今朝はまた生田緑地へ行った。花菖蒲は見ごろになっていた。今日はコジュケイの声が聞こえた。山の方に入ってゆくと画眉鳥の声がこの前のように、特に決まったパターンもなくフリースタイルで啼いていた。近くで啼いたかと思うと、向こうから別の鳥が鳴いて、交互に啼くとさながらМCバトルのようだった。今日もその合間に一声ではないにせよ、ほんの短い間ホトトギスの声がした。画眉バトル升形山の時鳥。
コロナの第四波が順調に収まりつつある限りは、オリンピック中止はないと思う。ただどこまで縮小できるかが勝負になる。当然ながら「普通の」開催はない。
無駄を省いた最低限のオリンピックを示すことで、これからのコロナ後のオリンピックのあり方というのを模索してゆくことになるのではないかと思う。
来年は北京でオリンピックがあるが、彼らが昔ながらの華美なオリンピックをやろうというなら笑ってやればいい。スポーツが従来どうりのショービジネスでいることは難しいだろう。ならば、東京オリンピックが次の時代への道筋を付けなくてはならないのではないか。
古代オリンピックの時代でもプラトンのようなアンチな奴がいたが、この世がひっくり返っても哲学者がスポーツマンよりモテる時代は来ない。哲学者がオリンピックの優勝者なみの歓待を受けるだなんて、妄想するだけでも空しいと思わないか。
まあ、どうしてもオリンピックを潰したいならやるべきことは一つ、コロナを蔓延させることだ。自粛破り、ワクチン接種妨害など、あっ、もうやっているか。
オリンピックに反対している人の多くは、オリンピックそのものに反対しているのではない。反対と言っている人の多くはあくまで今のコロナの現状と秤にかけてのもので、当然ながらコロナが収まれば反対する人は減る。完全収束なら賛成に変わる。
誘致の段階からオリンピックに反対していた人はせいぜい15パーセントくらいで、それ以外は浮動票だ。そこを読み誤ると、野党はまた惨敗することになる。
この時期、アスリートは下手にオリンピックをやりたいなんて言うと、たちまちオリンピック断固阻止という人たちからバッシングを受ける危険が大きい。ひたすた沈黙し、とにかく余計なことを言わない方が良いだろう。特に既に政治的言動からパヨクに魅入られてしまった人は、オリンピックをボイコットしてくれることが期待されてしまう。ただこういう人たちは病気や障害という言葉に弱い。その辺はマリーシアだ。
それでは「梟日記」の続き。
11,小国
「廿二日
肥後国
此日小國といふ處にいたる。その夜は怒留湯氏の家に宿す。是は風雅のよすがにはあらず。なにがし西田といふおのこのゆかりの人にておはせば、獨有のぬしのたよりせられけるにぞありける。今宵の物語にあるじ曰、俳諧はたゞありのまゝなりや。予曰、食喰へば腹のふくるゝといふはたゞ言也。ねむしとか、あつしとかいふは俳諧也。たとへば今宵この亭にかくのごときはしゐして、眼前の俳諧をいはむろならば、
翠簾越にむかひの人を夕すゞみ
此朝この亭をわかれて、熊本の方におもむく。うちのまきの道知寺にひるゐして、是より怒留湯氏に文つかはす。
夜前者種々御馳走淺からず存候。我等此度俳
諧せず。さらば坐敷をもかはず。殊今朝馬に
ておくられ候段、上方而は薩摩守と申候。定而
たゞのりと申事にて可有候。此言葉のおかし
ければ、かきて馬かたにとらせ申候。
たゞのりの馬も木賃や百合の影
今日は天氣も曇がちに、馬も能あゆみ候て、道
すがら殊外面白御ざ候。かさねて書通可申
謝候 以上
六月廿三日 西華坊
怒留湯惣左衛門樣參る
過阿蘇麓
高砂のゆかりや松の下すゞみ」
小国は玖珠の南西になる。熊本へ行く道の途中になる。
怒留湯は「ぬるゆ」と読むようだ。「名字由来net」というサイトには、
「現大分県中南部である豊後の著姓、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)秀郷流大友氏族。近年、熊本県北部に多数みられる。」
とある。獨有の紹介でここに泊まったようだ。
怒留湯惣左衛門というのがここの主人の名前だろう。「俳諧はたゞありのまゝなりや」と聞いてくる。支考は答える。「食喰へば腹のふくるゝといふはたゞ言也。ねむしとか、あつしとかいふは俳諧也。」
ありのままとっても飯を食えば腹が膨れるでは当たり前すぎて俳諧にはならない。飯を食って眠くなっただとか、飯を食ったがこれが熱くてだったら俳諧になる。あたりまえではないが、そういうことよくあるなと多くの人がうなづけるものなら俳諧になる。
その一つの例として一句詠む。
翠簾越にむかひの人を夕すゞみ 支考
簾の向こうに主人がいるが、下座に座る支考の場所の方が外に近くて風がよく来る。客だけど自分ばかり涼んじゃって良いのかなという所で俳諧になる。俳諧師は日常生活で常にこういったネタを探しているといってもいいのだろう。
あるあるネタというのは当たり前すぎてもいけないし、だからといって「だから何なんだ」「そりゃお前だけだろ」になってもいけない。『去来抄』「修行教」にも、
「牡年曰、発句の善悪はいかに。去来曰、発句は人の尤(もっとも)と感ずるがよし。さも有べしといふは其次也。さも有べきやといふは又其次也。さはあらじといふは下也。(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.77)
とある。
次の朝怒留湯亭を出て熊本に向かうが、途中「うちのまきの道知寺」に寄る。熊本県阿蘇市内牧には今でも道智寺というお寺がある。小国から南へ行き、この辺りで豊後街道に合流したのだろう。
ここで怒留湯惣左衛門に手紙を出す。馬で送ってもらって金もとらずに「薩摩守忠度(さつまのかみただのり)」になってしまったという。
最近は聞かないが、昭和の頃は無賃乗車のことを隠語で「さつまのかみ」と言っていた。
たゞのりの馬も木賃や百合の影 支考
今日は曇っていて暑くないので、馬もよく歩いて、と馬もことも気遣って手紙を終える。
阿蘇の麓に来たということで一句。
過阿蘇麓
高砂のゆかりや松の下すゞみ 支考
謡曲『高砂』は、
「抑もこれは九州肥後の国、阿蘇の宮の神主友成とはわが事なり。われ未だ都を見ず候ほどに、この度思ひ立ち都に上り候。又よきついでなれば、播州高砂の浦をも一見せばやと存じ候。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.1732-1737). Yamatouta e books. Kindle 版.)
というワキの名乗りから始まる。
阿蘇神社にはこの友成ゆかりの松と言われているものが今でもあるが、小国から内牧に出たとすると、そこから豊後街道を逆方向に行かなくてはならない。ただ往復二里程度なので、馬で行く分には問題はなかっただろう。
12,熊本
「廿四日
熊本
此日順正寺にいたる。是は近江の李由より便し給へるにぞありける。この寺の小僧達のものかきて得させよといふに、國の産なれば水前寺の事を尋ね侍るに、江津の河上半里ばかりにあるよし。さるは水苔にてぞありける。
苔の名の月先凉し水前寺
此地に長水のなにがしを尋ね侍るに、この春身まかり申されけるよし。ありし友達の僧使帆とかや、そのほかの人々もきたりて物かたりせられけるに、あはれはかなの人や。蕉門の風雅にこゝろざしをよせて、桃舐とかいへる撰集もありしが、さるは西王母が桃の實にやあらん、先師の名にふれたる桃にやあらん。それもなく是もなくなりて、姓名一夜の秌といへる詩の心にやあらん。
桃の實のねぶりもたらぬ雫かな」
熊本の順正寺は熊本市中央区河原町に今もある。近江の李由が手配してくれたようだ。李由は許六とともに『韻塞』(元禄九年刊)を編纂している。
寺の小僧に水前寺のことを尋ねると、江津湖の川上半里の所にあるという。また、水前寺という名の海苔があるということも聞く。
そこで一句。
苔の名の月先凉し水前寺 支考
実は水前寺海苔は『猿蓑』の「鳶の羽も」十三句目に、
芙蓉のはなのはらはらとちる
吸物は先出来されしすいぜんじ 芭蕉
の句に詠まれていた。支考も読んでいるはずだ。
水前寺海苔はウィキペディアに、
「スイゼンジノリ(水前寺海苔)は九州の一部だけに自生する食用の淡水産藍藻類。茶褐色で不定形。単細胞の個体が寒天質の基質の中で群体を形成する。群体は成長すると川底から離れて水中を漂う。朝倉市甘木地区の黄金川に生息する。熊本市の水前寺成趣園の池で発見され、明治5年(1872年)にオランダのスリンガー(Willem Frederik Reinier Suringar)によって世界に紹介された。」
とあり、
「宝暦13年(1763年)遠藤幸左衛門が筑前の領地の川(現朝倉市屋永)に生育している藻に気づき「川苔」と名付け、この頃から食用とされるようになった。1781年 - 1789年頃には、遠藤喜三衛門が乾燥して板状にする加工法を開発した。寛政5年(1792年)に商品化され、弾力があり珍味として喜ばれ「水前寺苔」、「寿泉苔」、「紫金苔」、「川茸」などの名前で、地方特産の珍味として将軍家への献上品とされていた。現在も比較的高級な日本料理の材料として使用される。」
とある。ただ地元ではすでに知られていたし、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」の水前寺海苔ところには、西鶴の元禄二年の『一目玉鉾』の「熊本の城主 細川越中守殿 名物うねもめん すいせんしのり」を引用しているから、遠藤金川堂によって商品化される前から食べられていたことは間違いないだろう。西鶴が知っていたなら芭蕉が知っていてもおかしくない。
水前寺は今は水前寺公園になっているが、水前寺という寺は平安末期に焼失したという。この頃はというと、ウィキペディアに、
「熊本藩細川氏の初代藩主・細川忠利が1636年(寛永13年)頃から築いた「水前寺御茶屋」が始まり。細川綱利のときに泉水・築山などが作られ、現在見るような形となった。」
とあるから、支考が来た時には既に水前寺成趣園は今のような形になっていたと思われる。
長水は二年前の元禄九年に路通編『桃舐集(ももねぶりしふ)』の序、
「勸進子路通、一箇の桃の實を拾ひて、壽城萬歳の風味をたのしむ。夫よりしてあまさがる常陸の海、しらぬひのつくしの果まで、誹仙の月花にあふれ、今已に洛中に遊ぶ。予も此こゝろざしに因む事としあるのみ。
肥陽 白河長水述」
を書き記している。
路通長水両吟も収められているし、また、
面白の花のみやこや青葉まで 長水
星の橋くづれ落るやあさがらす 同
などの発句もある。
残念ながらこの春に亡くなったという。使帆やそのほかの人も集まっていろいろと故人の話を聞くことになる。
使帆も『桃舐集』に、
幸のあせのごひ也すみごろも 使帆
このあつさ女もあるに坊主哉 同
の句があり、他にも肥後の作者の句が見られる。
「さるは西王母が桃の實にやあらん、先師の名にふれたる桃にやあらん」は『桃舐集』の路通の序に、
「集をもゝねぶりとなづくる事は、九千歳をたもちしそのゝ桃、もろもろの仙人望て舐れども、東方朔が齡にひとしきをきかず。爰に俳仙桃青翁、又一顆の桃を得て生涯の賞翫とす。」
とある。
「姓名一夜の秌といへる詩」は見つからなかった。
桃の實のねぶりもたらぬ雫かな 支考
桃の実の舐めたらぬことで涙の雫となる。
13,宇土
「廿六日
宇土
圓應寺
闇に來る秌をや門で夕凉み」
宇土は熊本市の南、緑川を渡った所にある。円応寺は宇土市本町に今もある。ここから佐敷までは薩摩街道を行くことになる。
闇に來る秌をや門で夕凉み 支考
二十六日の夜で月はない。もうすぐ秋が来る。春に万物を生じ、秋には止むとおいうことで、秋は生命の衰退と死の始まりでもある。闇夜に秋の近いのを感じつつ、お寺で夕涼みをする。
14,八代
「廿七日
八代
理曲亭
みな月や蜜柑の秌も今三日
露亭
蟬の聲けふは晝寐の仕舞かな」
薩摩街道をさらに南に下り、八代に行く。
理曲と露亭は支考『西華集』の八代での表八句で発句と脇を詠んでいる。
みな月や蜜柑の秌も今三日 支考
蜜柑というと今は冬のものというイメージがあるが、当時は水無月を「蜜柑の秋」と言うこともあったのか。575筆まか勢を見ると、
兀として海と蜜柑と真夏哉 百里
の句がある。
元禄十一年の六月は二十九日までなので、三日は二十七日を入れて二十八、二十九で三日になる。
蟬の聲けふは晝寐の仕舞かな 支考
これは二十九日の句か。夏も終わるので今日で昼寝も終わり。ただ、まだ夏なので「蝉の声」の季語を放り込む。
八代での『西華集』の表八句は以下の通り。
八代
烏子の踏ならひてや桐の花 理曲
瓜で出來たる新田の家 露亭
鉢坊に洗濯物を盗まれて 支考
今朝から風のただ吹にふく 谷莿
方々を聞合たる江戸だより 柳水
舟こぎよする河岸はたの蔵 山卜
明月に座頭はどこへ袴着て 棟祇
日は暮かかるとんぼうの影 林木
0 件のコメント:
コメントを投稿