2021年6月14日月曜日

 今日ようやく梅雨入りが発表になった。まあ、ある程度は降ってくれないと水不足が心配だ。
 テレビドラマの言葉というのはかなり特殊なもので、実生活では絶対言わないような人の心をぐさぐさと傷つけるようなどぎつい言葉の応酬ばかりで、それは七十年代に既に筒井康隆が指摘していたことだ。現実の世界でこんなことを言ったら、たちまち人間関係は壊れ、一家離散し、職場では首になり、親友は絶交になる、そんな言葉であふれかえっている。どうしてそうなるのか考えたんだが、それは実写のバトルシーンと漫画やアニメのバトルシーンとの違いに似ているのかもしれない。
 漫画やアニメは時間の調節ができるが、実写は時間の調節ができない。だから、漫画やアニメだと相手の技を見て、それに対してどう対処するのかという主人公の思考や駆け引きを描く方が主になるが、実写だと考える暇もなく次から次へとアクションが繰り出される。駆け引きよりも迫力が重視される。
 言葉のバトルでもそれと同じことが起きるのかもしれない。ラノベとかだと相手の言ったことに対して、どういう意図なのか、何か裏の意味があるんではとか探りを入れて、言葉を選びながら言い返す、その駆け引きの面白さというのが中心になる。実写だとあっという間に時間が経過してしまうため、駆け引きの部分を描く余裕がないから、ストレートにどぎつい言葉を浴びせ合うことになってしまう。
 まあ、これが実写の宿命だとすれば、どこの国でもそういう傾向があるのかもしれない。外国語を学ぶ時も実写ドラマの言葉は真似しない方が良いのだろう。
 あと、鈴呂屋書庫に「霜に今」の巻をアップしたのでよろしく。
 それでは「梟日記」の続き。

31,病

「八月朔日
 此日何となく病つき侍りて、その夜はおそろしきねちにくるしむ。この寺の和尚もその外の人々もおどろきあへりけるに、助叟・里仙などまして雲鈴はいねずありける。さらでも心ほそきたびねなるを、かく物もおぼえずなり行らむ、世のさまこそあやしき物なれ。生の松原もこのあたりちかければ、生ては歸らんなど人のいへるをきけば、
 秌風の枕にちかしいきの松
 身の秌を何たのむらん生の松
 二日・三日もかくわづらひて侍るが、藥のしるしだにあらぬを、おなじかたにまもられたらんは、人にあかるゝならひもやあらんと、うきが中のこゝろづかひせらるゝも、捨がたき世のさま成べし。明日は黒崎のかたにおもむかむといへば、此ほどよりゐたる人々も、わかれわかれになりて、今宵は物にも似ぬ名殘にぞありける。」

 元禄十一年の七月は二十九日までなので、これは極楽寺での二日目になる。旅の疲れからか暑さが続いたせいもあって、支考は病気になる。「おそろしきねち」は「恐ろしき熱」。極楽寺の和尚や居合わせた助叟・里仙、それにともに旅をしてきた雲鈴に見守られながら心細い日々を送ることになる。
 「生(いき)の松原」はコトバンクの「デジタル大辞泉プラス「生の松原」の解説」に、

 「福岡県福岡市西区、十郎川河口部から西へ延びる博多湾に面した海岸沿いに面積約40ヘクタールにわたって広がるクロマツを主体とした松林。神功皇后が三韓出兵の際に植えた松が起源と伝わる。「日本の白砂青松100選」にも選定された景勝地。」

とある。

 今日までは生の松原生きたれど
     わが身の憂さに嘆きてぞ経る
              藤原後生が女(拾遺集)
 昔見し生の松原こと問とはば
     忘れぬ人も有りと答へよ
              橘倚平(拾遺集)

などの歌にも詠まれている。生の松原というくらいだから何としてでも生きて帰らねばと思い、

 秌風の枕にちかしいきの松    支考
 身の秌を何たのむらん生の松   同

 二三日極楽寺に留まり、同じ人に見守られて同じ薬を飲み続けても効いている風もなく、明日は黒崎へ向かうことにして、雲鈴以外とは別れることになる。


32,黒崎

「四日
 福岡を出て黒崎におもむく。道のほど十四五里もあるべし。箱崎の松原を過るほどは、かの松風も身にしむばかり、波のたちゐもいとくるしきに、心つくしのたびねとは、此時ぞ思ひあはせられける。その夜すがらにぞ有ける。」

 黒崎は北九州市にあり、今は干拓で小さくなってしまったが、かつての洞海湾は大きな内海だったと思われる。ここでようやく長崎街道に合流する。長崎街道は山家(やまえ)宿から飯塚を通って黒崎へと抜ける。福岡から黒崎に出る場合は唐津街道になる。
 福岡の生の松原から那珂川を渡って博多に入り、御笠川を渡ると箱崎の松原で筥崎宮がある。参拝したのかどうかはわからない。病の穢れをはばかって通り過ぎたのかもしれない。松原と海は心に留め、途中一泊することになる。

「五日
 黒崎、沙明亭にいたる。けふは殊さらに雨に降れ、駕籠にゆられて、人こゝちもあらずまどひふして、あるじだにしらぬやどりなりしが、次の朝は心地つきて侍り。されもはかるまじき世や。三とせばかりまちかけたる人のかくわづらひていりき給へるを、かほだに見ずやあらんと、我友水颯などいひていにけるといふをきけば、あるじの沙明と雲鈴にぞありける。さりや吾旅だちし日より、この所に此人々のありとたのみたるは、かゝるあはれを見られんと云物のおしえにや侍らん。一保・帆柱などいへる人もおはして、年のほどもやゝたのむべくぞ思はれける。そのほども七日ばかりありてよからず。」

 翌日は雨で、駕籠に乗ってようやく黒崎の沙明亭に到着する。この日は病状が悪化し、あまり記憶がないようだ。
 翌日には多少良くなり、黒崎の水颯、一保、帆柱などが集まってきたが、水颯は三年待ってようやく会えたのにと残念がって帰って行った。
 主の沙明は元禄十二年刊朱拙編の『けふの昔』に、

 早物に残るあつさやてらてら穂  沙明
 雪雲のとり放したる月夜かな   同

などの句がある。水颯は、

 草あつし蚓のおよぐ馬の尿    水颯
 早起や花またくらき雉子の聲   同

 帆柱は、

 朝鷹の挑燈で出るたんぼかな   帆柱

の句がある。
 一保は去来・卯七編の寶永元年刊『渡鳥集』に、

 一日の息つきながす青田哉    一保

の句がある。
 ここで十日まで過ごすことになる。到着日と旅立つ日を合わせればちょうど七日になる。


33,小倉

「十一日
 黒崎の人々にいたはられて、小倉の旅店に病床をうつす。この地に醫師を求むるに、西鷗老人ありて名望やゝ高し。その術は扁倉がきねの人を見るに殊ならずといへば、さしも此國のたのもし人にぞおはしける。藥を用る事日あらねど、さみだれの笹葉に日のさしたるやうに心地はれて覺ゆ。旅店のあるじは、なにがし徳左とかや、その妻もいとあはれがりて、ともに親のやうに侍るが、たびねに鬼もなき世のなさけなるべし。」

 黒崎から小倉はそう遠くない。黒崎の人たちも小倉まで送ってきてくれたのだろう、黒崎で一週間休養したにしても病気が長引いている。
 小倉で西鷗という医者に診てもらう。扁倉は『史記』の「扁鵲倉公列伝」に登場する扁鵲と倉公という二人の医者のことであろう。この二人に仕えた人と異ならずと言われれば頼もしい。薬もすぐに効いてきて「五月雨の笹葉に日の射したるように」回復する。旅店の人にもいろいろ親身になってくれて、まさに渡る世間に鬼はなしという所だった。


34,名月

「十五日
 今宵は名月の殊に名にし逢ふ菊の長濱も、此あたりちかければ、いかにさゞめき渡らんに、枕だにはなれがたく、死生もしるまじき身のほどおもひやらば泪も落ぬべし。されば福岡にやみつき侍りて、生の松原の發句おもひよせたるに、秌風の枕にちかしとやせん、何たのむらん生の松とやさだむべき。いづれも俳諧の趣向にてはあるまじき物をと、その夜その次の夜はおもひけるが、そのゝちははてしもあらで、このほどなしおきたる句ども、其外のことば書までも、それを思ひ是をおもふほどに、心しづみて水をわたり、夢あれては山にのぼる。たゞに一糸一草をたづねあるきて、魂くだけんとして胸をいたましむ。我はなどかくあさましきや。花を見、鳥を聞も世にある耳目のなぐさみならんに、さるは身をくるしむるかぜにぞ侍れ。いざや我こゝろ俳諧を思ふまじとおもへば、おもふ心なをあらがひて、十日ばかりはとにくるしみ、かくにくるしむ。今はたゞわすれもしつべし。是は人のおそるべきをのれ執念なるぞや、
 今宵はそも人ごゝろづきて、此世の月も見ばやと、障子明たるかたを、けしきばかり見やりたれば、空は薄ぎりたちて月の色もあかく、紅さしたるやうにおぼえられしは、わがねちのはなはだしきたがひにやあらん。」

 「菊の長浜」は六月三日の大橋柳浦亭での、

 又越む菊の長坂秌ちかし
    あまの河によみたる菊の高濱も、此あたり
    なるべし。

の「菊の高濱」のことで、

 豊国の企救の長浜行き暮らし
     日の暮れゆけば妹をしぞ思ふ
              よみ人しらず(夫木抄)
 よそにのみきくの長浜ながらへて
     心つくしにこひやわたらむ
              藤原為家(夫木抄)

などの歌がある。菊の高浜は、

 長月のきくの高浜月影に
     うつろふ波をはなかとそ見る
              藤原行家(夫木抄)

の歌がある。
 福岡で病気になり、死の恐怖と戦ってきた後だけに、菊の高浜が三途の川のように見えたのだろう。「秌風の枕にちかし」の句は死の風の枕に近いというもので、そこから「何たのむらん生の松」と、何とか生き延びたいという気持ちにつながるものだった。
 病気で死にかけているのに発句を案じている自分に、自らの煩悩と執念を感じるが、おそらくこれを書いたときに芭蕉が最後まで「清瀧や浪にちり​なき夏の月」の「白菊」の句との類似が気になって、

 清瀧や波にちり込靑松葉     芭蕉

の句に直したことを思い起こしたのではないかと思う。病気になって、あの時の芭蕉の気持ちが多少なりともわかったのかもしれない。
 生の松の句を案じた後、しばらく句を案じるのをやめようとして、黒崎では門人をがっかりさせてしまったのだろう。
 そんなことを思いながら月を見上げると、月は薄霧が掛かり赤く見える。熱があるからではあるまいが、そう思えてしまう。

「十六日
 黒崎・大橋の人々、ましてこの所もあまた行かひつどひて、世にもにぎはしきやみどころなりけり。此日殊さら伊勢のたよりなど人の傳へきたりけるに、さる事のうれしき文にてぞ侍る。」

 黒崎は二里くらいだが、大橋(行橋)はその三倍くらいの距離があるのではないかと思う。それでも支考が小倉に来て病気だというので見舞いに来てくれた。
 伊勢の頼りを持ってきてくれた人もいて、俳諧師のネットワークは尊いものだった。

「十八日 雨天
 西鷗老人、藥園の百詠をよび、唐賢稱美の詩集などたづさえきたる。さるは病床に目をよろこばしむる成べし。」

 西鷗は漢詩を得意としていたようで、これまで自分の詠んだ薬園の百詠と、唐の詩人も称美するような詩集を携えてやってきた。病床の暇つぶしにはなる。

「廿一日 晴天
 今日は夜着もほし枕もかたづけて、坐敷はきたるなど心地殊更によし。此暮日田の人々よりたよりせらる。」

 ようやく治ったか、寝床をかたづける。

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