65歳以上のワクチン接種率が昨日で50パーセントを越えた。一日130万回ペースで増えている。医療従事者を加えればワクチン接種回数は三千五百万回を越えている。
コロナの新規感染者数は東京を中心に感染の拡大が起きている。全国的には実効再生産数0.88だが、これから夏の旅行シーズンで、抑えるべき所を抑えなければ間違いなく全国に拡大する。ただ、高齢者のワクチン接種率は田舎へ行くほど高いので、感染が拡大しても重症者数や死者数はそれほど増えないと思う。
イギリスでも感染は拡大したが、今のところ重症者数も死者数もほとんど増えていない。ワクチンは有効だ。
ワクチンで後回しにされた若者を中心とした感染拡大が心配されるが、老人が守られていればそれほど重症者数も死者数も増えない。重症者が増えなければ医療崩壊も起きない。
ワクチン接種と自粛体勢に深刻な妨害活動が起きない限り、第五波はさざ波で終わり、オリパラも無事に終わらせることができる。デマや誇張された恐怖を煽る報道に騙されないように。
昨日オリンピックに反対するデモがあったようだが、彼らは「今後のオリンピックも廃止してほしい」と訴えている。「反五輪の会」はオリンピックそのものに反対してきた団体で、一般的な国民の声とは程遠い。そこを読み違えると世間のマスコミ離れは加速するし、政治家は選挙でえらい目にあうよ。もちろん海外の人も騙されないように。
それでは「西華集」の続き。
玖珠
跡むいて腰のす坂の早百合哉 投錐
日をくるはする夕立の雲 曲風
黄檗の掃除に鶴の出あるきて 支考
八百屋たよりに渋紙が來る 女鶴
分限者の面白さうに年の暮 雲鈴
今度の家は誰にあるやら 可庭
さらさらと月照わたす門の川 長洲
うれしき空になりし初秋 繁貞
第一 不易の行也木幡の里に馬はあれど杖つきのぼる老
の坂ならば早百合が下もしばしのやすらへならん
跡を見むきたらんには海原の猟船も木の葉のやう
に見ゆらんかし
第二 天相也坂といひ早百合といへば凉しきやうにあつ
きやう也さるは日影の雲のくるはするぞと発句の
余情をよくさだめたり
第三 曲也ただ掃除日にむれたちて雨前のいそぎと見る
べし打越むづかしければ黄檗といへ鶴といふ名目
にたよりたる一轉のみなるべし
発句は、
跡むいて腰のす坂の早百合哉 投錐
腰のす坂は坂の名前なのか。あるいは単に腰を伸ばすということか。百合の花が咲いていたので足を止めたついでに後ろを振り返り、腰を伸ばして遙後ろの景色を眺める。
「木幡の里に馬はあれど」は、
山城の木幡の森に馬はあれど
思ふがためは歩みてぞ来る
柿本人麻呂(古今六帖)
であろう。馬ではなく老人の杖ついて登る坂なら、「海原の猟船も木の葉のやうに見ゆらん」とする。この景色は「木幡の里」とは特に関係なさそうだ。旅路のありがちなことで不易の行。
投錐は元禄十二年刊朱拙編『けふの昔』に、
誰か笠ぞぼくぼく夏の葉の梢 投錐
梅もはや咲たり月も雪もふる 同
の句がある。
脇。
跡むいて腰のす坂の早百合哉
日をくるはする夕立の雲 曲風
前句の天候を付ける「天相也」になる。振り返り眺めたのは夕立の雲だった。
曲風は元禄十二年刊朱拙編『けふの昔』に、
びいどろの盃いざや衣かへ 曲風
桐の葉や眠て居たる門の鳩 同
の句がある。
第三。
日をくるはする夕立の雲
黄檗の掃除に鶴の出あるきて 支考
お寺の掃除の場面に転じる。
黄檗は隠元和尚を開基とする宗派で、中国式のきらびやかなお寺なので鶴を連想したのであろう。
四句目。
黄檗の掃除に鶴の出あるきて
八百屋たよりに渋紙が來る 女鶴
渋紙はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「渋紙」の解説」に、
「〘名〙 (現在は「しぶがみ」とも) 紙をはり合わせ、柿渋を塗ってかわかしたもの。防寒・雨よけの衣類とし、敷き物、荷物の包装などに用いる。
※多聞院日記‐天文一三年(1544)八月一三日「しふ紙仕り了んぬ」
とある。
八百屋は本来いろいろなものを売る店で、野菜だけでなく、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「八百屋」の解説の[補注]に、
「「人倫訓蒙図彙‐四」(一六九〇)には「一切(いっさいの)精進の調菜、乾物(ひもの)、海草(うみくさ)、木実、草の根、あらゆるもの也」とあり、「八百屋」が多種のものを扱っていたことが知られる。」
とある。つまり肉や魚以外の食材を扱う店だった。お寺の食糧は大体八百屋でまかなえる。
渋紙はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「渋紙」の解説」に、
「柿渋(かきしぶ)で加工した和紙。柿渋は古くは柿油ともいって、晩夏のころに青柿より絞り取る。この生渋(なましぶ)を半年以上置くとさらに良質の古渋になるが、成分はシブオールというタンニンの一種で、これを和紙に数回塗布することによって耐水性ができ、じょうぶになる。江戸時代には紙衣(かみこ)、合羽(かっぱ)、敷物、荷札、包み紙などに広く使用された。また、捺染(なっせん)の型紙も渋紙の一種である。とくに渋とべんがら(紅殻・弁柄)を混ぜたものは、雨傘の「渋蛇の目(しぶじゃのめ)」の塗料とされた。[町田誠之]」
とある。大量に買い付ける時に、荷造りのために渋紙を用意してくるのであろう。
女鶴は『西華集』に、
出かはりやこなたの雨もけふばかり 女鶴
の句がある。
五句目。
八百屋たよりに渋紙が來る
分限者の面白さうに年の暮 雲鈴
分限者は金持ちのこと。金持ちの年末の正月準備で、八百屋で大量に買い付ける。
六句目。
分限者の面白さうに年の暮
今度の家は誰にあるやら 可庭
今度の家は誰のものになるか、ということか。立派な屋敷を買い取った分限者のことが気になる。
可庭は『西華集』に、
朝鉢の卯の花ほむる垣ね哉 可庭
熊笹に中休して落葉かな 同
の句がある。
七句目。
今度の家は誰にあるやら
さらさらと月照わたす門の川 長洲
立派な屋敷の門の辺りの情景に月を添える。
長洲は『西華集』に、
出がはりや親もうなづく江戸心 長洲
朝鷹の小鳥も居らず又寝哉 同
などの句がある。
八句目。
さらさらと月照わたす門の川
うれしき空になりし初秋 繁貞
前句の時期と付ける。「時節也」であろう。
繁貞は元禄十二年刊朱拙編『けふの昔』に、
杉の葉にぬれ色こぼす小鮎かな 繁貞
池に来てさびしさびしと鴛一羽 同
の句がある。
八代
烏子の踏ならひてや桐の花 理曲
瓜で出來たる新田の家 露亭
鉢坊に洗濯物を盗まれて 支考
今朝から風のただ吹にふく 含莿
方々を聞合たる江戸だより 柳水
舟こぎよする河岸はたの蔵 山卜
明月に座頭はどこへ袴着て 棟祇
日は暮かかるとんぼうの影 林木
第一 不易の草也烏といふもののいとをしみすくなく春
花秋葉にのさばりたる稚ならひには桐の花をやふ
みそめけむと時節を合たる句也
第二 其場也此新田に瓜つくりそめていとこも家つくり
甥も見世出したればそこら大かたに居くろみと烏
殿のをとづれも殊に此瓜の比なるべし
第三 其人也亭主は畠に行女房は河戸に干菜きざみ居た
るが鉢ひらきの通りがてに洗濯物をはづしたりと
里はなれのさまをいふ也かかるをりふしはなにが
し法師の八卦さへあはぬもふしぎにこそ
発句は、
烏子の踏ならひてや桐の花 理曲
で、霧の花の咲いているところにカラスが止まっているというもの。
桐の花の時節に無風流なカラスが「踏ならひて」とするところに、逆説的に桐の花を引き立てる。
桐の花の咲くのをよろこぶ情は不易だが、カラスとの散文的な取り合わせが「草」となる。
理曲は『西華集』に、
瓜畑の小家凉しや棟ひとつ 理曲
枝かゆる蝉の羽音に嵐かな 同
の句がある。
脇。
烏子の踏ならひてや桐の花
瓜で出來たる新田の家 露亭
新田の家は先祖伝来の田を守っているのではなく、後から移り住んできた人だろう。片手間に瓜も作り、なかなかのやり手の農家で、積極経営で立派な家を立て、庭の桐の木には花も咲いている。
前句の桐の花に、それにふさわしい景色を付けるので「其場也」になる。
露亭は『西華集』に、
鼻かみて雨戸明けり梅の花 露亭
茶筵の上にも寐たき卯月哉 同
などの句がある。
第三。
瓜で出來たる新田の家
鉢坊に洗濯物を盗まれて 支考
鉢坊は托鉢の乞食坊主で、注にある「鉢ひらき」も同じ。
新田の家の主人は畠に行き、妻が干菜を刻んでいる隙に、というのは支考の想像だが、ありがちなことだったのだろう。新田の家に出没しそうな洗濯物泥棒を付けるということで、「其人也」になる。
四句目。
鉢坊に洗濯物を盗まれて
今朝から風のただ吹にふく 含莿
前句にただ天候を付けただけのように見えるが、
人住まぬ不破の関屋の板びさし
荒れにし後はただ秋の風
藤原良経(新古今集)
の「ただ」を連想もあり、洗濯物のない物干しに、ひゅーとただ風だけが吹いている。
「風」の比喩がこうした用例を繰り返すことで慣用句化してゆく。
含莿は『西華集』に、
玉棚に燈おかむ童部かな 含莿
腰張に狂言の絵を火燵哉 同
の句がある。
五句目。
今朝から風のただ吹にふく
方々を聞合たる江戸だより 柳水
前句を風の噂とする。
柳水は『西華集』に、
鳫行て鷗一羽の入江かな 柳水
の句がある。
六句目。
方々を聞合たる江戸だより
舟こぎよする河岸はたの蔵 山卜
河岸(かし)に諸国からの船が着くたびに、その船の人から聞いた江戸の噂が広まって行く。
山卜は『西華集』に、
簑ぬげば松風残る鵜舟哉 山卜
鉢たたき上戸さう也今の聲 同
の句がある。
七句目。
舟こぎよする河岸はたの蔵
明月に座頭はどこへ袴着て 棟祇
座頭はかつては古浄瑠璃などを語っていたが、この時代にはすっかり廃れてしまい、支考は『梟日記』に周防柱野で琵琶法師を初めて見たと言って、
ほとゝぎすむかしなつかし琵琶法師 支考
の句を詠んでいる。その前に安芸竹原では、
箸も一度に切麦の音
あたまはるまねに座頭のにつとして 支考
の第三を付けている。この場合は按摩をイメージしていたようだ。
ここで袴を着た座頭の職業はよくわからないが、按摩だとしたら立派な蔵を持っている豪商に呼ばれたか。
棟祇は『西華集』に、
花売につれたつ町の胡蝶かな 棟祇
我庵は草に草ふくあやめ哉 同
などの句がある。
八句目。
明月に座頭はどこへ袴着て
日は暮かかるとんぼうの影 林木
名月の昇る頃の景色を付ける。
材木は『西華集』に、
梅が香の爰こそ闇の下馬が橋 材木
あたまつき是の男や鳴子引 同
の句がある。
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