲く小家を添える。「曲也」とあるが、曲にはいろいろな意味があり、この場合は「精選版 日本国語大辞典「曲」の解説」の、

 「③ 面白み。興味。また、愛想(あいそ)。
  ※十問最秘抄(1383)「諸人面白がらねば、いかなる正道も曲なし」
  ※俳諧・犬子集(1633)一一「つもるうらみをかたり申さん 白雪のふりこころこそきょくなけれ〈慶友〉」
  ④ (変化のある面白みの意から) 音楽、歌謡の調子や節(ふし)。また、そのまとまった一段や作品。楽曲。
 ※続日本紀‐天平勝宝八年(756)五月壬申「令下二笛人一奏中行道之曲上」
  ※方丈記(1212)「松のひびきに秋風楽をたぐへ、水のおとに流泉の曲をあやつる」 〔宗玉‐対楚王問〕
  ⑤ 芸能などで、面白みをもった技(わざ)の変化や工夫。また、曲芸。
  ※中華若木詩抄(1520頃)下「上竿奴と云は、竿を十丈も二十丈もついで、其上へのぼりて、種々の曲をして、銭をとる也」
  ⑥ 能楽で、基礎的な技の上に、演者の個性によって加えられた演出上の妙味。
  ※至花道(1420)闌位の事「上手の闌(たけ)たる手の、非却って是になる手は、これ、上手にはしたがふ曲(キョク)なり」

あたりの意味か。前句に添えてそれを発展させる、というニュアンスであろう。
 夕顔の小家と景を重ねておいて、そのあと「今は絵になりて」とするあたりに一工夫ある。

 四句目。

   夕顔の小家も今は絵になりて
 心ほそさは旅の明暮        幸夕

 前句を旅人が見た眺めとして、その心細い心境を付ける。「時の観想也」であろう。

 五句目。

   心ほそさは旅の明暮
 秀衡の所で飽しとろろ汁      春亭

 義経弁慶の陸奥の旅とし、長旅はいつも粗末な食事でとろろ汁にも飽きたことだろうとする。俤付け。
 春亭は『西華集』坤巻に、

 立とめて娘うつくし桃の華     春亭
 唐秬をかたげて通る彼岸かな    同

の句がある。

 六句目。

   秀衡の所で飽しとろろ汁
 山は残らず秋風が吹        元灌

 陸奥の旅ということで、

 都をば霞とともに立ちしかど
     秋風ぞ吹く白河の関
             能因法師(後拾遺集)

の歌の縁で秋風を付ける。

 七句目。

   山は残らず秋風が吹
 水を出て笹の葉はしる月の影    洛茨

 月の定座なので夜の景色を付ける。水は海か湖か、波に映ってた月の影は、やがて笹の葉の露を照らし出す。

 八句目。

   水を出て笹の葉はしる月の影
 笠着て馬に初雁の聲        春亭

 月を見る風狂の旅人とする。四句目の旅の明暮から三句隔てている。

2021年6月17日木曜日

 今日も雨。
 東京のコロナ新規感染者数は二日続きで前日を上回った。その一方でワクチン接種率は10パーセント近くになってきている。(全国だと11パーセントを越えている。人口の多い所はどうしても遅い。)
 すぐに第四波のような急拡大はないと思うが、注意するに越したことはない。
 あと、『梟日記』を読む鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。
 さて『梟日記』の旅は終わったが、途中でgoogleブックスに老鼠堂永機・其角堂機一校訂の『支考全集』(東京博文館蔵版、明治三十一年)があることを知って、表八句が読めるとわかったので、あらためてそれを読んでみようと思う。
 発句・脇・第三には支考自身の解説がついている。

摂津
   難波
 卯の花を月夜と見たる山烏     諷竹
   里は焙爐のにほふ門々     天垂
 笠きたと笠きぬ人の連立て     支考
   申酉前の風の取沙汰      芙雀
 普請場の汁あたためるこけら屑   三惟
   隣の猫か鼠追出す       伽香
 道端は梢ばかりの初紅葉      舎羅
   日のかたふきてさむきそば刈  沙長

 第一 不易の眞也さればうのはなの白妙に月夜からすの
    鳴まとひたらんしゐて新意をもとめねども欵の一
    字にて一句をいひこなしたるあしからず俳諧ただ
    新趣を求べからず
 第二 時節也その比は蛙の目かり時ならん日長く夜みじ
    かにいとねぶたくてよし
 第三 其人也まづは馬買など見るべし一句のさまよのつ
    ねのつくりにはあらず此後はかくのごとく始もな
    く終もなきやうにあらんとおもふに此筋は誠に難
    からん

 発句、

 卯の花を月夜と見たる山烏     諷竹

は紀貫之の「月の雪」を踏まえたものだろう。月の雪は、

 衣手はさむくもあらねど月影を
     たまらぬ秋の雪とこそ見れ
              紀貫之(後撰集)

の歌にあるように、月の光で明るくなっている様を雪に喩えたもので、発句の方は夜の卯の花の咲く様をカラスが上から見下ろしたなら、貫之の月の雪かと思うであろう、という句だ。
 月を雪に喩え、花を雪に喩える心は古典に依拠する不易体で、元禄六年の句に、

   餞別
   風流のまことを鳴やほととぎす 凉葉
 旅のわらぢに卯の花の雪      芭蕉

の句もある。
 従って支考の評も「不易の眞也」となる。特に新意を求めてはいない。「欵の一字」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「款・欵」の解説」に、

 「① まごころ。まこと。誠実。〔荀子‐脩身〕
  ② 交わり。親しみ。よしみ。〔徐陵‐答李顒之書〕
  ③ よろこぶこと。
  ※三代実録‐貞観五年(863)八月一七日「安岑等自欵云」 〔宋孝武帝‐七夕詩〕」

とある。
 諷竹は之道のこと。元禄三年に『あめ子』を編纂し、大阪蕉門の中心を担っていたが、後に珍碩が洒堂の名で大阪に乗り込んできて荒らされたので芭蕉に仲裁を求めた。それが元禄七年の芭蕉の最期の大阪への旅の理由のひとつでもあった。
 その後も支考、去来らとともに芭蕉を看取ることになった。芭蕉の死後名前を諷竹に変えた。

 脇、

   卯の花を月夜と見たる山烏
 里は焙爐のにほふ門々       天垂

は「時節也」とあるように、卯の花の季節に合った景を付けている。
 焙爐はウィキペディアに、

 「焙炉(ほいろ)とは、対象物を下から弱く加熱して乾燥させつつ人が対象物に手作業を加えられるように工夫された一種の作業台である。碾茶や手揉み茶の製造、養蚕における繭の乾燥などに用いられる。」

とある。ここではお茶の乾燥であろう。あちこちで収穫したばかりのお茶を焙爐で乾かす匂いがする。
 支考の評の「蛙の目かり時」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「蛙の目借時」の解説」に、

 「(「目借」は蛙がめすを求める意の「妻狩(めか)る」から転じた語という) 春暖の、蛙が鳴きたてる頃の眠気をもよおす時期。蛙に目を借りられるためとする。かわずの目借時。かえるどき。目借時。《季・春》
  ※俳諧・千代見草(1692)上「夜道に凄き水の鳴音 乗る駒も眠る蛙るの目借時〈草角〉」

とある。日が長く夜が短いので、眠くなる頃の雰囲気が「焙爐のにほふ」に感じられる。
 天垂は『西華集』坤巻に、

 朝露をふり落したる鳴子哉     天垂
 しほらしく馬も眠てきぬた哉    同

などの句がある。

 第三。

   里は焙爐のにほふ門々
 笠きたと笠きぬ人の連立て     支考

 「其人也」とあるように、焙爐のにほふ里に居そうな人物を付ける。支考のイメージでは馬買だったようだ。馬喰(ばくろう)のことだろう。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「馬喰」の解説」に、

 「17世紀からは駄送・耕作などに使役することが庶民の間にも広まるにつれて、各地の産地や市場町・宿場町に博労(馬喰)が生まれ、城下町などには馬喰の集住する馬喰町や、旅商人としての馬喰の宿泊する馬喰宿などができた。馬喰の多くは藩から鑑札を与えられていた。」

 馬喰は旅商人だから、笠を着た人は馬喰で、笠着ぬ人は地元の人だろうか。
 支考は第三の付け方を其場、だとか其人とかである程度マニュアル化しようとしているのだろうか。その場、その人、で何か目新しいことを出すことに注意を払っていたようだ。

 四句目。

   笠きたと笠きぬ人の連立て
 申酉前の風の取沙汰        芙雀

 申酉は時刻で酉は日没になる。「取沙汰」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「取沙汰」の解説」に、

 「〘名〙 (古くは「とりさた」)
  ① 取り扱って処理すること。とりさばき。とりまかない。処置。
  ※今鏡(1170)八「かの里や局などの女房など、かみしもの事ども、とりざたすべき由承りて仕うまつり」
  ② 世間でうわさをすること。また、そのうわさ。世上の評判。
  ※天草本平家(1592)三「セジャウノ torisata(トリサタ)デ ゴザッタ」

とある。昼下がりに笠着た人と笠着ぬ人が連れ立って、世間の噂話をしている。
 芙雀は享保二年刊露川・燕説編『西国曲』に、

 比は華秋の実を見ん頭陀袋     芙雀

の句がある。

 五句目。

   申酉前の風の取沙汰
 普請場の汁あたためるこけら屑   三惟

 普請場は工事現場のことで、「其場」であろう。廃材を燃やして焚き火をして汁を温めている。当然そこにいる人物も想像できるから「其場其人」であろう。
 三惟も享保二年刊露川・燕説編『西国曲』に、

 おもしろし千石とをしはるの雨   三惟

の句がある。

 六句目。

   普請場の汁あたためるこけら屑
 隣の猫か鼠追出す         伽香

 汁を温めている現場の隅では猫が鼠を追いかけている。

 七句目。

   隣の猫か鼠追出す
 道端は梢ばかりの初紅葉      舎羅

 前句の背景と季節を付ける。
 舎羅は支考の『梟日記』の旅に同行する予定だったが、何かわけがあってか西宮までとなった。
 芭蕉の最期の床にあって、支考と一緒に介護を務めた仲だった。

 八句目。

   道端は梢ばかりの初紅葉
 日のかたふきてさむきそば刈    沙長

 紅葉の美しい山里に、蕎麦刈を付ける。
 沙長は『西華集』坤巻に、

 夕部さぞ荒けむ月の豆畠      沙長

の句がある。

2021年6月16日水曜日

 今日は一日雨。梅雨らしい一日だった。
 東京の新規感染者数は久しぶりに五百人を越えた。減ってくるとどうしたって気の緩みが出てくる。再び増えればまた引き締める。その繰り返しになっている。
 第二波のあとは一週間で千人超という所で長く安定した。第三波のあとは千九百人くらいの所で底になった。今回はそれより高い所で着地点になる可能性はある。
 今から二週間前というとちょうど自分の散歩を再開した時に重なる。みんな同じこと考えてたんだろうな。また引き締めなくてはならないかな。
 それでは「梟日記」の続き。今日で最終回。

37,下関

「七日
 此日下の關にわたる。流枝亭に會して、おのおの病床つゝがなき事を賀せらる。
 しなでこそ都のあきも山づゞき
   泊船津
 船頭も米つく磯のもみぢかな
   壇浦
 此浦は平家の古戰場にして、歌人詩僧もむなしく過べからず。さればやよひの花ちりぢりに、金帶玉冠もいたづらに、千尋の底にしづめられしむかしのありさま、今なを見るばかり、あはれふかし。
 鳥邊野はのがれずやこの浦の秌
 世につたふ、この浦の蟹は、平家の人々の魂魄なりと。誠にその面人にことならず。をのをの甲冑を帶して、あるいは眉尻さかしく髭生ひのぼりていかれる姿、さらに修羅のくるしみをはなるゝ時なし。
 秌の野の花ともさかで平家蟹
 阿彌陀寺といふ寺は、天皇・二位どのゝ御影より一門の畵像をかきつらねて、次の一間は西海漂泊のありさま、入水の名殘に筆をとゞめたりと、この寺の僧の繪とき申されしが、折ふし秌の夕の物がなしきに、人はづかしき泪も落ぬべき也。
 屏風にも見しか此繪は秌のくれ
 この寺の庭に老木の松ありて、薄墨の名を得たる事は、文字が關を此松の木間より見わたしたるゆへなりと、柳江・流江などかたり申されしに、
 薄墨のやつれや松の秌時雨
   重陽
 簑笠にそむきもはてず今日の菊」

 七日に関門海峡を渡り下関に戻る。五月の終わりには「まして此ところ古戰場にして、秌のあはれをこそ見るべけれとて」と後回しにした所を見て回ることになる。
 流枝亭は行きにも泊っている。支考編『西華集』には、

 身を捨る薮もなければ秋の暮   流枝
 大雪は松に音なき寝覚哉     同

の句がある。
 支考の病気の噂は下関にも届いていた。行けば回復祝いになる。

 しなでこそ都のあきも山づゞき  支考

 九州は海を隔てていたが、下関に来た今は畿内とも陸続きになる。
 船津はどこだかよくわからない。あるいは舟島(巌流島)のことか。船頭が米を搗くのにこの場所を使っていたようだ。
 宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島の決闘が有名になったのは近代の吉川英治の小説によってだし、この決闘の出典となった『武公伝』や『二天記』も支考の時代よりも後に書かれたものなので、当時の人の話題にはなってなかったと思う。
 武蔵というと、延宝の頃の「時節嘸」の巻三十一句目に

   うけて流いた太刀風の末
 吉岡の松にかかれる雲晴て

という吉岡憲法と宮本武蔵との果し合を詠んだと思われる句がある。

   泊船津
 船頭も米つく磯のもみぢかな   支考

 壇の浦の戦いは当然ながら『平家物語』であまりにも有名な話で、「歌人詩僧もむなしく過べからず」と、ここに来たなら必ず見ていかなくてはならない。
 壇の浦の戦いが行われたのは関門海峡から三韓征伐でも知られた干珠満珠の島までの間の海域をいう。支考もこの辺りを船で見て回り、その途中で船津に泊まったのだろう。
 沢山の人や宝が沈んだことに思いを馳せ、

 鳥邊野はのがれずやこの浦の秌  支考

 鳥邊野は京の東側、清水寺の方にあった葬送の地だが、ここでは死は逃れられないという意味で引き合いに出されている。ここで生き残って無事に京に帰った人も、早かれ遅かれ鳥野辺に葬られることになる。死んでも生き残っても結局最後は悲しい浦の秋だ。
 支考も病気になって、無事に京に帰ったとしてもいつかはやはり死ぬんだという、そんなこの世の無常を感じていたのだろう。
 平家蟹はその甲羅の模様が人の怒った顔ににているというので、海に沈んだ平家の亡霊が乗り移ったと言われてきた。

 秌の野の花ともさかで平家蟹   支考

 前の鳥野辺の句のイメージと連続していて、無事都に帰って鳥野辺の野の花となって花野を飾ることのできなかった平氏の霊が、ここで平家蟹となったのは無念のことだ、とする。
 阿弥陀寺は今の赤間神宮で、元は安徳天皇を祀ったお寺だったが、明治の廃仏毀釈によって神社になった。赤間神宮のホームページの宝物殿の所には、重要文化財土佐光信筆『安徳天皇縁起絵図八幅』、重要美術品『平家一門肖像画十幅』が記されている。東京大学史料編纂所のホームページには、

 「江戸時代には、床下に五輪塔がある天皇殿に安徳天皇・平家一門の影が安置され、その隣室の襖絵として『安徳天皇縁起絵』があったようである。阿弥陀寺は明治の廃仏毀釈に際して廃寺となり、御影堂は解体されて安徳天皇陵・安徳天皇社となって、のちに赤間宮(あかまのみや)、さらに赤間神宮となった。御影堂・御陵の位置は、画中の阿弥陀寺境内でいうと、向って左手の樹木が描かれている辺りに相当しようか。御影堂の解体時に、障子絵は現在の掛幅装に改められたといい、第二次世界大戦の戦火を免れて今日まで伝わっている。」

とある。

 屏風にも見しか此繪は秌のくれ  支考

 支考が見たのはおそらく、今日掛幅装で残っている『安徳天皇縁起絵』ではないかと思う。
 寺の庭にあった「薄墨の松」は「日本全国名所巡りの旅」というサイトによると、昭和二十年に戦災で焼失し、今は二代目の松があるという。文和五年(一三五六年)足利尊氏が安徳天皇御廟に参拝し、

 いづくより名をあらはさむ薄墨の
     松もる月の門司の夕暮

と詠んだと言われている。支考の時代は特に足利尊氏には結びつけられていなかったようだ。
 薄墨の松の名の由来が門司関をこの松の木間より見渡したからだと教えてくれた人の名の中に、柳江の名前がある。行きに広島に来た時に尋ねたが会えなかった柳江に、ここに来てやっと会えたようだ。

 薄墨のやつれや松の秌時雨    支考

 松が薄墨のようにかすれているのを秋の時雨のためだとする。
 下関での『西華集』の表八句は以下の通り。流枝が発句で、柳江が脇を付けている。

   下関
 新敷笠は案山子の参宮哉     流枝
   松に日のさす磯の朝月    柳江
 此秋の名残を下の關に居て    支考
   抱て通れば余所の子を見る  蘆畦
 そよめかす菖蒲の風の一しきり  龍水
   畳かへにてさつと吸物    嘯雲
 うつすりと鷹場の雲に成にけり  琴口
   遠寺の鐘に帰る市人     捨砂

 壇の浦を一通り見て回り、少なくとも九月九日の重陽までは下関に滞在していた。

   重陽
 簑笠にそむきもはてず今日の菊

 簑笠を着て俗世の習慣にそむいてはみても、重陽の節句は世俗の人と同様に祝う。
 芭蕉も最後の重陽は奈良で迎え、重陽に背くかのようにその日大阪へと旅立ったが、それが最後の旅になった。その時の句が日田で獨有に語った、

 菊に出て奈良と難波は宵月夜   芭蕉

の句だった。そんなことも思い出したのであろう。


38,結び
 
 「世情の物に逢て物に感ずる事は、いにしへ猶今にたがふ事なし。我かつ都を出し日より、世の好悪にすゝめられて、その是非にある事二百余日ならん。さるは誰がためにしたしく、誰がためにうとましきや、是を抖擻の鏡とおもはゞ、あだに破草鞋の名はとるまじきに、褒貶一情といふところには、いかで我ちからを得侍らん。菊の隱逸に對して、この心をなげくばかり也。吁此時の風雅のまことあれや。この時の風雅のまことあらざらんや
   元祿戊寅之秋九月九日」

 世間の人が物に対して感じ取ることというのは昔も今も変わりはしない。まあ、これは今の時代でもいえることだが、どんなに時代が変わろうとも世界中どこへ行こうとも、人間は結局人間なんだということだ。
 笑ったり泣いたり繰り返しながら、みんな一生懸命厳しい生存競争の中を生きていて、そこに意味を感じる時もあれば空しさを覚える時もある。
 そして、その苦しみを和らげ、遊ぶことに喜びを見出す。結局人の心は「不易」だということだ。
 人類の進化の過程でも、クロマニヨン人とネアンデルタール人の違いはクロマニヨン人の方がほんの少し後頭葉の退化が見られ、脳の容積が小さいというところにあったという。これによってクロマニヨン人は警戒心が緩み、遊ぶことで仲間との結束を高め、ネアンデルタール人に勝利したという説もある。
 ほんの少し真剣に生きることをやめて遊びを覚えたことで、今の人類は飛躍的な進歩を遂げた。同じような後頭葉の退化はリビアヤマネコが家猫に進化するときのも起きているという。
 如月の初めに今回の旅を思い立ってから七か月、二百余日の間旅を続けてきていろいろな人のお世話になってきた。この旅の記に記されているのは概ね良い人ばかりだが、実際は嫌な目にあうことも多々あったのだろう。
 「さるは誰がためにしたしく、誰がためにうとましきや」と問うに、それは「抖擻(とそう)」、つまり雑念を払うための鏡であり、雑念を払えば親しきも疎きも結局自分の心次第なんだ。
 無駄に草鞋を何足も潰してきたわけではない。毀誉褒貶も結局は同じ人の情から生まれてくるものだ。
 菊の花は「隠逸の花」とも呼ばれる。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「隠逸の花」の解説」に、

 「菊の花。他の草花がしぼんだ頃に咲くさまが、俗世を離れて隠れ住む人のさまに似ているところからいう。
  [補注]「周敦頤‐愛蓮説」に「予謂、菊、花之隠逸者也、牡丹、花之富貴者也、蓮、花之君子者也」とある。」

とある。
 自分が隠逸をせずに旅を続けているのは、旅をすることで様々な人間の感情に触れることで、結局その根底にある情は一つ、風雅の眞(まこと)あるのみだと知ることができるからだ。
 そして最後に読者に問いかける。この『梟日記』に風雅の眞はあっただろうか、風雅の眞はなかったのだろうか。

2021年6月15日火曜日

 国の大規模接種が64歳以下でも受けられるようになるというが、住んでる自治体が接種券を出さない限り受けられない。接種券はあくまで自治体の小規模接種スケジュールに合わせて順次発行されるから、当分の間こちらには回ってこないわけで、何の意味もない。これじゃしばらく大規模接種会場は閑古鳥だ。憂き我をさびしがらせよ。
 最初から自治体のスケジュールでしか接種が進まないようにできているところに国はわり込めない。自治体が接種券を渋れば国は何もできない。
 昨日の新聞にAIが作った和歌というのが載っていた。

 み吉野の山ほととぎす長き夜の
     山の都の春をまつかな

 はっきり言って季節感が出鱈目だ。吉野の時鳥はともかくとして、長き夜は秋で、山の都って南北朝時代か。それで春を待つだと、今度は冬になる。雅語を適当につなぎ合わせて作って定型にしただけで、今のAIのレベルはまだこの程度なのか。季語をちゃんと学習させた方が良い。
 もう一首の方の、

 明けてゆく峰の木の葉の梢より
     遥かに続くさ牡鹿の声

 この方が一応和歌っぽくなっている。「梢より続く」が何の比喩なのかわかりにくい。「木の葉の梢」は首切れな感じで「峰の梢の木の葉より」の方が良い。

 明けてゆく峰の梢の木の葉より
     遥か聞くらむさ牡鹿の声

なら、そこそこ形になるのではないか。
 まあ、「中国語の部屋」でここまで作ったのなら上出来といえよう。

 それでは「梟日記」の続き。

35,ふたたび黒崎へ

「廿五日
 此日駕籠にたすけられて、ふたゝび黒崎に歸る。是は水颯・沙明など枕がみになげき申されし、はじめの心ざしをつぐはんとなり。
 駕籠の戸に山まづうれし鵙の聲
   沙明亭
 生て世に菜汁菊の香目に月よ
   水颯亭
 脇息に木兎一羽秌さむし
   一保庵
 何とやら心も髭に老の秌
   右三句は
     病後の吟也。
   帆柱亭
 ひだるさを兒の言の夜さむかな」

 前来た時は病気で寝込んでしまって何もできなかったということで、一度黒崎に戻る。病み上がりで無理をせず、駕籠に乗ったようだ。

 駕籠の戸に山まづうれし鵙の聲  支考

 駕籠に乗ったとはいえ外に出れたのがうれしかったのだろう。黒崎では三十日までのゆっくりとした滞在になる。

   沙明亭
 生て世に菜汁菊の香目に月よ   支考

 とりあえず生きてて良かった。まだ病み上がりで朝飯は菜汁しか食えないが、菊の香に有明の月も見ることができる。

   水颯亭
 脇息に木兎一羽秌さむし     支考

 脇息(けふそく)は肘を置いて寄りかかるための台で、まだ本調子ではないか。庭に一羽のミミズクがやってくる。梟の支考にミミズクが。

   一保庵
 何とやら心も髭に老の秌     支考

 寝込んでる間に無精髭が伸び放題になっていたか。体だけでなく心にも髭が生えたみたいに老いを感じる。支考は寛文五年(一六六五年)生まれで、四十三。当時はとっくに初老と呼ばれる年だった。
 この三句は病後というから、次の一句は前回来た時の病中の吟か。

   帆柱亭
 ひだるさを兒の言の夜さむかな  支考

 「ひだるさ」は空腹のこと。言は「ことは」と読む。

 『西華集』の黒崎での表八句は以下の通り。

   黒崎
 松虫の啼夜は松のにほひ哉    沙明
   何やら稲の白き月影     琴吹
 此秋を良暹法師こまられて    支考
   机の上に状の書さし     雲鈴
 風さはぐ日和あがりの小鳥ども  帆柱
   夜着見せかけるはたご屋の春 水颯
 石部ほど兀た所も華盛り     一保
   どちらむきても青麦の中   柳生


36,ふたたび小倉へ

「三十日
 この日黒崎をわかれて、小倉におもむく。人のわかれ・世の名残は行脚のおどろくべきにはあらねど、今の別のかなしきは、病後のたづきなきこゝろにや侍らん。
 菊𦵒にいつ習ひてや袖の露」

 旅はその場所その場所で別れがあるが、黒崎は長く病に伏せり、小倉の医者も紹介してもらい、その間多くの人が見舞いに来て世話をしてくれた。それだけに別れも辛いものがある。

 菊𦵒にいつ習ひてや袖の露    支考

 「𦵒」は「萩」に同じ。

「九月朔日
 有觜亭にいたる。この亭はみな月のはじめならん、一夜のかりねにわかれ侍しが、行めぐりたる九國のさまもおもひやられて、
 琵琶形にあるきて秌も九月哉
 此家の後に閑居あり。一枝とかいへる額をうちて、こなたには棚つり、へつゐもふたつばかりありて、窻外に山を見わたせば、松の嵐もつとふばかり、中々おかしき住ゐなりしが、病後なを藥をやめがたく、雲鈴にこの所帶をわたして、餅もやき茶も煮つべし。
 藥鍋相手にとるやきりぎりす   雲鈴
 元翠・柳浦など水颯・沙明も又つどひ來て、夜をせめ日をつくす。このあそび三四日ばかりなるべし。
 虎もゐぬ和田酒盛やあきのくれ
   唐辛といふ
     題にあたりて
 鑓持の秌や更行唐がらし」

 有觜亭は六月一日、九州に入った日に一泊し、翌日には大橋(行橋)の元翠亭に向かっている。
 支考の九州での軌跡は、小倉から中津街道で南下し、日田や阿蘇の通って熊本へ至る。ここまでが楽器の琵琶のボディの下の部分で、そこから佐敷までが琵琶のネックの部分になる。そこから長崎は琵琶のマシンヘッドの部分の直角に折れ曲がった部分で、そこから海路で熊本に近い柳川に戻り、北へ行って博多・福岡に出て最後に唐津街道で小倉に戻ってきたから、おおむね楽器の琵琶の形になる。

 琵琶形にあるきて秌も九月哉   支考

 六月一日に始まった旅は九月一日、三か月かけて出発点に戻ってきた。
 有觜亭の裏に閑居のための離れがあって「一枝」という額が掛かっている。ここには棚と厨房用の竈が二つあり、そこの窓から山も見えれば松の嵐の音も聞こえてくる。
 まだ薬を飲み続けていた支考は、雲鈴をそちらに詰めさせて薬だけでなく餅も焼き、唐茶も煮出してもらった。

 藥鍋相手にとるやきりぎりす   雲鈴

 薬を煎じていると、コオロギの声がする。
 大橋からは元翠・柳浦が、黒崎からは水颯・沙明もやってきて、九州での最後の日々を楽しむことになる。

 虎もゐぬ和田酒盛やあきのくれ  支考

 「和田酒盛」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版「和田酒盛」の解説」に、

 「幸若舞曲の曲名。作者・成立未詳。上演記録の初見は《言継卿記》天文15年(1546)の条。和田義盛は,相模国山下宿河原(現,神奈川県平塚市山下付近)の長者のもとで,3昼夜に及ぶ酒宴を張った。曾我十郎祐成を想う遊君虎御前は,義盛の再三の招きにも応じない。祐成の諫言もあり,しぶしぶ宴席に出た虎御前は,義盛に招かれて座に連なっていた祐成に思差し(おもいざし)(特に相手をきめて,盃のやりとりをすること)をし,義盛の不興を買い,その場が険悪になった。」

とある。虎御前もいず、秋の暮のようにどこか寂し気な宴ではあるが、精いっぱい楽しもうということか。

   唐辛といふ
     題にあたりて
 鑓持の秌や更行唐がらし     支考

 黒田節にも謡われた日本号という名槍を思い起こしてのものだろう。この時代黒田節があったかどうかはわからないが、貝原益軒の『黒田家臣伝』の逸話が元になっているので、この時代にも広く知られていたと思われる。
 唐辛子の実る姿は天に向かって槍を振り上げる姿にも似ていて天井守(てんじょうまもり)とも呼ばれている。
 酒宴も盛り上がったようだが、表八句もここで巻かれている。

   小倉
 松笠や背中にひとつ菊の花    有觜
   ススキに月のそよぐ雪隠   松深
 野屋敷に米つく秋の夜は更て   支考
   金で寐られぬ僧の下帯    雲鈴
 洗濯に淀の男のいにたがり    不繋
   蕗にかりきをうりありく朝  玉龍
 卯の花にほの字もきかす郭公   松深
   いつもさびしき猿丸のかほ  有觜

「五日
 玄全亭にいたる。是は西鷗老人の高弟になむおはしけるが、師老をまねぎて我病後をも賀せんとなるべし。鷗老人かねて送行の詩を給りしを、此日藥園百詠の感をのべて、かつはこの度の恩をむくひ奉るとや。
 藥園の花にかりねや秌の蝶」

 五日には長いことお世話になった命の恩人でもある西鷗にお礼をということで、高弟の玄全の亭に行く。ここに西鷗をまねくと、西鷗から送行の詩を頂くことになる。十八日に貰った藥園百詠の感想を述べ、支考もまた一句、

 藥園の花にかりねや秌の蝶    支考

 藥園の花は様々な花が咲き乱れる花野で、楽園をも連想させる。そこに仮寝して、これでお別れします。それは初老の秋の蝶のようなものです。