2021年6月18日金曜日

 世界的にコロナワクチン接種が進んでくると、単純に新規感染者数だけでその深刻さがはかりにくくなる。ワクチンは感染を防ぐことはできなくても重症化を防ぐから、感染者数に対し重症化率や死亡率が下がっているかどうかが重要になる。
 ワクチンがかなり行き渡った段階でも、新規感染者数が増えることはいくらもあると思う。それだけで過剰な恐怖を煽られないように気を付けよう。
 日本もようやくワクチン接種回数が2880万回になった。ふたたび新規感染者数が増えたとしても、65歳以上の高齢者の40パーセント以上が少なくとも一回のワクチン接種を受けているから、重症化率はかなり減るのではないかと思う。
 変異株も長期的に見れば感染力が高く死亡率の低い変異株が生き残り、最終的にはコロナはただの風邪になる。変異株がすべて悪ではない。
 それでは「西華集」の続き。

播磨
   姫路
 淋しうもちつたる芥子の一重哉   千山
   葵ちかよる翠簾の有明     厚風
 盃に老の泪をこぼすらん      支考
   反古しまハば国々の状     全夷
 今の間に樹の葉の雪の降かかり   臨川
   高瀬の米の下る山川      鷗正
 風呂敷は宗祇に似たる二人連    丈松
   焼火の影も更る夜あらし    蘭辱

 第一 不易の眞也淋しうもちつたるといひつめて目の前
    にいみしうも仕つたりと芥子に意をもたせたる所
    あしからず
 第二 其場也其人也此君のいかなればかくあさましき住
    ゐにおりゐ給て翠簾のあふひもいたづらにちかよ
    るといへば都ちかき片里の淋しきありさまもおも
    ひやるるかし
 第三 時の観想也老臣の君をおもふこころ君の老臣をあ
    はれみ給へるかかる盃の一節にこそむかしもしの
    ばるる物なれ

 発句、

 淋しうもちつたる芥子の一重哉   千山

は芥子の花の散るのが寂しいという句で、特に新味もなく「不易の眞也」となる。花が咲くのをよろこび、花の散るのを悲しむのは、生命への共感という風雅の眞(まこと)の基本と言えよう。それが「芥子に意(こころ)をもたせたる」ということになる。
 千山はこの四年後に惟然が播磨を訪れ、元禄十五年に『花の雲』を編纂し、同年の惟然の『二葉集』とともに独特な超軽みの風を発信していくことになる。

 脇。

   淋しうもちつたる芥子の一重哉
 葵ちかよる翠簾の有明       厚風

 「葵ちかよる」は葵の咲く時期も近寄るということか。芥子の散った後、翠簾(みす)を上げると差し込んでくる有明の月の光に、葵がもうすぐ咲こうとしているのが見える。
 庭の花が間近に見えるような、小さな家で、隠士の姿が思い浮かぶ。その意味で「其場也其人也」となる。発句にその場所とそこにいる人を付けている。支考の言う「都ちかき片里の淋しき」は、

 我庵は都のたつみしかぞすむ
     世をうぢ山と人はいふ也
             喜撰法師(古今集)

の心と見てのものだろう。
 厚風は元禄十五年刊惟然編の『二葉集』に、

 あれちらせ上野の梅に猫のこゑ   厚風
 ぬげるやら着ぬでもなしに秋の空  同

などの句がある。

 第三。

   葵ちかよる翠簾の有明
 盃に老の泪をこぼすらん      支考

 前句の翠簾に葵を見る人の位付けになる。風景の句に人を付ければ「其人也」となるが、前句の人にその情を付けているから、それを支考は「時の観想也」と言う。
 支考の意図としてはこれは君を思う老臣で、君が身罷り、士は二君に仕えずと隠棲している老人とする。酒に昔のことを思い出しながら泪する。

 四句目。

   盃に老の泪をこぼすらん
 反古しまハば国々の状       全夷

 国々の旧友に向けて手紙を書こうとしては反古にする。
 手紙を書こうと思っては上手く描けないまま反古にしているうちに、旧友の訃報が届いたりしたのだろう。前句の泪の理由を付ける。
 全夷は『西華集』坤巻に、

 松までは遠しここらに夕凉み    全夷
 大根引日和や里のむらがらす    同

の句がある。

 五句目。

   反古しまハば国々の状
 今の間に樹の葉の雪の降かかり   臨川

 季節を冬に転じる。部屋の中に木に積ってた雪が落ちてきて、広げていた反古を急いで片付ける。
 臨川は元禄五年刊才麿編の『椎の葉』に、

 淡雪や白魚とる夜の七ッ過     臨川
 はり合のなくておかしき枯野哉   同

などの句がある。

 六句目。

   今の間に樹の葉の雪の降かかり
 高瀬の米の下る山川        鷗正

 これは「其場也」であろう。雪の降る外の景色の遠くを眺めると、米を運ぶ高瀬舟が下ってゆく山川がある。高瀬舟と平田舟はかつて河川の物流を支えてた船で、小型のものが高瀬舟、大型のものを平田舟という。
 鷗正は元禄五年刊才麿編の『椎の葉』の鷗嘯か。

 書写増位いづれ栬の早稲をくて   鷗嘯

 七句目。

   高瀬の米の下る山川
 風呂敷は宗祇に似たる二人連    丈松

 これは「其人也」になる。高瀬舟に宗祇とその従者を彷彿させるような風呂敷を持った人が乗っている。
 風呂敷という言葉は江戸時代に広まったもので、それ以前は「平包み」とか「袱紗(ふくさ)」とか言っていたらしい。宗祇の風呂敷は何か元ネタがあるのか、よくわからない。
 丈松は『西華集』坤巻に、

 淡雪の野や絵にかける春の駒    丈松
 我宿のきぬたを聞に野寺かな    同

などの句がある。

 八句目。

   風呂敷は宗祇に似たる二人連
 焼火の影も更る夜あらし      蘭辱

 これは明応八年宗祇独吟何人百韻の挙句、

   雲風も見はてぬ夢と覚むる夜に
 わが影なれや更くる灯       宗祇

であろう。
 二人連れは実は宗祇(に似た人)とその影で、嵐の夜も更けて行く。
 蘭辱は『西華集』坤巻に、

 かげろふにもゆるばかりぞ蝶の羽  蘭辱
 鴫立て稲株ばかり日暮哉      同

などの句がある。


   仝
 櫛鳴らす音や夏野のきりぎりす   元灌
   すくり立テたる稗にむら雨   洛茨
 夕顔の小家も今は絵になりて    支考
   心ほそさは旅の明暮      幸夕
 秀衡の所で飽しとろろ汁      春亭
   山は残らず秋風が吹      元灌
 水を出て笹の葉はしる月の影    洛茨
   笠着て馬に初雁の聲      春亭

 第一 流行の眞也秋の野のきりぎりすのかれがれならん
    よりは櫛の歯ひきならすたとへには夏野のきりぎ
    りすいきほひ有ていとよし夏秋のさかひに眼を付
    ざらんや
 第二 其日の天相也稗すくる比の雨恋しきに一村雨のふ
    り過たるほどは草葉の露も日影にかがやきてきり
    ぎりすのいきほひ殊にたしかならん
 第三 曲也ただ片山里の小家がちなるあたりに夕かほの
    花の咲わたりたるこなたより見やりたるけしきば
    かり也

 発句、

 櫛鳴らす音や夏野のきりぎりす   元灌

は夏野のキリギリス(コオロギ)が櫛を鳴らす音に似ているという句。櫛の歯の先をこするとリーリーりーりーとコオロギの声に近い音が出る。
 夏野のコオロギの古典の情とは関係ないため、「流行の眞也」となる。秋の弱々しいコオロギの声ではなく夏のコオロギの勢いある様が出ていると、支考は評価する。
 元灌は千山、厚風とともに後の惟然の風の中心人物となる。

 脇。

   櫛鳴らす音や夏野のきりぎりす
 すくり立テたる稗にむら雨     洛茨

 「すぐり立」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「選立」の解説」に、

 「〘他タ下二〙 よりすぐってそろえる。えらびぬく。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ※御伽草子・まんじゆのまへ(室町時代物語大成所収)(江戸初)上「かうそう、きそう、卅人すくりたて、かんたんをくだき、いのらるる」

とある。間引いた後の稗ということだろう。
 夏野のキリギリスに村雨を付けるという所で「其日の天相也」となる。一雨来て草も生き生きとして、キリギリスも元気に鳴く。
 洛茨は『花の雲』に、

 猫の居る木は何じややら何じややら 洛茨

の句がある。

 第三。

   すくり立テたる稗にむら雨
 夕顔の小家も今は絵になりて    支考

 前句の稗畑の風景に夕顔の咲く小家を添える。「曲也」とあるが、曲にはいろいろな意味があり、この場合は「精選版 日本国語大辞典「曲」の解説」の、

 「③ 面白み。興味。また、愛想(あいそ)。
  ※十問最秘抄(1383)「諸人面白がらねば、いかなる正道も曲なし」
  ※俳諧・犬子集(1633)一一「つもるうらみをかたり申さん 白雪のふりこころこそきょくなけれ〈慶友〉」
  ④ (変化のある面白みの意から) 音楽、歌謡の調子や節(ふし)。また、そのまとまった一段や作品。楽曲。
 ※続日本紀‐天平勝宝八年(756)五月壬申「令下二笛人一奏中行道之曲上」
  ※方丈記(1212)「松のひびきに秋風楽をたぐへ、水のおとに流泉の曲をあやつる」 〔宗玉‐対楚王問〕
  ⑤ 芸能などで、面白みをもった技(わざ)の変化や工夫。また、曲芸。
  ※中華若木詩抄(1520頃)下「上竿奴と云は、竿を十丈も二十丈もついで、其上へのぼりて、種々の曲をして、銭をとる也」
  ⑥ 能楽で、基礎的な技の上に、演者の個性によって加えられた演出上の妙味。
  ※至花道(1420)闌位の事「上手の闌(たけ)たる手の、非却って是になる手は、これ、上手にはしたがふ曲(キョク)なり」

あたりの意味か。前句に添えてそれを発展させる、というニュアンスであろう。
 夕顔の小家と景を重ねておいて、そのあと「今は絵になりて」とするあたりに一工夫ある。

 四句目。

   夕顔の小家も今は絵になりて
 心ほそさは旅の明暮        幸夕

 前句を旅人が見た眺めとして、その心細い心境を付ける。「時の観想也」であろう。

 五句目。

   心ほそさは旅の明暮
 秀衡の所で飽しとろろ汁      春亭

 義経弁慶の陸奥の旅とし、長旅はいつも粗末な食事でとろろ汁にも飽きたことだろうとする。俤付け。
 春亭は『西華集』坤巻に、

 立とめて娘うつくし桃の華     春亭
 唐秬をかたげて通る彼岸かな    同

の句がある。

 六句目。

   秀衡の所で飽しとろろ汁
 山は残らず秋風が吹        元灌

 陸奥の旅ということで、

 都をば霞とともに立ちしかど
     秋風ぞ吹く白河の関
             能因法師(後拾遺集)

の歌の縁で秋風を付ける。

 七句目。

   山は残らず秋風が吹
 水を出て笹の葉はしる月の影    洛茨

 月の定座なので夜の景色を付ける。水は海か湖か、波に映ってた月の影は、やがて笹の葉の露を照らし出す。

 八句目。

   水を出て笹の葉はしる月の影
 笠着て馬に初雁の聲        春亭

 月を見る風狂の旅人とする。四句目の旅の明暮から三句隔てている。

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