今日の朝の散歩でカワセミを見た。
コロナワクチンの方は昨日の時点で二千万回を突破した。
そういえば以前はLGBTQIAPZNなんて言葉があった。性的多様性はLGBTに留まるものではないということで、いわゆる欲望を満たそうとすれば非合法になる人たちというのも含めて論じる必要があるということで生じた言葉だと思う。
本多議員の問題もそれに含まれて来ると思う。性的多様性は無制限に全部肯定されるべきものではなく、社会の公序良俗と秤に掛けなくてはならないのは言うまでもない。強姦でなくては興奮しないなどと言われても、それを権利として認めることはできない。そこでまあペドもその一線を越えると判断され、非合法化されているわけだ。
異性愛者の性が無制限に解放されるわけでないのと同様、LGBTも無制限ではないし、ましてPZNが無制限ということにはならない。そう考えるなら「公序良俗」は性的多様性を越えた上位のルールと考えざるを得ない。それは誰しもがわきまえねばならぬものだ。
その公序良俗を作り上げているのは、我々の日々の生存の取引の繰り返しだ。
それでは「梟日記」の続き。
19,長崎清水寺
「十日
久米のなにがし素行にいざなはれて、此清水寺に詣けるに、今日は二万五千日の功徳とかや。殊に女ごゝろのたのみをける日なるべし。此津の遊女どもの人も見、人にも見られむとよそほひ立たるに、往來のをひ風に心ときめきせられて、花すゝきのなびき合たる野邊は、男山もあだにたてりと見ゆらんかし。さるは浮草の世にうかれて身をあだなりと見る人は、浦のみるめもいかにあだならん。今さしあたりたる物おもひはなけれど、左右の翠簾越にのぞかれて、顏のをき處なからんこそうたておもはるれ。禿といふものゝ何ごゝろなくて、茶漬喰ひたしてとおもへる、雀の花見がほにもたとへ侍らん。をひさきいかなるあだ人にか馴て、物おもふ事もならひてむと、是さへあはれにおぼえられける。
草花の名にたびねせんかぶろども」
長崎の清水寺はウィキペディアに、
「清水寺(きよみずでら)は長崎県長崎市鍛冶屋町にある真言宗霊雲寺派の寺院である。山名は長崎山(ちょうきさん)。本尊は千手観音。」
「当寺は、京都・清水寺の僧・慶順により、元和9年(1623年)に創建された。現存する本堂は寛文8年(1668年)、唐商人の何高材(がこうざい)とその子供兆晋・兆有らの寄進によって建立されたものである。」
とある。
「二万五千日の功徳」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「二万五千日」の解説」に、
「〘名〙 仏語。京都や長崎などの清水寺の観音の縁日である七月一〇日に参詣すること。この日に参詣すると、二万五千日参詣したのと同じ功徳(くどく)があるという。→四万六千日。
※俳諧・本朝文選(1706)二〈支考〉「七月十日。けふは二万五千日の功徳とかや」
とある。縁日だというので素行も「是非この日に」と誘ったのだろう。
「此津の遊女」は丸山花街の遊女か。ウィキペディアに、
「元禄ころの状況を伝えるケンペルの紀行には「長崎の丸山は京の嶋原以外では、他に見られぬ艶麗を表現している」とあり、花月楼の鶴の枕は、唐の玄宗皇帝の楊貴妃の遺物であると伝わり、遊女の服装が華やかだったことは、小唄「京の女郎に長崎衣裳、江戸の意気地にはればれと、大坂の揚屋で遊びたい」とあるほどで、井原西鶴の「日本永代蔵」には「長崎に丸山と云ふ所なくば、上方の金銭無事に帰宅すべし」とさえ評された。」
とある。華やかな衣装が人目を引いていた。
遊女の見習いの禿(かぶろ)は花見に来て花よりも茶漬けを食うのがたのしみであるかのような、まだ無邪気で雀みたいに姦しいその姿を見ると、これから先オヤジの慰みものになり、苦しい人生が待っていると思うと哀れでならない。
草花の名にたびねせんかぶろども 支考
草花は秋の花野を彩る小さな可憐な花々で、それを俤にして旅寐しようかと、艶やかな遊女よりも禿って、支考さん‥‥。
20,去来の来訪
「十一日
此日洛の去來きたる。人々おどろく。この人は父母の墓ありて、此秌の玉祭せむとおもへるなるべし。此日こゝに會しておもひがけぬ事のいとめづらしければ、
萩咲て便あたらしみやこ人
牡念・魯町は骨肉の間にして、卯七・素行はそのゆかりの人にてぞおはしける。この外の人も入つどひて、丈草はいかに髪や長からん。正秀はいかにたちつけ着る秌やきぬらん。野明はいかに、野童はいかに、爲有が梅ぼしの花は野夫にして野ならず。落柿舎の秋は腰張へげて、月影いるゝ槇の戸にやあらんと、是をとひ、かれをいぶかしむほどに、
そくさいの數にとはれむ嵯峨の柿 去來
返し
柿ぬしの野分かゝえて旅ねかな 支考」
去来は長崎の生まれで八歳のときに父、儒医元升とともに京に移住した。そのため去来は祖先の墓が長崎にあるため、お盆には長崎に帰省していた。支考と去来はともに芭蕉の死に立ち会い、追悼なども共に行てきたが、ここで思いもかけず会うことになる。
萩咲て便あたらしみやこ人 支考
去来は長崎の生まれとはいえ長く京で暮らしていたので、一応「都人」といえよう。江戸っ子は三代住んで江戸っ子だというが。支考は美濃の真桑瓜の産地で生まれ、今は伊勢にいる。
牡念と魯町は去来の弟でこの頃の言葉だと「骨肉の間」ということになる。卯七と素行は去来の長崎の門人。この外というのは卯七や素行の門人であろう。
丈草の髪の長さや正秀の裁着(たっつけ)のことなど芭蕉の門人の噂話や、京にいる去来の弟子の野明や野童はどうしているかだとか、為有の「梅ぼしの花」は元禄十二年刊朱拙編の『けふの昔』に収録されることになる、
梅干の花とて惜む小僧かな 為有
の句のことか。
大人が梅の花を大事にしていると、子供は「ヘっ、梅干しの花じゃねえか」と悪態ついたりする。
元禄十一年刊浪化編の『続有磯海』には、
梅を見に行とはいふな藪の中 為有
の句もある。
藪の中に住んでいると、何か自分だけ風流をしってるんだぞ、みたいな自慢に聞こえてしまうから、他の用事を言って梅を見に行くというのだろう。
『続有磯海』には名前の所に「さが田夫 為有」とある。嵯峨野を京と言わずに「さが」と言って区別している上、わざわざ「田夫」としている。何か差別的なものがあったのかもしれない。
「野夫にして野ならず」とは野夫だけど野暮ではないということか。
丈草は僧だと思ってたが、髪を剃ってなかったのか。正秀の「裁着」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「裁着・立付」の解説」に、
「〘名〙 (「たちつけ(裁着)」の変化した語) 裾(すそ)を紐で膝の下にくくりつけ、下部が脚絆(きゃはん)仕立てになっているはかまの一種。たちつけばかま。たっつけばかま。野袴。《季・冬》」
とある。正秀がいつも履いていたのか。このあたりは俳諧師同士の日常の話題が垣間見れる。
落柿舎の「腰張」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「腰張」の解説」に、
「① 壁や襖(ふすま)の下半部に紙や布を張ること。また、その場所やそこに張ったもの。
※茶伝集‐一一(古事類苑・遊戯九)「一腰張の事、湊紙ふつくり、其長にて張も吉、〈略〉狭き座敷は腰張高きが能也」
とある。下の方にだけ張る壁紙みたいのもので、これがあると狭い茶室でも引き締まって見えるが、これがはがれると下の板がむき出しになるが、それを板だからというので「槇の戸」だと気取っているのだろう。まあ、一種の貧乏自慢か。
まあ、そんな他愛のない話をしながら、一句。
そくさいの數にとはれむ嵯峨の柿 去來
嵯峨の柿が去年も落ちたかどうかも話題になったのだろうか。落柿舎は無事だが。
これに対して支考も返す。
柿ぬしの野分かゝえて旅ねかな 支考
落柿舎の主もやはりあの台風の中を旅してきたのかな。支考は天草を渡るのにかなり難儀したが。
『西華集』の表八句二巻は長崎滞在中のいつ頃なのかはわからないが、去来は参加していない。
長崎
秋たつや朔日汐の星ししみ 卯七
はらりとしたる松に早稲の香 素行
姥捨の哥には誰も袖ぬれて 支考
白髪ばかりの庵の酒盛 雲鈴
見違る隣の亀か嫁入前 一介
櫻の花で持った開帳 野青
鶯の日和になりて味をやる 楓里
米斗出す庭の春風 千流
仝
燈籠や此松はよき釣所 鞍風
野つらの月に虫は鳴ぬか 逸雲
清酒の門も杉葉の秋は来て 支考
そこらの者の味噌つきによる 望郷
昼過はとろりと曇る天気相 盤谷
又手をかへてあそぶ兀山 北溟
鐘つきの鐘楼にのぼる鎰の音 雲鈴
洗あけたる膳の清ふき 六出
21,牡年亭夜話
「十二日
牡年亭夜話
卯七曰、今宵は先師の忌日にして、此會此こゝろさらにもとめがたからん。たかく蕉門の筋骨を論じ、風雅の褒貶をきかむ。そもそも先師一生の名句といふはいかに。荅曰、さだめがたし。時にあひをりにふれては、いづれかよろしく、いづれかあしからん。世に名人と上手とのふたつあるべし。名句は無念無想の間より浮て、先師も我もあり。人々も又あるべし。名句のなきは有念相の人なればならし。たとへ俳諧をしらぬ人もいはゞ名句はあるべし。上手というふは、切屑をとりあつめて料理せむに、よきとあしきとのさかひありて、はじめて上手・下手の名をわくるならん。吾ともがら先師のむねをさだめねば名句の事はしらず。」
芭蕉の亡くなったのは元禄七年十月十二日で、十二日は月命日になる。それで芭蕉の俳諧について今日は話を聞きたいと卯七が持ちかける。
卯七曰。芭蕉一生の名句とは。
支考答。名句は「無念無想」。いわば意図して作れるものではない。最近の言い方だと「天から降りてくる」というべきものだ。それゆえに「神」という。
「有念相」は日常的にどういう意味で用いられていたのかはわからない。「有相」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「有想」の解説」に、
「〘名〙 仏語。知覚、表象作用のあること。また、そのもの。⇔無想。
※幸若・笛巻(室町末‐近世初)「有想といへる心は、万の物を有と見る。是は有想のまよひとて地獄におつるはじめなり」 〔金剛経〕」
とある。これは別に万物が有か無かという存在論ではなく、物事をすべて理屈で理解できると思っている人、という感じなのではないかと思う。今でいえば科学万能主義だが、要するに「無知の知」を知らない、自分にはわからないことがたくさんあるんだという謙虚な気持ちを欠いている、ということではないかと思う。
こういう人は、句を詠むときでもいちいち理屈で作ろうとする。でもそういう計算されたものは「上手」ではあっても「名句」ではない。これはどこか天才と秀才の境界線にも似ているかもしれない。天才は世界が分からないから、分かろうとして偉大な発見をする。秀才は世界が分かっているから、決められた答えしか出せない。天才はテストで八十点でも、百年後には百点になっていたりする。秀才は今は百点でも後の世から見ると落第点ということになる。
俳諧を知らない人でも名句はある、具体的にはどの句がと言われると困るかもしれない。当時の撰集に入集するレベルなら、撰集の中に「少年」とか「遊女」とか書かれている句の類であろう。
雪の朝二の字二の字の下駄の跡 捨女
の句は幼少の頃の作だという伝説にはなっているが、後世の本にしか見られず無名作者の句が仮託された可能性もないではない。
桐一葉落ちて天下の秋を知る
の句は戦国武将の片桐且元だと言われているが、はっきりしているのは近代の坪内逍遥の芝居で用いられたということで、坪内逍遥の作かもしれない。
松島やああ松島や松島や
の句も時折芭蕉の作だという人がいるが、
松島やさて松島や松島や 田原坊
という江戸後期の狂歌師の句だという。
まあ、この辺はいわゆる俳諧師の句ではない。
なら支考の名句は何かというと、ごめんなさい、
馬の耳すぼめて寒し梨の花 支考
くらいしか思いつかない。多分この「梨の花」の下五は何も考えずに天から降りてきた言葉ではないかと思う。
これに対し「上手」というのは、「切屑をとりあつめて料理せむに、よきとあしきとのさかひありて」とある。いわば残り物を集めただけでも旨い料理が作れるのは料理上手ということだ。まあ、これはあくまで例え話で料理の良し悪しを論じているのではない。
俳諧の上手というのは、特に心を突き動かす強力な初期衝動を持たなくても、適当に言葉を並べ替えてそれなりの句が作れる、そういう小手先のテクニックが上手というものなのだろう。いわば、締め切りに迫られても、何とかそれなりのものを作れるということか。
芭蕉の名句はというと、自分はといわず「吾ともがら」という。芭蕉の門人はみんなそう思っているが、というところで、結局先師に聞いてみないとわからないということだ。多分芭蕉に聞いてもどれが一番というのはないと思う。個人的に一番好きな句ならあるかもしれないが。
作品の評価というのは最終的には大衆が決めるものだ。その意味では古池の句と猿に小蓑の句が双璧だったと思う。近代の評価はまた違う。西洋から来た全く別の文学理論で評価されているからだ。
「卯七曰、公等自讃の句ありや。曰、自讃の句はしらず。自性の句あるべし。
應々といへどたゝくや雪の門 去来
有明にふりむきがたき寒さかな 同
評曰、始の雪の門は、應とこたへて起ぬも、荅をきゝてたゝくも、推敲の二字ふたゝび世にありて、夜の雪の情つきたりといふべし。次の有明はその情幽遠にして、その姿をばいふべからず。」
これは去来も同席していて去来自身が答えたのだろう。卯七も「公等(きんら)」つまり君達と言っている。
自性(じしゃう)というのはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「自性」の解説」に、
「〘名〙 仏語。物それ自体の独自の本性。本来の性質。本性。
※即身成仏義(823‐824頃)「又金剛頂経云。諸法本不生。自性離二言説一。清浄無二垢染一」
※謡曲・山姥(1430頃)「仮に自性を変化して、一念化生の鬼女となって」 〔金剛頂経‐上〕」
とある。自讃というよりは自分で気に入っている、自分の性にあっている、というニュアンスだろう。
應々といへどたゝくや雪の門 去来
この句は『去来抄』では他の門人からそれほど高い評価は得ていなかった。まあ、言ってみればただの「あるある」で終わっている。
雪の日は火燵から出たくないもので、門を叩く音が聞こえても、「おう」と生返事をするだけで、火燵から離れたくない。早く開けてくれと、戸を叩き続ける。そこに「推敲」の元になった「僧推(おす)月下門」「僧敲(たたく)月下の門」の詩句にもつながるし、
嘆きつつひとりぬる夜のあくる間は
いかにひさしきものとかは知る
右大将道綱母(拾遺集)
の歌にも通じるというが、句自体には隠士の風情も恋の情もない。まあ、「優秀な読者」なら、そこにたぐい稀な想像力を駆使して、勝手に物語を作ってくれるかもしれないが。名句は読者が作る物だ。
有明にふりむきがたき寒さかな 去来
これは、
ほととぎす鳴きつる方を眺むれば
ただ有明の月ぞ残れる
藤原実定(千載集)
であろう。夏だから振り向く余裕もあるが、冬なら有明の月が見えていても振り向く余裕もない。冬の明け方の寒さをうまく表してはいる。ただ、「その姿をばいふべからず」というよりも最初から冬の有明という以外に姿のない句で、後は勝手に想像してくれ、ということになる。
「應々と」は姿は良く出来ていて、門を叩く者の焦った顔や、火燵にしがみつく者のかったるそうな姿が目に浮かんでくるようだが、特に深い情はない。「有明に」の句は寒さは伝わってくるが浮かんでくる姿がない。
去来の弱点は読者依存症ではないかと思う。これで十分読者はわかってくれると思っているところが、どうも伝わっていない。『去来抄』の、
手をはなつ中におちけり朧月 去来
兄弟のかほ見るやミや時鳥 同
の所で芭蕉からも指摘されていた弱点だ。
筆者は去来の一番はやはり、
何事ぞ花みる人の長刀 去来
だと思う。
「膓に秌のしみたる熟柿かな 支考
梢まで來てゐる秋のあつさかな 同
評曰、始の熟柿は西瓜に似て、西瓜にあらず。西瓜は物を染て薄く、熟柿は物をそめて濃ならん。漸寒の情つきたりといふべし。次の殘暑はその情幽遠にして、その姿をばいふべからず。
されば秋ふたつ冬ふたつ、そのさま眞草の變化に似れば、ならべてかく論じたる也。自讃の句は吾しらず。是を自性の句といふべし。先師生前の句はおゝくその光におほはれて、あれどもあるにはあらざらん。筋骨褒貶は沒後の論なるべし。」
大体去来の言ったことを繰り返して、自讃ではなく自性の句だと言い、「その情幽遠にして、その姿をばいふべからず」はそのままパクっている。まあ、それだけ去来をリスペクトしてのことだろうけど。 ただ、温度差があるとすれば、支考は去来ほど自性の句に思い入れがないのではないかと思う。最後の「筋骨褒貶は沒後の論なるべし」は自分の句に関してもそうだと思っていると思う。それはおそらく遅れてきたため、芭蕉の俳諧の全盛期の華やかな成功体験に恵まれてないからではないかと思う。自分の句が後世に残るかどうかはかなり不安だったのではないかと思う。
支考が選んだ二句は支考自身が言う「不易の眞」の句であろう。「膓(はらわた)に」の句は、熟した柿の実が視覚的にも味覚的にも秋を感じさせる、というもので、子供のころから柿をよく食べてきた世代には、かなりノスタルジックな感傷もあるのではないかと思う。
秋の果物の身にしむは、
片枝さす麻生の浦梨初秋に
なりもならずも風ぞ身にしむ
宮内卿(新古今集)
の歌がある。この歌は夏に分類されているが、秋になるまえに吹いた秋風の身にしむことを詠んでいる。その秋風が積もり積もるとやがて熟した柿に秋風が腸にまで染み入ることになる。熟した柿の甘い味の虚と秋風の身にしむとが微妙なバランスを取っている。
「梢まで」の句は残暑の厳しさが夏の内に根から吸い上げ幹に行き渡り、残暑の頃には梢にまでたどり着く。これを比喩として、長く続く厚さに夏の疲労が残暑の頃に限界に達することをいう。これも「梢まで」という虚に残暑の実が具わっている。
去来の句が「雪の門」「寒さ」というテーマからそれにふさわしい景を探って行くのに対し、支考は柿に秋の身にしむ、梢に暑さという最初に虚実を結ぶテーマを思いついて、それを両方向に発展させている感じがする。去来の思考が直線的なのに対し、支考は最初から並列的に思考しているかのようだ。
支考に弱点があるとすれば、芭蕉のようなキャッチーなフレーズが作れないところだろう。「膓に秌のしみたる」はやや冗長で、芭蕉の「腸氷る」には勝てない。
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