今朝は生田緑地まで歩いて花菖蒲を見てきた。朝早くて画眉鳥が盛んに鳴く中、幽かにホトトギスの声が聞こえてきた。紫陽花も咲いていて蝸牛がたくさんいた。
紫陽花と言うと、その下にドクダミが咲いてたりすることが多い。紫陽花とドクダミの取り合わせで句ができそうだが、許六流だと、ここに何か一つ取り囃さなくてはならない。ドクダミのモブに囲まれ濃紫陽花、って感じかな。濃紫陽花(こあじさい)は紫陽花を無理やり五文字にしたい時に使う近代俳句の言葉だろう。
それでは「梟日記」の続き。
西華坊梟日記 坤
ここから先は支考の九州の旅の記録になる。
「元禄の今年六月一日豐前の小倉にいたる。その夜は有觜亭に宿す。是より九國の道、東西にわかれて、行脚の心ざしさだめがたし。
笠に帆をあげてどちらへ夕凉」
「乾」の末尾では「三十日」とあった。多分実際にたどり着いたのは五月三十日だったのだろう。ただ六月一日から九州の旅が始まるとしたほうが切がいい。細かいことは気にすんなという所だろう。
有觜は小倉の人なのだろう。よくわからない。
九州の道はここから博多方面と大分方面とに分かれている。さてどっちへ行こうかということで、まずは一句。
笠に帆をあげてどちらへ夕凉 支考
笠を帆に見立ててしゅらしゅしゅしゅ。
1,大橋
「二日
大橋
この日元翠亭にいたる。此おのこは、おかしきおのこにて、人に面をかざらねば心又物にかゝはらず。その夜いねたりけるまくらのあなたにて、明日さらば何をかもてなさむといへるに、何もかまへたる事侍らずと、こたふる聲のひきいりてきこえたるは、げにこの人の妻なるべし。我さらに美好の味はもとめねども、竹の子は已に過て瓜・茄子はいまだきたらず、今ぞ心ぼそき世なりける。
竹の子や茄子はいまだ痩法師」
結局はまずは大分方面へ行く。大橋は中津街道の宿場で今の行橋になる。中津街道はほぼ今の国道10号線と並行している。
元翠は他人行儀なところが全くなく気さくな人柄で、夜寝る時に「明日は何をもてなそうか」という声が聞こえてきて、それに「そんな気にすることもない」とその妻の声が聞こえてくる。
元翠は享保九年刊朱拙・有隣編の『ばせをだらひ』に、
梶原が朝起憎し蠅の聲 元翠
この季節は竹の子には遅く瓜や茄子には早いというので、一句。
竹の子や茄子はいまだ痩法師 支考
とにかく腹の足しになれば何でもいいですよ、というところか。
「三日
柳浦亭にまねかれて、手作の瓜畠など見あるきけるに、古里の眞桑もいまや盛ならんとおもへば、なにがしの僧正の哥のこゝろまでおもひやられて、
美濃を出てしる人まれや瓜の華
此日このところを出むといふに、人々袖にすがりとゞめられしを、是も歸るさの道しるべなどさまざまにいひなぞらへて、
又越む菊の長坂秌ちかし
あまの河によみたる菊の高濱も、此あたり
なるべし。」
大橋宿での二日目は柳浦亭に行く。瓜畑があり見て歩く。甜瓜(マクワウリ)は美濃の真桑村で古代から作られていたもので。近代に西洋メロンが普及するまでは夏の味覚を代表するものだった。真桑村は現在の本巣市の南部で樽見鉄道に北方真桑という駅がある。支考の出身地も美濃国山県郡北野村西山でそう遠くない。
その甜瓜の「いまや盛」というのは花盛りということだろう。
なにがしの僧正は、
もろともにあはれと思へ山桜
花よりほかに知る人もなし
前大僧正行尊(金葉集)
であろう。ここでは山桜を瓜の花に代えて、
美濃を出てしる人まれや瓜の華 支考
この日のうちに発とうかと思ったが、大橋の人たちに引き留められて、帰る時の道標になぞらえて、
又越む菊の長坂秌ちかし 支考
「菊の長坂」「菊の長浜」は何か出典があるのか、よくわからない。
『西華集』には柳浦の発句、元翠の脇、支考の第三による表八句が記されている。この日のものか。
2,椎田
「四日
この日大橋の人々におくられて濱の宮にまうづ。此神のむかしこの浦に一夜の夢をむすび給ひしを、世に綱敷の天神とはあがめたる也。さるたびねは神だにあはれとおぼしたらんに、おろかなる人はましてぞや。
晝がほよ今宵はこゝにはまの宮
今宵はこゝに社僧の情ありて通夜申侍るに、元翠・柳浦・桐水などこゝにありて名殘をおしむ。日暮て一袋きたる。このあたりちかき椎田の人々も、きゝをひ來りて、奉納の歌仙半におよぶ。夜更て朱拙・怒風など名のりて戸をたゝき來る。此人々は黒崎のかたにありて、きゝおひ來れるにぞありける。朱拙のぬし續さるみのを懐にしきたる。さりや此集は先師命終の名殘なりしが、さる事の侍て武洛の間をたゞよひありきて、今こゝに見る事のめづらしうも、かなしうもおもはれて、泪のさと浮たるが、人にかたるべき事にあらずかし。そも今宵は田舍芝ゐのやうにつどひあつまりて、その朝は又はらはらにわかれ行に、僧の怒風はみのゝ國にかへるときけば、古さとのかたも戀しうぞ侍る。此僧は我舊識の人なりしが、この春のころより筑紫の方にありて、彼は歸り我は行、そは又誰がためにか行たれがためにか歸るならむ。いとまなき世のありさまかな。
夏旅の馬ならばよきくろみかな」
濱の宮は今の綱敷天満宮で椎田宿に近い城井川の河口にあり、浜の宮海岸がある。築上町のホームページに、
「綱敷天満宮は菅原道真公ゆかりの天満宮である。「左遷された道真公が大宰府に赴任する途中、嵐に遭遇し、この浜にたどり着いたとされている。
この時、漁船の網の綱を敷いて休んでいただいた。道真公はここでしばらく休養され筑紫に向かわれた。」という故事」により「綱敷天満宮」と称されたとされている。
道真公はここでしばらく休養され筑紫に向かわれた。後に、豊後国主木下延俊両公によって現在の社殿が造営されたという。」
とある。
「一夜の夢」は菅原道真公の旅寝のことであろう。
晝がほよ今宵はこゝにはまの宮 支考
この夜はこの神社の通夜ということで、大橋の元翠・柳浦・桐水とはここで別れ、椎田の人たちと歌仙興行を行う。
その歌仙も半ば、夜も更けてきた頃、朱拙と怒風がやってくる。黒崎は北九州市八幡西区の黒崎か。椎田までは一日がかりの行程であろう。この日の朝発ったか。
朱拙は日田の人で、元禄十年刊風国編の『菊の香』に、
山の井や猿もあぐらを星むかえ 朱拙
春雨や手ちかうなりし山のはな 同
などの句がある。元禄十五年刊の千山編『花の雲』にも、
みそさざいみそさざいとて渡りがち 朱拙
の句がある。
支考の来た翌年の元禄十二年には『けふの昔』を編纂し、享保九年には有隣とともに『ばそをだらひ』を編纂している。
朱拙は『続猿蓑』を持ってきた。沾圃編で芭蕉もその編纂に係わっているとされている。未定稿として伊賀松尾家に残されていて、元禄十一年、つまりこの年井筒屋庄兵衛によって刊行された。奥書には五月吉日とある。朱拙はそれをいち早く手に入れたか。
最後に芭蕉が伊賀に帰った時にはこの未定稿を持っていたのだろう。この時支考も伊賀にいたので、支考がこの編纂に関与したと言われているが、「此集は先師命終の名殘なりしが、さる事の侍て武洛の間をたゞよひありきて、今こゝに見る事のめづらしうも、かなしうもおもはれて、泪のさと浮たるが、人にかたるべき事にあらずかし。」と支考が関与したとしてもその時だけだったようだ。少なくともその後は支考のあずかり知らぬ所で出版の話が進んでいたようだ。
この日の夜はこうやって田舎芝居のようにどこからともなく集まって、翌朝には解散した。
怒風は美濃の人で、元禄二年、芭蕉の『奥の細道』の旅で大垣に来た時、「野あらしに」の巻に参加している。『炭俵』に、
團賣侍町のあつさかな 怒風
の句がある。支考とも旧知の仲だが、これから美濃に帰るというので、離れ離れになる。
ここで一句。
夏旅の馬ならばよきくろみかな 支考
旅ですっかり日焼けして、これが馬だったらいい馬なのだが。理由はよくわからないが「赤馬」は駄馬のことをいう。名馬は黒くなくてはいけなかったのか。
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