2021年6月5日土曜日

 今日は環境の日ということで、ラジオは一日中それをやってた。こういうのは一人一人の地道な努力やちょっとした心がけの積み重ねが重要だとわかった。社会というのは誰か偉い人が作るのではなく、一人一人が作るものだ。
 昔は権威のある学者がいて、とにかくそいつの言うことを聞け、という時代があったけど、今のネットの時代は、気ままに検索すれば誰でも知識を得られるような、そんな環境を作ることが一番大事なんじゃないかと思う。
 鈴呂屋だけではなく、別の意見のある人はそれをどんどんアップしてゆくといいよ。検索する方もそうすれば選択肢が増えるからね。
 google ブックスに老鼠堂永機・其角堂機一校訂の『支考全集』(東京博文館蔵版、明治三十一年)があって『西華集』を読むことができた。助かる。
 別に学校へ行かなくても、学校へ行けない人がたくさんいたとしても、この世界が全部いつでもどこでも学校になれば問題は解決する。
 それでは「梟日記」の続き。

6,日田

「十一日
 此日日田につきて、その夜は西光寺に宿す。寺はから竹藪よもにめぐりて、山川のながれ左右にわかる。今宵このこゝろ夏をわすれたりといふべし。
 宵月や寺はちどりの巢のあたり」

 西光寺は日田城址に近い花月川沿いに今でもある。文明元年(一四六九年)に天海が創建したという。当時は竹藪に囲まれていたようだ。
 川風が涼しく、

 宵月や寺はちどりの巢のあたり  支考

と、すぐ横の花月川には千鳥の巣があるに違いない、とする。

「十二日
   風吹ク
 ちり込て晝寐を埋む笹葉哉
 鶯をいなせて竹の落葉かな
   里仙亭
 きり麥や嵐のわたる膳の上

   香爐庵記
 里仙亭あり。亭の南に一草堂ありて、方一丈ばかりならん。此内にみだ佛を安置し、かたはらに父母の尊靈をまつる。是をこなたよりのぞめば、そのかたち汐屋香爐といふものに似たれば、かく名づけて侍る也。亭のあるじ里仙は年やゝ五十年を過て、佛はつとむべく世はたのしむべしといふ事をしりて、かならずつとめ、かならずたのしまんとにもあらず。その身を風雅にをきて、わかき人にまじはれば、わかき人亦老をわする。西華坊とし此亭にたびねして、はじめて此名を得たる事は、亭の前に簾を巻てこの香爐庵を見ば、をのづから我かたみともならんとなるべし。
 月雪や夏は晝寐の香爐庵
 此夜玖珠といふ所よりたよりせらる。その地は是より八里ばかりあなたにて、投錐・曲風などいへる風雅の友達なるよし、その文のしるしに、よしの葛おくり申されしが、そのこゝろざしのたよりに感ぜられて、
 葛水に玖珠といふ名の面白し」
 里仙亭ではきり麦(ひやむぎであろう)をご馳走になる。膳の上に嵐が吹くかのように涼しい。
 竹落葉は夏の季語になる。「ちり込て」の句も意味の上で竹落葉の句になる。昼寝しているところに笹の葉が散ってきて埋もれそうだ。
 「鶯を」の句も竹落葉の句で、「いなす」は行かせるということ。竹に留まっていた鶯を追払うかのような竹落葉だ。
 この二句は「竹藪よもにめぐりて」という西光寺での句であろう。
 
 里仙は日田の人で、元禄十二年朱拙編の『けふの昔』に、

 年頭は紙子の上の花紋紗     里仙
 さびしさの猶秋ふかし枯ぼたん  同

の句がある。その里仙は香爐庵に住んでいる。そこで支考は「香爐庵記」を記す。
 里仙亭の南に三メートル四方(柱の寸法を入れて四畳半というところか)の草堂があって、ここに阿弥陀仏を安置しその横に祖霊を祀っている。汐屋香爐がどういう香爐かはよくわからない。それに草堂の形が似ているという。それで「香爐庵」と名付けたという。
 里仙は五十を過ぎて仏様には熱心に祈りつつ、人生はしっかり楽しまなくてはいけないと悟り、仏道と風流を両立させている。若い人に混じって俳諧に興じれば、年を感じさせないような新味のある句を詠む。
 西華坊支考が里仙亭の方に泊まってあれが「香爐庵」だと聞いたときには、簾を上げて見たくなった。これはもちろん白楽天の「香爐峰雪撥簾看(香爐峰の雪は簾を撥ね上げて看る)」のフレーズが浮かんできたからだ。このことはいい思い出(かたみ)になるだろうということで一句。

 月雪や夏は晝寐の香爐庵     支考

 月の香爐峰や雪の香爐峰は有名だが、今は夏で昼寝の枕を傾けて見る香爐庵だった。
 玖珠(くす)は日田の西、別府との間にある。そこの投錐・曲風という俳諧の友から手紙が来る。一緒に吉野葛が送られてきた。そこで一句。

 葛水に玖珠といふ名の面白し   支考

 「葛水(くずみづ)」は葛湯の冷やしたもの。玖珠(くす)から葛(くず)を送ってきたというので超受けてます。
 投錐は 元禄十二年朱拙編の『けふの昔』に、

 誰が笠ぞぼくぼく夏の葉の梢   投錐

の句があり、曲風は同じく『けふの昔』に、

 びいどろの盃いざや衣かへ    曲風

の句がある。


7,日田、野紅亭

「十四日
 野紅亭にあそぶ。亭のうしろに蓮池ありて、一二輪を移しきたりて、此日の床の見ものにそなふ。あたかあるじの紅の字添るに似たり。連衆十六人をのをのこの筋のにほひふかく、吾門の風流この地に樂むべし。
 廬山にはかへる橋あり蓮の華
 此曉ならん。野紅のぬし、夢もおもひかけぬ事に、おさなき娘の子うしなひ申されし。その妻も風雅のこゝろざしありて世のあはれもしれりける。ふたりの中のかなしさ、露も置所なからん。かゝる瘦法師の身にだに、子といふものもちなば、いかに侍らんとおもひやるばかりはかなし。
 世の露にかたぶきやすし百合の花 支考
 晝がほもちいさき墓のあたり哉  雲鈴
   子をおもふ道にといへる人の言葉
   も、今の身のうへにおもひつまさ
   れて
 十四日の月に闇ありほとゝぎす  野紅
 面かげも籠りて蓮のつぼみかな  倫女」

 野紅は元禄十二年朱拙編の『けふの昔』に、

 牛馬によらしよらしとくれの市  野紅
 鶯はふくれてばかり蕗のたう   同

の句がある。野紅亭の後には蓮池があった。その蓮の紅が野紅の紅の字かと思った。連衆も十六人集まって賑やかだった。『西華集』には表八句二巻が収められている。

   日田
 大名に笠きらひある暑さかな   朱拙
   草に百合さく山際の道    獨有
 我こころちいさい庵に目の付て  支考
   淋しい時は世の中に飽    芝角
 秋の來て牛房大根の月の影    愚信
   濱の鳥井に鶉をりをり    幽泉
 若衆の念者まつこそ袖の露    釣壺
   躍の聲を余所のおもひ寐   雲鈴

   仝
 秋ちかき杉のあちらや雲の峰   里仙
   露うちわたす膳のなでしこ  野紅
 傾城の所帯綺麗に持なして    支考
   朝観音にまいる朔日     紫道
 うす雪にむかひ近江のむら烏   雲鈴
   役者の旅の武士にまぎるる  沙遊
 宵月の包をはしる肴うり     呼丁
   早稲の穂なみの吹そろふ風  若芝

 最初の巻には朱拙が発句を詠んでいる。朱拙は綱敷天満宮にも来ていたが、日田のみならず九州の蕉門の中心を担っていた。日田と言うと今は「進撃の巨人」の町だが、この地域の文化的な基礎は元禄時代に朱拙によって作られたと言ってもいいかもしれない。

 廬山にはかへる橋あり蓮の華   支考

 廬山は香爐庵のことか。そこへ帰る橋の所に蓮池があったのだろう。白楽天の「香炉峰下新卜山居草堂初成偶題東壁」の詩の最後には、「心泰身寧是帰処 故郷何独在長安(心身ともにやすらかでこれこそが帰るべき所、故郷は長安だけではなかった。)」とある。廬山は帰るべき所だ。この日田の地も帰る所という意味を込めてのものか。
 明け方になって野紅から幼い娘子を失った話を聞いた。妻の倫(りん)もともに俳諧をやる仲間だった。支考には子はいなかったが、ともに悲しんで一句、

 世の露にかたぶきやすし百合の花 支考

 そしてともに旅をしてきた雲鈴も一句、

 晝がほもちいさき墓のあたり哉  雲鈴

 それに野紅・倫夫妻も和す。

 十四日の月に闇ありほとゝぎす  野紅
 面かげも籠りて蓮のつぼみかな  倫女

 倫は元禄十二年朱拙編の『けふの昔』に、

 いなつまやいたり来たりて夜を明す りん
 縫ものをさせたきもあり雛の顔  同

の句がある。


8,日田、呼丁亭、獨有亭

「十五日
   呼丁亭
 祭客我ほどくろき顔もなし」

 ここでも大勢の連衆が集まったのか。夏でみんな真っ黒だけど、旅をしてきた自分が一番黒い、と日焼け自慢の句。
 呼丁は元禄十二年朱拙編の『けふの昔』に、

 はつ月の片われ落す柳かな    呼丁
 零髪や墨にすらるる菊畑     同

の句がある。

「十六日
   獨有亭
 さかづきや百日紅にかほの照

   此亭に先師はせを庵の手跡あり。是は湖南の正秀がたへ、難波の旅館よりおくり申されし文なり。

   文詞に
  何とやらかとやら、行先行先の日つもりちが
  ひ、秌も名残のやうやう紙子もらふ時節にな
  りて、紙子はいまだもらはず、たゞ時雨のみ
  催したるなど、その終に發句三あり。
   重陽の朝奈良を出て難波にいたる
 菊に出て奈良と難波は宵月夜
   又洒堂が、予が枕もとにて鼾をか
   きしを
 床に來て鼾に入るやきりぎりす
   又十三日住よしの市に詣て、壹合
   升一つ買申候てかく申捨候
 枡買うて分別替る月見哉
  九月廿五日

 主曰、此宵月夜の句は何とうけ給り候半、予曰、是は影略互見の句法也。此格をしらざれば見る事かたし。主曰、月見の句又如何。予曰、分別かはるといふ中の七文字見がたし。發句は殊更その人の身にあてゝ見るべし。升といふ物は世帶の道具なるに、此升かふて後は鍋もほしく桶もほしゝ。世の中の隱者此筋よりあやまる事を人の鏡には申されし也。
 さりやこのふみを見るに、師翁の書殘し給へるもの都あたりにはあまたありながら、筑紫の果に相見たる面かげの殊に、此文は命終の日數も廿日にたらぬほどなり。その日の筆とり鼻もうちかみなど申されしありさまの今なを、忘れぬなみだこそはてしなけれ。
 菊もありて人なし夏の宵月夜」

 獨有についてはよくわからない。

 さかづきや百日紅にかほの照   支考

の句は、庭の百日紅を見ながら杯で酒を飲んで、ほんのり顔が照って自分もあの百日紅のようだ、ということか。
 ここになぜか芭蕉の手紙があった。それも難波の花屋という旅館で支考が死に瀕した芭蕉を介護していた頃の手紙だった。あて名はなかったが支考がここで正秀宛だと証言していることで、今日でも正秀宛書簡ということになっていると、『芭蕉書簡集』(萩原恭男校注、一九七六、岩波文庫)にある。
 ここに記されているのはその一部なので、全文を『芭蕉書簡集』から引用しておく。

 「遊刀被帰候間致啓上候。御無事に、いまほど御隙之由、珍重不過之候。伊賀へ素牛便之節、御狀幷月の御句感心、飛入客、則續猿蓑に入集申候。
 何とやらかとやら行先々日づもりちがひ候而、当年秋も名殘に罷成、漸々かみこもらふ時節に成候へ共、いまだかみこはもらはず時雨は催し候。
 当年之内何五七日之内なり共、得御意候樣にと存候へ共、例不定に候。霜月之内には何とぞ心がけ可申候。若名月前後は伊賀へ探芝か昌房など御誘、御尋にも預り可申哉と、同名半左衛門も相待申候。若其元へ得不参候はゞ、御左右可申候間、いがへ御出候樣に御覚被成可被下候。爰元衆俳諧もあらあら承候。之道・酒堂兩門の連衆打込之會相勤候。是より外に拙者働とても無御座候。重陽之朝、奈良を出て大坂に至候故、
  ○菊に出て奈良と難波は宵月夜
    又、酒堂が予が枕もとにていびきをかき候を
   床に来て鼾に入るやきりぎりす
    十三日は住よしの市に詣でゝ
   枡かふて分別替る月見哉
 壱合斗一つ買申候間かく申候。
 少々取込候間、早筆御免、
    九月廿五日        芭蕉」(『芭蕉書簡集』萩原恭男校注、一九七六、岩波文p.309~310)

 獨有に「宵月夜」の句の事を聞かれて、支考はこれは「影略互見の句法」だという。影略互見はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「影略互見」の解説」に、

 「① =ようりゃく(影略)①
  ※中華若木詩抄(1520頃)下「第四の句、影略して見るべき也。影略とは、詩を見るときに云いつけたることば也。字面には、秋月が夜雨の時にかかりたるとあるを、又をしかへして、夜雨の時に秋月もあるべきと見る処を影略と云也。詩の抄なんどに影略互見すると云へる、此心ぞ」
  ② =ようりゃく(影略)②
  ※応永本論語抄(1420)学而第一「君には〈略〉吾身不惜、命を可レ致。但親の難あらん時に、身を致さず君の為に力を尽まじきに非ず。影略互見(ヤウリャクコけん)して可見也」

とあり、「精選版 日本国語大辞典「影略」の解説」には、

 「① 漢詩文を鑑賞するときに使う語。ある表現をとった語句を、その順序を逆にして味わってみること。えいりゃく。影略互見。
  ※土井本周易抄(1477)四「言有レ物有レ恒ぞ。行有レ恒有レ物ぞ。影略してみたがよいぞ」
  ② 書かれた部分によって、暗示される語句を省略すること。えいりゃく。影略互見。
  ※史記抄(1477)一九「奉生送死之具也とは、〈略〉生れてから死るまで受用する物なりと云心を、其間をば影略したぞ」

とある。

 菊に出て奈良と難波は宵月夜   芭蕉

の句は「菊に奈良を出て、難波は宵月夜」とひっくり返せばわかりやすい。①の意味でも影略になる。元禄七年九月九日、奈良で菊の節句である重陽を迎え、この日奈良を発って大阪高津の宮の洒堂亭に行く。 途中、くらがり峠で駕籠を下りてそこから先を歩いたことが土芳の『三冊子』「くろさうし」に記されている。これが最後の旅になった。
 続いて獨有は、

 枡かふて分別替る月見哉     芭蕉

の句のことを尋ねる。
 この句は九月十三日に、住吉神社に詣でて升を買ったことを詠んだもので、十四日の畦止亭での興行の 立句として用いられた。住吉神社の宝之市は升の市とも呼ばれていたという。この辺のいきさつは支考の元禄八年刊の『笈日記』に、

   今宵は十三夜の月をかけてすみよしの市に
   詣けるに昼のほどより雨ふりて吟行しづ
   かならず。殊に暮々は悪寒になやみ申
   されしがその日もわづらはしとてかい
   くれ帰りける也。次の夜はいと心地よし
   とて畦止亭に行て前夜の月の名残
   をつぐなふ。住吉の市に立てといへる
   前書ありて
 枡買て分別かはる月見哉     翁

とある。住吉詣でに行って雨に降られてしまったため、せっかく良くなりかけた病状がまた悪化し、それで十三夜の興行が飛んでしまったことを詫びての句だった。
 升を買ったことで、病気なんだから無理をしてはいけないという分別を一緒に買ってきたことで、十三夜の月見が十四夜の月見に「替った」という「かはる」は二重の意味に掛けて用いられている。
 支考はこの仕掛けがわからなかったか、「分別かはるといふ中の七文字見がたし」とし、隠者はともすると升を買ったことで他の鍋や桶も欲しくなるということを戒めた句と解釈している。
 この手紙を見て支考は、まさか芭蕉の最後の手紙にこんなところで巡り合えるとはと、その手紙を書いたときのことがまざまざと思い出され、涙するのだった。
 そして一句。

 菊もありて人なし夏の宵月夜   支考

 菊はこの手紙のことであろう。手紙には巡り合えたが書いた人はもういない夏の宵月夜であった。芭蕉の「菊に出て」の句を踏まえた句だ。

0 件のコメント:

コメントを投稿