尾身さんはやはり何か勘違いしている。緊急事態宣言下でも野球やサッカーやバスケットボールや相撲は観客を入れていたし、映画館や劇場も営業していたしロックフェスだって行われた。確かに第四波は危ないところまで行ったが、それでもぎりぎりでオーバーシュートを回避し、今は減少に転じている。
第四波を退けることができたのは、それは政府の勝利でもなければ医師会の勝利でもないし、ましてやマス護美やパヨチンの勝利でもない。我々一般大衆が頑張った結果なのだ。それをきちんとリスペクトしてほしい。言いたいのはそれだけだ。
昨日の続きだが、何で女性が生産手段だという発想が出てくるかというと、それは西洋哲学の「欲望」の概念が機械論的に理解されているからで、いわば性欲というのは男女に関係なく、闇雲に「やりたがる」ことだと思っていることだ。これは生物学的に間違っている。
より多くの子孫を残そうとしたら、ペニスを持つ者は基本的に不特定的多数の子宮にそれをばら撒くのが一番良いということになる。性交した子宮の数だけ子供を作れる可能性がある。かくしてペニスを持つ者は「ばら撒く性」へと進化してゆく。
これに対し子宮を持つ者は生涯に産める子供の数が限られている。だから、限られた数の子供を危険にさらすことなく確実に育て上げることが重要になる。
野生動物は基本的に自分で餌を獲れるので養ってもらう必要がない。子供を育てる際の最大の脅威は嫉妬に他ならない。メス同士の争いとオスによる子殺しが一番の敵だ。そのため子宮を持つ者が多くのペニスを持つ者を独占することは極めて危険なことであり、そのため一般的に野生動物であれ人間であれ一妻多夫制はほとんどあり得ない。必然的に子宮を持つ者は「選ぶ性」に進化する。
それなのに西洋の形而上学は欲望は常に機械的で闇雲で、それを制御するのは理性の働きとしてきた。それでペニスを持つ者の性欲は大体うまく説明できる。だが子宮を持つ者がなぜ性的選択権を重要視するかが理解できない。そこで二つの仮説が生まれる。一つは子宮を持つ者は実は性欲が存在しないという説、もう一つはペニスを持つ者と同じように欲望を持つが社会的に抑制されているという説。もちろん、どちらも間違っている。
女性を生産手段とみなす発想は後者の仮説による。つまり女性は社会的抑圧から解放されたなら、男と同じようにやりまくりたいんだ。だが資本主義が女性を私有財産化し、女性の欲望を奪っている、というものだ。だから解放された十四歳の少女は五十歳のじじいとでもやりたいんだ、という理論になる。まあとにかく、どうしようもなく残念な妄想だ。
それでは「梟日記」の続き。
17,長崎へ
「五日
此日艤して長崎におもむく。海上三十里ばかり、こなたにおもひやる心こそはるかなれ。一里ばかりは礒の松風に吹おくれられて、船もなからましかばと珍しき心もすなり。秤石とかやいふ所の礒の木陰より、扇あまたひらめかしたるが、挽夷・谷吹の二法師、洞翠がともがらのはなむけの酒のまむと、ぬけがけきられるにぞありける。をのをの船中餞別の句あり。この人この人にわかれて後は、此川口に風まちくらし、蓬もる月の波まくらにわびて、心ほそき事のはじめにぞ侍る。曉の風もやうやうに漕はなれ行に、たらあしろとかやいふ浦にて、帆をさけ碇をおろし侍る。この浦のあまたも見えわたらぬに、人のこころの情ありて、茶にいり物など舟におくりたる、しばしなぐさむかたともなりぬ。
黍の葉もそよぎて浦の朝茶哉
是より三里ばかり行て、この風よからずなどいひて、礒山かげに又舟をかけたり。あら心うの事や。ゆられたる舟の中になにと此日を送らん。すべて舟の事よくしらねば、百年の苦樂は他人によるといへる婦人の詩の心なるべし。
このふねに類船の侍りした、是もあなたの山かげにかゝりて、礒の岩間に物しかせて、物うげにながめたゐたるが、浮世の北の撰者可吟のぬしにありさまの以て侍り。その傍に廿ばかりなるおのこのこそら見まはして、何氣もなうありしが、その友吏明にこそまがはね。さるは古郷のこひしさにかゝる事侍りといふ、人の人に似たるはおかしからねど、あざむかれてなさけなの船頭やとおもはれて、腹もたつべかりしが、そはそれかゐ餅を萩の花といふにはあらじといひたるが、時によきいらへなりとおぼえ侍る。世の人の風雅にあそぶといへば、所帶とりをきて風雅一偏とおもへる。しらぬ人のまどへるなり。人にむかひて物語すれば、物がたりやめて俳諧せんといへる、物がたりのほかに俳諧の侍るや。士農工商のうへ、起臥茶飯の間、何か俳諧にあらざらむ。それも不通の人のはやり言葉にならひ、秀句ことさがのまじはりならば、咄の外の風雅もあるべし。
人が人に似タとて餅を萩のはな
かくいひ侍れば、その姿たくみにして、武の晋が風流には似たれど、發句にてはさぶらふかし。此日この事になぐさみて、やゝ暮方になりぬ。
此夜風少たゆみたるに三里ばかり押渡て、本土の瀬戸とかや、天草の地なるべし。何のたつきもしらぬ礒山かげに、かの碇藤をざぶと入たる音の、いかにわびしきものとかはしる。」
艤は「ふなよそほひ」と読む。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「船装・艤」の解説」に、
「① 出船の準備。ふなもよい。ふなごしらえ。ふなよそおい。ふねよそい。〔十巻本和名抄(934頃)〕
② 船を飾りたて、舟遊びの準備をすること。ふねよそい。」
とある。長崎まで三十里の長い船旅になる。小さな船で海岸伝いに行くため、この距離なのだろう。直線距離ではない。
船出して最初の一里は松風を受けて順風で、すぐに秤石という所に着く。今の計石でまだ野坂の浦の湾から出ていない。
秤石では挽夷・谷吹の二人の法師が扇子を振って合図していて、洞翠の仲間のはなむけの酒を飲もうとこっそりとやってきたみたいだ。
挽夷は『西華集』の佐敷での二つ目の表八句の発句を詠んでいる攬夷か。洞翠が脇を付けている。谷吹は最初の表八句の脇を付けている。
この二人の餞別の句があって、再び船を出し湾の入り口のところで風待ちになる。夜の山から吹き下ろす風と昼の吹き上げる風の入れ替る、朝凪の時間になったのだろう。
「蓬もる月の波まくらにわびて」は、
蓬わけて荒れたる庭の月見れば
昔すみけん人ぞ戀しき
西行法師(山家集)
波枕いかにうき寢をさだむらん
こほります田の池の鴛鳥
前齋宮内侍(金葉集)
などの歌の趣向を借りている。
暁の風がようやく吹く頃に帆だけでなく櫂も交えてようやく「たらあしろ」で帆を下ろし、碇を降ろす。「たらあしろ」は田浦(たのうら)の網代か。「あまたも見えわたらぬ」というから入り江の中に入ったのであろう。茶を淹れてもらってふたたび風を待つことになる。
黍の葉もそよぎて浦の朝茶哉 支考
弱いそよ風しか吹かなかったので、ここで朝茶となる。
九州では黍が多いのか、以前鹿児島で薩摩料理の店に入った時にも黄色い黍飯だった。
この後風が吹き始めたか三里ばかり進むが、ふたたび風が良くないということで磯山かげで船を留めることになる。ここには他の船も泊まっていて、そこに元禄九年に『浮世の北』を編纂した可吟によく似た人を見つける。その隣の人も吏明によく似ている。美濃の俳諧仲間が何でこんなところに、というところだが人違いだったようだ。
「かゐ餅を萩の花」は『徒然草』の「かいもちひ」で、有名な神殿狛犬の向きが逆になっていたという二三六段に登場する。ネット上の久保田一弘さんの「「かいもちひ」の研究─『徒然草』を中心に─」によると、「かいもちひ」には近世に「ぼたもち」とする説がひろまったという。それによると、『徒然草句解』(一六六一年刊)で「俗に萩ノ花ト云物也」と、初めて「かいもちひ」を萩の花とする注釈が付けられたという。これに対して「そばがき」説は近代のものだという。
かいもちひは宗鑑の『犬筑波集』に「かいもちもえつかぬ宿はへのこかな」とあり亥の子餅を「かいもちひ」と言っていて、そこからぼた餅との混同が生じたという。ちなみに「ぼた餅」はぼたっとした餅で「牡丹餅」は後世の古事付けだという。
支考が人違いの後にこのことを持ち出すのは、「かいもちひ」を「萩の花」とすることに当時の人も疑問を持っていたからなのだろう。本当は違うものなんだけど、世間では一緒くたにされているという例として引き合いに出されたと思われる。
この頃世間の人の間だと、「風雅に遊ぶ」というと家族を捨てて旅にでも出なければいけないようなイメージがあったのだろう。俳諧は本来は生活の中で生じるもので、日常の物語(世間話、談笑)が俳諧で、それをやめて俳諧をするというようなものではなかった。
まあ、秀句を得ようとして旅に出ちゃう人も確かにいるから、自分もそうだし芭蕉さんもそうだったからということで、あながち間違っているわけでもないが。
人が人に似タとて餅を萩のはな 支考
かいもちひが萩の花ではないように、風雅に遊ぶことが旅に出るということとイコールではないにせよ、まあ、人違いでも故郷の懐かしさが込み上げてくるように、あながち悪いことでもない。
この句は何かちょっと技巧的にこねくり回した感じで、武州の晋(其角)みたいになってしまったなと自嘲する。
夕方になると向かい風がようやく収まって三里ほど先へ進む。瀬戸は島の沢山ある所で天草五橋のある辺りのことだろう。ここを通っておそらく今の天草市の中心部の辺りに着いたのではないかと思う。
「たつきもしらぬ」は
をちこちのたづきもしらぬ山なかに
おぼつかなくもよぶこどりかな
よみ人しらず(古今集)
の歌があり、どこにいるのか右も左もわからないことをいう。
「七日
今宵はそも年にまれなる二星の夜なり。然に風はげしう吹て、雲のたゝずまゐあめを催す。かゝるあはれも船頭はしらずなりて、鼾の音に更行こそ、たゞものすごき夜なりけれ。
牽牛の傘すぼめてやはしの上」
翌日も天候のせいか天草のどこかの浦に停泊したまま過ごしたようだ。「風はげしう吹て、雲のたゝずまゐあめを催す」とあるから、おそらく台風が接近していて海が荒れていたのだろう。
七夕の夜は嵐となったが、船頭は慣れたものなのか鼾をかいて寝ている。
牽牛の傘すぼめてやはしの上 支考
牽牛はこの天気でも橋の上で唐傘をすぼめて、びしょ濡れになって渡って行ったのだろうか。
新暦の七夕は梅雨の季節でなかなか晴れないが、旧暦の七夕もちょっと早い秋の長雨に掛かったり、台風が接近したりしてそれほど晴れていたわけでもなかったようだ。元禄十二年刊等躬編の『伊達衣』に、
名月はいかならん、はかりがたし
七夕は降と思ふが浮世哉 嵐雪
の句もある。
「八日
この朝大かたに晴わたりて、又漕出たる船のすゑは、しら波の早崎とかやいへる。世に鳴門の汐にも似侍るときけば、渡りくらべて今ぞしるべき所なる。此日もわづかに四五理ばかり行て、通㕝の浦とかいふ處にいたる。是より長崎は七里ばかりにさしむかへり。此汐よからずなどいひて、又碇入たるが、かはく間もなき袂かなといふいかりの歌よみぬべし。されば今宵は空あらたにして、宵月の影に濱の松原もほの見得わたりて、是ぞすてがたき旅寐のなかだちなりける。
松むしに人なつかしや磯の家
こなたも苫ふきよせたる下に、燒火の影いとさむげにさしむかひて、茶などのみ居たるが、をのづから世にあるこゝちには侍る
船に火をたけば蔦這ふ家のさま」
翌日は台風一過だったか、ようやく晴れ渡った。漕ぎ出した船は「しら波の早崎」に向かう。雲仙のある島原半島の突端に今でも早崎という地名がある。瀬戸内海の鳴門のように潮の流れが速く、この海峡は早崎瀬戸と呼ばれている。ウィキペディアに、
「島原半島南部沿岸は起伏の激しい岩礁底が広がり、南端の瀬詰崎から対岸の天草下島まで 4.4 km ほどで、有明海の入口に位置することから、全国的に見ても潮流が早く日本三大潮流のひとつに数えられている。水深最大150m、潮流は最大8ノットと云われ、プランクトンの発生が活発で魚の餌の宝庫であることから、多くの魚種が集まる絶好の漁場が形成されている。」
とある。
通㕝の浦はよくわからないが加津佐(かづさ)の辺りか。差し向かいが長崎になる。
「かはく間もなき袂かな」という碇の歌は、
かはくまもなき墨染の袂かな
朽ちなば何を形見にもせん
藤原顕綱(千載集)
をもじったものか。船は止まってばかりで碇も乾くことがない。
とはいえようやく晴れて半月の見える夕べで、旅の景色としては悪くはない。
松むしに人なつかしや磯の家 支考
在原行平の俤も感じさせる。あれは松風・村雨の姉妹だったが。
まあ、この時代だと藻塩焼くわけではないが、それでも焚き火をしてお茶を飲めば、昔のことも偲ばれる。
船に火をたけば蔦這ふ家のさま 支考
これは見たまんまの句であろう。
18,長崎
「九日
肥前国
長崎
此日十里亭にいたる。このあるじは洛の去來にゆかりせられて、文通の風雅に眼をさらして、長崎にも卯七もちたりと翁にいはせたるおのこ也。予この地に來りて、酒にあそばず、肴にほこらず、門下の風流誰がためにか語らん。
錦襴も緞子もいはず月夜かな」
翌九日、ようやく長崎に到着する。十里亭は卯七のこと。蕪村が夜半亭というようなもの。
去来・卯七編の寶永元年刊『渡鳥集』には、この文章を若干変えて前書きにした三つ物が収録されている。
元禄十一の秋七月九日、長崎にい
たり十里亭に宿す。此主は洛の去
來にゆかりせられて、文通の風雅
に眼をさらし、長崎に卯七持たり
と、翁にいはせたる男也。予此地
に來たり、酒にあさばず、肴にも
ほこらず、門下の風流たれが爲に
語らん。
錦襴も純子もいはず月よ哉 支考
磯まで浪の音ばかり秋 卯七
唐黍の穂づらも高く吹あげて 素行
「錦襴も緞子もいはず」はまあ、贅沢は言わないということか。そういうわけで月夜だけど特に何もなく、浪の音ばかりの秋です、と卯七が答える。
素行もここに来ていたか、波の音に唐黍の実りをあしらう。唐黍はこの時代はトウモロコシではなくコウリャンのことか。高さが三メートルにもなる。『春の日』に、
待恋
こぬ殿を唐黍高し見おろさん 荷兮
の句がある。
素行というと、元禄十二年朱拙編の『けふの昔』に、
粟ちぎる空は蜜柑の曇かな 素行
の句がある。秋の句で他の粟の句と並んでいるから、蜜柑の収穫の季節ではない。支考の「蜜柑の秋」と同様、何か意味があるのだろう。
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