今朝は東高根森林公園まで歩いた。カラスとドクダミが多く、人も多かった。帰り道の平瀬川には青鷺と川鵜がいた。あと鯰がいた。
あと2021年5月19日水曜日の、『三冊子』「くろさうし」の「涙川たへずながるゝうき瀨にも」の歌は、
思ひ川たえずながるる水のあわの
うたかた人に逢はで消えめや
伊勢(千載集)
ではないかとのすずえさんからの指摘がありました。どうもありがとうございます。
「梟日記」でも検索してもわからないことがたくさんある。知っている人がいたら、その情報をどんどんアップしていってほしい。一人でできることには限界があるからね。
それでは「梟日記」の続き。
3,中津
「五日
仲津
此日竿水亭にいたる。あるじはゐ給ざりしが、なにがしのむす子もたりければ、親がかくいひをけるなど、こゝろやすきほどにもてなされて、おとなしき子はほしきものかなとおもはるゝよ。今日はことにあつき日なるに、夕だちをまつといふ題のこゝろにて、
みな月の雲一寸のにしきかな」
仲津は今の中津で中津街道の名の由来でもある。宇佐の少し手前になる。椎田宿からだと間に松江、八尾の二つの宿がある。竿水亭に着く。主人は留守で息子が応対する。
暑い日で夕立を待つ。
みな月の雲一寸のにしきかな 支考
水無月の暑い日はほんのちょっとの雲でも錦のように思えてくる。
「六日
この日寶蓮坊にまねかる。あるじの僧はいまだ見え給はぬほどなるが、屏風のかたはらに、すまふの土俵などいふべきまくらを二つまでかさねをかれたり。このぬしのいかに寐給ふらんとおもふに、げに法師がらもよのつねにはあらで、としもよきほどに德やゝたかし。師は獨行稿に稱せられ、文は名公文集に名をならべて、さるはこの枕に吟胸をさだめ給りと、朱拙のぬしかたり申されし。
ろくがつの峯に雪見る枕かな
此句は枕を高ふして、前山の雪に對すとも見るべし。高き事つねならねば枕を殘雪の山とも見るべし。又西行の腰かけまくらともいふべし。みつのものいづれにか侍らん。
題庭前瓠
炭とりとしらで瓢のつぼみかな
泥蓮主人
和瓠字 道香
弓來吾寂寥 投合樂昭々
雅曲長良種 要求五石瓢」
寶蓮坊というお寺は今も中津市内にある。検索すればすぐに出てくる。観光用の説明板に、
「慶長五年(一六〇〇年)細川細川忠興が中津城に入封の際、名僧の誉れ高かった行橋浄喜寺の村上良慶を伴って、中津浄喜寺を開基させた。これが後 宝蓮坊と改称されたものである。宝蓮坊はその後代々名僧が続いたが、特に第三世村上良道(この良道より村上家は代々中津藩の御典医を勤めた)は学問に秀で、勅命により聖徳太子の経典を進講し、天皇から非常なお褒めを戴き、大阪四天王寺の奥の院にまつられていた太子の尊像を拝領した。この太子像は室町時代初期の傑作と言われている。
良道は帰国後堂を建て、多くの信者に講義を続けていたが、永年の風雨により堂は崩壊し、尊像は現在本堂に安置され、楼門のみが当時の面影を残している。」
とある。
この寶蓮坊の主の僧はいなくて、屏風の傍らに相撲の土俵のような枕が二つ重ねてあった。一体どうやって寝ているのか。
会って見るとなるほど徳の高い僧だとわかったようだ。
「この枕に吟胸をさだめ給り」という朱拙の言葉は、白楽天の『香炉峰下新卜山居草堂初成偶題東壁』の詩に感銘して、ということか。
清少納言の『枕草子』でも有名な詩だ。
香炉峰下新卜山居草堂初成偶題東壁 白楽天
日高睡足猶慵起 小閣重衾不怕寒
遺愛寺鐘欹枕聴 香炉峰雪撥簾看
匡廬便是逃名地 司馬仍為送老官
心泰身寧是帰処 故郷何独在長安
日は高くあんなに寝たのにまだ起きるのがおっくう。
小さな御殿で布団を重ねて凍えることはない。
遺愛寺の鐘は枕をかたむけて聴き、
香爐峰の雪は簾を撥ね上げて看る。
廬山は出世争いを遁れるのにふさわしい地で、
地方の補佐官は老いた身にこそふさわしい。
心身ともにやすらかでこれこそが帰るべき所、
故郷は長安だけではなかった。
「香炉峰雪撥簾看(香爐峰の雪は簾を撥ね上げて看る)」のフレーズはあまりに有名だが、ここではその前の「遺愛寺鐘欹枕聴(遺愛寺の鐘は枕をかたむけて聴き)」の方だろう。この「枕を欹(かたむけ)る」がどういう意味なのか未だに諸説あるが、その一つの解釈で体を傾かせて外を眺めることのできるような巨大な枕として、わざわざ作らせたのであろう。なかなかお茶目なお坊さんだった。
そこで一句。
ろくがつの峯に雪見る枕かな 支考
六月にこの辺りに雪のある山があるとは思えない。ならば枕を残説の山に見立てろということか。西行の腰掛枕はよくわからない。腰掛石の伝説はあちこちにあるみたいだが。
もう一句。
題庭前瓠
炭とりとしらで瓢のつぼみかな
庭に瓢箪のつぼみがついていたのだろう。
「炭とり」はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「炭斗」の解説」に、
「木炭を小出しにしておく入れ物。火鉢や炉に炭を継ぎ足すための道具で、炭火を運ぶ十能もその一種といわれる。蓋(ふた)付きの木箱形のもの、内張りをした籠(かご)、ひさご(瓢)を細工したものなどがあり、形も箱形、丸形、瓢形などと種類が多く、炭箱、炭籠、炭瓢などともいわれ、茶道では中国風に烏府(うふ)とよばれる。炭斗の称は、ひさごでつくった炭取りの形が長柄の杓子(しゃくし)のようで、北斗星に似ているからだといわれ、近世には京都東郊の浄土寺村(現京都市左京区)のひさごでつくったものが名品とされて、もっぱら茶人の間で愛用された。今日この種のものとしては栃木県産の干瓢(かんぴょう)でつくったものが名高い。[宇田敏彦]」
とある。瓢箪が何で植えてあるのかと思ったら、茶道具の炭斗(すみとり)を作るためだったか、納得、といったところか。
それに対し泥蓮主人が詩を作って和す。泥蓮主人は寶蓮坊の主人で、寶蓮をへりくだって泥蓮としたのだろう。まあ、泥の中でも清浄な花を付けるという意味だから、高貴な名前には違いない。道香は泥蓮主人の號であろう。
和瓠字 道香
弔來吾寂寥 投合樂昭々
雅曲長良種 要求五石瓢
瓠(ひさご)の字に和す
我が寂寥を弔いに来て
意気投合すれば楽の音もきらきら
優雅な曲は良い種を蒔いてくれる
これで五石の瓢箪が生れば
「五石瓢」は『荘子』「逍遥遊編」の五石の巨大な瓢箪のこと。物を入れるのは重すぎて、柄杓を作ろうにも平らにしかならない。ならば船でも作って浮かべれば、という話。
中津での竿水の発句による表八句が『西華集』に収められている。
4,宇佐神宮
「七日
此日宇佐の宮にまうづ。神前に眼をとぢて、そのかみをおもひ奉るに、感情まづむねにふさがる。
鎧きぬ身もあはれなり蟬の聲
今宵は小山田のなにがしに宿す。さるを芦惠のあるじにまねかれて、風雅の物語などしけるが、捨がたき事にいそがれて、宵のほどに歸るとて、
短夜のうさとよむべし月の宿」
宇佐の宮は今は宇佐神宮と呼ばれている八幡神社で、応神天皇を祀った八幡神社は今では日本で一番多い神社だという。これは一つには今の皇統の成立に関係してたことと、武の神として武士の間で信仰されてきたことによる。そのため、
鎧きぬ身もあはれなり蟬の聲 支考
ということになる。
小山田は宇佐神宮のある辺り一帯を指す地名で、宿坊がたくさんあったのではないかと思う。
芦惠のあるじはどういう人かよくわからないが、風雅の話で盛り上がり、宵になって後ろ髪を引かれる思いで宿に戻る。そこで一句。
短夜のうさとよむべし月の宿 支考
「宇佐」と「憂さ」を掛けている。地名を詠むときの基本と言えよう。
「八日
この日仲津に歸る。その夜源七のなにがし、我に初眞瓜おくられければ、
源の字はわすれじ今宵初眞瓜 支考」
中津に戻ると源七という者が真桑瓜をわざわざ持ってきてくれた。
大橋から来たのだろう。六里半はあるのではないか。
この前は真桑瓜の花盛りだったが、ようやく一つ実ったか。
そこで感謝を込めて一句。
源の字はわすれじ今宵初眞瓜 支考
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