今朝も散歩した。今日の収穫は黒須田川でバン(鳥)を見たことか。このあたりも画眉鳥がしきりに鳴いている。
左翼の間ではかなり遅くまで原始乱婚制仮説というのが信じられていて、それが戦後60年代の性の解放と結びついたとき、一夫一婦制は性の私有財産化であり、複数の婦人を複数の男で共有すべきだみたいな変な理論が広まった時期があった。
当然ながら、この種の性の解放の試みはことごとく失敗に終わった。まず根本的な間違いは、女性を子供を産ませるための道具として、「生産手段」として扱っていたこと、これに尽きる。そこでは女性の側の性的選択権が完全に無視されていたため、結局男どもの妄想だけで終わってしまったというわけだ。
日本の中世の歴史を専門に研究してきた網野善彦が、日本の中世で女性が普通に旅をしていたことに関して、レイプ被害などの危険はなかったのかという問いに、「公界では性が解放されていた」という頓珍漢な回答をしたのも、同じ発想によるものだ。
そういうわけで、左翼の中に今でも性が解放されればレイプも自由になると思う人がいてもおかしくない。十四歳の少女が性交を禁じられているのは親による私有財産化であり、少女が誰とでもセックスできるようにすることが性の解放になる、という発想は意外に根強いのかもしれない。根底にあるのは「女は生産手段だ」という思想だ。この前提では、性の解放は私有財産を公有財産にすることにすぎない。
あと、考えておかなくてはならないのは、LGBTの開放を訴える「ペニスを持つ者」の側に同じような発想がないかどうかだ。本当の愛は男同士のもので、女への愛は子孫を残すための手段、みたいのものがないかどうか。
それでは「梟日記」の続き。
15,薩摩街道
「七月朔日
この曉やつしろをたちて、佐敷の方におもむく。棟祇・理曲など殊に名殘をおしまる。熊川のわたし越るほどに、夜もはや明しらみて、海山のけしきもたゞならぬに、けふの馬方のわかやかに湯衣きなして、伊勢に降ゆき朝日にとける君が黒髪は何とやらと、いふ哥をうたひあげたるに、われは起わかれたるうき人もなけれど、をりにふれたる朝日の礒山にさしかゝりたれば、もろこしにわたりたる人のやうに、いせの方も戀しかりしを、
早稻の香やいせの朝日は二見より
是より一里ばかり行て、二見といふ村の有しが、殊さらなつかしき事にぞ侍る。此道八里ばかり山の腰をめぐり、礒の松風も浪の音にまがひて、初秌の風情一夜に眼をかゆるばかり也。
早稻の香や蟹蹈わくる礒の道」
佐敷は今の芦北町で佐敷はJRの駅の名前に残っている。途中に肥後二見駅があるが、そこがこの二見であろう。
棟祇は『西華集』の表八句の七句目を付けている。
熊川は球磨川で、八代を出るとまずこの川を渡ることになる。「熊川のわたし」とあるから渡し舟があったのだろう。渡し舟は馬と一緒に渡ったか、今日の馬方は「伊勢に降ゆき朝日にとける君が黒髪は何とやら」と唄っていた。伊勢から来た支考を乗せたからか。知っている伊勢の唄を唄ったのだろう。
支考はお坊さんで、別に分かれた人がいるわけでないけど、伊勢を思い出し、あたかも阿倍仲麻呂の「三笠の山にいでし月かも」のような心境になる。
早稻の香やいせの朝日は二見より 支考
早稲の香というと、
早稲の香や分け入る右は有磯海 芭蕉
の句が思い浮かぶ。これは富山での句だった。
当時の早稲は東南アジアにあるような香米に近く、実際に匂いがあったという。人によっては臭いという人もいたようだが。
『笈の小文』の旅の時の「箱根越す」の巻の八句目に、
帷子に袷羽織も秋めきて
食早稲くさき田舎なりけり 芭蕉
の句があり、芭蕉は臭いと思ってたようだ。『奥の細道』の旅の直江津での曾良の脇には、
星今宵師に駒引いてとどめたし
色香ばしき初刈の米 曾良
とある。
支考は伊勢を思い出すが、伊勢の海は東にあって、二見ヶ浦の夫婦岩から朝日が昇るが、ここでは海は西にある。
やがて二見という所に来る。
早稻の香や蟹蹈わくる礒の道 支考
磯に近い田んぼだと、田んぼの中を蟹が這ってたりしたのだろう。見たまんまの句でも「あるある」あるいは「さもあらん」と思えれば発句になる。
16,佐敷
「二日
佐敷
此日要阿亭にまねかる。亭の前に江ながれて、万里の清秋一望の中にあつむるともいふべく、山もよきほどにへだゝりて、松の南は晴るゝしら雲 ともよまれたり。
秋もまだ二日月夜や峯の松
さればむかしより詩歌の余情といふ事は、言外の風光を見得たらん、見るものゝ手柄なるべし。南朝四百八十寺多少の樓臺煙雨の中といふ詩も、をのづから江をへだてたりと見て、杜牧がたましゐ此筋に浮たらん。
専明寺
桐のはにたらでも今宵秌の風
龍千新宅
砧にはまだあたらしき家居かな
此里にきぬたの歌のよみて侍れば、かく申つ
る也。古さとさむくと古人のよまれしも、こ
の心のさびなるべし。」
要阿はよくわからない。亭の前の川は佐敷川か。「松の南は晴るるしら雲」は付け句と思われる。
秋もまだ二日月夜や峯の松 支考
七月二日の月を見たまんまに詠む。
漢詩でも和歌でも余情というのは、そこに書き尽くせないような風景を読者が各自思い浮かべる所に発生するもので、それは作者の手柄ではなく読者の手柄とでもいうべきであろう。
「南朝四百八十寺」の詩は尾道から船に乗った時に引用したが、ここでふたたび。
江南春望 杜牧
千里鶯啼緑映紅 水村山郭酒旗風
南朝四百八十寺 多少楼台煙雨中
千里鶯鳴いて木の芽に赤い花が映え
水辺の村山村の壁酒の旗に風
南朝には四百八十の寺
沢山の楼台をけぶらせる雨
であろう。雨にけぶる遠景ははっきりと記されてはいないが、タイトルの「江南」と「水村山郭」から川を隔てた風景だということが言外に示されている。そして、実際に川を隔てた美しい景色を他のどこかで
読者が目にした時、この詩句が頭の中でかちっとはまってくる。シチュエーションを細かく限定していないからこそできることだろう。
余情というのは作者の手柄というよりは、読者に手柄を立てさせるように仕向けることと言っていいだろう。芭蕉の古池の句も、芭蕉が見た古池の句がどこにあってどんな池なのか知らなくても、誰もが自分の見たことのある古池のイメージを持っていて、それを思い起こすのは読者の手柄と言ってもいい。
景色を説明しすぎないということは、余情を残し、読者に想像させるために必要とされる。その最低限にとどめるというところに作者の魂があり、粉骨があるのだろう。枝葉末節をそぎ落としたところに魂だけが残る。
専明寺
桐のはにたらでも今宵秌の風 支考
専明寺はよくわからない。宇土にはあるが佐敷にあるのは専妙寺だ。佐敷川の北岸にある。
桐の葉を落とす程ではないが、今宵は秋の風が吹いている。
「桐一葉落ちて天下の秋を知る」は豊臣家の家臣の片桐且元の言葉だと言われているが、出典がよくわからない。近代の坪内逍遥の舞台で有名になったようだ。
龍千新宅
砧にはまだあたらしき家居かな 支考
龍千は『西華集』の佐敷での表八句の六句目にその名が見られる。家を新築したばかりだったのだろう。
砧は、
子夜呉歌 李白
長安一片月 萬戸擣衣声
秋風吹不尽 総是玉関情
何日平胡虜 良人罷遠征
長安のひとひらの月に、どこの家からも衣を打つ音。
秋風は止むことなく、どれも西域の入口の玉門関の心。
いつになったら胡人のやつらを平らげて、あの人が遠征から帰るのよ。
の詩や、
み吉野の山の秋風さ夜ふけて
ふるさと寒く衣うつなり
飛鳥井雅経(新古今集)
の歌で知られている。来ぬ人を待つ悲し気な音を本意とする。「さび」は時間の経過とともに衰え、死に向かう感覚と結びついたもので、新築の家にはまだふさわしくない。
「四日
今宵全睡亭に會して、おのおの餞別の句あり。さればこの一里は山かこみ江ながれて、住む人の心さへ我人のたがひもあらで、かの桃源といふ處もかくや侍らんとおもひやらる。殊に風雅の友達もあまたなれば、行先たのもしき處なるべし。
一里は皆俳諧ぞくさの華
留別
長崎の秌や是より江の月夜」
全睡は『西華集』の佐敷での表八句では七句目を付けている。
佐敷
槇の戸や我にはあまる月の照 幻遊
朴の廣葉の風あれて飛 谷吹
村雨の笠着て渡る鳥もなし 支考
けふも山道明日も山みち 魏吽
いつかたもただ佛法の世となりて 露葉
生て居るほど人はめでたき 龍千
酒もあり肴はやがて海ちかく 全睡
あそぶ心のかはる五節供 随吟
仝
桐の葉の跡先に置く扇かな 攬夷
酒に寐ころぶ宵の間の月 洞翠
若衆もはやらぬ城下秋暮て 支考
今年の稲も風に吹るる 野風
砂川に取ひいけたる日のひかり 路角
藥師の奉加旅フ人につく 雲鈴
饅頭も名所となりて花の春 成也
雁啼帰る残雪の山 水流
長崎へ旅立つというので、佐敷の俳諧の人たちが集まり、餞別の句をもらった。佐敷は山に囲まれた別天地のようなところで、陶淵明の桃花源を思わせる平和な町だった。ここにたくさんの俳諧の好きな人たちがいるのを心強く思い、ここで一句。
一里は皆俳諧ぞくさの華 支考
「くさの華」は秋の花野のことで、様々な種類の花の咲き乱れる様をいう。
そして出発ということで一句。
留別
長崎の秌や是より江の月夜 支考
長崎へは船で向かう。「江の月夜」だから佐敷川の河口付近からの出発になったのだろう。
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