今日は紫陽花寺の長尾山妙楽寺まで歩いた。まだ少し早めだがそれでも十分咲いていた。
あと、大坂なおみさんのことはそっとしといてほしいね。ただでさえ今日本のアスリートはかなり神経質になっている。池江璃花子さんのこともあるしね。
東京の新規感染者数は五百人を切ったし、ワクチン接種は千三百万回を越えた。このまま収まってしまうと野党もオリンピック反対では票にならないとなって、ころっと態度を変えるかもしれないな。
それでは「梟日記」の続き。
19,宮市天満宮、山中
「廿七日
宮市
此地に天滿宮おはして、鏡の御影ときこへさせ給ふは、さすらひのむかし、旅姿を水かゞみ給ひしよりかく申傳へしと、宿のあるじのかたり申されしに、
五月雨ににごらぬ梅の疎影哉
次の日此山中を通るに、めの童共の伊勢詣するに逢ふ。首途も此あたりちかきほどならん。髪かたちもいまだつやつやしきが、みな月の土さへわるゝ、といへるあつき日には、我だにたふまじきたびねの頃なるを、いかに道芝のかりそめにはおもひたちぬらん。百里のあなたははるけき我いせのくにぞよ。道のほとりなる家によび入て何がしがかたに文つかはす。その奥に此童ア共もに茶漬喰せ給へ、柹本のひじりもあはれと見たまへるものをとかきて、
姬百合の情は露の一字かな
我がいせにある時は、虱の異名をぬけまいりなどいひならはせたるに、かゝるまことのぬけまいりならば、うしろ影も見やりつべし。さればこのあたりは中山宿とかや。馬にのりて行けるが、馬の上に我が吟聲をきゝて、口につきたるおのこの、我かほを見あげて、いせの人々におはさば守武・望一のながれをしり給んといふにおどろきて、おのれ俳諧をしりて侍るやとあやしむるに、おさおさしりてぞありける。あらたふと、かの姬百合の露の神にも通じけんと、夢のこゝちにおもはれしが、さしも今の風雅のいたらぬ世もあらじと、たのもしき事にぞおぼえ侍る。」
徳山を出て、防府へ向かう。赤坂峠と椿峠を越えると富海に出る。そこから橘坂を登り浮野峠を越えれば防府に出る。その名の通り周防国の国府や国分寺のあった所だ。ここには今は防府天満宮と呼ばれている宮市天満宮があった。
宮市天満宮はウィキペディアに、
「道真が亡くなった翌年である延喜2年(904年)に創建され、「日本最初に創建された天神様」を名乗る。かつては「松崎天満宮」・「宮市天満宮」あるいは単に「天満宮」と称していたが1873年に近代社格制度のもとで県社に列格し、松崎神社と改称。戦後の1953年には防府天満宮と再び改称した。道真が宮中での権力争いで失脚し、九州の大宰府に流されていく道筋での宿泊地の一つが防府とされており、京都の北野天満宮、福岡の太宰府天満宮と並んで、日本三大天神と言われている。」
とある。
「鏡の御影」はよくわからない。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「鏡の御影」の解説」には、
「[一] 絵画上の用語。円窓を描き、その中に表わした神仏の影像。
[二] 京都西本願寺に伝わる親鸞上人の肖像画の一つ。専阿彌陀仏(生没年未詳)によって上人の存命中に描かれたものといわれる。鎌倉似絵の貴重な遺品。紙本墨画。国宝。縦七一・八センチメートル、横三二・九センチメートル。」
とある。[二]ではないと思う。
福岡に道真が大宰府に左遷される途中で自身の姿を写した「水鏡」の伝説を伝える水鏡天満宮があり、博多天神の名の由来にもなっているというが、宮市天満宮にもこの水鏡伝説を伝える「鏡の御影」なるものがあったのかもしれない。
水鏡伝説はウィキペディアの「水鏡天満宮」の所に、
「菅原道真公は京より大宰府に左遷される道中で博多に上陸した際、今泉にある四十川(現在の薬院新川)の水面に自分の姿を映し、水面に映る自身のやつれた姿をみて嘆き悲しんだとされ、これにちなんで庄村(現在の中央区今泉)に社殿が建造され「水鏡天神(すいきょうてんじん)」「容見天神(すがたみてんじん)」と呼ばれた。」
とある。
とにかく、その「鏡の御影」の話を宿の主に聞いて一句。
五月雨ににごらぬ梅の疎影哉 支考
疎影(そえい)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「疎影・疏影」の解説」に、
「〘名〙 まばらなかげ。特に、葉をつけていない梅の枝のまばらなさまにいうことが多い。
※竹居清事(1455頃)戯寄規月卿「雪後諸山白未レ消、暗香疎影度二梅橋一」
※俳諧・本朝文選(1706)四・説類・愛梅説〈万子〉「孤山のたそがれに、疎影横斜をうつす」 〔林逋‐山園小梅詩〕」
とある。ここでは夏の梅なので、木と木の間隔がまばらという意味だろう。梅林はだいたい間隔を取って植えるものだ。
花の季節は終り、実のなる季節になった梅だが、五月雨に綺麗に洗われて濁ることなく、境内にまばらに植えられているその姿を見せている。
防府宮市を出ると佐野峠があり、そこから今の新山口の方へ向かう。この辺りの道は国道二号線に沿っている。新山口を過ぎて小郡バイパス嘉川インターや山陽新幹線の線路を越えて登ってゆくと割小松峠が宇部市との境になる。ここはかつての周防国と長門国の境界だった。ここを過ぎて下ったところが山中になる。
この山中で伊勢参りに行くという少女たちに逢う。この話どこかでと思ったら、そう、『奥の細道』の市振の遊女の話に似ている。ただ、支考は道筋のこれまで通ってきた知っている宿に手紙を書く。お茶漬けを食わせてやってくれだとか、柿本人麻呂(当時は神とされていた)も「あはれと見たまへるものを」と書いて、結構いい人になっている。そこで一句。
姬百合の情は露の一字かな 支考
少女たちを姫百合に喩えるが、今でいう「百合」の意味はない。
支考はこの時伊勢にいて、この『梟日記』の旅も伊勢から始まっている。だから伊勢へ行くといえば、今まで来た道の逆コースをたどることになる。
伊勢では虱のことを「ぬけまいり」と呼んでたようだが、夏の長い旅には虱は付き物だったのだろう。芭蕉も『野ざらし紀行』の旅から帰った時に、
夏衣いまだ虱をとりつくさず 芭蕉
の句を詠んでいる。
中山宿とあるのは山中宿の間違いだろう。馬に乗って俳諧の句を口ずさんでいると馬子がそれを聞いて、多分「俳諧が好きなんですか」とでも言ってきたのだろう。伊勢から来たと言うと守武や望一を知っているというので、恐る恐る「なら支考は知っているか」とエゴサーチをしたのだろう。「おさおさしりてぞありける」ということですっかり上機嫌になる支考さんでした。
20,船木
「廿八日
船木
呼坂
ほとゝぎす・かんこ鳥の名所といふべし。猿
などは山のあさきやうにも侍らん
化粧坂
百合の華酒に醉てやけはひ坂」
山中から甲山川沿いに下ってゆくと厚東(ことう)川に合流し、今のJRの厚東駅の方へ行く。そこから船木峠を越えると船木宿になる。「呼坂」というのがこの辺りにあったのか、あるいは句にある「化粧坂」があったのか、よくわからない。「呼坂」で検索すると山口県周南市呼坂が出てくるが、これは徳山の手前になる。
ホトトギスやカッコウがたくさん鳴いていたのだろう。猿もいたのか。
街道は馬に乗れるので、馬に揺られながら昼間から酒を飲んでいたのだろう。幸い杖つき坂のように落馬することもなく、まったりとしながら一句。
百合の華酒に醉てやけはひ坂
21,下関
「廿九日
長門國
今宵は下の關につきて流枝亭に宿す。欄干に風わたりて雲臥衣裳さむし。されば文字・赤間の二關は、筑紫・中國のさかひにして、海のおもて十余里にさしむかふ。壇の浦といふも此ほどなるべし。
關の灯のあなたこなたを夕凉」
船木を出ると厚狭(あさ)、吉田、小月(おづき)、長府を経て下関に至る。流枝亭で広島で逢えなかった柳江にも会えたのだろうか。ここで記述がないところ見ると帰る時に逢えたのだろう。
欄干とあるからお寺だったのだろう。「雲臥衣裳」は、
遊竜門奉先寺 杜甫
已従招提遊 更宿招提境
陰壑生虚籟 月林散清影
天闕象緯逼 雲臥衣裳冷
欲覚聞晨鐘 令人発深省
寺での催しに招待され、そのまま寺に泊まることになる。
背後の谷では風が音を立て、月はさやかな光を散らす。
聳える峯は天体に迫り、雲の布団で寝ているみたいに夜着を冷やす。
明け方の鐘が待ち遠しくて、人は深い悟りに至る。
の詩がある。海峡を見おろす所にお寺の欄干があって、風が強かったのだろう。一句。
關の灯のあなたこなたを夕凉 支考
門司関(もじのせき)はコトバンクの「百科事典マイペディア「門司関」の解説」に、
「古代から中世にかけて豊前国企救(きく)郡(現福岡県北九州市門司区)に置かれた関。関門(かんもん)海峡を隔て赤間(あかま)関(現山口県下関市)と向き合う。8世紀以降,大宰府(だざいふ)管内から海路瀬戸内を経て畿内に向かう際,過書(通行許可証)の勘検(かんけん)を行った。私船は勘過料(通行税)を支払った。関の管理は豊前国があたり,関司・関別当が置かれた。平安時代には関の維持のため門司関領田が設けられたという。源平争乱では平氏の拠点となった。鎌倉時代は幕府の支配下にあり,14世紀初頭には北条氏被官下総(しもうさ)氏が管理した。鎌倉幕府滅亡後も下総氏は関を掌握し,門司を名字とするようになった。南北朝後期,同氏は大内氏の被官となり,同氏滅亡後は毛利氏被官として大友氏の進出に対抗した。」
とあり、赤間関(あかまがせき)は「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「赤間関」の解説」に、
「山口県下関市の旧名。「赤馬関」「馬関」ともいう。下関海峡の北岸に位置し,九州および大陸との交通の要地。平安時代,外国船接待のため臨海館がおかれ,鎌倉時代は元寇に備え長門探題がおかれた。江戸時代,西廻り廻船 (→北前船 ) が寄港し,上方と北国との中継商業地として繁栄した。 1889年市制施行。 1902年下関市と改称。赤間関は現在の下関市の中心部。安徳天皇を祀る赤間宮の先帝祭は古来有名。壇ノ浦古戦場,豊浦宮跡の忌宮神社,安徳天皇阿弥陀寺御陵,平家一門の墓,壇ノ浦砲台跡,長門鋳銭司跡,住吉神社,高杉晋作の墓など史跡も多い。」
とある。本州と九州の境で、壇の浦もこの近くにある。
22,小倉
「三十日
此日下の關を出て小倉にわたる。此地の人々のとゞめ給へるを、行さきもくらきやうに侍れば、歸るさにはかならずとゞめられん。まして此ところ古戰場にして、秌のあはれをこそ見るべけれとて、是よりこゝろつくしにぞおもむきける。」
海も穏やかだったのだろう。翌日には九州小倉に渡ることができた。
もう少しとどまるように言われたけど、九州は知らない土地で時間に余裕を持ちたいし、壇の浦の古戦場は秋にゆっくり見たいということで、いざ九州へ。
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