2019年12月30日月曜日

 今日は映画を見に行った。
 確か最初の作品を見逃して二作目から見た。あの頃はまだビデオがなくて、見逃してしまうと二作目から見ざるをえなかった。
 あれからほぼ四十年か。やっと終ったという感じか。とりあえず元気玉落ちではなく、フュージョンもなく、普通に終った。でも、きっとまた暗黒面に取り付かれ、独裁政治をするやつって出てくるんだろうな。
 リアルな世界でも、冷戦が終った時はこれで平和になるかと思ったが、いつの間にかまた冷戦みたいになってきている。
 あのとき自分は二十世紀の社会主義の壮大な実験は失敗に終ったと思った。
 「革命を起してすべての富をいったん国家に集め再分配をすれば、貧困問題はたちどころに解決する」というのはなかなか良いアイデアのようにも見えたが、やってみたらみんな貧しくなってしまった。飢餓と粛清と内戦で夥しい数の人間が死んでいった。
 だから、それに変わる道を考えたかった。左翼の人たちもみんなそうするのだと思っていた。歴史の失敗から学ばなくてはいけないし、そのためには過去を反省し、二度と同じ過ちを繰り返すまいという決意が必要だと思っていた。
 でも、未だにあの場所にいつまでもしがみ付いている人たちがいる。曰く、あれは本当の社会主義じゃなかった。ならば本当の社会主義はどこにあるのか、まだないなら考えなくてはいけないのではないか。曰く、アメリカによって潰された。でも実際アメリカの方が自由で豊かではないか。アメリカから学ぶべきものは何もないのか。
 まあ、未だにあの場所にいる人間からすれば、私なんぞは裏切り者なんだろうな。まあ、ネトウヨと呼ばれようがレイシストと呼ばれようが、別にそんなレッテル貼りには興味ない。ただ明日が見たいだけだ。
 何かどうでもいいような話が長くなってしまったが、今日の一句。

 暁の星を追行時雨かな    勇招(『続の原』)

2019年12月29日日曜日

 今日も晴れた寒い一日だった。
 昨日に続き、つれづれに、行方も知れず。

 年わすれしかし太鼓はたたかれじ 如柳(『千鳥掛』)

 ネットで見ると「年忘れ」は鎌倉時代から年末に連歌会を催したところからきているという。出典はよくわからない。
 江戸時代では一年の仕事の終わりの打ち上げだったようだ。
 この時代にはまだ年越し蕎麦はなかったが、年越し蕎麦もまた仕事を終えたときの打ち上げで食べていた。近代だと忘年会と年越し蕎麦は別の行事になっている。
 「年忘れ」は、昔は数え年で、誕生日ではなく正月が来ると年齢が一つ上がるということで、年を取るのを忘れるという意味での「歳忘れ」だった。別にこの一年あったことを忘れるという意味ではない。
 一部の人たちでは歴史を忘れるとはけしからんということで「望年会」をやってたりするが、はたして歴史を忘れているのはどっちだか。
 太鼓をたたかないというのは、本来それほど盛大にやるものではなかったのだろう。挨拶程度に今年も一年お疲れさんという感じのもので、江戸後期になると年越し蕎麦に取って代わられていったのだろう。

 人に家を買はせて我は年忘れ   芭蕉

の句は元禄三年、大津膳所の乙州新宅での句で、

 かくれけり師走の海のかいつぶり 芭蕉

の句とともに詠まれている。カイツブリは鳰(にお)ともいい、琵琶湖に多く生息していたので琵琶湖のことを「鳰の海」ともいう。
 京都から琵琶湖の方へ逃れてきたから、自身をカイツブリに喩えて詠んでいる。
 ここでも隠れ家での年忘れだから、そんなに派手なものではあるまい。
 同じ元禄三年だがこの句より少し前に京都上御霊神社神主示右亭で年忘れ九吟歌仙興行が行われ、

 半日は神を友にや年忘れ     芭蕉

の句を詠んでいる。こちらの方が中世以来の連歌会の伝統を引き継ぐ「年忘れ」だったのだろう。神主さんを友としてこれから半日楽しい時を過ごしましょうという挨拶の句になっている。
 これに対し示右は、

   半日は神を友にや年忘れ
 雪に土民の供物納る       示右

と返す。おそらく「半日」を受けて、この興行の前の半日は地元の氏子さんたちが供物を納めに来たので大忙しでした、満足なおもてなしが出来るかどうか、という意味であろう。
 「太鼓はたたかれじ」のついでだが、江戸時代は鐘や太鼓で時を知らせていたが、いわゆる除夜の鐘というのはなかった。一部では行われていたかもしれないが、全国に一般的に広がったのは近代に入ってからだろう。
 夜中の日付が変わる頃に初詣する習慣ができてから、いつのまに年越し蕎麦も初詣の直前に食べ、除夜の鐘が初詣に集まる人にとっての合図になっていったのではなかったか。
 最近になって除夜の鐘がうるさいという人たちが増えてきたが、鐘そのものよりも深夜に参拝に来る人たちがうるさいのではないかと思う。
 初詣はウィキペディアによれば、

 「江戸時代までは元日の恵方詣りのほか、正月月末にかけて信仰対象の初縁日(初卯・初巳・初大師など)に参詣することも盛んであった。研究者の平山昇は、恵方・縁日にこだわらない新しい正月参詣の形であるが、鉄道の発展と関わりながら明治時代中期に成立したとしている。」

ということで、初詣の習慣は明治中期以降の鉄道の発達によるものだという。深夜の参拝も鉄道が終夜運転を始めてからではないかと思う。多分に西洋のカウントダウンの影響もあるのではないかと思う。
 江戸時代の大晦日は静かに過ごした。

   心よき年
 恙なく大晦日の寝酒かな     蚊足(『続虚栗』)

 晦日だから当然月もなく、外は真っ暗だったはずだ。さっさと酒飲んで寝るのが一番いい年の暮れだった。
 蚊足の句もう一句。

 晦日晦日や御念の入て大晦日   蚊足(『続虚栗』)

 そんな大晦日の夜、唯一にぎやかな場所があった。

 年の一夜王子の狐見にゆかん   素堂(『続虚栗』)

 王子稲荷神社には一年に一度大晦日の日に狐達が参詣し、狐火を灯したと言われている。

2019年12月28日土曜日

 今年の冬は雨が多いが、今日は冬らしい寒く晴れた一日になった。いつの間にか旧暦でも師走の三日になり、新暦では年の暮れ。
 今日は特にテーマもなくつれづれに。

 下女帯紣ヶ童めが文匣年暮けり  濁水(『庵桜』)

 この句は漢字が難しい。「紣」はなかなかフォントが見つからず、「糸偏に九十」で検索したら出てきた。「綷」の俗字だと言うが、音読みの「サイ、 スイ、 シュツ、 シュチ」はわかったが、「ケ」と送り仮名をふる訓読みがわからない。意味的に解く方ではなく絞めるほうなので、「からげ」だろうか。
 意味は、「漢字辞典オンライン」によると、

 「五色の糸で模様を織り出した絹布。
 混ぜる。混ぜ合わせる。
 綷䌨(すいさい)は、衣擦れの音の形容。」

だという。
 「文匣(ぶんこう)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「厚紙に漆を塗って作った手箱。書類や小物を入れるのに用いる。手文庫。」

とある。句には「ブンコ」と振り仮名がふってある。
 「文庫結び」という帯の結び方があるが、関係あるのか。ウィキペヂアには「江戸時代には武家の女性の基本の帯結びだった経歴があり格調が高い。」とある。今でも浴衣帯びを結ぶときの定番だという。
 童には「ワロ」と振り仮名かある。わろ(和郎)だとすると、召使の子供のことで、ここでは下女の子供のことか。
 そうなるとこの句は、年の暮れには下女も子供の帯を文庫結びに結うということか。はずれだったら御免。

 人の命や仙家にも鯸を売ならば  鑯卵(『庵桜』)

 名前も難しい字を書くが「尖った卵」?
 「鯸」は河豚(ふぐ)のこと。
 「河豚を売るならば仙家にも人の命や」の倒置で、河豚の毒に当たれば仙人といえども人のように命を落とすのではないか、という意味でいいのだろう。
 夏の句だが、

 日は東に一鏡西にほととぎす   東行(『庵桜』)

の句は、百年後に詠まれる、

 菜の花や月は東に日は西に    蕪村

の句を髣髴させる。月を「一鏡」と呼ぶのは天文学的にも言い得て妙だ。
 蕪村風にするなら、「ほととぎす日は東にて月は西」だろうか。

   師走の月を
 冬がれは白髪遊女の閨の月    嵐朝(『虚栗』)

 老いた遊女の姿を冬枯れに喩えるのはいかにもだが、こうした遊女に冬の月を添える所に愛情が感じられる。
 何でもかんでも若い娘がいいというのは、まだ本当の遊び人ではない。老いた遊女の境遇に共感できて、それで遊べてこそ夜の帝王の名にふさわしい。

   さまざまに品かはりたる恋をして
 浮世の果は皆小町なり      芭蕉

の句もそんな遊び人の最終形ではないかと思う。老いた小町に愛の手を。

 寒苦鳥孤婦がね覚を鳴音哉    李下(『虚栗』)

 芭蕉庵の芭蕉の木を贈ったという李下さんの句。
 「寒苦鳥(かんくちょう)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「インドのヒマラヤにすむという想像上の鳥。夜に雌は寒苦を嘆いて鳴き、雄は夜が明けたら巣を作ろうと鳴くが、太陽が出ると寒さを忘れて怠ける。仏教では、怠けて悟りの道を求めない人間にたとえる。かんくどり。」

とある。冬の季語。音的には閑古鳥と紛らわしい。
 怠け者で女の元に通うことしか考えない寒苦鳥。自身を自嘲したか。

 ねさせぬ夜身ヲ鳴鳥の寒苦僧   才丸(『虚栗』)

 「才丸」は「才麿」に同じ。江戸時代には人麿も「人丸」と言った。
 「寒苦鳥」を「寒苦僧」と言い換えて、夜遊びの破戒僧とする。

 貧苦鳥明日餅つこうとぞ鳴ケル  其角(『虚栗』)

 同じ遊び仲間の其角さんだが、寒苦鳥を「貧苦鳥」と言い換えて、明日は餅を搗こうというのだが、はたしてそのお金はあるのか。杉風さんにすがることになるのか。
 
   米つかず餅つかぬ宿は、みづから
   清貧にほこる
 臼寝て閑なる年の夕べ哉     似春(『武蔵曲』)

 「寝て」は「ねせて」か。「閑」はヒマというルビがふってある。まあ、餅はなくても、

 しら粥の茶碗くまなし初日影   丈草

という人もいるから安心していい。

2019年12月25日水曜日

 IR疑惑はついに逮捕者を出し、贈収賄事件となった。
 野党の発言が少ないのは、検察特捜は既に安倍の支配下にあるという幻想のせいで戸惑っているのか。
 今思うと、多分他にもいろいろやばいことがあるのだが、それを隠すためにあえて安全なモリカケの情報を小出しにしていたのかもしれない。野党やマスコミはこの作戦にまんまと乗せられ、囮の藁人形を攻撃していたことになる。流石に検察はそれには引っかからなかったと見るべきか。
 まあ、数々の疑獄事件を起してきた自民党が、そうすぐにクリーンになるはずもないか。
 さて本題に入ろう。
 謎の俳人皷角の発句だが、『虚栗』にはまだある。

 後家耻ぬ嫁星に寐巻かさん事   皷角

 これは七夕の句で、嫁星は織女星、西洋ではベガのこと。
 寐巻は蒲団に袖のついたような夜着とは異なり、薄手の体に纏うものをいうようだ。元禄三年の「半日は神を友にや年忘レ 芭蕉」を発句とする歌仙に、

   萩を子に薄を妻に家たてて
 あやの寐巻に匂ふ日の影     示右

の句がある。ちなみに次の句は『去来抄』にある「なくなくもちいさき草鞋求かね 去来」。
 どういう状況で後家が織女に寐巻を貸すことになったのかはよくわからない。何か出典があるのか。

 傘合羽はぜつり時雨顔なるや   皷角

 はぜ釣は秋の季語で、時雨は冬の季語だが和歌では秋にも詠む。
 傘を被り合羽を着てはぜ釣る人を見ていると、あたかも時雨が降っているかのようだ。

2019年12月24日火曜日

 はぴほりー。
 俳諧の時代にはまだクリスマスは日本に入ってきてなかったので、平常どおりに。

 皷角はどういう人なのかまったくわからないが、天和の頃に活躍した人で、千春撰の『武蔵曲』(天和二年)にも、

 雪の卦や二陰生ズル下駄の跡   皷角

の句がある。雪の上に付いた下駄の後が二が横に二つ並んだ状態で、易の陰が二つ(==)になる。
 この句は捨女の句と伝えられている、

 雪の朝二の字二の字の下駄の跡  捨女

に似ている。
 『虚栗』の冬の句は前回紹介したが、それ以外の句は、

   在原寺ニて
 美男村の柳はむかしを泣せけり  皷角

 特に説明の必要のない句だ。
 在原寺は奈良の天理市にある不退寺の別名だという。ここには、

 うぐいすを魂に眠るか嬌柳    芭蕉

の句碑があると言うが、同じ『虚栗』の皷角のこの句隣に並んでいる。

   寒食
 木食も香炉に煙なき日なり    皷角

 「寒食(かんしょく)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「古代中国で、冬至から105日目に、火気を用いないで冷たい食事をしたこと。そのころは風雨が激しいので火災予防のためとも、また、一度火を断って新しい火で春を促すためともいう。」

とある。
 「木食(もくじき)」はウィキペディアに、

 「木食戒(穀断ち)(火食・肉食を避け、木の実・草のみを食べる修行)を受けた僧のこと。木食上人ともいう。」

とある。
 普段から火を用いない木食戒の僧は香炉の火を絶つ日だ、というのだが、本当だろうか。

 唐扇はすねたり和扇ハ艶也渋団  皷角

 中国の扇子が渋団扇を見て「和扇は艶也」といってすねるというのだが、よくわからない。

 葺かへて不破のたびねの紙帳哉  皷角

 「紙帳(しちょう)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「紙をはり合わせて作った蚊帳(かや)。防寒具にも用いた。」

とある。不破の関の破れた板庇も新しく葺いたのかと思ったら、紙帳を張って旅寝しているだけだった。

 あさぢふや地蔵の闇を問蛍    皷角

 これはわりと普通の句。説明の必要はないだろう。

2019年12月23日月曜日

 『虚栗』にあった、よくわからない句。

 不二に目鼻混沌の王死シテより  皷角

 「混沌の王」で検索するといろいろなゲームキャラが出てきてしまう。その中でようやく見つけたのが「荘子『混沌』」だった。『荘子』内篇應帝王篇第七に、

 「南海之帝為倏、北海之帝為忽、中央之帝為渾沌。倏与忽、時相与遇於渾沌之地。渾沌待之甚善。倏与忽、謀報渾沌之徳、曰人皆有七竅、以視聴食息。此独無有。嘗試鑿之。日鑿一竅、七日而渾沌死。」

 南海の帝は倏、北海の帝は忽、中央の帝は渾沌という。倏と忽は時々渾沌の地で合い、混沌のもてなしに何かお返しをしようと相談した。
 人には七つの穴があり見たり聴いたり食べたり息したりしている。渾沌にだけはそれがない。穴を開けてみたらどうか。
 一日一つづつ穴をあけていったら七日目に渾沌は死んだ。

 これが出典である事に間違いはないだろう。
 ところで「不二に目鼻」とは何だろうか。
 これは混沌=崑崙とし、西王母のいる崑崙山と対になる、東王父のいる蓬莱山に例えられる富士山にも穴を開けたらどうかと、そういう発想だったのではないか。
 渾沌に七つの穴が開いて死んだ後、次は富士にも目鼻を開けてゆけば‥‥、そういう句だったのでは。
 同じく『虚栗』の皷角の句。

 雪ヲ吐て鏡投けり化粧姫     皷角

 化粧姫はよくわからないが、雪を吐くなら雪女のようなものか。自分の顔を見るのが嫌なのか鏡を投げ捨てる。

2019年12月21日土曜日

 文学、芸術、およそ創作物から受ける感動の正体はそう簡単につかめるものではない。
 芭蕉が古池の句を詠めたのは、おそらく偶然だっただろう。ちょうど談林調、天和調を経て、古典回帰を進めてきた時期だっただけに、芭蕉は古典の情を新味ある題材で詠んだ所に成功の原因を求め、『奥の細道』の旅での曾良との会話からおそらく最初の不易流行説は生まれたのだろう。
 去来の『去来抄』や土芳の『三冊子』が伝える不易流行論はこの元禄二年冬からの猿蓑調の時代のもので、その後芭蕉はこの考えを変えていった。
 不易流行説では古典の本意本情と俗情を区別した。この区別にはおそらく李退渓の四端七情の説が影響していたと思われる。李退渓は藤原惺窩や林羅山の朱子学に大きな影響を与えていたから、それが朱子学系の神道を学んだ曾良を通して芭蕉に伝わったとしてもおかしくはない。
 気から来る既発のその場限りの情を流行とし、その背後に求めたのが理から来る未発の四端を不易の本意本情だった。この本意本情は時代を超えて普遍であるため、古典から学習できると考えた。
 ただ、実際に句が与える感動は、必ずしも古典に通じるものではない。むしろ出典に寄りかかった句は古臭く、元禄時代の人々の生活に必ずしもフィットするものではなかった。そこから芭蕉はあえて古典の出典をはずしていこうとした。
 ちょうど上方から江戸に下った時期、芭蕉は「軽み」という形でそれを試し、新たな理論を模索したのだろう。
 許六にはもはや不易流行を説くことはなかった。むしろこれまでの常識を破るような「底を抜く」句を求めた。
 そして再び上方に上り、支考と『続猿蓑』の編纂を進めていく中で虚実の論が作られていった。「実」はもはや古典に添ってはいない。ただ、それがはっきりと形を現す前に芭蕉はこの世を去った。
 だが、今それを推測するなら、それは各自の体験の中の本当に深いかけがえのない感動であり、それを引き出す虚だけが必要だったのではなかったかと思う。

2019年12月20日金曜日

 さて、今年もたくさん俳諧を読んできた。一応振り返ってみると、

 一月二十日から一月二十七日まで「洗足に」の巻
 二月十日から二月二十八日まで「此梅に」の巻
 三月十六日から三月二十一日まで「鰒の非」の巻
 四月十三日から四月二十六日まで「八九間」の巻(二種)
 五月十二日から五月十六日まで「杜若」の巻
 六月十七日から六月三十日まで「いと凉しき」の巻
 七月三日から七月七日まで「温海山や」の巻
 七月八日から七月十五日まで「忘るなよ」の巻
 八月十二日から八月二十九日まで「哥いづれ」の巻
 九月六日から九月十五日まで「実や月」の巻
 九月十八日から九月二十三日まで「名月や」の巻
 九月二十九日から十月十二日まで「松風に」の巻
 十月十三日から十月二十日まで「あれあれて」の巻
 十一月二十日から十一月二十六日まで「鳶の羽も」の巻
 十一月二十八日から十二月四日まで「凩の」の巻
 十二月十日から十二月十八日まで「枇杷五吟」

と十五巻になる。
 まあこれはゲームで言えばレベル貯めのようなもので、読む方は退屈かもしれない。
 今日はネットで話題になったGotch.aka後藤正文さんのこのツイットを読んでみようかと思う。

 「例えば、近所の子どもが、朝も夜もスーパーの総菜パンで過ごしてる。ひとりで食べてる。お母さんは働きづめ。そういう社会の側面を前にして、何が音楽だって思うわけ。一方で、俺は数十万円もするマイクで歌を録音してる。引き裂かれるよ。落ち込むよ。」(Gotch @gotch_akg 12月16日)

 たとえば目の前に餓えている子供がいるとしたら、心を痛めない人はいないと思うし、少なくともその時は何とかしてあげたいと思うだろう。
 それはたとえば芭蕉が『野ざらし紀行』の旅の途中に富士川で捨て子を見つけ、

 猿を聞く人捨子に秋の風いかに  芭蕉

と詠んだことを思い起こすこともできる。
 ただ、こうして捨て子を目の前にしたときには断腸の声をあげても、実際その後芭蕉が捨て子のために何かをやろうだとか、孤児院のようなものを考案するということもなく、その後特に捨て子を詠むこともなかった。こうした反応もまたよくあるというか普通のことだ。
 人は目の前にある物については理由もなく感情を強く突き動かされたりすることもある。ただ、その瞬間が終ればたいてい速やかに忘れ去られてゆく。ちょうどさっきまで見ていた夢が、眼が醒めてしまうと思い出せなくなるようなものだ。
 ただ、こうした記憶は何かの弾みでフラッシュバックすることもある。特に言葉や芸術作品には、人の大事な記憶をフラッシュバックさせる働きを持つことがある。
 「例えば、近所の子どもが、朝も夜もスーパーの総菜パンで過ごしてる。ひとりで食べてる。お母さんは働きづめ。」という言葉は、最初に「例えば」とあるように、実際にこの子供を目の前にしたのではなく、これは人から聞いた話ではないかと思う。似たような話を認定NPO法人カタリバのページで見つけた。

 「良太くんのお母さんは、介護施設で働いています。
 離婚後、介護の仕事をしながら3人の子どもを育ててきました。

 2日に1度は夜勤があります。
 夜勤のあとも少しだけ仮眠をとったあと、また昼から仕事する毎日…。

 夜勤がない日も、残業がとにかく多く、夜、家にいられることがほとんどないそうです。
 それでも、厳しい家計を支えていくために、仕事を減らすことはできません。

 良太くんは、小学生の頃から、ご飯も1人、夜寝る時も1人でした。
ほぼ毎日コンビニのお弁当か、スーパーでお惣菜を買います。」

 多くの人はこの文章で、多少は不憫を感じるにしても、それほど心を痛めることもないだろう。なぜならこれは「情報」だからだ。目の前にその子供がいるわけではないからだ。
 情報である以上、自分で見て確認したわけではない。だからこの情報をたとえ本当のことだと信じたにせよ、そこに浮かんでくる映像は過去の記憶を繋ぎ合わせただけのもので、はっきりとしたものではない。「まあ、こういう人はいそうだな」くらいで終ることが多い。
 ただ、この言葉であっと心を痛める人がいたなら、それは以前にこういう人に会ったことのある人ではないかと思う。このとき言葉は単なる情報ではなく、過去の体験をフラッシュバックさせる一つの刺激となる。
 芸術には確かにこういう効果がある。普通の人には安っぽい失恋ソングに聞こえるような歌でも、今しがた失恋したばかりの人には、それがまるで自分のことのように聞こえ、涙が出てくることもある。
 勧誘というのはこうした効果を巧みに利用する。貧しい子供の話をしても、だれもがそれに食いついてくるわけではない。ほとんどの人は「ああそうですか」で終ってしまう。だが、片っ端からいろんな人に声をかければ、稀に自分の体験をフラッシュバックさせ、感銘の涙を浮かべる。そういう人に「こうすればいい」というと、ころっとなる確立が高い。
 カタリバは多分真面目で地道な活動をしている団体だから問題はないと思うが、昔の左翼だったら、それこそ革命を起してすべての富をいったん国家に集め再分配をすれば、貧困問題はたちどころに解決するという方に持って行っただろう。ある意味左翼の人たちにとって、こういう貧困の物語は左翼に勧誘されたきっかけとして、だれしも体験していることなのかもしれない。
 人の純粋な心の痛みも、導きようによっては爆弾を作って戦う人間を育てたりもする。だから貧困の物語を単なる情報としてあえて感情を抑えて放置するのも、そうした危険に対する防衛反応なのかもしれない。
 眼前から離れ、ひとたび情報の一つとなった言葉は、大概の場合真偽不明の情報として、一つのお話として、フィクションとして記憶される。
 フィクションというのは、物事を考える時に貴重なモデルを提供するもので、そのストックは多ければ多いほうがいい。そのため有史以前、文字以前の社会でもたくさんの物語が存在する。しばしばそうした物語は社会全体で共有される神話にもなる。
 フィクションはそれゆえ多様で相矛盾するものを多く持っていたほうがいい。一つのフィクションがモデルとして役に立たない時に、すぐ代わりが用意できるからだ。
 芭蕉や支考の虚実論の中で「虚」と呼ばれるのもそういうものではないかと思う。言葉によって伝えられる様々な情報、自然や人情や現実の様々な事象はすべて虚であり、ならば何が実だというと、その言葉に感動した時にはその気持ちが実なのではないかと思う。
 言葉は一つの情報でありフィクションにすぎない。ただ、その言葉に感動した時、その感動は外からやってきたのではない。自分自身の忘れかけていた重要な体験がフラッシュバックしたのであり、感動は内からやってくる。虚がきっかけになって自分の中にあった実が引き出される。それが虚を以て実を行うではないかと思う。
 先の「猿を聞く人」の句で言えば、句自体は虚だが、芭蕉が捨て子を見たときに感じた惻隠の情は実だったし、この句を聞いて断腸の思いになる人がいたら、その人の中にも実が引き出されたことになる。
 こうやって作品が偶発的にであれ、その人の心の底にある大切な感情を思い出させることができたなら、芸術はやはり捨てたものではない。
 音楽にもそれはあるはずだ。
 普段フィクションとして処理していた貧困の子供の物語を、あるときあたかも眼前にいるかのように思い出させ、心を痛ませてくれたとしたら、その芸術には価値がある。
 そして、同じ音楽を聴きながら、隣の人も涙を流していたとしたら、その人は自分の体験とはまったく別の体験を思い出して泣いているのは間違いないのだが、それでも「お前もか」「我も」「我も」ということで共鳴し合うことが出来る。

 古池や蛙飛び込む水の音    芭蕉

の句も、おそらくこの句のテーマは蛙でもなければ水音でもなく、廃墟、あるいは廃村だったのではないかと思う。
 かつて幸せに暮らしていた人たちが、何かの不幸でいつの間にかいなくなってしまい、荒れ放題の土地に池が残されている。そこで何らかの実体験をフラッシュバックさせた人が何人もいたのだろう。そこで「お前もか」「我も」「我も」ということになっていったのではなかったか。
 「そういう社会の側面を前にして、何が音楽だって思うわけ。」と後藤さんは言うが、そういう社会を思い出させ、体験を共有させることができるのも音楽ではないかと思う。数十万円のマイクは何ら恥じることではない。
 別に貧困をテーマにした歌を作れということではない。なぜなら何がその重要な体験をフラッシュバックをさせることができるのかなんて誰にもわからないし、それは人によっても違うし、偶然性のほうがはるかに強い。
 偶然を呼び込むにはむしろ必要なのは多様性だ。いろいろな歌があっていろいろな芸術があったほうがいい。一つの立場の歌ではなく、様々な矛盾する歌があったほうがいい。そのたくさん街にあふれる歌の一つを作ることが、結局一番尊いことなのではないかと思う。
 世の中に無数の音楽が溢れ、音楽業界が盛況を究め、数十万円もするマイクが使われる状態のほうが、権力者の与える決まった歌しか歌ってはいけない社会よりはるかに心を豊かにし、貧困問題も解消に向うのではないかと思う。

2019年12月18日水曜日

 カジノを含む統合型リゾート(IR)をめぐって何やら不正な中国マネーが動いているようだ。特捜が動いているから、捜査の進展を見守りたいが、ひょっとしたら何か大きなものがあるかもしれない。
 横浜市はそれまで白紙だったIR誘致を一転させて誘致に踏み切ったし、安倍政権は習近平を国賓として招聘するし、おかしなことはたくさんある。
 山口敬之の不起訴については当初から安倍の圧力だということで騒がれていて、そのせいで強姦事件としてではなく、安倍の陰謀の方で盛り上がってしまっていた。
 ただ思うに、山口敬之ってそんな一国の首相が政治生命を危険に曝してまで救わなければならないような、そんな凄い人なのかと思うと、ありそうにないような気がする。強姦の方は知らんが。
 まあ、いろいろとあった今年ももう二週間を残すのみ。「枇杷五吟」も今日で終わり。

 二裏。
 三十一句目。

   松にきあはす唐崎の茶屋
 初しぐれ居士衣をかぶる折もあり 牧童

 「居士衣(こじえ)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には、

 「隠者や僧侶などが着る衣服。居士ごろも。」とある。日本では僧衣の意味で用いられることが多いが、中国では道家の衣裳も含まれる。
 居士の語源はウィキペディアには「『(家に)居(を)る士』であり、仕官をしない読書人の意である。」とある。正岡子規も子規居士を名乗っていた。
 急なにわか雨には僧衣を頭にかぶって、近くにある茶屋に駆け込むこともある。
 三十二句目。

   初しぐれ居士衣をかぶる折もあり
 吹て通りし夜の尺八       乙州

 居士衣をかぶって雨宿りをしていると、深編笠(あみがさ)を被った虚無僧が悠然と歩いてゆく。
 三十三句目。

   吹て通りし夜の尺八
 旅まくらしらぬ亭主を頼ミにて  小春

 亭主はこの場合は宿屋の主であろう。「頼ミ」というのは只で泊めてもらうということか。
 三十四句目。

   旅まくらしらぬ亭主を頼ミにて
 薬を削る床の片隅        魚素

 この場合の「頼ミ」は、旅の途中で病気になったので、宿の主人に医者を呼んでくれるように頼んだということか。
 三十五句目。

   薬を削る床の片隅
 うぐひすは杜子美に馴るる花の陰 北枝

 杜子美は杜甫のこと。
 杜甫に花と鶯というと、「重過何氏五首 其一」の「花妥鶯捎蝶 溪喧獺趁魚」や、

   江畔獨步尋花七絕句 其六
 黃四娘家花滿蹊 千朵萬朵壓枝低
 留連戲蝶時時舞 自在嬌鶯恰恰啼

といった詩句がある。その杜甫の「江村」という詩のなかに「多病所須唯薬物 微躯此外更何求」という詩句がある。
 挙句。

   うぐひすは杜子美に馴るる花の陰
 山と水との日々の春       牧童

 「日々」は「にちにち」と読む。「日日是好日」という言葉もあるように、花の下で杜甫が鶯と戯れれ、山水に囲まれながら、毎日が良い春の日だとこの一巻も目出度く結ぶ。

2019年12月16日月曜日

 昨日は赤羽へPagan Metal Horde vol.4を見に行った。Ethereal Sin、PAGAN REIGN、EINHERJER、Týrどれも最高だった。
 どれもお国柄とか感じられて面白かった。聞いていてその国の景色が浮かんでくるような気がした。Ethereal Sinは日本のバンドで今回は黒の陰陽師姿で登場。音楽は世界を繋ぐ。
 それでは「枇杷五吟」の続き。

 二十五句目。

   扨々野辺の露のいろいろ
 簀戸の番烏帽子着ながらうそ寒く 北枝

 これは謡曲『烏帽子折』の本説か。
 鞍馬寺を飛び出した牛若丸は商売で東国に向う金売り吉次の従者となる。このとき追っ手を欺くため烏帽子を新調することになる。
 そして美濃の国赤坂の宿で熊坂長範盗賊団から吉次を守る。
 謡曲『熊坂』ではこのときの戦いの場面が描かれる。そして最後は、

 「苔の露霜と。消えし昔の物語。」

と結ばれる。
 簀戸はこの場合宿の夏用の扉、簀戸門であろう。
 簀戸(すど)はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 竹を粗く編んで作った枝折戸(しおりど)。
  2 ヨシの茎で編んだすだれを障子の枠にはめこんだ戸。葭戸(よしど)。《季 夏》
  3 土蔵の網戸。
  4 「簀戸門(すどもん)」の略。」

とある。
 二十六句目。

   簀戸の番烏帽子着ながらうそ寒く
 ゆるさぬものか妹が疱瘡     牧童

 簀戸の烏帽子を被った番人は、疱瘡神から妹(妻)を守ろうとしている。
 疱瘡の原因のわからなかった古代の人は疱瘡神によるものと考え、武威でもって守れるものと考えた。
 江戸時代後期の浮世絵でも疱瘡神と戦った源為朝の絵が盛んに描かれた。
 二十七句目。

   ゆるさぬものか妹が疱瘡
 うつくしき袂を蠅のせせるらん  乙州

 前句の「ゆるさぬものか」を疱瘡神ではなく蠅に対しての言葉とする。「せせる」は今日の「せせら笑う」に名残を留めるような「からかう」という意味でも使うが、虫が刺したりたかったりする場合にも用いる。
 「うつくし」には愛しいという意味もある。
 二十八句目。

   うつくしき袂を蠅のせせるらん
 食打こぼす郭公かな       小春

 袖に蠅が来るのをこぼした飯のせいだとする。
 二十九句目。

   食打こぼす郭公かな
 酔狂は坂本領の頭分       魚素

 坂本は近江坂本か。比叡山の東側で今も比叡山に登るケーブルカーの発着点になっている。比叡山の門前町で里坊が建ち並び、栄えていた。戦国時代には明智光秀の坂本城もあった。
 江戸時代には幕府領となり、遠国奉行の指揮下で大津代官が治めていた。
 最初の大津代官大久保長安はウィキペディアによると、「無類の女好きで、側女を70人から80人も抱えていたと言われている。」との逸話があるという。
 三十句目。

   酔狂は坂本領の頭分
 松にきあはす唐崎の茶屋     北枝

 「にきあはす」は「に・来あわす」か。
 坂本は唐崎の松でも有名だ。
 坂本領のお偉いさんが唐崎の松を見に来たか、庶民の来るような茶屋にひょっこり現れたりする。

2019年12月14日土曜日

 仲間を信じるというのは大事なことだ。疑ってばかりだと人と人との信頼関係は崩れ、ただ暴力と恐怖が支配することになる。
 だが人を疑うことも必要だ。世の中はいい人ばかりではないし、いい人であっても知らず知らずの内にその人を傷つけてたり、あるいはとんでもない所に追い詰めていたのに気がつかなかっただけかもしれない。表向きの微笑みは必ずしも真実とは限らない。
 金八先生の「贈る言葉」(海援隊)では「信じられぬと嘆くより/人を信じて傷つく方がいい」と歌っているが。自分が傷ついたりする程度で済むなら確かにそうだ。あるいは裏切られて殺されても覚悟はできていると言うなら、それはその人の考え方で済む。
 だが、もしそれが大切な家族や仲間を巻き込むことになったなら、さらには地域全体や国家や民族を巻き込むことになったなら、信念だからで済ますこともできない。
 だからといって、国家や民族を巻き込むレベルで人を疑ってばかりいたら、間違いなく戦争で多くの人が死ぬ。
 それが難しいところだ。信じすぎるのは馬鹿だが、疑いすぎるのは危険だ。
 アフガニスタンで起きた中村哲さんをはじめとする六人の殺害。中村さんは人を信じる人だったようだ。だが、完全なまでに行動を読まれ待ち伏せされていた事件は、内通者があった可能性もあるし、犯人グループの背後に組織が関与しているとしたら、今後も残された仲間達が襲撃される危険もある。
 誰でも人の気持ちはわかるが、だからといって完全にわかるということはない。その完全でないというところから、いつだって人は争い、悲劇を繰り返してきた。
 どこまで人を信じればいいのか、どこまで人を疑えばいいのか、もちろん答なんてない。ただ、誰もがそれをそれぞれの直感で判断しているだけだ。
 多分憲法第九条もそういう問題なのだと思う。
 なんか重い話になってしまったが、あの事件からずっともやもやしていることだった。

 それでは気分を変えて「枇杷五吟」の続き。

 二表。
 十九句目。

   人は思ひに角おとす鹿
 春の日に開帳したる刀自仏    魚素

 刀自(とじ)は戸主(とぬし)のことで、年長の女性や主婦を意味する。京都嵯峨野の祇王寺の仏壇には祇王、祇女、母刀自、仏御前の木像がある。
 女性の仏像は珍しく吉祥天、弁財天、鬼子母神などの天女系くらいしかない。
 いずれにせよ有難い刀自仏のご開帳とあれば、人々は感銘し、鹿も角を落とす。
 二十句目。

   春の日に開帳したる刀自仏
 交々にたかる飴うち       北枝

 秘仏のご開帳とあればたくさんの人が訪れ、縁日となり露店が並ぶ。飴を目の前で鉈などで打って小さくして売る実演販売では人だかりが絶えない。
 二十一句目。

   交々にたかる飴うち
 馬盥額に成までやり置て     牧童

 「交々」は「かはるがはる」。
 「馬盥(うまたらひ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 馬を洗うのに用いる、大きなたらい。ばたらい。」

とある。直径二尺以上の浅い盥で、これに似ているというところから馬盥(ばたらい)という茶碗や生花に使う水盤もある。
 平たいものなので底に絵や字を書けば額にできなくもない。放置され、使えなくなった馬盥は、実際に額に転用されることがあったのか。ここでは目出度く飴屋の看板になったのだろう。
 二十二句目。

   馬盥額に成までやり置て
 越の毛坊が情のこはさよ     乙州

 「毛坊」は毛坊主で、髪を伸ばした百姓でありながら僧の役割を果たす俗僧のこと。家の門に掲げた山額が盥でできてたりしたか。「こはし」には強情という意味がある。
 二十三句目。

   越の毛坊が情のこはさよ
 月の前痛む腹をば押さすり    小春

 毛坊主は俗僧ゆえ妻帯しているのが普通で、臨月の痛む腹を押しさすって産婆さんが来るのを待つ。「月の前」は月が照る中という両方の意味がある。
 二十四句目。

   月の前痛む腹をば押さすり
 扨々野辺の露のいろいろ     魚素

 これはひょっとしてシモネタか。下痢して野糞して本来の野辺の露と別の露が、ということか。大友克洋に「つゆのあとさき」という漫画があったが。

2019年12月13日金曜日

 今日は一日曇っていて寒かった。
 日本が二度目の化石賞ということで、何でこうなってしまうのか。
 日本には再生可能エネルギーの高度な技術があるし、それに必要な資源(太陽光、地熱、水力、潮力、風、バイオ燃料の原料になる物)にも恵まれている。やろうと思えばいつでも脱炭素社会を作れる。
 それをやらない最大の理由は、東京電力、関西電力など少数の電力会社が一つの地域の電力事業を独占しているからだ。
 こうした電力会社は収益率の高い大規模発電所による一括供給というモデルを変えようとしない。そのため原発か火力かという二択に陥ってしまう。自民党は電力会社と癒着し、民主党も電力会社の労組の票が欲しい。そのため今までの政治は基本的にこの二択以外の決断はできなかった。
 福島の原発事故で脱原発の世論が高まったとき、民主党の野田政権は脱原発に舵を切ったが同時に火力発電所の大増設を打ち出してしまった。この政策はそのまま自民党の安倍政権に受け継がれた。
 バイオ燃料が普及しないのも、石油業界の寡占体制に原因がある。
 日本にはミドリムシからジェット燃料を製造する技術があり、これが大々的に行われればトゥンベリさんも堂々と飛行機で移動できるようになるだろう。
 日本はやろうと思えばいくらでもCO2を削減できる。それをやらないのは与野党揃っての政治の貧困だが、まあ、政治家をいくら批判した所で前へ進めるわけでもない。
 日本はノーベル賞受賞者もたくさん輩出しているし、イグノーベル賞に至ってはほとんど独壇場といってもいい。頭が良くて柔軟性もある。ただ、いくら才能のある人間がたくさんいても、それを政策提言へと集約する事ができていない。トゥンベリさんに叱られちゃうね。

 今言えることはこれくらいなので、「枇杷五吟」の方に行ってみようか。

 十五句目。

   無欲にまつる精霊の棚
 布袋にも能似し人の踊出     北枝

 「能」は「よく」と読む。
 盆踊りの場面だが、布袋さんに似ているのならデブにちがいない。踊る安禄山みたいなものか。
 十六句目。

   布袋にも能似し人の踊出
 伏見の月のむかしめきたり    牧童

 伏見人形の布袋さんの縁で付けたか。伏見人形はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 「江戸時代初期の元和(げんな)年間(1615~24)には、すでに人形製作販売の伏見商人仲間(同業組合)が存在していた。一般には関ヶ原の戦いで敗亡した宇喜多秀家(うきたひでいえ)の陪臣(ばいしん)、鵤(いかるが)幸右衛門が、深草の里に隠棲(いんせい)、土人形をつくり生業としたのが始まりと伝えられている。また、東福寺門前の焼き物師、人形屋幸右衛門に、伏見稲荷大社に近い臨済宗東尊寺開山堂の布袋(ほてい)座像を模してつくらせたのがおこりとする説もある。」

とある。
 また伏見というと、『看聞日記』永享三年(一四三一)七月に即成院で異形風流の念仏踊りが行われたという記録がある。(『洛北における盆の風流灯籠踊り』福原敏男、国立歴史民俗博物館研究報告第112集2004年2月)
 伏見にかつての秀吉の時代の栄光はないが、昔ながらの盆踊りが月の下で行われている。
 十七句目。

   伏見の月のむかしめきたり
 花はちる物を見つめて涙ぐみ   乙州

 「物」は幽霊か、それとも昔の伏見の幻か。伏見の月に花は散り、昔を思い出すと悲しい。
 十八句目。

   花はちる物を見つめて涙ぐみ
 人は思ひに角おとす鹿      小春

 鹿は春先に角が抜け落ちる。
 花が散れば人は物思いに涙ぐみ、鹿は涙ではなく角を落とす。

2019年12月12日木曜日

 今日は旧暦の十一月十六日で満月だ。朝も夜も月が見えた。
 山地の紅葉は終りかけて、今は街中であざやかな紅葉の赤を目にする。
 それでは「枇杷五吟」の続き。

 九句目。

   あだなる恋にやとふ物書
 埒明ぬ神に歩みを運びかけ    魚素

 「埒」は馬場の策のこと。加茂の競馬の時になかなか柵が開かない(競技が始まらない)というところから「埒があかぬ」という言葉ができたという説もある。
 「歩(あゆみ)を運ぶ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 出かける。わざわざ行く。また、歩行する。
 ※今昔(1120頃か)四「年老い身羸(つか)れて、歩を運ぶと云へども、其の道堪難(たへがた)し」
 ※滑稽本・風来六部集(1780)里のをだ巻評「木場の岡釣には太公望も歩(アユミ)をはこび、三十三間堂の大矢数には養由基も汗を流す」
  ② 神仏などに参詣する。参拝におもむく。
 ※平家(13C前)一〇「我朝の貴賤上下歩(アユミ)をはこび、〈略〉利生にあづからずといふ事なし」

とあり、この場合はそのまま②の意味でいいのだろう。
 「埒明ぬ」は終止形で一回切れて、埒が明かないので神に祈りに行こうとしたが、その前に恋文を代筆してもらう。
 十句目。

   埒明ぬ神に歩みを運びかけ
 池のすぽんの甲のはげたり    北枝

 「すぽん」は鼈(すっぽん)のこと。亀だけど甲羅は柔らかい。英語ではsoft-shelled turtleというらしい。「甲(こう)のはげたり」は脱皮のことか。
 神社の池に亀がいることはよくあるが、昔はスッポンもいたのか。
 十一句目。

   池のすぽんの甲のはげたり
 橋普請木の切レさがす役に付   牧童

 橋普請はコトバンクの「世界大百科事典内の橋普請の言及」に、

 「とくに堤川除(かわよけ)・用水・道橋等の普請において,周辺村落が費用を出して行った工事を自普請というのに対し,領主側が費用を負担して行った工事をいう。幕領における河川・用水等の管理は元来代官の任務で,1687年(貞享4)の勘定組頭・代官への布達に,灌漑用水普請は高100石に人足50人まで百姓自普請で行うこと,この人数を超えるときには人足扶持を支給すること,堤川除普請は人数の多少にかかわらず扶持米を支給すること,また金銀入用はいずれの普請についても支給すること,竹木・カヤ・わら縄等は支配所内にあればこれを与え,ない所は代金を支給すること等と規定され,橋普請は街道筋の場合,長短に限らず幕府が出費し,在郷の場合は原則として所役とすることとされた。こののち増大した御普請費用は幕府の財政状態の悪化により問題化し,1713年(正徳3)には町人等の請負工事を禁じて,なるべく百姓自普請で行うことを令した。」

とある。
 「竹木・カヤ・わら縄等は支配所内にあればこれを与え」とあるところから、代官様が木切れを探すこともあったのか。前句の「甲のはげたり」が何となく代官様の禿げ頭を連想させる。
 十二句目。

   橋普請木の切レさがす役に付
 昼寝せぬ日のくせのむか腹    乙州

 普請の時の代官様は今で言えば現場監督のようなものなのか。結構雑務が多くて昼休みも満足が取れない。それでいらいらして職人に当り散らしたりする。困ったものだ。
 十三句目。

   昼寝せぬ日のくせのむか腹
 むら薄おほふ隣の味噌くさき   小春

 昔は各家庭で味噌を作っていて、「手前味噌」なんて言葉もあるということはよく言われるが、発酵食品なだけに加減を間違えると雑菌が混じって悪臭を放つ。
 この場合の薄に覆われた隣人は物事に頓着しない世捨て人で、いわゆる草庵だったのかもしれない。だとすると金山寺味噌の可能性もある。
 十四句目。

   むら薄おほふ隣の味噌くさき
 無欲にまつる精霊の棚      魚素

 精霊棚はお盆の祭壇。昔は屋外に置かれていた。お供えは殺生を嫌い野菜や果物を供える。味噌漬けを供えることもあったのか。

2019年12月11日水曜日

 今日も夕方雨が降った。時雨というには暖かく、遠くでは稲妻が光っていた。秋なのか冬なのかよくわからない。
 異常気象というと、一体何が正常なのかという問題はあるが、やはり温暖化の影響はあるのか。
 そういえばトゥンベリさんに向きになる大人が多い。それこそ大人気ないというかガキの喧嘩だ。
 確かに子供なのは事実だが、まあこれから地道に勉強を積み重ねて、大人になった時に立派な活動家に成長して欲しいものだ。
 情熱に任せて真っ直ぐ進んでいけるのは若さの特権だが、それを利用しようとする悪い大人達もたくさんいるのは現実だ。使い捨てにされ、最後は生贄になんてことにならなければいいが。
 西洋の文化の根底には一人を生贄に奉げてでも世界を救うという発想が根強いのだろう。イエス・キリストがまさにそれだし。
 「天気の子」はそれを否定しているし、日本のアニメでは犠牲は避けられないという場面でいかにそれを回避するかというところで盛り上げるものが多い。「シンゴジラ」もたった一人のおばあさんのために攻撃をやめた。そういうわけで日本からトゥンベリさんのようの人が出ることはないのではないかと思う。

 それはまあともかくとして「枇杷五吟」の続き。
 四句目。

   道草の旅の牝馬追かけて
 足の灸のいはひかへりし     魚素

 灸は「やいと」と読む。
 「いはひかへりし」はわかりにくい。『元禄俳諧集』(新日本古典文学大系71、一九九四、岩波書店)の大内初夫注では「足の灸治の祝いに出掛けていた人が帰って来たの意か。」とある。
 「いはふ」は自動詞だと今日の祝うと同じような意味だが、他動詞の「斎(いは)ふ」だと身を清める、忌み慎む、大切に守る、という意味になる。「かへる」には今でも「静まり返る」と言うように、強調の意味がある。
 おそらく前句の旅の場面から「足三里の灸」を付けたのではないかと思う。足三里は膝下にあるツボだが、この言葉は『奥の細道』の冒頭にも、

 「春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取もの手につかず、もゝ引の破れをつゞり笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松嶋の月先心にかゝりて‥‥」

とある。
 旅でついついはしゃいで牝馬を追いかけたりしたから足を痛めて、足に灸をして身を慎みことになった、ということではないかと思う。
 五句目。

   足の灸のいはひかへりし
 さかやきの湯の涌かぬる夕月夜  北枝

 「さかやき」は「月代」の字を当てる。『去来抄』「修行教」には風国の句(実際は蘭国の句)として、

 名月に皆月代を剃にけり

の句を廓内(くるわのうち)の句としている。つまり誰でも思いつきそうな、ということか。
 元禄の頃は額を剃り上げるあの月代(さかやき)が広く定着した時代で、月代という字を当てるから、月に月代がてかてか光ってなんてオヤジギャグのような句は誰でも思いつくようなものだ、ということだったのだろう。
 これに対し去来は、

 名月に皆剃立て駒迎へ

と直したという。月代の語を句の裏に隠し、「駒迎へ」という旧暦八月に東国から朝廷へと献上される馬を役人が逢坂の関に迎えに行く儀式を、別に付けている。名月に駒迎えなら廓外になるというわけだ。
 北枝のこの句も、さかやきを剃るための湯のなかなか涌かないという、月から直接連想できないことを加えることで、月にてかる月代の月並さを免れている。
 前句の足の灸で身動き取れないことから、月代を剃る湯もうまく沸かせない、と付ける。昔は湯を沸かすにも薪を運んでくべたり、それなりに動かなくてはならなかった。今みたいな給湯器はない。
 六句目。

   さかやきの湯の涌かぬる夕月夜
 髭籠の柿を見せてとりをく    牧童

 「髭籠(ひげこ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 細く割った竹や針金で編んで、編み残した端をひげのように延ばしてあるかご。端午の幟(のぼり)の頭につけたり、贈り物などを入れるのに用いた。どじょうかご。ひげかご。」

とある。
 月夜の訪問客が髭籠に柿を入れて持ってきたのだろう。月代の湯がなかなか涌かず、なかなか出てこない主人にその柿を一応見せるだけ見せて置いて帰る。
 初裏。
 七句目。

   髭籠の柿を見せてとりをく
 陣小屋の秋の余波をいさめかね  乙州

 「陣小屋」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 軍兵の駐屯する小屋。小屋がけの陣屋。」

とある。
 「いさむ」には励ますという意味もある。陣小屋の兵士達が暮秋を惜しみ悲しむのを励ますこともできずに、髭籠の柿を見せるだけで置いていくとなるわけだが、「秋の余波(なごり)」は比喩で、負け戦で犠牲者が出たことを言っているとも思える。
 八句目。

   陣小屋の秋の余波をいさめかね
 あだなる恋にやとふ物書     小春

 秋を失恋の秋とし、それでも思い切れずに代筆する人を雇って恋文を書かせる。前句の「秋の余波をいさめかね」を暮秋の悲しみを禁じえずという意味に取り成す。

2019年12月10日火曜日

 さて、次はどの巻を読もうかという所で、蕉門だけど芭蕉の参加していないものを選んでみた。『新撰都曲』と同じく、『元禄俳諧集』(新日本古典文学大系71、一九九四、岩波書店)からで、北枝編の『卯辰集』(元禄四年刊)から枇杷五吟を見てみよう。
 メンバーは『奥の細道』にも登場する加賀の北枝、それにその兄の牧童、近江蕉門の乙州、加賀の小春(しょうしゅん)は曾良の『旅日記』の七月二十四日の所に、

 「快晴。金沢ヲ立。小春・牧童・乙州、町ハヅレ迄送ル。」

とある。もう一人の魚素についてはよくわからない。同じ『卯辰集』に、

 行雲のうつり替れる残暑哉    魚素

の発句がある。
 さて枇杷五吟の発句。

 凩やいづこをならす枇杷の海   牧童

 同じ琵琶湖の凩というところで、前回に見た、

 凩の果はありけり海の音     言水

を思わすところがある。
 琵琶湖はウィキペディアには「湖の形が楽器の琵琶に似ていることがわかった江戸時代中期以降、琵琶湖という名称が定着した。」とあるが、元禄四年に「枇杷の海」が既に用いられている。
 レファレンス事例詳細には、「『琵琶湖』という名前が文献に初めて現れるのは16世紀初頭、室町時代の後期です。」とある。また、名前の由来について、「名前は竹生島にまつられている弁才天がもつ楽器の琵琶に湖の形が似ていることに由来します。また、琵琶が奏でる音色と湖水のさざ波の音がよく似ていたからともいわれています。」とある。
 この由来からすると、言水の「海の音」は凩の掻き鳴らす琵琶の音だったのかもしれない。
 牧童の句も同じネタになってしまうが、凩が琵琶を鳴らすにしても、弦のない琵琶湖のどこを掻き鳴らすのだろうという句だ。
 これに対し、近江の乙州が脇を付ける。

   凩やいづこをならす枇杷の海
 西もひがしも蕪引空       乙州

乙州が脇を詠み、発句に琵琶湖が詠まれているところから、大津での興行と思われる。
 乙州について、ウィキペディアには、

 「元禄2年(1689年)家業により加賀金沢に滞在中『奥の細道』旅中の松尾芭蕉と邂逅した。同年12月芭蕉を大津の自邸に招待し、以降上方滞在中の芭蕉を度々招き、また義仲寺の無名庵や幻住庵に滞在中の芭蕉の暮らしを姉智月尼と共に世話をした。」

とあるが、この興行も元禄二年の冬だったのかもしれない。
 発句の「いづこ」を受けて「西もひがしも」とし、琵琶の弦はないが蕪が収穫期を迎えているとする。「凩」に「空」が付く。
 第三。

   西もひがしも蕪引空
 道草の旅の牝馬追かけて     小春

 「牝馬」は「ざうやく」と読む。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」では騲駅という字が当てられ、「『騲』は牝馬、『駅』は宿駅の馬の意」とある。
 これとは別に同じコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、雑役馬(ぞうやくうま)があり、こちらは。

 「乗用には使わないで、いろいろな雑用に使う牝馬(めすうま)。駄馬。雑役。」

とある。
 句の意味からすると、旅に用いる馬だから宿駅の牝馬だろう。ただ、「追かけて」とあるからやはり乗用ではなく、旅の荷物だけを乗せた馬なのか。
 「西もひがしも」は「西も東もわからない」ということか。道草してたら迷ってしまい、どっちを見ても蕪畑でどっちに行けばいいのやら。

2019年12月8日日曜日

 『新撰都曲』で、そんなに句数は多くないけど目に付くのは「網代守」だ。
 「網代」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」にいくつか意味が載っているが、この場合は、

 「湖や川に柴(しば)や竹を細かく立て並べ、魚を簀(す)の中へ誘い込んでとる仕掛け。冬の宇治川の氷魚(ひお)漁が古くから有名。《季 冬》」

になる。宇治川だけでなく近江の方でも行われていて、『幻住庵記』にも、

 「ささほが嶽・千丈が峰・袴腰といふ山あり。黒津の里はいと黒う茂りて、「網代守るにぞ」と詠みけん『万葉集』の姿なりけり。」

とある。前に「幻住庵記」を読んだときに、

 「網代守るにぞ」の歌は『芭蕉文集』(日本古典文学大系46、一九五九、岩波書店)に、

 田上や黒津の庄の痩男
     あじろ守るとて色の黒さよ

という古歌を『万葉集』の歌と混同したとある。この歌はこれより後に書かれた『近江與地志略』(享保十年)にあるという。この地方に芭蕉の時代からこういう伝承歌があったのか。」

と書いた。
 『万葉集』の歌といえば、

 もののふの八十やそ宇治川の網代木に
     いさよふ波の行くへ知らずも
               柿本朝臣人麻呂

の歌は今日でもよく知られている。
 「網代守」を詠んだ歌は少ないが、

 つきせじな八十宇治川の網代守
     よる年波のひをかぞふとも
               藤原家隆

がある。
 それでは『新撰都曲』から、

 色黒し京に猶見ぬ網代守    千春

 網代守の日焼けした色の黒さは、誰しも知ってるものだったのだろう。『近江與地志略』の歌でも黒さが詠まれている。
 「幻住庵記」の黒津の里はいと黒う茂りて、「網代守るにぞ」と詠みけん『万葉集』の姿なりけり。」も黒を二回重ねて、間接的に網代守の黒さを匂わせていると見ていいのではないかと思う。

 橋姫や物云かはす網代守    友益

 橋姫は古くは、

 さむしろに衣かたしき今宵もや
     我をまつらん宇治の橋姫
             よみ人知らず(古今集)

の歌にも詠まれている。『源氏物語』にも橋姫の巻があって、薫の詠む、

 橋姫の心を汲みて高瀬さす
     棹のしづくに袖ぞ濡れぬる

の歌がある。
 橋姫は宇治の橋の守り神であるとともに、いつも誰かを待っているようだ。
 宇治の網代守なら、そんな橋姫とも面識があって、会話を交わしたりしているのではないか、と疑いの「や」を用い、橋姫は網代守と物云かはしたりするのだろうか、と詠む。
 網代守にはどこか仙人のような人間離れしたイメージがあったのだろう。

 火の影や人にてすごき網代守  言水

 「すごし」というのはぞくっとする感覚で、恐かったり気味が悪かったりすさんでいたり、何か日頃馴染んだよく知ったものがないようなときに用いられる。こうしたことばは昔の「いみじ」や今の「やばい」のように、逆にいい意味に転じて用いられることが多い。いまの「すごい」はそこから来ている。
 「人にて」というところに、やはりひょっとして人間じゃないんじゃないかという感じが込められている。でも人間だと言い切るところは言水さんらしい。

 只一つこはぜき高し網代守   一酔

 「こはぜき」は「声咳」のこと。静かな河原では咳をする声がひときわ大きく聞こえる。

2019年12月7日土曜日

 『新撰都曲』を読んでいると牛の句が結構目立つ。京都にはそんなに牛が多かったのだろうか。
 京都ではないが、歌川広重の『東海道五拾三次之内大津』には牛が荷車を曳く様子が描かれている。京都近辺では古代道路の名残で、牛が通れるような広い舗装道路が多かったのかもしれない。

 牛の毛の折レぬ曲らぬ時雨かな  加柳

 牛の毛は雨をはじくというから、雨で毛が折れたり曲がったりすることがあるのかはよくわからない。
 この句は牛の毛のように折れぬ曲がらぬと読むこともできる。
 ちなみに毛雨は霧雨のこと。牛だけに「もう雨」?

 寝ざめては牛の地を聞時雨哉   都雪

 馬は立って寝ることもあるが、牛は大体横になって寝る。「食べてすぐ寝ると牛になる」という諺も牛の寝姿から来たのだろう。
 牛が早朝に目覚めると、耳元で時雨が地面を打つ音が聞こえる。牛の気持ちになった句だ。

 早今朝は牛の息見る冬野哉    正之

 寒い朝は吐く息が白くなるが、牛の息も白くなる。

 熊痩て牛に楽ある深雪哉     可雪

 雪が降ると熊は痩せて、牛は襲われる心配がないから楽がある。でも熊って冬眠するのでは。

 玉落す柳に牛の眠かな      松隠

 柳が春なのは芽吹いたばかりの緑の鮮やかさだけでなく、この時期に目立たないが緑色の花も咲く。その春の柳に置く露は柳の糸に繋ぎとめられた玉にも喩えられる。

 浅緑いとよりかけて白露を
     珠にもぬける春の柳か
              僧正遍照(古今集)

という歌にも詠まれている。
 そんな柳の露の散る下で牛が長閑に眠っている。

 捨牛の海松和布求る潮干哉    清昌

 「海松和布」は「みるめ」と読む。扇状に広がる緑藻。捨てられた牛は腹をすかしてみるめでも食べるということか。
 本当に牛が緑藻を食べるのかどうかはよくわからない。ただ、最近では牛にカギケノリという紅藻を食べさせることで、牛のげっぷを減らすことができるとの研究があるようだ。

 刈込て牛の草撰躑躅かな     孤松

 躑躅を引き立たせるために、回りの草を刈り込むから、牛がどこを食べていいか撰ぶのに困る。

 松の色牛の見て鳴焼野かな    蚊市

 野焼きの後の焼野に草はないが、松の木の緑を見ると食べ物があると思うのか、鳴く。

 橋過る牛の影追ふ早鰷哉     觚哉

 「早鰷(さばえ)」は「ハヤ」のことで、ウィキペディアには、

 「日本産のコイ科淡水魚のうち、中型で細長い体型をもつものの総称である。ハエ、ハヨとも呼ばれる。」

とある。ウグイやオイカワやカワムツなどを指す。
 牛が橋を渡ってゆくと、ハヤもそれを追いかけるように泳いでゆく。

 長き夜や花野の牛となる夢も   千春

 花野といっても牛なら食べちゃうのではないかと思う。でも、綺麗な花に囲まれ悠々と過ごす牛にはなってみたい気もする。胡蝶の夢からの発想か。

 ゆく牛に口籠はむる花野哉    可雪

 やはり牛は花野の花を食べてしまう。そのため口に籠をはめる。

2019年12月6日金曜日

 今日も『新撰都曲』から、目に留まった句を。
 まずは、

 気違の狂ひ勝たる鹿驚哉     助叟

から。今の放送コードだとやばい句だが、この場合の「気違(きちがひ)」は精神障害者ではなく風狂のことであろう。
 当然ながら当時は精神病の概念はないし、今日で言うような精神障害者はこの時代もいただろうけど、それを判定する医師がいたわけではなかった。だから「気違」の中に精神障害者も含まれていただろうけど、気違=精神障害者ではなかった。
 とはいえ、この時代に「気違」の言葉は珍しく、「物狂い」の方がよく用いられている。
 物狂いというと、謡曲『三井寺』の息子を探しに三井寺にやってきた母の月夜に浮かれて鐘を撞く場面が印象的だ。
 俳諧だと、以前読んだ「蓮の実に」の巻の十五句目に、

   官女の具足すすむ萩原
 房枕秋の寝覚の物狂ひ      西鶴

というのがあった。
 風狂といえば、芭蕉の『笈の小文』の冒頭部分もそれを演出している。

 「百骸九竅(ひゃくがいきゅうきゅう)の中に物有り。かりに名付て風羅坊(ふうらぼう)といふ。誠にうすもののかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。
 かれ狂句を好むこと久し。終(つい)に生涯のはかりごとととなす。ある時は倦(うん)で放擲(ほうてき)せん事をおもひ、ある時はすすんで人にかたむ事をほこり、是非胸中にたたかふて、是が為に身安からず。しばらく身を立てむ事をねがへども、これが為にさへられ、暫ク学んで愚を暁(さとら)ン事をおもへども、是が為に破られ、つゐに無能無芸にして只此の一筋に繋(つなが)る。」

 これを読むとぼろぼろの服をまとった風狂の徒の姿が浮かんでくる。もちろん実際はそうではなかっただろうけど。
 その『笈の小文』の伊勢参宮の時の詠んだ句に、

 裸にはまだ衣更着の嵐哉     芭蕉

の句がある。
 これは『撰集抄』の増賀上人の話で、天台山根本中堂に千夜こもって祈りを捧げたけども悟りを得られなかったが、あるとき、伊勢神宮を詣でて祈っていると、夢に「道心おこさむとおもはば、此身を身とな思ひそ」という示現を得て、それならとばかりに着ているものを皆脱いで乞食に与え、裸で物乞いをしながら帰ったという話を思い浮かべ、自分はそこまではできないという句だった。これなども風狂の物語といえよう。
 『去来抄』の、

 岩鼻やここにもひとり月の客   去来

の句に対し、

 「先師曰、ここにもひとり月の客ト、己と名乗出たらんこそ、幾ばくの風流ならん。ただ自称の句となすべし。‥略‥ 先師の意を以て見れバ、少狂者の感も有にや。退て考ふるに、自称の句となして見れバ、狂者の様もうかみて、はじめの句の趣向にまされる事十倍せり。誠に作者そのこころをしらざりけり。」

というのも実際にやったわけではないが、こういう風狂というのが好まれていたことが分かる。
 そういう風狂の徒であるなら、現実はどうかは別としても鹿驚(かかし)よりもぼろぼろの服を着ていてもおかしくない。
 鹿驚(かかし)の服については、同じ『新撰都曲』に、

 絹着たる鹿驚ひとつもなかりけり 木因

の句もある。こちらは蕉門の美濃の木因の句だ。
 人間の社会の生存競争は多数派工作の戦いで、有限な大地に無限の人口を養うことができない以上、何らかの形で集団から排除され、淘汰される人間というのが出てくる。人口増加の圧力がある限り、それは必然となる。
 ただ、複数の集団が対立している場面では、他所の集団が排除した人々を取り込むことができれば、より大きな集団を作り他所を凌駕できる。そういうわけで、多様性への寛容は強い集団を作るには欠かせない要素になる。
 古代において日本は朝鮮半島で新羅によって排除された百済や高句麗の遺民を帰化人として受け入れ、その技術によって大きな進歩を遂げたし、文禄・慶長の役(壬辰倭乱・丁酉倭乱)の時に朝鮮半島からやってきた職人達も特に焼物の分野で日本の文化を大きく発展させるのに貢献してきた。
 狂に関しても、あるいは衆道に関しても、寛容さは日本の文化の発展に欠かせなかった。これから日本が更なる発展をしていくためにも、このことは忘れてはいけない。

 摂待に先あはれなる座頭哉    水流

 「摂待(せったい)」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「( 名 ) スル
 ① 客をもてなすこと。 「湯茶の-」 「取引先の社長を-する」
 ② 陰暦七月、寺巡りの人々や往来の人々に仏家の門前に湯茶を用意してふるまうこと。門茶かどちや。 [季] 秋。 《 -の寺賑はしや松の奥 /虚子 》」

とある。この場合は②の意味。
 お寺で摂待をすると、真っ先にやってくる座頭がいてあわれだ、というのが句の意味と思われる。

 摂待や卒塔婆の中の一煙     都雪

はそんな摂待の風景を詠んだ句だ。
 座頭は平曲を演奏する琵琶法師で、「平家物語」や「浄瑠璃十二段草子」などを琵琶を引きながら謡い語った。
 目の不自由な人の耳が良いことと記憶力に優れていることとで、こういう職業が与えられ保護されてきた。ウィキペディアによると、江戸時代に入るとこれに地歌三味線、箏曲、胡弓等の演奏家、作曲家としてや、鍼灸、按摩などの職業も加わっていった。
 障害者との共存には、その障害にあった役割を与え居場所を保障する事が不可欠になる。それをせずに形だけ平等の権利を与えても、居場所がなければどうにもならない。今後の様々なマイノリティーのことを考えてゆくにしても、こうした過去の知恵は参考にしてゆく必要がある。

 継母に槿のはなをしへけり    民也
 魂祭子の㒵みたる継母かな    万玉

 継母というと継子いじめがどうしても連想されがちだが、江戸時代には幼児虐待は死罪で、継子いじめもご法度だった。
 子供は無邪気に継母(ままはは)に槿(アサガオ)の花が咲いていることを教えてあげる。
 お盆には亡き母の魂を祭る子の姿を、継母(けいぼ)がそっと見守る。
 やはり人倫とはこうありたいものだ。

 左義長や代々の三物焼てみん   尚白

 尚白は近江蕉門。「左義長」はドンド焼きとも呼ばれる正月の行事で、正月の松飾りや注連縄などを焼く。
 俳諧師が毎年配る歳旦三物帳もこのとき一緒に焼いてしまったようだ。どうりで残ってないはずだ。

 人数に夢をくばりし火燵哉    萩水

 火燵に入ると眠くなる。みんなそれぞれ夢の中で、そういうことで、おやすみなさい。

2019年12月5日木曜日

 言水編の『新撰都曲(しんせんみやこぶり)』はその名の通り京の都の風流で、京ならではのテーマが見られる。
 その一つは「お火焼(ひたき)」で、今でも京都の人にはなじみがあるのだろうけど、関東のほうの人間にはいま一つぴんと来ない。
 とりあえずいつものように、コトバンクを引用しておこう。「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「京都を中心に行なわれた冬の火祭。旧暦 11月に社前に火を焚く神事の一つ。知恩院をはじめとして,出雲路幸神社,伏見稲荷大社などで連日にわたって行なわれた。宮中では一条天皇のときに始まるといわれる内侍所御神楽が奏でられた。当日は民家においても一般に庭火を焼き,製茶業,風呂屋,飲食店など大火を焚く商家も神供を献じたが,のちには鍛冶屋のふいご祭にわずかに名残りをとどめるだけとなった。この祭式は一般に夜に入ってから行なわれ,社前にあらかじめ積み上げられた井桁の薪の中央に笹や竹を入れ,これに新穀の神饌,神酒を供え,神楽を奏し,祝詞が終わると斎火を笹に移し,神酒をそそいで爆竹三声で式を閉じる。」

とある。
 まず『都曲』から一句。

 お火焼や梟飛でねぬ鴉     可心

 夜に火を焚くから、その火で梟の飛ぶ姿が見えたりしたのだろう。明るいもんだからカラスも起きていて鳴いてたりする。
 もう一句。

 御火焼に木葉は薫ぬ習かな   去留

 まあ、お火焼は落葉焚きではなく、あくまで神事なので割木を組んで、竹を立てて燃やす。炎が高く上がることになる。

 お火焼や疱瘡したる子の数多き 入安

 「疱瘡」はここでは「いも」と読む。天然痘のこと。病気にご利益があるというのと、暗がりだから疱瘡の跡があっても目立たないということか。
 鉢叩きも冬の京の風物だった。

 鉢扣銭やる馬士の㒵見たし   民也

 鉢叩きは普段は茶筅の製造販売を行っているという。『風俗文選』の去来の「鉢扣ノ辞」にも、

 「常は杖のさきに茶筅をさし大路小路に出て、商ふ業かはりぬれどさま同じければ、たたかぬ時も鉢扣とぞ曲翠は申されける。」

とある。
 「馬士(まご)」は馬子に同じ。馬に荷を乗せて運ぶ人のこと。なんとなく鉢叩きと並ぶと不釣合いな感じだったのだろう。

 しのふ夜や似せても似ざる鉢扣 北窓

 去来の「鉢扣ノ辞」にも、芭蕉の鉢叩きを見せようとしたがあいにくの悪天候で鉢叩きは来ず、仕方なく去来が、

 「箒こせ真似ても見せむ鉢扣と、灰吹の竹うちならしける、其声妙也、火宅を出よとほのめかしぬれど、猶あはれなるふしぶしの似るべくもならず。」

と鉢叩きの真似は結構難しかったようだ。

 夕ぐれや五条あたりの鉢扣   随友

 清水五条の東に空也上人の開基による補陀洛山六波羅蜜寺があり、夕暮れになると鉢叩きたちがここに集まってきたのだろう。
 あと、これは夏のものになるが、京都というと加茂の競馬(くらべうま、けいば)がある。

 競馬見ぬ人や河原の歌念仏   可心

 「歌念仏」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 「念仏に節をつけて俗謡風に歌ったもので,《人倫訓蒙図彙》(1690)によると,菅笠をつけた僧形のものが,鉦鼓(しようこ)を首にかけて門付(かどづけ)をしている姿が描かれているが,これが歌念仏である。《竹豊(ちくほう)故事》(1756)に,寛文(1661‐73)ころ歌念仏を得意とした日暮林清,林故,林達の名が見える。元禄から享保(1688‐1736)にかけて浄瑠璃風に語るようにもなった。詞章としては近松の《五十年忌歌念仏》の中にお夏清十郎の歌念仏がある。」

とある。単なる念仏ならわざわざ見に行くものでもないが、物語ともなれば競馬と張り合える。

 市原に昼寝さめたる競馬かな  和海

 京都の市原は貴船や鞍馬の方の入口だが、上加茂神社からは二キロくらい離れている。そこまで加茂の競馬の歓声は聞こえたのだろう。

 おほかたは冠見てくる競馬哉  露吹

 見に行っても人だかりが凄くて冠しか見えない。

2019年12月4日水曜日

 だいぶ寒くなってきた。
 夕暮れの月は半月になっていた。
 それでは「凩の」の巻、挙句まで。

 二裏。
 三十一句目。

   鷗と遊ぶ江のかかり舟
 黄昏を無官の座頭うたひけり   言水

 ウィキペディアによると琵琶法師は、「検校、別当、勾当、座頭の四つの位階に、細かくは73の段階に分けられていたという。これらの官位段階は、当道座に属し職分に励んで、申請して認められれば、一定の年月をおいて順次得ることができたが、大変に年月がかかり、一生かかっても検校まで進めないほどだった。」という。無官というのは、まだ官位を持っていない初心の琵琶法師だという。
 場面を黄昏時とし、はじめたばかりの琵琶法師が鷗相手に練習をしているのだろうか。
 三十二句目。

   黄昏を無官の座頭うたひけり
 ゆるく焼せてながく入風呂    言水

 「焼せて」は「たかせて」と読む。当時の銭湯はサウナだったが、この場合は家の中に据え付ける据風呂(水風呂)だろう。
 ここでいう無官の座頭は多分なんちゃって座頭で、入浴している人が気分良くて平曲の一節なんかを歌ったりしたのだろう。
 三十三句目。

   ゆるく焼せてながく入風呂
 しぐれより雪みる迄の命乞    言水

 「命乞(いのちごひ)」は本来は長生きができるように神仏に祈ることだった。
 長風呂をしていると、時雨がいつの間に雪に変わっていた。
 三十四句目。

   しぐれより雪みる迄の命乞
 内裏拝みてかへる諸人      言水

 内裏というと京都御所のことだろうが、ここを訪れて神社のように拝んで、長寿を祈ることは普通に行われていたのだろうか、よくわからない。
 だいぶ後になるが、

 女具して内裏拝まんおぼろ月   蕪村

の句もある。
 三十五句目。

   内裏拝みてかへる諸人
 やさしきは花くはへたる池の亀  言水

 ネットで調べたが、亀が花を食べるのは珍しくないようだ。
 「やさし」の元の意味は身も痩せ細るような思いをすることだが、それが転じて謙虚で立派な心がけを言うこともある。
 まあ、実際は花を食べているのだろうけど、見た目には花を咥えていると、内裏に花を奉げているようにも見える。
 挙句。

   やさしきは花くはへたる池の亀
 弥生のあやめ出さぬ紫      言水

 池の亀ということで、池にはあやめ(ここでは花菖蒲であろう)が植えられているが、弥生なのでまだ紫の花も蕾も見えない。亀の咥えている桜の花が池に花を添えている。
 まあ、亀に花ということで、目出度く一巻は終わる。

2019年12月3日火曜日

 社会主義の敗北は理性崇拝の敗北でもあったのだろう。社会主義を失ってから理性は暴走している。人権派、ビーガン、環境エコロジスト、彼等の一部過激化した思想はどこへ行くのだろうか。
 もう一度人間の感情を見つめなおそう。そこに次の時代の答がある。
 「凩の」の巻の続き。

 二十五句目。

   餅つく人ぞ人らしき㒵
 来ますとは世の嘘ながら祭ル魂  言水

 お盆で先祖の魂が帰ってくるというのは確かに「世の嘘」なのだけど、それを言っては元も子もない。
 京都ではお盆に「おけそく」と呼ばれる餅を供えるという。霊魂の話、鬼神の話は疑わしいとはいえ、それを信じて祭る人の心は人らしい。
 二十六句目。

   来ますとは世の嘘ながら祭ル魂
 邪神に弓はひかぬ鹿狩      言水

 邪神というと今はクトゥルー神話になってしまったが、元は災いをもたらす神の意味だった。
 日本では鹿を食う習慣がなかったので、鹿狩りは農作物の害獣駆除として行われていた。
 鹿は鹿島神宮の神使でもあり、奈良の春日大社でも神鹿とされている。その鹿には弓を向けるけど、邪神には弓を向けないというのは、確かに先祖の魂など信じない合理主義者には矛盾のように感じるのかもしれない。実際に姿を現すわけでもない邪神には弓の引きようがないが。
 このあたりも蕉門の人たちと言水のキャラの違いなのだろう。何のかんの言って蕉門の人たちは信心深い。それが不易の風雅の誠の探求へと向わせたのだが、言水は現世的だ。
 唯物論者というのはいつの時代にもいるもので、定家の卿もそうだったようだ。他の巻だが、

   牙生し子は我家に置兼て
 いのれど弥陀は常の㒵なる    言水

なんて句もある。
 二十七句目。

   邪神に弓はひかぬ鹿狩
 腰居し岩に麓の秋をみて     言水

 前句を単なる鹿狩りの光景として、岩に腰掛けて麓の秋の景色を眺める狩人を描く。
 二十八句目。

   腰居し岩に麓の秋をみて
 朝霧かくす児の古郷       言水

 「秋」は「飽き」との掛詞になる。男色に相手に飽きた稚児は故郷を離れる。岡の上から振り返る故郷は朝霧に隠れている。
 二十九句目。

   朝霧かくす児の古郷
 月にこそ砧は昼の物めかず    言水

 砧といえば李白の「子夜呉歌」で、月の下で聞くから趣もある。

 み吉野の山の秋風小夜ふけて
     ふるさと寒く衣うつなり
               参議雅経(新古今集)

が本歌だが、朝になってもはや砧の音は聞こえない。まあ、昼聞いてもらしくないしな、と冷ややかに言う所が言水らしさなのだろう。
 三十句目。

   月にこそ砧は昼の物めかず
 鷗と遊ぶ江のかかり舟      言水

 「かかり舟」は繋船(けいせん)のこと。江に浮かぶ船は月にこそふさわしいが、つながれて鷗と遊ぶ昼の舟はそれはそれで別の味わいがある。
 砧は物めかないが、舟は昼でも物めく。

2019年12月2日月曜日

 「凩の」の巻の続き。

 二表。
 十九句目。

   牛は柳につながれて鳴ク
 野々宮も酒さへあれば春の興   言水

 京都嵯峨野にある野宮(ののみや)神社は、かつては伊勢神宮に奉仕する斎王が伊勢に向う前に潔斎をした場所で、『源氏物語』賢木巻では源氏の君が六条御息所を尋ねてこの野宮にやってくる。秋のことだった。
 謡曲『野宮』では牛車に乗った御息所が登場するというから、前句の牛を牛車を引く牛としたのだろう。源氏も忍んで来たから、源氏がどこかの柳の木に牛を繋いでいたのかもしれない。
 斎王の制度は南北朝時代に廃絶し、それ以降は普通の神社になったのだろう。ならば酒さえあれば昔の源氏と御息所の寂しげな別れの場面なども忘れ、春の興となる。まあ、昔は潔斎の場所だから酒はなかったのだろう。
 これも古典の雰囲気を生かした蕉門の俤付けとは違い、むしろ古代と現代のギャップで笑わせる。そういうところが談林的で言水流なのだろう。
 二十句目。

   野々宮も酒さへあれば春の興
 詞かくるに見返りし尼      言水

 嵯峨で尼さんをナンパしようとしたのか。
 嵯峨の尼というと祇王寺で、清盛の寵愛を受けた白拍子の祇王と仏御前の悲しい物語があるが、それも昔の話。
 二十一句目。

   詞かくるに見返りし尼
 思ひ出る古主の別二十年     言水

 昔の主人との恋物語もあったのだろう。結局結ばれることなく女は尼となり、あれから二十年。ふと昔の主人に呼び止められたような気がして振り返る。そこには‥‥。メロドラマだね。
 二十二句目。

   思ひ出る古主の別二十年
 東に足はささでぬる夜半     言水

 忠臣だったのだろう。何かの誤解で左遷されてしまったかお暇を出されたか、それでも主君のいる方角に足を向けて寝ることはない。
 殿は東にいるということは家康公の忠臣か。
 二十三句目。

   東に足はささでぬる夜半
 漏ほどの霰掃やる風破の関    言水

 前句の「東に足をささで」を東に向って歩かずにと取り成したか。
 風破の関(不破の関)は荒れ果てて、雨漏りどころか霰も漏ってくるので掃き出さなくてはならない。そんな荒れた天気だから、今日は関を越えずにここで一夜過ごそう、とする。
 二十四句目。

   漏ほどの霰掃やる風破の関
 餅つく人ぞ人らしき㒵      言水

 前句の霰をあられ餅のこととする。不破の関で餅を搗いては大量のあられを作っている。一体こんな所で餅を搗くとは誰なんだろうか。人のように見えるがひょっとして人外さん?

2019年11月30日土曜日

 「凩の」の巻の続き。

 十三句目。

   四十かぞへて跡はあそばん
 世中の欲後見にある習ひ     言水

 老後を悠々自適に隠居生活というのではなく、年少者の後ろ盾となってその財産を着服しという悪い爺さんに取り成す。まあ「習ひ」つまりよくあること、ということか。
 十四句目。

   世中の欲後見にある習ひ
 菊の隣はあさがほの垣      言水

 この場合は庭造りに欲を出すということか。菊があるなら、その後ろに朝顔の垣も欲しい。
 十五句目。

   菊の隣はあさがほの垣
 名月の念仏は歌の障なして    言水

 菊の酒は不老長寿の仙薬で、重陽の日に飲んだりする。
 これに対し、朝顔は朝に咲いて昼には萎み、いかにも諸行無常を感じさせる。
 長寿を願うのに隣では儚い命と、それはまるで名月の夜をこれから楽しもうというのに、隣から念仏が聞こえてくるようなものだ。
 十六句目。

   名月の念仏は歌の障なして
 片帆に比叡を塞ぐ秋風      言水

 和船の帆は便利なもので、ヤードを水平にすれば横帆になり、追い風で早く走ることができ、ヤードを傾けて片帆にすれば縦帆になり、向かい風で間切って進むことができる。
 比叡山から琵琶湖へと吹き降ろす秋風(西風)に片帆で進む舟は、帆を左右に動かすのでそのつど月が隠れてしまう。
 名月に歌の一つも詠もうにも、無粋な比叡下ろしが邪魔をする。
 十七句目。

   片帆に比叡を塞ぐ秋風
 花笠はなきか網引の女ども    言水

 「花笠」は貞徳の『俳諧御傘』にも立圃の『増補はなひ草』にも記述がない。秋風の花笠なら盆踊りの傘だろうか。笠に花籠をつけて生花を入れたものならば、花籠に準じて正花、植物、春になる。
 花笠も植物に準じてか「菊の隣はあさがほの垣」から二句隔てている。
 琵琶湖の秋風から花の定座への移行ということで、やや無理な展開だが、秋風を防ぐために網引の女に、盆踊りに被るような花笠はないのか、と問いかける。
 十八句目。

   花笠はなきか網引の女ども
 牛は柳につながれて鳴ク     言水

 花笠が春になるので春の場面に転じる。「なきか」という上句に「なく」で受ける。
 女たちは網を引き、漁具を運ぶのに用いたか、牛が柳に繋がれている。花笠はなく、ただ牛だけがなく。

2019年11月29日金曜日

 今日は久しぶりに晴れた。夕暮れの空には三日月が見えた。今日は霜月の三日。
 それでは「凩の」の巻の続き。

 初裏。
 七句目。

   春辺よながれ次第なる船
 伊賀伊勢の雨に先だつ水の淡   言水

 「水の淡」は「水の泡」で、この言葉はしばしば和歌にも詠まれている。

 水の泡の消えでうき身といひながら
     流れてなほもたのまるるかな
                紀友則(古今集)
 思ひ川たえずながるる水のあわの
     うたかた人に逢はで消えめや
                伊勢(後撰集)

 『古今集』の仮名序にも「草の露、水の泡を見てわが身をおどろき」とある。
 川に生じてはすぐに消えて行く水の泡の儚さは、人生にも喩えられるし、恋にも喩えられる。
 伊賀と伊勢が接する加太のあたりは分水嶺で、ここに降った雨は鈴鹿川になれば伊勢へと流れ、柘植川になれば伊賀を経てやがて木津川になり、淀川に合流して大阪まで流れる。
 雨で生じた水の泡も流れ次第でどこへ行くかわからない。人生はそんな流れを行く船のようなものというところか。
 八句目。

   伊賀伊勢の雨に先だつ水の淡
 田に物運ぶ嫁身すぼらし     言水

 水の泡といえば、田舎に住む百姓の嫁の物を運ぶやつれた姿か。
 九句目。

   田に物運ぶ嫁身すぼらし
 面白や傾城連て涼むころ     言水

 嫁は苦労しているというのに旦那は傾城連れていいご身分。『伊勢物語』の筒井筒からの発想か。
 本説や俤ではなく、現代に移し変えて換骨奪胎するのは、談林的な手法だ。
 十句目。

   面白や傾城連て涼むころ
 蝉ゆくかたにゆるぐ蛛の巣    言水

 遊郭で遊ぶのは楽しいけど、ついついはまってお金をつぎ込んで、後が恐いもの。それを蜘蛛の巣にかかる蝉に喩える。
 十一句目。

   蝉ゆくかたにゆるぐ蛛の巣
 しごけども紅葉は出ぬ夏木立   言水

 「しごく」は「扱(こ)く」から来た言葉で、ここではむしるという意味だろう。
 茂る葉をいくらむしってみても、夏に紅葉した葉っぱどこにもない。夏の蝉がなく頃には、やがて紅葉する景色もない。

 やがて死ぬけしきは見えず蝉の声 芭蕉

の句は元禄三年の句だからまだ言水はまだ知らなかっただろう。蝉もいつしか死んでゆくように、夏木立もいつしか紅葉して落葉になる。
 十二句目。

   しごけども紅葉は出ぬ夏木立
 四十かぞへて跡はあそばん    言水

 昔は四十歳は初老で、これくらいの歳で隠居する事が多かった。まだ元気なうちに隠居して、後は遊んで暮らそう。

2019年11月28日木曜日

 「桜を見る会」(桜が見に来る会ではなかった)に出席したという元山口組系ののヤクザというのは、ネットで調べたが、新澤良文という奈良県高取町の町議会議員だそうだ。ヤクザだったのは昔の話で、とっくに足を洗った人の古傷を蒸し返して大騒ぎしている。
 あと、反グレとかいうのはshimamotoshojiという人らしい。ブログは既に削除されていて、何者かはよくわからないから、本当に反グレかどうかも不明。
 前夜祭は参加者が直接ホテルニューオータニに料金を払い、領収書を切っていたというから、これは開いている部屋で臨時のバイキング店を開業したようなもので、お金は参加者とホテルの間でしか動いていない。
 東京新聞はビールも料理も貧弱で五千円は暴利だとの参加者の声を伝えていたし、久兵衛の寿司が出たというのもフェイクニュースだった。
 まあ、野党もマスコミも今一つ攻め切れてないな。そんなことより香港やウイグルのことで何もしていないことや、習近平を国賓として招待していることなど、いくらでも安倍政権の弱点はあると思うのだが。こっちの方は放置しておくと、やがて日本が国際社会から叩かれる事態になりかねない。
 他にも温暖化対策や原発再稼動など、突っ込みどころはたくさんある。でもまあ、野党のスキャンダル頼みなのは日本だけではないか。アメリカの民主党もごたごたしているから、大統領選挙の時には国民民主と立憲民主に分裂してたりして。

 さて、霜月に入ったけど小雨の降る鬱陶しい日が続いている。
 俳諧のほうもちょっと気分を変えて、非蕉門系の言水の独吟でも読んでみようかと思う。
 『元禄俳諧集』(新日本古典文学大系71、一九九四、岩波書店)に掲載されている『新撰 都曲(みやこぶり)』(言水編、元禄三年刊)所収の独吟歌仙で、発句は言水の代表作でもある、

 凩の果はありけり海の音     言水

だ。
 言水は奈良の生まれで、延宝の頃は江戸に出てきていて芭蕉(当時は桃青)とも交流があった。天和二年に京都に移っている。
 凩(こがらし)は木から木へと吹きすさび、その名のとおり木を枯らしてゆく。そして最後は海へと出て、後はどこへ行くのか誰も知らない。
 木枯らしは放浪者の比喩でもある。風来坊などと放浪者は風に喩えられる。芭蕉も「風羅坊」を名乗り、自らを「狂句木枯し」と称し「放浪のやぶくす師竹斎」になぞらえた。そのさすらう者も海に行く手を阻まれれば、そこで引き返すことになる。
 ただ、実際は「湖上眺望」という前書きの真蹟短冊があるらしく、本来は琵琶湖の景色を詠んだものだった。木枯らしも越えられないほどこの琵琶湖は巨大だという意図だったのか。
 この句はすぐに有名になり、「木枯らしの言水」と呼ばれるようになったというから、元禄七年の、

 あれあれて末は海行野分哉    猿雖

の句にもこの句の影響はあったのだと思う。
 この凩の句に、言水自ら脇を付ける。

   凩の果はありけり海の音
 漂泠の火きえてさむき明星    言水

 「漂泠」は「みを」と読む。澪標(みをつくし)のこと。ウィキペディアには、

 「澪標は川の河口などに港が開かれている場合、土砂の堆積により浅くて舟(船)の航行が不可能な場所が多く座礁の危険性があるため、比較的水深が深く航行可能な場所である澪との境界に並べて設置され、航路を示した。同義語に澪木(みおぎ)・水尾坊木(みおぼうぎ)などがある。」

とある。夜はそこに火を灯し、灯台の役割を果たしていた。
 明け方になるとその火も消え、空には明けの明星が輝く。発句の海の音に海浜をさすらう旅人の朝に旅立つ様を付ける。海を越えることなく引き返す所に、海が「果て」になっている。
 第三。

   漂泠の火きえてさむき明星
 碁にかへる人に師走の様もなし  言水

 明け方の海にたたずむ人を碁打ちとする。この時代は本因坊道策の活躍によって囲碁ブームが起きていた。漁師の間でも碁が流行っていたか。
 おそらく負けて茫然自失で家路についたのだろう。そこでは世間の師走のあわただしさも他所事のようだ。
 四句目。

   碁にかへる人に師走の様もなし
 又梅が香に調ぶ膝琴       言水

 膝琴は膝に乗せて弾く古琴のことか。
 前句を世俗の師走のあわただしさとは無縁な貴族か何かとする。正月前に既に咲いた寒梅を前に琴をたしなむ。
 五句目。

   又梅が香に調ぶ膝琴
 ゆふぐれは狐の眠る朧月     言水

 この狐は玉藻前のような美女に化けた狐だろうか。
 六句目。

   ゆふぐれは狐の眠る朧月
 春辺よながれ次第なる船     言水

 狐はここでは本物で、春の野辺のどこかで眠っている。そこを流れに任せて下ってゆく舟がある。
 このあたりのやや浮世離れした風流が、蕉門の卑近な笑いの世界とは違う所だ。

2019年11月26日火曜日

 今日は神無月の晦日。今日も小雨が降った。
 それでは「鳶の羽も」の巻の続き。

 二裏。
 三十一句目。

   湖水の秋の比良のはつ霜
 柴の戸や蕎麦ぬすまれて歌をよむ 史邦

 いくつかの古注が、『古今著聞集』の、

 盗人は長袴をや着たるらむ
     そばを取りてぞ走り去りぬる

の歌を引用している。
 『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)には、

 「新蕎麦と付たる句にして、時節の懸合せ初霜の降り置たるに新蕎麦と思ひ寄たる句にして、蕎麦は霜をおそるる物なれば也。その霜に倒れたる蕎麦を刈取たるなどは曲もなければ、拠(よりどころ)を踏へて一句を作りたる也と知べし。
 そは古今著聞集に、澄恵僧都の坊の隣なりける家の畠にそばをうへて侍けるを、夜る盗人みな引て取たりけるを聞てよめる

 ぬす人はながばかまをやきたるらん
     そばをとりてぞはしりさりぬる

 此俤を一句のうへに作りたる手づま也。」

とある。
 霜で駄目になった蕎麦を盗まれたということにしたのかもしれない。

 梅白し昨日ふや鶴を盗まれし   芭蕉

のようなものかもしれない。
 三十二句目。

   柴の戸や蕎麦ぬすまれて歌をよむ
 ぬのこ着習ふ風の夕ぐれ     凡兆

 「ぬのこ」はweblio辞書の「三省堂 大辞林 第三版」に、

 「木綿の綿入れ。 [季] 冬。 → 小袖(こそで)」

とある。
 時節を付けて流すわけだが、打越と被らないようにしなくてはならない。「初霜」が朝なのに対し「風の夕暮れ」とし、「ぬのこ」で冬に転じる。
 『七部十寸鏡猿蓑解』(天堂一叟著、安政四年以前刊)に、

 「そば盗れしと言より時分を付て、ゆふ暮とはいへる也。」

とある。
 三十三句目。

   ぬのこ着習ふ風の夕ぐれ
 押合て寝ては又立つかりまくら  芭蕉

 「かりまくら」は仮寝と同じで旅体になる。
 安い宿だと一つの部屋にこれでもかと詰め込んで、押し合いながら寝ることになる。
 三十四句目。

   押合て寝ては又立つかりまくら
 たたらの雲のまだ赤き空     去来

 前句の「立つ」から早朝の旅立ちとし、製鉄所の炎のような朝焼けを付ける。
 三十五句目。

   たたらの雲のまだ赤き空
 一構鞦つくる窓のはな      凡兆

 「鞦(しりがい)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 馬具の一。
 ㋐馬の尾の下から後輪(しずわ)の四緒手(しおで)につなげる緒。
 ㋑面繋(おもがい)・胸繋(むながい)および㋐の総称。三繋(さんがい)。押掛(おしかけ)。
  2 牛の胸から尻にかけて取り付け、車の轅(ながえ)を固定させる緒。」

とある。
 前句をたたらの炎の夜空を染める様とし、「まだ」に夜遅くまで働いていることを含める。
 同じ頃鞍細工の職人はしりがいを一構え作り上げる。窓の外にはたたらの炎に照らされたのか、夜でも桜の花が咲いているのが見える。
 対句のように並列する向え付けだが、ともに身分の低い者の過酷な労働を匂わせ響きあっている。そんな働く人にお疲れ様とばかりに窓の花を添える。
 挙句。

   一構鞦つくる窓のはな
 枇杷の古葉に木芽もえたつ    史邦

 窓の外には桜だけではなく枇杷の木も若葉が芽生えている。
 枇杷の葉っぱはお灸に用いられ、労働で疲れた体に癒しを与えてくれる。「もえたつ」というのは若葉が萌えるのと、お灸の葉が燃えるのとを掛けているのか。
 そういうわけでみんなお疲れ様というところでこの一巻は満尾する。

2019年11月25日月曜日

 未だに日本と韓国は兄弟のようなものだとか双子のようなものだとか言う人がいるが、日韓同祖論がかつて韓国併合を正当化する支柱とされてきた歴史をどう見ているのだろうか。
 日本と韓国はむしろ真逆と言ってもいい。日本人は江南系の民族で、長江文明の徒でもあった。漢民族に圧迫されて四散し、東の海に逃れたものが日本人となったが、そのほかのものは雲南省からベトナム、ラオス、タイ、ビルマなどの山岳地帯の少数民族として残っている。
 これに対して韓国人は北方から来た騎馬民族の新羅人を中心として成り立っている。むしろ新羅に圧迫された百済人や高句麗人の方が日本人に近い。新羅人は日本人からすれば最も遠い。
 言語的にも、文法は確かに似ているが基幹となる語彙はまったく異なる。父さん母さんはアポジ、オモニで全然似てないし、数の数え方も、ひいふうみいよいつむとハナトルセンネータソヨソとまったく違う。日本語と韓国語が似ているように見えるのは漢語が共通しているからだ。
 まあ、同じものを学んでもしょうがない。違うものを学ぶからお互いに文化の幅が広がるのだと思う。
 西洋の人も、西洋かぶれの日本人の解説する「俳句」より、日本の論理で読む俳諧のほうが役に立つのでは。
 それでは「鳶の羽も」の巻の続き。

 二十五句目。

   隣をかりて車引こむ
 うき人を枳穀垣よりくぐらせん   芭蕉

 枳穀垣(きこくがき)はカラタチに生垣のこと。2018年7月24日の俳話でも触れているが、棘のある木は防犯効果もあるので、生垣によく用いられた。
 来て欲しくない人が通ってきたので、隣に車を止めさせて枳穀垣をくぐらせてやろうか、というものだが、それくらいしてやりたいということで実際にはしないだろうな。
 『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)に、

 「からたちの垣よりくぐらせて、からきめ見せんと女のするさま也。御車をば隣の人にたのみて引入おく意に前句をみる也。」

とある。
 二十六句目。

   うき人を枳穀垣よりくぐらせん
 いまや別の刀さしだす       去来

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)などは落人をかくまい、枳穀垣より逃がすことだとしている。
 『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)は『源平盛衰記』の、

 いそぐとて大事のかたな忘れては
     おこしものとや人の見るらん
              遊女
 かたみにもおひてこしものそのままに
     かへすのみこそさすがなりけり
              景季

の歌を引用している。
 大体そういう場面と見ていいのだろう。
 二十七句目。

   いまや別の刀さしだす
 せはしげに櫛でかしらをかきちらし 凡兆

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)などは木曾義仲の俤としている。巴御前との別れのことか。
 二十八句目

   せはしげに櫛でかしらをかきちらし
 おもひ切たる死ぐるひ見よ     史邦

 前句をあきらめたくてもあきらめきれずに狂乱状態にある女とする。
 ただ、現実には未練たらしいのは男のほうで、女の方が思い切るのが早いことが多いが。いずれにせよ苦しいものだ。

 うらやましおもひ切時猫の恋   越人

の句もある。
 二十九句目。

   おもひ切たる死ぐるひ見よ
 青天に有明月の朝ぼらけ     去来

 青天は夜明け前の濃い青の空のこと。青雲はその頃の雲で、「八九間」の巻の二十二句目のところで述べた。
 苦しい別れといえば後朝(きぬぎぬ)ということで、有明月の景を添えて場面転換を図る。
 三十句目。

   青天に有明月の朝ぼらけ
 湖水の秋の比良のはつ霜     芭蕉

 比良は琵琶湖西岸の山地で、比叡山より北になる。
 月に湖水、朝ぼらけに初霜と四つ手に付けている。そろそろ終わりも近いので、このあたりは景色の句で軽く流しておきたい所だろう。
 琵琶湖に月といえば元禄七年の「あれあれて」の巻の十二句目、

   頃日は扇子の要仕習ひし
 湖水の面月を見渡す       木白

も思い起こされる。

2019年11月24日日曜日

 今日は石黒光男さんの絵を見に谷中の寺町美術館+GALLERYに行き、そのあと移動販売の店でピザを食べ谷中ビールを飲み、上野公園を通って、上野でキムチを買って帰った。
 それでは「鳶の羽も」の巻の続き。

 二表。
 十九句目。

   ひとり直し今朝の腹だち
 いちどきに二日の物も喰て置    凡兆

 いわゆる「やけ食い」ていうやつで、食べてストレスを解消するのはよくあることだ。
 それにしても二日分はちょっと盛った感じで、まあ、そのほうが話としては面白い。
 一度に二日分の飯を喰うそいつはどんなやつだという想像力をかきたてる部分もあるが、別に正解があるわけではない。
 『猿談義』(戸田文鳴著、明和元年刊)は「任侠」だといい、『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)は「車力日雇」といい、『猿蓑四歌仙解』(鈴木荊山著、文政五年序)は「此人短慮我儘、平なる時は喰ひ、不平なれば不喰、只一家一軒の主人にほこり、常に妻奴を駆使する卑俗の人品なる」という。
 『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)は「疳積聚持、或は気ふれものなど」というし、『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)は「日雇飛脚」といい、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)は「我儘女」という。
 まあ、妄想は人の自由だが、今の俳句解説でもえてしてこうした議論に陥る傾向がある。いかにも俺は深読みが出来るんだぞとばかりに妄想を競い、これがわからないなら文学を論ずべからずみたいな話になるのは愚かなことだ。
 二十句目。

   いちどきに二日の物も喰て置
 雪けにさむき島の北風       史邦

 「雪け」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「雪模様。 「冬の夜の-の空にいでしかど影よりほかに送りやはせし/金葉 恋下」

とある。「今にも雪の降りそうな空模様」をいう。
 前句の大食いをやけ食いではなく寒さに備えてのこととする。
 二十一句目。

   雪けにさむき島の北風
 火ともしに暮れば登る峰の寺    去来

 島の山の上にあるお寺は灯台のような役割も果たしていたのだろう。寒い時でもサボるわけにはいかない。
 『猿談義』(戸田文鳴著、明和元年刊)には、

 「哦々たる岩根常に雲霧を帯び、嶺上嵐はげしければ住居すべきにもあらず。暮れば麓の坊より勤る。此灯は渡海船の日当ならん。」

とある。
 『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)にも、

 「其寒キ場ヲ付テ言外ニ渡海ノ灯籠トキカセタリ。」

とある。
 二十二句目。

   火ともしに暮れば登る峰の寺
 ほととぎす皆鳴仕舞たり      芭蕉

 ホトトギスも水無月になれば滅多に声を聞くこともなくなる。この前までけたたましく鳴いていたホトトギスも、静かになれば夜も寂しいものだ。山寺の常夜灯に火を灯す人にとっても寂しい季節になる。
 『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)には「深林幽寺趣。」とある。これに付け加えることはない。
 二十三句目。

   ほととぎす皆鳴仕舞たり
 痩骨のまだ起直る力なき      史邦

 長く病に臥せっている間に、春も過ぎ、時鳥の季節も過ぎてしまった。
 『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)に、

 「啼仕廻ウト言詞ニ月日ノ早立行ヲ歎ク意トシテ、長病ノ歎ク体ヲ言。」

とある。
 二十四句目。

   痩骨のまだ起直る力なき
 隣をかりて車引こむ        凡兆

 古注に『源氏物語』夕顔巻の俤を指摘するものが多い。
 夕顔巻の冒頭には、

 「六条わたりの御忍びありきの頃、うちよりまかで給ふなかやどりに、大弐(だいに)のめのとのいたくわづらひてあまに成りにける、とぶらはむとて、五でうなるいへたづねておはしたり。
 御車いるべき門はさしたりければ、人してこれみつ(惟光)めさせて、またせ給ひけるほど、むつかしげなるおほぢのさまをみわたし給へるに、この家のかたはらに、ひがきといふ物あらたしうして、かみははじとみ四五けん斗あげわたして、すだれなどもいとしろうすずしげなるに、をかしきひたひつきのすきかげ、あまたみえてのぞく。

 源氏の君が六条御息所の所にこっそりと通ってた頃、内裏を出て六条へ向う途中の宿にと、大弐(だいに)の乳母(めのと)がひどく体調を崩し尼になったのを見舞いに、五条へとやってきました。
 車を入れようとすると門は錠が鎖されていて、人に惟光(これみつ:乳母の息子)を呼んで来させて、来るのを待ちながらごちゃごちゃとした大通りの様子を眺めていると、乳母の家の隣に真新しい檜を編んで作った檜垣があり、その上半分は半蔀(はじとみ)という外開きの窓になっていて、それが四五軒ほど開いた状態になり、そこに掛けてある白い簾がとても涼しげで、女の可愛らしい額が透けて見えて、みんなで外を覗いているようでした。」

とある。
 ここでは結局惟光が門を開けて車を引き入れ、別に隣を借りたわけではなかった。
 それに凡兆の句では元ネタで重要な夕顔との出会いという要素を欠いているため、何となく「車」を出すことで王朝っぽい雰囲気を出すに留まる。それゆえに。これは本説ではなく俤に留まる。

2019年11月23日土曜日

 今日は雨を遁れて三保の松原、掛川花鳥園、浜松城に行った。
 三保の松原から見た朝の富士山は、昨日の雨のせいか綺麗に線を引いたように下半分が融けてパッツン髪のような富士山になっていた。
 掛川花鳥園は三年前にも行っているが、ヘビクイワシ(Secretary Bird)の蛇のおもちゃをを蹴りつけるショーが新たに加わっていた。これでもかと親の敵のように踏みつけていた。ひょっとして慎重勇者?
 浜松では一応餃子を食べた。楽しい一日だった。
 それと韓国さんお帰りなさい。てっきりあっちの世界に行っちゃったと思っていた。
 それでは「鳶の羽も」の巻の続き。

 十三句目。

   芙蓉のはなのはらはらとちる
 吸物は先出来されしすいぜんじ   芭蕉

 江戸後期の古注には水前寺海苔のことだとする説が多いが、ウィキペディアには、

 「宝暦13年(1763年)遠藤幸左衛門が筑前の領地の川(現朝倉市屋永)に生育している藻に気づき「川苔」と名付け、この頃から食用とされるようになった。1781年 - 1789年頃には、遠藤喜三衛門が乾燥して板状にする加工法を開発した。寛政5年(1792年)に商品化され、弾力があり珍味として喜ばれ「水前寺苔」、「寿泉苔」、「紫金苔」、「川茸」などの名前で、地方特産の珍味として将軍家への献上品とされていた。現在も比較的高級な日本料理の材料として使用される。」

この記述どおりだとすると、芭蕉の時代にはまだ水前寺海苔はなかったことになる。
 ただ、『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)の注に、

 苔の名の月先涼し水前寺      支考

の句が元禄十五年刊の『東西夜話』にあることを指摘している。この「苔」が海苔のことならば、このころ既に水前寺海苔があったことになる。
 コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」の水前寺海苔ところには、西鶴の元禄二年の『一目玉鉾』の「熊本の城主 細川越中守殿 名物うねもめん すいせんしのり」を引用しているから、遠藤金川堂によって商品化される前から食べられていたことは間違いないだろう。
 多分保存が利くようにして全国に普及させたのが遠藤喜三衛門であって、地元ではかなり古くから食べていたのではないかと思う。
 支考は元禄十一年に九州行脚しているから、実際に現地でたべたのだろう。西鶴の場合は『日本永代蔵』で豊後、筑前、長崎の商人の物語を書いているし、その方面の商人からいろいろな話を聞いていたと思われる。芭蕉も九州に行ってないが、水前寺海苔のことは噂には聞いていたのだろう。
 前句の芙蓉(蓮)の散るところから、お寺を連想して水前寺に結びつけたのだろう。ただ、水前寺というお寺はない。ウィキペディアによれば平安末期に焼失したという。一般に水前寺といわれるのは熊本藩細川氏の細川忠利が一六三六年(寛永十三年)頃から築いた「水前寺御茶屋」のことで、細川綱利の時に庭園として整備された。今日では水前寺成趣園と呼ばれている。
 水前寺という寺はないが、茶屋はあるから御吸物を出し、そこには水前寺海苔がもちいられ、いやあ出来(でか)した、となる。
 十四句目。

   吸物は先出来されしすいぜんじ
 三里あまりの道かかえける     去来

 「出来(でか)す」はweblio辞書の「三省堂 大辞林 第三版」に、

 「①出て来させる。作り上げる。こしらえる。また,よくない事態を招く。 「おめえが-・したことだから斯議論をつめられちやあ/西洋道中膝栗毛 魯文」 「今日中に-・す約束で誂へてござるほどに/狂言・麻生」
  ②見事に成し遂げる。うまくやる。 「是は大事の物だと思つて尻輪へひつ付けたが,-・したではないか/雑兵物語」

とある。ここでは①の意味に取り成す。
 吸い物に誘われてはみたものの、水前寺まで行かされる。それも三里の道を歩いていかなくてはならない。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、

 「隙をとりてめいわくなるの意に転ず。先の字をとがめていへり。」とある。
 『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)にも、

 「饗応却テ迷惑ノ形チヲ先ト言字ヨリ見出シテ、道カカヱケルトハ言リ。」

とある。
 十五句目。

   三里あまりの道かかえける
 この春も盧同が男居なりにて    史邦

 盧同は盧仝のことで、ウィキペディアには、

 「盧仝(ろどう、795? - 835年)は、中国・唐代末期の詩人。字は不明。号は、玉のような綺麗な川から水を汲み上げ茶を沸かすことから、玉川子(ぎょくせんし)とした。
 『七椀茶歌』「走筆、謝孟諌講寄新茶」(筆を走らせて孟諌講が新茶を寄せたるを謝す)では、政治的批判と、盧 仝の茶への好事家の一面が読み取れる。」

とある。
 「居なり」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

「① そのまま動かずに居ること。
 ②
  ㋐ 江戸時代、奉公人や遊女が年季を過ぎてもそのまま続けて奉公すること。重年ちようねん。
  ㋑ 江戸時代、役者が契約切れになっても引き続いて同じ劇場に出演すること。 〔当時は一年契約であった〕
 ③ 「居抜き」に同じ。 「この家を-に買うてくれぬか/浄瑠璃・近頃河原達引」

とある。
 ここでは特に何らかの盧仝のエピソードによる本説というわけではなく、あくまで盧仝のような茶人という意味で、それに仕える男が今年もそのまま仕えさせられて、「三里あまりの道かかえける」となる。
 十六句目。

   この春も盧同が男居なりにて
 さし木つきたる月の朧夜      凡兆

 古注には、この男が庭木を好んで挿し木をするというものが多いが、ここは比喩としておきたい。
 この男は盧仝の茶の道を受け継ぐ挿し木のようなもので、一年たってしっかりと根付いたな、と朧月の夜に喜ぶ。
 十七句目。

   さし木つきたる月の朧夜
 苔ながら花に並ぶる手水鉢     芭蕉

 苔むした手水鉢に挿しておいた木がしっかり根付く様は、桜の木にも劣らないだけの価値がある。二つ並べればさながら花に月だ。
 十八句目。

   苔ながら花に並ぶる手水鉢
 ひとり直し今朝の腹だち      去来

 花の脇にある苔むした手水鉢はなかなか風情があり、自分も花のある人を羨むのをやめて、この手水鉢のようにあるがままに生きればいいんだと納得する。

2019年11月21日木曜日

 「鳶の羽も」の巻の続き。

 初裏。
 七句目。

   人にもくれず名物の梨
 かきなぐる墨絵おかしく秋暮て 史邦

 前句の「人にもくれず」をケチなのではなく、人がよりつかないという意味に取り成したのだろう。
 一人閉じこもって墨絵を書き殴りながら暮らす隠士は、今だったら引きニートなどといわれそうだが(引きニートもネットで絵など書いて公開してたりする)、昔は世俗のかかわりを絶つのを聖なる行動と解釈していた。
 秋は暮れてゆくけど梨はくれない、というのがいちおう洒落になっている。
 八句目。

   かきなぐる墨絵おかしく秋暮て
 はきごころよきめりやすの足袋 凡兆

 メリヤスはウィキペディアに、

 「日本では編み物の伝統が弱く、17世紀後半の延宝 - 元禄年間(1673年 - 1704年)に、スペインやポルトガルなどから靴下などの形で編地がもたらされた。そこで、ポルトガル語やスペイン語で「靴下」を意味するポルトガル語の「メイアシュ」(meias)やスペイン語の「メディアス」(medias)から転訛した「メリヤス」が、編み物全般を指すようになった。「莫大小」という漢字は、伸縮性があり「大小がない」こととする説がある。主に、武士が殿中に出仕する際の足袋を作る技法として一部武士から庶民にも広まった。」

とある。
 まあ、当時の流行のネタと言えよう。墨絵をたしなむ風流人はここでは引きニートではなく立派な武士で、流行にも敏感なできる男だったのだろう。
 九句目。

   はきごころよきめりやすの足袋
 何事も無言の内はしづかなり  去来

 無言だと静かなのは当たり前のことで、要するに喋りだすとうるさくてしょうがないことを逆説的に言ったのだろう。
 うっかり足袋のことに触れたりすると、際限なく薀蓄を語られそうだ。
 十句目。

   何事も無言の内はしづかなり
 里見え初て午の貝ふく     芭蕉

 前句の「無言」を無言行を修ずる修験者に取り成す。
 『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)には、

 「前を峰入の行者など見さだめて、羊腸をたどり、人里を見おろす午時の勤行終わりしさまと見えたり。又柴灯といふ修法ありて、無言なりとぞ。午の時に行終りて下山する時、貝を吹なり。」

とある。
 無言行の時は静かだが、終ればほら貝を吹く。
 十一句目。

   里見え初て午の貝ふく
 ほつれたる去年のねござしたたるく 凡兆

 古註は寝茣蓙の持ち主が貝を吹く修験者なのか里の農民なのかで割れているようだ。
 ここは貧しい修験者として、寝茣蓙がほつれた上にじめじめしていて寝てられないので、里に出てきたのではないかと思う。
 『七部十寸鏡猿蓑解』(天堂一叟著、安政四年以前刊)の、「前を山家と見て、貧家体を付たり。寝ござのしたたるくは、やぶれて取所なきさま也。」でいいのではないかと思う。
 十二句目。

   ほつれたる去年のねござしたたるく
 芙蓉のはなのはらはらとちる    史邦

 寝茣蓙も古くなればほつれて湿気を吹くんでゆくように、芙蓉も時が経てばはらはらと散ってゆく。どちらも無常を感じさせるという所で響きで付いている。
 『七部十寸鏡猿蓑解』(天堂一叟著、安政四年以前刊)にも、「去年のねござの敗たると言るに、うるはしき芙蓉も落花するといへる観想のたぐらへ付也。此芙蓉は、蓮也と諸註に言り。いかにも、木芙蓉は、しぼみてはらはらと散姿なし。」とある。
 ここでいう芙蓉はアオイ科フヨウ属の芙蓉ではなく蓮の別名のようだ。ウィキペディアにも、

 「『芙蓉』はハスの美称でもあることから、とくに区別する際には『木芙蓉』(もくふよう)とも呼ばれる。」

とある。

2019年11月20日水曜日

 今朝は下弦の月が見えた。もうじき神無月も終わり。
 新暦十一月はまだ俳諧を読んでないので、そろそろかな。ということで、『猿蓑』の古典的名作、「鳶の羽も」の巻を読んでみようかと思う。
 『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)や『校本芭蕉全集第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)、それに『芭蕉連句古注集 猿蓑編』(雲英末雄編、一九八七、汲古書院)と参考になる本も多い。

発句。

 鳶の羽も刷ぬはつしぐれ    去来

 「刷ぬ」は「かいつくろひぬ」と読む。「も」はこの場合「力も」で、特に何かと比較してということではないと思う。『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)には「人も蓑笠に刷ふと、ひびかせたる也」とあるが、そこまで読んでも読まなくてもいい。
 時雨の後の情景で、鳶が濡れた羽を繕うというところに、安堵感のようなものを感じればそれでいいのだと思う。
 時雨というと、

 世にふるもさらに時雨の宿りかな 宗祇

の句もあり、冷たい時雨はそれを逃れた時に逆にぬくもりを感じさせる。
 興行開始の挨拶としても、「いやあ、時雨も止みましたな、それでは俳諧をはじめましょう」ということだと思う。とくに鳶の姿が見えたとか、そういうことではなかったと思う。
 脇。

   鳶の羽も刷ぬはつしぐれ
 一ふき風の木の葉しづまる   芭蕉

 発句が時雨の後の情景なので、それに答えるべく風も吹いたけど今は静まっている、と付ける。前句の安堵感に応じたもので、響き付けといえよう。『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)の「かいつくろいぬに、しづまると請たり。」でいいと思う。
 土芳の『三冊子』には、

 「木の葉の句は、ほ句の前をいふ句也。脇に一あらし落葉を乱し、納りて後の鳶のけしきと見込て、発句の前の事をいふ也。ともにけしき句也。」

とある。「ほ句の前」というのは、一ふき風の木の葉もしずまったので、鳶の羽も刷ぬという意味。
 発句と脇との会話という点では、

 「いやあ、時雨も止みましたな、鳶の羽もかいつくろってることでしょう、それでは俳諧をはじめましょう。」
 「そうですね、木の葉を一吹きしていた風もおさまったことですし。」

というところか。
 「木の葉」は今は木の葉っぱ全般を指すが、古くは落ち葉のことを言うものだった。湯山三吟の発句に、

 うす雪に木葉色こき山路哉   肖柏

の用例がある。薄雪の白とのコントラストで地面に散った落ち葉がの色が濃く見える。強いて寓意を持たすなら、それが集まった三人の歳を経て、なおも頑張って色を見せている姿に重なり合うということか。
 第三。

   一ふき風の木の葉しづまる
 股引の朝からぬるる川こえて  凡兆

 夕暮れの情景から朝に転じる。股引(ももひき)を濡らすというのは、膝くらいまでの浅い川を渡るということだろう。
 『奥の細道』の冒頭の部分に「もゝ引ひきの破れをつゞり笠の緒付かえて」とあるように、風の止んだ静かな朝早く、浅川を越える旅人と見るのがいいだろう。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「人倫に転ず。旅体なり。」とある。
 四句目。

   股引の朝からぬるる川こえて
 たぬきををどす篠張の弓    史邦

 「篠張の弓」というのは篠竹で作った簡単な弓で、多分そんな殺傷力はなくて、脅かす程度のものだったのだろう。
 狸はそんな恐い生き物ではないので、本来は熊除けで、弓を鳴らしながら歩いたのではないかと思う。
 『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)や『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)は狼を除けるものとしている。それがあまりに粗末な弓なので、狸程度しか脅せないなというところに俳諧があるといっていいのだろう。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)に「山畠かせぐ男と見なして、肩に懸たる品をいへり。」とある。前句の股引を旅人ではなく農夫と見ている。
 五句目。

   たぬきををどす篠張の弓
 まいら戸に蔦這かかる宵の月  芭蕉

 「まいら戸(ど)」は「舞良戸」と書く。コトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」には、

 「2本の縦框(たてかまち)の間に狭い間隔で横桟(よこさん)を渡し,それに板を打ちつけた引戸をいう。主として外まわり建具として用いられた。この形式の戸は平安時代の絵巻物にすでに描かれているが,当時は〈遣戸(やりど)〉と呼ばれていた。舞良戸の語源は明らかでなく,またその語が使用されるのも近世に入ってからである。寝殿造の外まわり建具は蔀戸(しとみど)が主で,出入口にのみ妻戸(つまど)(扉)が使われていた。遣戸の発生は両者より遅れ,寝殿の背面などの内向きの部分で使われはじめたがしだいに一般化し,室町時代に入ると書院造の建具として多く用いられるようになる。」

とある。書院造りは武家屋敷か立派なお寺を連想させるが、蔦這かかるとなれば、既に廃墟と化している。
 月夜に豪邸に招かれて、酒池肉林の宴をしていると、誰かが篠弓を掻き鳴らしながらやってきて、すると魔法が解けたかのように本来の廃墟に戻ってしまう。さては狸に化かされたか、そんな物語が浮かんでくる。
 『猿蓑付合考』(柳津魚潜著、寛政五年一月以降成)には、「昔は富貴也ける住、荒て狐狸の類ひも徘徊すれば、今宵はと篠竹に弓の形ヲこしらへ侍るにや。」とある。
 六句目。

   まいら戸に蔦這かかる宵の月
 人にもくれず名物の梨     去来

 古註の多くが『徒然草』の第十一段を引いている。

 「神無月のころ、栗栖野といふ所を過ぎて、ある山里に尋ね入る事侍りしに、遥かなる苔の細道を踏み分けて、心ぼそく住みなしたる庵あり。木の葉に埋もるゝ懸樋の雫ならでは、つゆおとなふものなし。閼伽棚に菊・紅葉など折り散らしたる、さすがに、住む人のあればなるべし。
 かくてもあられけるよとあはれに見るほどに、かなたの庭に、大きなる柑子の木の、枝もたわゝになりたるが、まはりをきびしく囲ひたりしこそ、少しことさめて、この木なからましかばと覚えしか。」

 山奥に住む粗末な庵にさぞや心ある人だろうとおもって庭を見ると、大きな蜜柑の木にいっぱい実がなっているのに、周りを厳重に囲って盗まれないようにしているのを見て、どこにでもいる俗人かとがっかりする話だ。
 本説で付ける場合は、元ネタと少し変えて付ける。
 ここでは、前句の「まいら戸」を凋落したお寺とし、そこに月も出ていれば、そこに住む人もどんな風流人かと思うところだが、実際には名物の梨も出してくれないケチな人でがっかりした、というところだろう。

2019年11月18日月曜日

 芭蕉脇集を元禄七年で終ろうとしたが、『校本芭蕉全集』第五巻(小宮豊隆監修、中村俊定校注)にはそのあと「年代未詳之部」があって、そこからもう一句追加しなくてはならない。

年代未詳

   風羅坊の師、旅を好本性にて、
   奥羽越後の月雪にさすらへ、
   またうごきなき石山の庵とおも
   ひしも幻住となして、都の納涼
   の風に吹れなど、流石におもひ
   定て、おもひ定めぬは風雅の情
   ならん。臍の緒に啼を憐て、玉
   玉ことしは東武にこころとどま
   りぬ。五十の波立越、老をいた
   はり、烏頭巾を送るとて、其志
   の短を継そへていふ。
   菅蓑の毛なみや氷る庵の暮   粛山
 まれに頭巾を貰ふ木兎       芭蕉

 奥の細道の旅を終えてしばらく上方に滞在した後、江戸に戻り滞在した時の冬の句だとすれば、元禄四年十一月から元禄七年五月までの間の冬、つまり元禄四年、元禄五年、元禄六年のいずれかということになる。
 「五十の波立越」とあり、五十歳の時だとすれば元禄六年ということになる。

 振売りの雁あはれなり恵比寿講   芭蕉

の句はこの年の十月で、ちょうど『炭俵』の風が固まった頃だ。
 粛山は其角門で松山藩の家老だという。其角撰『いつを昔』(元禄三年刊)に、

 亀の背に漂ふ鳰の浮巣哉      粛山
 涼しさや海すこしある戎堂     同
 左迁に鯖備へける文月哉      同

といった句がある。
 粛山の発句は、菅蓑だけでは髪の毛も凍ってしまうでしょう、この庵で年の暮れを過ごすには、というもので、それで烏頭巾を贈ったわけだ。
 烏頭巾がどのような頭巾かよくわからないが、ミミズクのように見えるとしたら角頭巾の黒いものか。
 芭蕉の脇は頭巾を貰ったこととそれを被った姿がミミズクに似ていることから、「頭巾を貰ふ木兎」となる。
 なお、其角撰『いつを昔』に、

   けうがる我が旅すがた
 木兎の独わらひや秋の暮      其角

の句がある。同じ其角の句に、

 みゝつくの頭巾は人にぬはせけり  其角(五元集)

の句もある。

2019年11月17日日曜日

 今日もいい天気だった。
 香港ではついに人民解放軍が出動し、障害物の撤去作業を行ったという。香港の自由のために国際社会は何もできず、暴力によって殺され傷つく民衆をただ見ているしかないのだろうか。
 安倍政権にもそのことを追求して欲しい所だが、野党には例の中国系議員もいることだし、桜が見にくる会の追求で忙しいようだ。
 それでは芭蕉脇集の続き。

   夕㒵や蔓に場をとる夏座敷   為有
 西日をふせぐ藪の下刈       芭蕉

 閏五月廿二日から六月十五日までの間の落柿舎滞在中の興行と思われる。
 二十四句目までは為有、芭蕉、惟然、野明の四吟で、それ以降は去来、之道、野明の三吟になっている。十七句目に花が来ていて、二十四句目が特に挙句のようになってないので、未完で終わったようだ。後日三人で継ぎ足して完成させたものであろう。
 また、これには元禄十一年刊の松星・夾始編『記念題』に、二十三句目から露川、如行、松星、夾始の四吟となっている別バージョンが存在する。二十二句目の「尻もむすばぬ恋ぞほぐるる 野明」が「尻もむすばぬ言をほぐるる 野明」になっていて、二十三句目の芭蕉の句と二十四句目の惟然の句がない。
  夕顔は蔓性で干瓢を取るために夕顔棚を作るから、藤棚同様それなりのスペースは必要になる。落柿舎に夕顔棚があったのだろう。
 発句は夕顔に場所をとられて狭いところですが、という挨拶になる。それに対し、夕顔棚は西日を防いでくれるとその徳を述べる。
 久隅守景の『夕顔棚納涼図屏風』のように、夕顔棚は貧しい家の納涼風景を連想させるものだった。

   菜種ほすむしろの端や夕涼み  曲翠
 蛍逃行あぢさゐの花        芭蕉

 六月十五日に落柿舎から膳所の義仲寺無名庵に移り、そのころの吟と思われる。曲翠は膳所藩士。
 土芳の『三冊子』に、
「此脇、発句の位を見しめて事もなく付る句也。同前栽其あたりの似合敷物を寄。」とある。
 以下、十月二十四日の俳話と重複するが、菜種は菜の花が咲いたあと二ヶ月から三ヶ月で種になり収穫し、乾燥させる。その頃には暑くなり、菜種を乾燥させている筵の隅っこに座って夕涼みすることはよくあったのだろう。
 発句の寓意を受けずにさらっと流すのは、芭蕉の晩年に時折見られる脇の付け方だったようだ。蕉風確立期なら「蛍の止まる」とでもしそうだ。意図的にその古いパターンをはずした風にも見える。

   元禄七七月廿八日夜猿雖亭
   あれあれて末は海行野分哉   猿雖
 鶴の頭を上る粟の穂        芭蕉

 前書きにある通り、七月二十八日、伊賀の猿雖亭での興行。一度半歌仙で終ろうとして、そのあと挙句を入れ替えて歌仙にしたと思われる。六吟歌仙興行だったが、主筆と思われる木白も参加して七吟になっている。
 元禄七年の七月に、伊賀の方を襲う台風があったのだろう。台風も去ってどこかの海へ出て行ったようだという発句に対し、鶴も粟畑で頭を上げていると嵐の後の平穏な風景を付ける。
 土芳の『三冊子』には、「鶴の句は、野分冷じくあれ、漸おさまりて後をいふ句なり。静なる体を脇とす。」とある。
 また芭蕉の元禄七年八月九日付向井去来宛書簡に、「鶴は常体之気しきに落可」とある。
 この場合の鶴は季節から言ってコウノトリのことであろう。特に鶴にお目出度いという寓意はなく、粟は穂を垂れ、それと対称的に鶴は頭を上げるという嵐の去った後の景色でさらっと流している。

   歌仙
   残る蚊に袷着て寄る夜寒哉   雪芝
 餌畚ながらに見するさび鮎     芭蕉

 これも「あれあれて」の巻と同じ頃の興行と思われる。前書きに「歌仙」とあるが三十句で終っている。
 すっかり夜寒になり、こうして袷を着て集まっているのは興行の時の様子であろう。寒くなったのにまだ蚊がいて、秋の蚊はしつこくて嫌ですね、といったところか。
 「餌畚」は鷹匠の持ち歩く餌袋のことだが、釣の時の餌を入れる竹籠にも使う。「さび鮎」は秋の産卵期の鮎で「落ち鮎」ともいう。この時期の鮎は友釣りもできず、餌釣りも食いが悪いという。だからこの「さび鮎」は貴重なものだともいえよう。
 「寒いのに蚊がいるところですいません」「いえ、この時期の鮎は貴重です」といったところか。

   折々や雨戸にさはる荻の声   雪芝
 放す所におらぬ松虫        芭蕉

 これも同じ頃の句。
 芭蕉の元禄七年八月九日付向井去来宛書簡にある句で、「いまかるみに移り兼、しぶしぶの俳諧、散々の句のみ出候」という時の句。
 土芳の『三冊子』に、「この脇、発句の位を思ひしめて、匂よろしく事もなく付たる句也。」とある。
 発句の雨戸に萩の枝が触れるような田舎の小さな家から、そこに住む人の位で付けたということか。松虫を捕まえたものの、可哀相になって放してあげる、そういう心やさしい住人ということなのだろう。

   松茸に交る木の葉も匂ひかな  鷗白
 栗のいがふむ谷の飛こえ      芭蕉

 これも芭蕉の伊賀滞在中で八月中旬とされている。
 発句は芭蕉の元禄四年秋の、

 松茸やしらぬ木の葉のへばりつき  芭蕉

を踏まえたものだろう。もらった松茸を見ると、何だかわからない葉っぱがへばりついていることってあるよね、といったいわゆる「あるあるネタ」の句だったが、ここでは芭蕉を松茸にたとえ、伊賀の門人の名もなき木の葉にも香りを移しているという挨拶句に作りなおす。
 これに対し芭蕉は、栗のイガを踏んだりしながら谷を飛び越えて参りました、と返す。イガはやはり「伊賀」に掛けているのか。ならば「栗のイガを踏んだりしながらも、伊賀の地を踏むために」となる。
 八月二十三日には、

 松茸や都に近き山の形(なり)   惟然

を発句とする興行もあり、九月四日には伊賀を訪れた支考と文代(斗従)を迎えての「松茸やしらぬ木の葉のへばりつき」を発句とする歌仙興行があった。さながらこの年の伊賀は松茸祭といったところか。
 なお、「しらぬ木の葉」の句を支考にくっ付いてきた文代(斗従)のことだとする解釈がネット上に流布しているのは、この句を当座の興で詠んだとの誤解によるものと思われる。

   猿蓑にもれたる霜の松露哉   沾圃
 日は寒けれど静なる岡       芭蕉

 これは九月の初め頃、前年に詠まれた沾圃の発句を元に行われた、芭蕉、支考、惟然による三吟歌仙興行の脇。この発句が『続猿蓑』のタイトルの由来ともなり、『続猿蓑』に収録されている。
 発句は、美味な食材としての松露ではなく、むしろ食材を越えた純粋な冬の景物として哀れでかつ美しく、それが『猿蓑』で詠まれなかったのは残念だ、という句だ。
 蓑笠を失った公界の猿の叫びも哀れだが、類稀なる才を持つ松露が霜に朽ちてゆくのもまた断腸の叫びを思わせる。
 これに対し芭蕉は「日は寒けれど」という気候と「静なる岡」という背景を添えるだけの謙虚なものだ。発句を引き立てようという意図で、自己主張を抑えた感じがする。ある意味これは脇句の見本と言ってもいい、芭蕉にとっての完成された脇の形ではないかと思う。

2019年11月15日金曜日

 先日の大嘗祭に二十七億円の税金が使われたことで、いろいろ言われている。まあ、これを機に皇室行事をやめろだとか、そもそも皇室なんて要らないだとか言う人にいい様に利用されたりしがちだが、ただ秋篠宮さまも懸念していたことでもあるし、もっといいやり方はないものかとは思う。
 二十七億のうち十九億七千万はこの儀式だけに使って後は使い捨ての大嘗宮の建設費・解体費だという。これはやはりもったいない。
 大嘗宮は十一月二十一日から十二月八日まで一般公開されるが、これは有料でもよかったのではなかったか。期間も西洋のクリスマス休暇の時期まで延長すれば、外人観光客も呼べたのではなかったか。解体した後の材料も、お守りやグッズにして売れるのではないか。
 大体公務員に仕事させるとどうしたって無駄が多いものだ。経済感覚がなく、見栄のために余計な金を使いがちになる。次回はイベント会社に入札させて、民間に委託した方がいいのではないか。放映権なんかも売れるのではないか。
 MOTTAINAIは今や世界の言葉。大嘗祭もったいなくも大嘗祭。
 それでは芭蕉脇集の続き。

元禄七年

   両吟
   五人ぶち取てしだるる柳かな  野坡
 日より日よりに雪解の音      芭蕉

 元禄七年春の野坡、芭蕉両吟歌仙興行の脇。野坡との両吟は「梅が香に」の巻の方が『炭俵』に採用され、「五人ぶち」の方は発句のみの入集となった。
 「五人ぶち」は扶持(ふち)という給与のことで、一人一日五合の米を一年分というのが一人扶持だった。五人扶持は家族が何とか生活していけるだけの最低賃金といったところか。
 野坡は越後屋両替店の手代だったというから、自分のことを自嘲気味に詠んだ句だったかもしれない。柳の木もほっそりしたもので、とてもじゃないが八九間とはいかなかっただろう。「しだるる」というところにも、いかにも力のなさが感じられる。
 これに対し、芭蕉は日に日に雪も解けて何よりですと、野坡のこれからの出世を暗示させる。そののち番頭にまで登りつめたともいわれている。

   水音や小鮎のいさむ二俣瀬   湖風
 柳もすさる岸の刈株        芭蕉

 これも春の興行で、六吟半歌仙になっている。
 「水音は小鮎のいさむや」の倒置で、何で勇んでいるのかというと、二俣瀬で両方からやってきた鮎が縄張り争いをするからだという落ちになる。
 鮎は縄張り意識が強く、侵入者には容赦なく体当たりを食らわす。それを利用したのが鮎の友釣りだ。実際に釣られているのは友ではなく敵なのだが。
 鮎の争いに対して芭蕉の脇は柳もすさる、今の言葉だとドン引きというところか。柳は切り株だけ残してどこかへ行ってしまった。

   ふか川にまかりて
   空豆の花さきにけり麦の縁   孤屋
 昼の水鶏のはしる溝川       芭蕉

 元禄七年の四月、芭蕉庵での四吟歌仙興行で、この巻は『炭俵』に採られている。
 以下、二〇一七年一月十八日の俳話と重複するが、ご容赦を。
 初夏は麦秋ともいわれ、麦の穂が稔り、葉は枯れ、あたかも晩秋の田んぼのようになる。ソラマメもまた春から初夏にかけて、白と濃い紫とのコントラストのある、可憐な花をつける。
 「まかりて」は田舎に下る時の言い回しであり、都に上るときには「まうでて」となる。
 この発句は都を離れて田圃を尋ねる句であり、芭蕉を陶淵明のような田園の居に隠棲する隠士に見立ての句だ。
 これに対して芭蕉は珍しいお客を迎えたことの寓意としてクイナを引き合いに出す。
 クイナは水田などに住むが、夜行性でなかなか人前に姿を表わさない。そのクイナが昼間に姿を表わしたということで、この興行の来席者の寓意としている。溝川は芭蕉庵に近い小名木川のことか。

   餞別
   新麦はわざとすすめぬ首途かな 山店
 また相蚊屋の空はるか也      芭蕉

 五月十一日には芭蕉は再び上方方面へと旅に出る。そしてこれが最後の旅になる。これはその直前の両吟歌仙興行の脇になる。これとは別に「紫陽花や藪を小庭の別座敷 芭蕉」を発句とした五吟歌仙興行も行われていて、こちらの方は二〇一七年の六月十六日から六月二十六日までの俳話を参照のこと。
 新麦はここでは大麦のことと思われる。麦飯に用いられる。そのまま焚いて食べる分には、やはり取れたてがいい。小麦は熟成を必要とする。新麦では粘りが足りない。
 発句は、ここで新麦のご飯をすすめてしまうと、もっと食べたくなって旅に出るのをやめてしまいかねないから、という意味だろう。
 脇はこれからの旅を想像してのもので、相蚊屋というのは庵に同居して芭蕉の身の回りの世話をしていた二郎兵衛少年を連れていくから、ともに同じ蚊帳の中に寝ることになるというもの。少年が出たところで余計な想像はしないように。
 なお、旅立ちの時に品川宿で詠んだ句は、

 麦の穂を力につかむ別れ哉     芭蕉

で、やはり麦が気になっていたか。

   やはらかにたけよことしの手作麦 如舟
 田植とともにたびの朝起      芭蕉

 東海道を登る途中、この年は大雨で大井川が増水し、しばらく島田宿の如舟の所に逗留する。これはその時の句。
 ここでどうやら柔らかい新麦の麦飯を食うことができたようだ。これに対し芭蕉は田植のころだからみんな早起きするので、川止めで宿にいても朝早く起されてしまう、とその時の状況を付ける。ぼやきとも取れるが、発句と合わせれば、朝早くから美味しい麦飯が食えるという意味だとわかる。

2019年11月14日木曜日

 芭蕉脇集の続き。

元禄六年

   餞別
   風流のまことを鳴やほととぎす 凉葉
 旅のわらぢに卯の花の雪      芭蕉

 元禄六年の四月、芭蕉庵での十吟歌仙興行の脇。餞別の前書きがあり、芭蕉の句も旅の句だが、誰の旅立ちなのかはよくわからない。千川の送別の歌仙は別にあるし、このときには凉葉が参加している。この歌仙が四月九日の出立の前だとしたら、このあと凉葉もどこかへ旅立ったか。許六の帰藩はもう少し後の五月になる。
 「風流のまこと」は芭蕉の教えだが、折からの時鳥の季節で時鳥の一声のように貴重な一言です、と世話になった芭蕉への挨拶になる。
 これに対し芭蕉は、旅の草鞋に雪のような卯の花を添える。特に寓意はない。

   春風や麦の中行水の音     木導
 かげろふいさむ花の糸口      芭蕉

 春風にそよぐ麦畑に水の流れる音が聞こえるという長閑な農村風景に、陽炎が奮い立ち、桜が咲くのももうすぐだと時候を添える。
 木導は許六と同様彦根の人で、『風俗文選』の作者列伝に、

 「木導者。江州亀城之武士也。直江氏。自号阿山人蕉門之英才也。師翁称奇異逸物。」

とある。「江州亀城」は近江国彦根城のこと。
 芭蕉の元禄六年五月四日付許六宛書簡に、

 「木道麦脇付申候。第三可然事無御座候間、貴様静に御案候而御書付可被成候。」

とある。木導が春に詠んだ「春風や」の発句に脇を付けたので、第三を付けるようにということだが、この第三がどうなったのかはよくわからない。このあたりのことは以前に『俳諧問答』を読んだとき(二〇一九年三月十日)に書いた。

   三吟
   帷子は日々にすさまじ鵙の声  史邦
 籾壹舛を稲のこき賃        芭蕉

 七月の史邦、芭蕉、岱水による三吟歌仙興行の脇。
 一重の帷子では日々寒くなる、そんな頃モズが鳴いている。
 これを芭蕉は稲刈りの頃とし、脱穀の作業をした人に籾一升の給与を出すとする。
 脱穀は元禄期に千歯こきが発明されたとはいえ、一般にはまだ普及してなかったのだろう。それ以前は竹製の箸のようなものを用いてたため、時間がかかった。脱穀を手伝うと脱穀したばかりの籾を一升分けてもらえたようだ。これが何割くらいなのかはよくわからない。
 芭蕉は経済ネタを得意としたが、ここでは脇に持ってきている。

   柴栞の陰士、無絃の琴を翫しを
   おもふに、菊も輪の大ならん事を
   むさぼり、造化もうばふに及ばじ。
   今その菊をまなびて、をのづから
   なるを愛すといへ共、家に菊ありて
   琴なし。かけたるにあらずやとて、
   人見竹洞老人、素琴を送られしより、
   是を朝にして、あるは聲なきに聴き、
   あるは風にしらべあはせて、
   自ほこりぬ
   漆せぬ琴や作らぬ菊の友    素堂
 葱の笛ふく秋風の薗        芭蕉

 十月九日、素堂亭で残菊の宴があり、その時の三吟三物の脇。第三は沾圃が付けている。
 無弦の琴というと陶淵明のことが浮かぶ。『荘子』斉物論でも、昭文のような後世にまで名を残すような琴の名人の演奏でも、ひとたび音を出してしまえば、演奏されなかった無数の音がそこなわれるとあり、どんな名演奏も無音にはかなわないというわけだ。ジョン=ケージの「四分三十三秒」が思い浮かぶ。
 素堂の発句もその心で、菊も大きければいいというものでもなく、琴も漆を塗らない素琴がいいという。閑花素琴という四字熟語がこの頃あったかどうかはわからないが。この場合の琴は七弦琴であろう。膝の上に乗せて演奏する。
 ただ、いかにも風流だぞといった気負いのある発句なので、芭蕉は薗では秋風が葱を吹いて、笛のような音を立てているよ、と天地自然の音楽には叶わないと返す。

   雪や散る笠の下なる頭巾迄   杉風
 刀の柄にこほる手拭        芭蕉

 冬の六吟半歌仙の脇。
 「雪や散る」は「雪の散るや」の倒置だが、静かに降り積もるのではなく風に吹雪いている状態だろう。雪は笠の下にも吹き込んできて頭巾まで雪だらけになる、という発句に、刀の柄の雪を払おうとすると手拭までが凍るとする。
 刀といっても武士とする必要はない、ここでは脇差か旅刀であろう。

2019年11月12日火曜日

 今日は満月だが寒月だとか凍月だとかいうほど寒くはない。
 昼ごろは強い風も吹いたが木枯らしのような身を切る寒さはない。やはり暖かい。
 それでは芭蕉脇集の続き。

元禄五年

   名月や篠吹雨の晴をまて    濁子
 客にまくらのたらぬ虫の音     芭蕉

 八月十五日、名月の夜、大垣藩邸勤番の門人らとの五吟歌仙興行の脇。
 発句の「篠吹」は、

 今宵誰すず吹く風を身にしめて
     吉野の嶽の月を見るらむ
          従三位頼政(新古今集)

から来ているとすれば「すずふく」で、すずたけ(篠竹)のこと。
 この発句は「名月は篠吹雨の晴をまてや」の倒置だが、頼政の歌を踏まえてるとして読むなら、篠吹く風だけでなく雨まで降っているが、晴れるのを待てば身に染みる名月を見るだろう、という意味になる。
 これに対して芭蕉は、たくさんお客さんが来て、雨が止んで名月が見られるのを待っているというのに、枕が足りませんな、と答える。

   月代を急ぐやふなり村時雨   千川
 小松のかしらならぶ冬山      芭蕉

 冬の芭蕉庵での八吟十六句興行の脇。未完なのか花の句がなかったのを、江戸後期の車蓋編『桃の白実』では丈草の十七句目の花の句と千川の挙句が付け加えられている。
 発句の「月代」はここでは「さかやき」ではなく「つきしろ」で、月の出の前に東の空が白むこと。暗くなってから月が出るので、十月の満月より後の興行か。
 時雨が晴れた時の月は感動的だが、時雨が晴れてもまだ月代だから、もっと早く登ってきてほしいものだと急かしたくなる。句では村時雨が月の出を急かしているようだとするが、急かしているのは人間の方だろう。
 芭蕉の脇はその月が登る山の景色を描く。
 ひょっとしたら誰か遅刻した人がいて、みんな待っているという寓意があったのかもしれない。

   水鳥よ汝は誰を恐るるぞ    兀峰
 白頭更に芦静也          芭蕉

 これも十月の同じ頃、江戸勤番の備前岡山藩士、兀峰(こっぽう)を芭蕉庵に迎えての四吟歌仙興行の脇。途中から里東が抜けて其角が参加しているが、同じ日なのか日を変えてなのか、事情はよくわからない。
 発句は、

 水鳥のしたやすからぬ思ひには
     あたりの水もこほらざりけり
            よみ人しらず(拾遺集)

によるものか。「やすからぬ思ひ」を誰かを恐れているとする。ここに集まっているのは風流の徒で、あんたらを射たりはしないから安心せよ、ということか。
 芭蕉の脇の「白頭更に」は杜甫の『春望』の「白頭掻けば更に短く」で、ここにいるのは年寄りだから水鳥も安心して、芦も静かだとなる。

   深川の草庵をとぶらひて
   寒菊の隣もありやいけ大根   許六
 冬さし籠る北窓の煤        芭蕉

 これも同じ十月頃で許六、芭蕉、嵐蘭が一句づつ詠み、第三で終っている。
 土芳の『三冊子』には、

 「此脇、同じ家の事を直に付たる也。内と外の様子也。煤の字有て句とす。」

とある。
 許六の「寒菊の」の句は『俳諧問答』にも登場し、

 「翁の論じて云ク、世間俳諧するもの、此場所ニ到て案ずるものなしと称し給ふ。」

とある。
 いけ大根は土に埋めて保存する大根で、寒菊の隣には大根も埋まっている。冬の花の孤独に咲く姿は寓意もあり、春を待つ冬大根もその寓意に寄り添う。
 これに対しての芭蕉の脇は、寒菊といけ大根の外の景色に対し、さし籠る部屋の北窓には火を焚いた煤がこびりついてゆく、と受ける。「さし籠る」は「鎖し籠る」で引き籠るに同じ。
 「煤の字有て句とす」というのは、ここに春までの時間の経過が感じられ、いけ大根の春を待つ情に応じているからだろう。
 寓意を弱くして、発句の情を受けながらも、前と後、内と外と景を違えて付けるのが、芭蕉の晩年の脇の風だったのだろう。

2019年11月11日月曜日

 西洋以外で、文化も伝統も大きく異なるにもかかわらず、日本はいち早く近代化に成功し、民主主義も根付くことができた
 しかもキリスト教のような一神教の文化を取り入れるでもなく、多神教の風土のまま近代化できたというのは、やはり奇跡なのかもしれない。
 かつての新興国も、中国を筆頭にロシア、トルコ、韓国といった国が時代に逆行するようなことをする中、日本が違っていたのは、かつて和、漢、印度の文化を並存させてきたその延長で西洋の文化もうまく並存させることができたからかもしれない。
 これは多言語環境に育った人が新しい外国語を容易に付け加えることができるのに似ているかもしれない。多文化環境を作るというのが、これからの世界の一つの課題になるだろう。
 多文化を並存させるには、矛盾を気にしないということが大事だ。人間は矛盾した生き物で、人生に矛盾は付き物と、それくらいに考え、あまり統一ということにこだわらない方がいい。
 混沌は万物の母。混沌を恐れるな。
 それでは芭蕉脇集の続き。

元禄四年

   芽出しより二葉に茂る柿ノ実  史邦
 畠の塵にかかる卯の花       芭蕉

 『嵯峨日記』の中に見られる句。
 四月二十五日、落柿舎にやってきた史邦が披露した発句に、翌二十六日、この句に芭蕉が脇を付け、去来が第三、丈草が四句目、乙州が五句目を付けている。
 発句の「柿ノ実」は「かきのさね」と読む。果実の中心にある枝のことで、やがて果実が実るであろう新芽の枝と思われる。
 柿の芽は対生で分厚く幅の広い葉が二枚向かい合って生え、その付け根の所に蕾ができ、やがて花が咲き、実となる。落柿舎だけにちゃんと実って欲しいものだ。
 これに対し、芭蕉の脇は「卯の花の塵の畠にかかる」の複雑な倒置で、柿の若葉の緑に卯の花の白を添える。

   蠅ならぶはや初秋の日数かな  去来
 葛も裏ふくかたびらの皺      芭蕉

 七月中旬、京での五吟歌仙興行。メンバーは去来、芭蕉、路通、丈草、惟然。「牛部屋に」の巻と同じ頃のもの。ここでも路通は芭蕉の次に来ていて、去来とは当たらないようにしている。
 夏の五月蝿い蠅も初秋も何日か過ぎるとおとなしく並んで留まっている。別に蠅が誰というわけではないし、特に寓意はない。
 芭蕉の脇は、葛の葉が秋風に裏返るように、帷子にも皺が寄ると付ける。初秋から秋風を連想するが、風と言わずして風を表現している。

   芭蕉翁行脚の時、予が草戸を扣き
   て、作りなす庭に時雨を吟じ、洗
   ひ揚たる冬葱の寒さを見侍る折か
   らに
   木嵐に手をあてて見む一重壁  規外
 四日五日の時雨霜月        芭蕉

 元禄四年九月二十八日、芭蕉は長い上方滞在を終え、再び江戸に向べく木曽塚無名庵を出る。そして十月三日前後、美濃垂井の規外亭に滞在する。その時の句。
 発句の「木嵐」は「こがらし」と読む。薄い壁に手を当てれば、木枯らしに揺れているのが分かる、そんな粗末な家ですという謙虚な句に、芭蕉は特に寓意を返さずに、四日五日時雨が続きましたね、と単なる気候の挨拶にする。

   奥庭もなくて冬木の梢かな   露川
 小春に首の動くみのむし      芭蕉

 十月には名古屋の露川と対面し、露川は入門する。
 土芳の『三冊子』に、

 「この脇、あたたかなる日のみの虫なり。あるじの貌に客悦のいろを見せたるはたらきを付たる句也。」

とあるように、葉が落ちた木の向こうには透けて見える結構な庭があるわけでもない、と小さな庭を謙遜して詠んだ発句に対し、小春の暖かな日差しに蓑虫も思わず首を出して、冬木の景色を見回しているよ、と応じる。
 芭蕉が自分自身を蓑虫に喩え、「客」である芭蕉が「悦のいろを見せ」ている。初対面の挨拶ではこうした寓意のやり取りも生きている。

2019年11月10日日曜日

 今日は青梅に行った。Zepp Tokyoのある青海ではなく、猫町の青梅を見に行った。
 「にゃにゃまがり」という猫の飾りつけのなされた狭い路地やレトロな昔の映画看板、それを猫にしたパロディ看板などが町のあちこちにあり、赤塚不二夫会館、昭和レトロ商品博物館、昭和幻燈館があった。
 住吉神社には猫の夷さんと大黒さんがあった。

 昨日書いた神は量子だというのは、あながち冗談ではないかもしれない。
 ある主張が真実であると同時に偽りであるというのは、価値観の多様性を認めるうえでは欠かせないことだからだ。
 人間の思想である以上、完全なものはないし、人それぞれ異なる資質を以て生まれ、異なる体験をしながら育ち、その中で概念を獲得し思想を形成するのだから、一人一人違ってて当然だし、哲学者の数だけ哲学があるのは厳然たる事実だ。
 すべての思想は正しいと同時に間違っているという重ね合わせの状態にある。
 日本語は大和言葉と漢語と主に西洋の外来語との重ね合わせの上にあり、それぞれを平仮名、漢字、片仮名で区別して表記する。その漢字も、中国由来のものは漢音、印度の仏教由来のものは呉音(稀に唐音)で更に区別してきた。こうして、複数の文化体系を常に頭の中で重ね合わせながら、それぞれの体系を並列処理しながら、最適解を見出してきた。
 料理にしても、日本では和洋中華エスニックという複数の料理体系のなかから、そのつど食べたいものを選択する。
 陰陽不測はそれが重ね合わせ状態にあるため、決定不能である所によるのではないかと思う。
 我々は日々相矛盾する複数の思想体系の中で生きている。それを認め、重ね合わせ、同時に並列処理しながら、日々最適解を求め、意思決定をしている。我々の脳もまた一種の量子コンピュータなのではないかと思う。
 西洋にもアンチノミーという考え方がある。人間の理性は必ず矛盾した二つの主張を可能にするという考え方があり、それが古代ギリシャの民主主義や裁判の基礎となっていた。
 ただ、ソクラテスは古代ギリシャの多神教的世界観を否定して一神教に傾き(その罪で死刑になった)、プラトンのイデアリズムからキリスト教の受容により民主主義は否定され、王権神授の独裁国家になっていった。
 近代に入って民主主義が復活したのは、「万人の万人に対する戦い」という多元主義を容認したことによる。ただ、西洋の民主主義は異なる複数の思想を並列的に思考するのではなく、異なる単一価値観を信じるもの同士の、暴力的な力学的均衡によってのみ成り立つ危うさを残している。
 天皇制は何人たりとも実力で王や最高指導者になることを拒否するもので、すべてにおける最高決定は「公議」つまり臣民による並列処理によって行われる。その決定は陰陽不測であり、真実であるとともに偽りでもある。この曖昧さが対立と分断を防いでいる。分断はまつろわぬ者によって引き起こされている。
 日本のこのシステムは科学的にも先鋭的なシステムではないかと思う。

 君が代は千代に八千代にさざれ石の
     いわおとなりて苔のむすまで

 それは陰陽不測、決定できないもの、複数の思考の重ね合わせ状態を「君」として、永遠に存続させることをことほぐものではないかと思う。

 まあ、長くなってしまったので、今日は芭蕉脇集のほうは一休み。

2019年11月9日土曜日

 今日は神無月の十三夜で、アーモンドのような月が見える。家の前には狸が来ていた。証城寺ではないが、浮かれ出てきたのか。
 神様はみんな出雲に行ってしまって留守だけど、神社は七五三で賑わい、新天皇は大嘗祭の儀式を行う。新暦になってから日本の神様は重ね合わせの状態になってしまっている。十月十三日で出雲にいるのと同時に、十一月九日として各神社にいる。神は量子だったか。
 冗談はそれくらいにして、芭蕉脇集の続き。

元禄三年

   いろいろの名もむつかしや春の草 珍碩
 うたれて蝶の夢はさめぬる     芭蕉

 元禄三年刊の『ひさご』の所収の歌仙で、芭蕉は脇のみの参加。
 土芳の『三冊子』には、

   いろいろの名もまぎらはし春の草
 うたれて蝶の目をさましぬる

の形で、「此脇は、まぎらはしといふ心の匂に、しきりに蝶のちり乱るる様思ひ入て、けしきを付たる句也。」とある。
 以下、十月二十五日の俳話と同じになるが‥‥。
 発句の名前のよくわからない春の草(今なら名もなき雑草というところだろう)に対し、まず「うたれて」と来るわけだが、これは「畑打つ」のことだろうか。
 「うたれて蝶の目をさましぬる」だと、雑草が掘り起こされて、底に止まって休んでいた蝶は夢から醒めて飛び立つわけで、土芳が言うように「しきりに蝶のちり乱るる様思ひ入て、けしきを付たる句」になる。
 ただ、蝶の目を覚ますという所に『荘子』の胡蝶の夢の連想が働くと、これは蝶が飛び立つと同時に、自分自身もはっと打たれたように夢から醒めて元の自分に戻ることになる。「うたれて蝶の夢はさめぬる」の形だと、よりその寓意がはっきりする。
 寓意を表に出すのか裏に隠すのか、これは『去来抄』の「大切の柳」にも通じることなのかもしれない。裏に隠すのが正解なら、元禄版の『ひさご』の方が初案で、享保版『ひさご』や『三冊子』の方が改案だったのかもしれない。

   市中は物のにほひや夏の月   凡兆
 あつしあつしと門々の声      芭蕉

 元禄三年六月、京都の凡兆宅での去来を加えた三吟歌仙興行の脇。元禄四年刊の『猿蓑』に収録されることになる。
 これも土芳の『三冊子』に、「此脇、匂ひや夏の月、と有を見込て、極暑を顕して見込の心を照す。」とある。
 以下、十月二十五日の俳話と重複するが、市中の物の匂いも暑さもあまり有難いものではない。市場の匂いにも夏の月があればと見込む発句に対し、芭蕉も極暑のなかで夏の月があればと見込む、というのが土芳の解釈だ。
 ただ、芭蕉はこの頃から脇を形式ばった挨拶にする事に疑問を感じていたのだろう。それは後の「蛍迯行」と同じで、それまでの脇句の常識だと、夏の月が出たのだから、それに対し「涼しい」と付けて主人を持ち上げるものだったところを、あえて「いやー、それにしても暑い」と本音で返す所に新味があったのではないかと思う。
 ただ、この「あつしあつし」も発句の「物の匂いや」に同意しているわけだから、失礼にはならない。同意しながらともに「夏の月」の有難さがあればと見込む意味では、土芳の解釈も当を得ている。

   灰汁桶の雫やみけりきりぎりす 凡兆
 あぶらかすりて宵寝する秋     芭蕉

 元禄三年八月下旬、膳所での興行か。凡兆、芭蕉、野水、去来の四吟歌仙で、元禄四年刊の『猿蓑』に収録される。

 灰汁(あく)は染色の際の媒染液で、椿や榊を燃やした灰を水で溶いた上澄を用いる。染料につけた布を灰汁に浸して干した時、雫しずくが灰汁桶にぽとぽと垂れ、その雫の音も止むころには日も暮れ、コオロギの声が聞こえてくる。「きりぎりす」はかつてはコオロギのことだった。
 この発句に対し、芭蕉は「あぶらかすりて」、つまり行灯の油も底を尽きたということで、仕方ない、まだ宵の口だがもう寝るか、と付ける。
 発句が興行開始の頃の状況を詠んだだけの句で、特に寓意もないし、芭蕉の脇も興行の開始とは関係なく宵寝してしまっている。
 景を添えるという連歌の時代の脇の原点に返ったような句で、これ以降こういう脇が多くなる。

   鳶の羽も刷ぬはつしぐれ    去来
 一ふき風の木の葉しづまる     芭蕉

 「刷ぬ」は「かひつくろひぬ」と読む。元禄三年十一月、京都での芭蕉、去来、凡兆、史邦による四吟歌仙で、これも『猿蓑』に収められることになる。
 鳶が時雨に濡れた羽をつくろっているという発句は、当座の興ではなく、それに風が一吹きした後木の葉も静かになる景を付ける。いずれも寓意は感じられない。時雨の後の羽繕いに風の後の静まる木の葉と響きで付けている。

2019年11月7日木曜日

 日本の現代美術も衰退が著しいせいか、最近ではほとんど炎上商法に成り下がっている。確かに右翼が騒げばマスコミも取り上げ、話題になるには違いない。ただ、結局今の日本の現代美術はその程度のものかということにもなりかねない。程々にしておいたほうが良いと思う。
 風刺ネタはあくまで人を嘲笑する勝ち誇った笑いで、あるあるネタのような共感でもって人と人とを繋ぐ笑いとは質を異にする。
 あと、あいちトリカエナハーレ、パヨクの猿真似じゃないか。芭蕉は「像(かたち)花にあらざる時は夷狄にひとし。」と言ったが、あれのどこに花があるのかな。
 まあ、それはともかく芭蕉脇集、元禄二年の続き。

   翁を一夜とどめて
   寝る迄の名残也けり秋の蚊帳  小春
 あたら月夜の庇さし切       芭蕉

 『奥の細道』の旅で七月十六日から二十四日まで金沢の宮竹や喜左衛門方で過ごす。『校本芭蕉全集』第四巻(宮本三郎校注、1964、角川書店)の注によると、喜左衛門は旅宿業で小春はその子だという。
 「一夜とどめて」とあるから、七月十七日の吟か。曾良の『旅日記』よると、この日芭蕉は源意庵へ遊び、曾良は病気で留守番だったようだ。このときの病気が八月五日の山中温泉での別れにつながるのか。
 発句は前日の夜を思い出しての句であろう。蚊帳を吊った中で芭蕉、曾良、北枝らと遅くまで話し込んで、遅くなってから寝たのだろう。その寝るまでの楽しかったことを思い出して、秋の蚊帳がその名残を留めている。
 これに対して芭蕉は月夜なのに庇を閉ざしてしまったのが悔やまれる、とする。事実をそのまま付けたのであろう。
 このあと、曾良が第三を詠み、北枝が四句目を詠んでいる。

   ばせを、いせの国におもむけるを
   舟にて送り、長嶋といふ江によせ
   て立わかれし時、荻ふして見送り
   遠き別哉 木因。同時船中の興に
   秋の暮行さきざきの苫屋哉   木因
 萩に寝ようか荻にねようか     芭蕉

 八月二十一日、芭蕉は途中で迎えにきた路通とともに大垣に着き、九月四日には病気で先に帰った曾良とも合流することになる。
 そして九月六日には伊勢へと向う船に乗る。これはその時の船の中での吟。
 この句は土芳の『三冊子』にも、「此脇、発句の心の末を直に付たる句なり。」とある。
 行く先々に萩や荻が付き、苫屋に寝るが付く。萩と荻は字が似ていて紛らわしいし、苫屋に泊るというところには謡曲『松風』の在原行平の俤も感じられる。

   草箒かばかり老の家の雪    智月
 火桶をつつむ墨染のきぬ      芭蕉

 『奥の細道』の旅も伊勢で終わり、芭蕉は一度故郷の伊賀に戻る。このときあの「初しぐれ猿も小蓑をほしげなり 芭蕉」の句が生まれる。そしてそのあと芭蕉は奈良から京都へ行き、十二月には大津の智月宅を訪ねる。
 そこでまず芭蕉の方から、

 少将のあまの咄や志賀の雪     芭蕉

と挨拶する。少将の尼は藻壁門院少将(そうへきもんいんのしょうしょう)のことで、藤原信実の娘。鎌倉時代の人。

   関白左大臣家百首歌よみ侍りけるに
 おのがねにつらき別れはありとだに
     思ひもしらで鳥や鳴くらむ
               藻壁門院少将(新勅撰集)

の歌が代表作といえよう。この歌を以てして「おのがねの少将」と呼ばれている。芭蕉も智月に「おのがねの少将」のような恋物語を期待したのだろうか。智月は、

   少将のあまの咄や志賀の雪
 あなたは真砂爰はこがらし     智月

と返す。
 真砂というと、

 君が代の年の数をば白妙の
     浜の真砂と誰かしきけむ
              紀貫之(新古今集)

の賀歌のように、砂の数を歳の数に喩え、長寿をことほぐのに用いられる。芭蕉は寛永二十一年(一六四四)生まれで、智月は寛永十年(一六三三)頃の生まれとされている。年齢からすると智月の方が一回り以上上になる。
 智月の脇はその年齢差のことをネタにして、あなたはまだこれから長生きするでしょう。でも私は木枯らしで先がない。まあ、少将の尼に喩えてくれるのは嬉しいけど歳が違いすぎますよ、という返しだったのだろう。
 もっとも、芭蕉はこの五年後に亡くなるのに対し、智月の方は 享保三年(一七一八年)、八十五歳まで長生きしている。
 このあと、智月は、

 草箒かばかり老の家の雪      智月

と発句を詠む。草箒しかないような殺風景な雪の積もる家です。という謙虚な句に対し、芭蕉は、

   草箒かばかり老の家の雪
 火桶をつつむ墨染のきぬ      芭蕉

 いえ、その墨染めの衣は火桶を隠し持ってますね。暖かいですね。ここで芭蕉はこの火桶の火に恋の炎を期待していたのかもしれない。まあ、あくまで想像だが。
 これは筆者が芭蕉はホモではなく、熟女趣味だったと思う根拠の一つでもある。

2019年11月6日水曜日

 ようやく晴天が続くようになった。それとともに気温も下がってきた。
 今日の月は半月よりわずかに膨らんでいる。
 それでは芭蕉脇集。

元禄二年

   松島行脚の餞別
   月花を両の袂の色香哉     露沾
 蛙のからに身を入る声       芭蕉

 前に『笈の小文』の旅のときにも餞別をくれた露沾だが、『奥の細道』の旅のときにも餞別句を詠んでいる。
 『奥の細道』に「むつまじきかぎりは宵よりつどひて、船に乗て送る。」とあるから、旅立ちの前の晩の杉風採茶庵での吟かもしれない。
 芭蕉庵から採茶庵に移る時に「表八句を庵の柱に懸置」とあるから、このとき集まったのは芭蕉を入れて八人だったか。
 「色香」は今日では女の色っぽい様子をいうが、ここでは文字通り色と香りの意味であろう。ただ、「月花を両の袂」とは言っても、松島の月を見るのは一つの目的だし、やがて名月の季節も来るのは分かる。だが花(桜)の方は旅立ちのときにはもう散っていたし、来年の花ということもないだろう。それでも、月花を両方持っているかのような芭蕉さんの旅姿です、と褒めはやす。
 これに対して芭蕉の脇だが、実は知らなかったが蛙も脱皮をするという。ただ、その皮は薄くてすぐに食べてしまうらしい。
 まあ、月花を袂になんて、そんなカッコいいものではなく、蛙の抜け殻をかぶっているだけです、と答える。蛙は古今集仮名序の、

 「はなになくうぐひす、みづにすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるものいづれかうたをよまざりける。」

から歌詠みの象徴ともされ、

 手をついて歌申しあぐる蛙かな   宗鑑

と俳諧の祖も詠んでいる。その後は俳諧師も歌詠みの一種として蛙に象徴的に表わされるようになった。
 延宝四年の句に、

   此梅に牛も初音と鳴つべし
 ましてや蛙人間の作        信章

とあるのも、蛙を俳諧師の象徴として用いている。
 古池の句を記念して作られた『蛙合』も芭蕉の門人達がそれぞれ蛙を詠むことで、大勢の蛙(俳諧師)の集まりをアピールするものとなっている。
 だから、自分を蛙に喩えることは、謙虚なようでいて俳諧師としての誇りを感じさせる。ただ、「蛙のから」としたところは、後の元禄六年の歳旦、

 年々や猿に着せたる猿の面     芭蕉

に通じるものがある。

   この日や田植の日也と、めなれぬ
   ことぶきなど有て、まうけせられ
   けるに、
   旅衣早苗に包食乞ん      曾良
 いたかの鞁あやめ折すな      芭蕉

 これは『奥の細道』の旅の途中、四月二十四日、須賀川での吟。「包食乞ん」は「つつむめしこわん」と読む。
 昔の田植えはお祭で、彭城百川の『田植図』を見ればわかるように、烏帽子をかぶった神主のような人が幣をもって踊り、横では鼓もあれば笛もある。そんな日だから、旅人にもご馳走をふるまったりしたのだろう。
 曾良の発句は、旅人だから旅に持ってゆけるように飯を包んでくれというもので、芭蕉は乞食僧の鞁(鼓)を打って廻るのはいいが、アヤメを折るなよ、と返す。
 「いたか」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 「 (「板書(いたか)き」の意か) 乞食坊主の一種。供養のために、板の卒塔婆(そとば)に経文、戒名などを書いて川に流したり、経を読んだりして銭をもらって歩くもの。また、堕落した僧侶を卑しめてもいう。」

とある。また、『校本芭蕉全集』第四巻(宮本三郎校注、1964、角川書店)の注には、

 「『いたか』は大黒・夷などの神像を祭り、太神楽などをし祝言を述べて歩く一種の乞食芸人。」

とある。
 前の越人との両吟がそうだったが、親しい間柄では形式ばった挨拶のやり取りではなく、こうしたちょっと砕けた調子で脇を付けることもある。

   おきふしの麻にあらはす小家かな 清風
 狗ほえかかるゆふだちの蓑     芭蕉

 『奥の細道』の旅で尾花沢の清風のもとを訪ねたときの句。五月十七日から二十七日まで滞在するが、その間の興行した歌仙が二巻残されている。これはその一つ。
 発句は麻畑の麻が揺れ動くと、その合い間に小家が見えるというもので、寓意は感じられない。麻は高さが2.5メートルにもなる。人の視点の高さからすれば家くらい隠れてしまう。
 これに対し芭蕉も、その小家の情景を軽く付けているのみで、これも寓意は感じられない。

   新庄
   御尋に我宿せばし破れ蚊や   風流
 はじめてかほる風の薫物      芭蕉

 『奥の細道』の旅の途中、六月二日、新庄での七吟歌仙興行の発句と脇。
 風流は尾花沢での「おきふしの」の巻ではない方の「すずしさを我やどにしてねまる也 芭蕉」を発句とする歌仙に参加している。
 風流の発句は、せっかく来ていただいたのに、部屋はこのとおり狭く、蚊帳も破れてしまっている、と謙虚な挨拶になっている。
 これに対して芭蕉は、破れた蚊帳の中に吹いて来る外の風が、風薫る季節と相成って、薫物のようです、と答える。

   羽黒より被贈
   忘るなよ虹に蝉鳴山の雪    會覚
 杉の茂りをかへり三ヶ月      芭蕉

 六月の中旬から下旬、酒田での吟。以前にこの俳話で、曾良の『旅日記』に、

 「十八日 快晴。早朝、橋迄行、鳥海山ノ晴嵐ヲ見ル。飯終テ立。アイ風吹テ山海快。暮ニ及テ、酒田ニ着。」

とある、この時の吟ではないかという推測を述べたことがあった。
 会覚の発句は曾良の『旅日記』の、

 「十三日 川船ニテ坂田ニ趣。船ノ上七里也。陸五里成ト。出船ノ砌、羽黒ヨリ飛脚、旅行ノ帳面被調、被遣。又、ゆかた二ツ被贈。亦、発句共も被為見。」

の時の発句と思われる。虹に蝉鳴く月山の雪を忘れないでくれ、というもの。
 これに対し芭蕉は、かえり見ると三日月を掛けて、あの杉の山の上に見た三日月のことは今でも忘れませんと答える。

2019年11月5日火曜日

 そういえば一昨日相馬中村神社に寄ったら、神使の馬がいなくなっていて、厩舎も荒れ果てていた。何があったのだろうか。
 まあ、それはともかく、芭蕉脇集の続き。

貞享五年

   かへし
   時雨てや花迄残るひの木笠   園女
 宿なき蝶をとむる若草       芭蕉

 貞享五年二月、芭蕉が『笈の小文』の旅で伊勢滞在中、園女のもとに招かれたときの句。

   園女亭
 暖簾の奥もの深し北の梅      芭蕉
   松散りなして二月の頃     園女

に対する返しとして園女が発句を詠み、芭蕉が脇を付けている。
 「時雨てや」はやはり旅立ちの頃の「旅人と我名よばれん初しぐれ 芭蕉」の句を踏まえたもので、いくたび時雨にあっても檜笠は朽ちることなく、花の季節でもそのままだ、という意味になる。これに対し芭蕉の脇は、時雨や笠の興には付けずに、時分を宿なき蝶に喩え、園女を若草に喩える。

   ところどころ見めぐりて、洛に
   暫く旅ねせしほど、みのの国より
   たびたび消息有て、桑門己百のぬ
   しみちしるべせむとて、とぶらひ
   来侍りて、
   しるべして見せばやみのの田植歌 己百
 笠あらためむ不破のさみだれ    芭蕉

 芭蕉が『笈の小文』の旅を終え、京に行った時の句。己百は岐阜の妙照寺の住職。土芳の『三冊子』には、「此脇、名所を以て付たる句也。心は不破を越る風流を句としたる也。」とある。
 「美濃の田植歌へとご案内しましょうか」という発句に対し、「それじゃあ不破の関の五月雨に備えて笠を新しくしましょう」と答える。
 実際に芭蕉はこのあと岐阜へ行き「十八楼ノ記」を書き記している。

   どこまでも武蔵野の月影涼し  寸木
 水相にたり三またの夏       芭蕉

 六月十七日、岐阜の長良川にも近い三ツ又で名古屋の荷兮、越人なども交え、六吟表六句を巻く。
 発句は江戸で成功を収めた芭蕉を武蔵野の月に喩え、どこまでも涼しいと称える。
 これに対し芭蕉はこの三ツ又の地が深川に似ている、と答える。

   茄子絵
   見せばやな茄子をちぎる軒の畑 惟然
 その葉をかさねおらむ夕顔     芭蕉

 同じく六月、惟然が芭蕉の元を訪れ、入門する。
 茄子の絵を見ての吟だったか。即興で農家の身に成り代わって詠んだのだろう。
 これに芭蕉は、うらぶれた軒端の風景から『源氏物語』の夕顔の家を思い浮かべたか。茄子の大きな葉を重ねて扇を作り、その上に夕顔を折ってのせてみよう、と返す。

   雁がねも静にきけばからびずや 越人
 酒しゐならふこの比の月      芭蕉

 芭蕉は岐阜から越人を連れて『更科紀行』の旅に出、そのまま八月下旬に江戸に戻る。そして九月中旬に越人と両吟歌仙を巻く。これはその時の句。
 「からびる」には萎れる、古びて落ち着いた感じになる、声がしゃがれるといった意味がある。どれでも当てはまりそうだ。
 雁の声も静かに聴けば、萎れることもなく声も澄んで、古びて落ち着いた感じになる(この場合だけ反語になる)。
 これに対し芭蕉は、酒を勧められることにも慣れたな、と返す。両吟で、長くともに旅をした間柄だからだろう。無理にお世辞で返すのではなく、自然体で返す。

2019年11月4日月曜日

 昨日は南相馬から飯舘村を通って霊山に行った。今年は紅葉が遅いが、それでも流石にここまで来れば多少は色づいていた。去年は妙義山だったが、今年は随分北まで来た。
 飯舘の雪っ娘かぼちゃはほくほくして美味しかった。
 それでは芭蕉脇集、貞享四年の続き。

   しろがねに蛤をめせ夜の鐘   松江
 一羽別るる千どり一群       芭蕉

 発句の松江についてはよくわからない。
 十吟一巡の興行で、ともに鹿島詣でをした曾良が第三を詠んでいる。
 銀をはたいてでも桑名の蛤は食った方が良いということか。もちろんその銀は松江さんからの餞別であろう。
 それに対し芭蕉は千鳥の群から一羽だけ別れて旅立つという比喩で返す。

   時雨時雨に鎰かり置ん草の庵  挙白
 火燵の柴に侘を次人        芭蕉

 これも挙白からの餞別句に芭蕉が脇を付けて返したもの。このあと溪石、コ齋、其角、嵐雪、トチらが句を連ね、十句興行にする。
 これから時雨の季節になるけど、芭蕉庵の鍵を預り守っていきたい、という発句に、私の代わりに火燵(炬燵)の火に柴をくべて、侘びて過ごしてくれるのでしょうか。と返す。
 挙白は後の元禄二年に『奥の細道』の旅に出る芭蕉に、

 武隈の松みせもうせ遅桜      挙白

の句を餞別に送っている。挙白は東北の出身の商人で、一度は名取川の橋杭にするために切られてしまった武隈の松が復元されているのを知っていて、あれを見せてあげたい、と詠んでいる。

   はせをの翁を知足亭に訪ひ侍りて
   めづらしや落葉のころの翁草  如風
 衛士の薪を手折冬梅        芭蕉

 『笈の小文』の旅に出た芭蕉が、十一月四日には尾張鳴海の知足亭に到着し、翌日には七吟歌仙興行が行われ、如風も出席している。その如風の如意寺如風亭での七吟歌仙興行の時の句。
 発句は、芭蕉が翁と呼ばれているところから、この落ち葉の季節に翁草とは珍しい、とする。
 翁草は通常はキンポウゲ科の多年草のことで、春に花をつけるが、松や菊の別名でもある。長寿を象徴する植物なら翁に喩えられることもあったのだろう。
 芭蕉はこの季節はずれの翁草を梅のこととする。風流に縁のなさそうな衛士が梅を折ったので珍しいと思ったら、薪にしただけだった。
 翁草なんてものではありません。狂い咲きの梅の花です、と謙虚のようでいて、風流でないものには価値のわからないという寓意で、自分の価値を主張している。

   芭蕉翁もと見給ひし野仁を訪らひ、
   三川の国にうつります。所ハ伊羅古
   崎白波のよする渚ちかく、ころは
   古枯の風頭巾を取る。旅のあハれ
   を帰るさに聞て
   やき飯や伊羅古の雪にくづれけん 寂照
 砂寒かりし我足の跡        芭蕉

 芭蕉が『笈の小文』の旅で、伊良胡から鳴海にもどり、十一月十六日に知足亭で越人も交えて表六句が巻かれる。
 焼き飯は今日のチャーハンではなく、焼きおにぎりに近い携帯食で、それを持って伊良胡を旅してが、寒さに形も崩れてしまったでしょう、という発句に、冷たい砂の上に足跡を残してきました、と返す。

   荷兮子翁を問来て
   幾落葉それほど袖も綻びず   荷兮
 旅寝の霜を見するあかがり     芭蕉

 十一月十八日。名古屋から荷兮・野水が知足亭にやってくる。芭蕉、寂照を交えた四句が残っている。
 『野ざらし紀行』の旅で『冬の日』をともに巻いた頃から、幾たびも落ち葉が落ちましたが、袖は綻びていません、要するに俳諧のほうは劣化してません、という発句に芭蕉は、そうですか、こちらは霜の中を旅してあかぎれがひどいのですが、と答える。

   同じ月末の五日の日名古や荷兮宅
   へ行たまひぬ。同二十六日岐阜の
   落梧といへる者、我宿をまねかん
   事を願ひて
   凩のさむさかさねよ稲葉山   落梧
 よき家続く雪の見どころ      はせを

 『笈の小文』の旅で十一月二十六日、岐阜の落梧と蕉笠が荷兮方へやってきて、荷兮、野水、越人などを含めた八吟歌仙興行が行われる。
 稲葉山は今の岐阜の金華山のことで、ここにあった稲葉山城は齋藤道三や織田信長がいたことでも有名だが、慶長六年(一六〇一)廃城になる。
 城は今の岐阜市南部の加納に移転し、加納藩になる。この頃は松平光永の時代だった。
 そういうわけで稲葉山は木枯らしが吹くだけの何もない山だった。ただ、岐阜は松平家によってよく治まっていて、芭蕉も「よき家続く雪の見どころ」と岐阜の地を称える。

   芭蕉老人京までのぼらんとして
   熱田にしばしとどまり侍るを訪
   ひて、我名よばれんといひけん
   旅人の句をきき、歌仙一折
   旅人と我見はやさん笠の雪   如行子
 盃寒く諷ひさふらへ        はせを

 十二月一日、熱田桐葉亭へ戻り、大垣の如行と三吟半歌仙が巻かれる。
 芭蕉が旅立つ時の、

 旅人と我名よばれん初しぐれ    芭蕉

の句を聞いた如行が、芭蕉に「旅人」と見はやさん、と詠む。その笠の雪を見れば、どう見ても旅人でしょう、というわけだ。本当に芭蕉のことを「旅人」と呼んだのかな。
 これに対し芭蕉は、謡曲『猩々』の謡のイメージだったのか、実際には寒いけど、

 シテ「吹けども吹けども」
 地 「更に身には寒むからじ」
 シテ「理りやしら菊の」
 地 「理りやしら菊の 着せ綿を温めて酒をいざや酌もうよ」

とばかりに謡おうではないか、と返す。

2019年10月31日木曜日

 芭蕉脇集。
 貞享四年の句は多い。今日はまだその一部。
 旅に出るといろいろな出会いがあるため、脇を詠む機会も増えるのだろう。

貞享四年
   南窓一片春と云題に
   久かたやこなれこなれと初雲雀 去来
 旅なる友をさそひ越す春      芭蕉

 去来は貞享三年の『蛙合』にも参加しているが、ここでは歌仙興行の発句を務めることになる。其角、嵐雪という江戸の蕉門の主要メンバーを交えてのことで、さぞかし緊張の一句だったのではないかと思う。
 「南窓一片春」の句の出典はよくわからない。「南窓」は陶淵明『帰去来辞』の「倚南窗以寄傲、審容膝之易安」によるものか。去来の名前も「帰-去来」だし。隠士の窓に小さな春が、ということか。
 「久方や」は枕詞だが、九天の彼方からというような意味合いがあるし、九天の方が久方になったという説もある。ここでは「空高く」というような意味。
 「こなれ」は今では「こなれ感」とかいって「こなれた」「習熟した」という意味で用いられる。ファッションでは着慣れないものを着ているような違和感がない、というような感覚で用いられる。
 「なれ」は本来は輪郭を失うことで、そこで隔たりがなくなることをいう。
 ただ、ここでの「こなれ」は違うように思える。これは「こ・成れ」で、「このようになれ」という意味ではないかと思う。天高く空を飛ぶ雲雀が「来てみろよ」と誘っているのではないかと思う。
 だから芭蕉の脇も「旅なる友をさそひ」となる。
 前句の天高く飛ぶ雲雀は言わずと知れた芭蕉の比喩だが、芭蕉は逆にして旅で江戸に来ている去来を雲雀とし、この私を旅に誘っている、と受ける。

   旅泊に年を越てよしのの花にこころせん事を申す
   時は秋吉野をこめし旅のつと  露沾
 雁をともねに雲風の月       芭蕉

 前書きの「旅泊に年を越てよしのの花にこころせん事」は『笈の小文』の旅を指す。春に去来に誘われたせいか、芭蕉も再び関西方面を旅し、吉野の桜を見ようと思い立つ。
 発句はまだ旅立ちではないけど、ちょっと早い餞別句になっている。「旅のつと」の中には露沾の用意したものも多々あった。『笈の小文』の本分に、

 「時は冬よしのをこめん旅のつと

此の句は露沾公より下し給はらせ侍りけるを、はなむけの初として、旧友、親疎、門人等、あるは詩歌文章をもて訪ひ、或は草鞋の料を包みて志を見す。かの三月の糧を集るに力を入れず、紙布・綿小などいふもの、帽子・したうづやうのもの、心々に送りつどひて、霜雪の寒苦をいとふに心なし。あるは小船をうかべ、別墅にまうけし草庵に酒肴携へ来りて、行衛を祝し、名残をおしみなどするこそ、故ある人の首途するにも似たりと、いと物めかしく覚えられけれ。」

とある。「別墅にまうけし草庵に酒肴携へ来りて、行衛を祝し」がこの歌仙の興行になる。
 この発句に芭蕉は、「雁をともねに雲風の月」と自分の旅に思いをめぐらすに留める。

   江戸桜心かよはんいくしぐれ  濁子
 薩埵の霜にかへりみる月      芭蕉

 これも『笈の小文』の濁子からの餞別句で、半歌仙の興行が行われている。
 これから何度に時雨に打たれても、吉野の桜は江戸の桜にも通うんだという発句に、きっと薩埵峠を越えるときには江戸の方を振り返って月を見ると思うよ、と答える。
 薩埵峠で振り返れば、もちろん月だけでなく富士山の姿を間近に見ることができる。

2019年10月30日水曜日

 豚コレラが日本でもじわじわと入ってきている。
 中国では一億頭以上の豚が死んだともいわれている。イスラム教徒は正しかったのかもしれない。
 二〇三〇年にはひょっとしたらオリンピックと豚肉は消えているのかもしれない。これも世の移ろいか。
 それはともかく芭蕉脇集の続き。貞享三年の脇は少ない。ただ、そこには単なる寓意を込めた挨拶のやり取りから抜け出そうという意欲が感じられる。

貞享三年
   深川は菫さく野も野分哉    風瀑
 はるのはたけに鴻のあしあと    芭蕉

 貞享三年春、深川芭蕉庵での芭蕉、風瀑、一晶、琴蔵、虚洞による五吟一巡(五句のみ)興行の脇。
 発句の「野分」は本当に強い風が吹いていたのか、それとも、

 芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな  芭蕉

を基にして、世に吹き荒れる芭蕉旋風を野分に喩えたか。
 「ばしょうのわき」を変換しようとしたら「芭蕉の脇」になったが、それも掛けているのかもしれない。
 芭蕉の脇は菫咲く野を春のまで作物を植えてない畑とし、そこにはコウノトリの足跡が付いている。コウノトリと鶴はしばしば混同されていて、ここでは風瀑をコウノトリに喩えたか。
 風瀑は伊勢の人で『野ざらし紀行』の旅で伊勢を訪れた時に、「松葉屋風瀑が伊勢に有けるを尋ね音信て、十日計足をとどむ。」とあるようにお世話になっている。
 その時の芭蕉の伊勢参宮は野分のさ中だったのか、

 みそか月なし千とせの杉を抱あらし 芭蕉

と詠んでいる。その時の思い出もあってのやり取りであろう。芭蕉は嵐を呼ぶ男なのか。

   夕照
   蜻蛉の壁を抱ゆる西日かな   沾荷
 潮落かかる芦の穂のうへ      芭蕉

 貞享三年秋に興行されたと思われる、芭蕉、露沾、沾荷、嵐雪による四吟三歌仙の脇。
 発句の「蜻蛉」はここでは「とんぼう」と読む。蜻蛉にとんぼ、あきつ、かげろうの三つの読み方がある事は、古文の受験勉強の時に習った。
 発句は、

 真萩散る庭の秋風身にしみて
     夕日の影ぞかべに消え行く
              永福門院(風雅集)

を本歌としたものか。壁は比喩で、一面の草原を壁に見立てている。
 沾荷の発句はトンボがその草原を抱え込むかのようにトンボが留まっているとする。夕照の美しい景色に、トンボの足の仕草がよく捉えられているが、本歌が今となっては忘れ去られてしまったため、意味のとりにくい発句となってしまったのが残念だ。
 芭蕉はその壁を葦原とし、海辺の風景とする。これはトンボ=秋津から秋津島=豊葦原の瑞穂の国を連想したか。深川芭蕉庵での興行であれば、海も近い。

2019年10月28日月曜日

 いつの間にか季節は変り冬になっていた。今日は旧暦十月一日。まだ気温は二十度を越えているが。
 オリンピックのマラソンがいきなりIOCの決定で札幌に変更とかいっているが、こういうのを開催地に無断で決めていいことなのか、いろいろ問題は残るだろう。
 アスリートの健康の問題は確かにわかる。夏の甲子園だって、あんな炎天下でやる必要があるかどうかは疑問だ。ただ、時期の変更ならわかるが、場所を変更するとなると、今後暑い地域でのスポーツの大会が困難になるのではないか。カタールもオリンピックを招致しようとしているが、カタールには札幌のような場所はない。今後オリンピックは涼しい限られた国だけで行われるようになるのか。
 今やフランスだって四十五度の猛暑で、ヨーロッパ全体が暑くなっている。他のスポーツにも影響を与えれば、スポーツのできる国が限られてしまうのではないか。
 一九六四年の東京オリンピックは十月にやったのに、何で今回は夏になってしまったのか、そのことも最初から引っかかっていた。
 それでは芭蕉脇集。

貞享二年
   われもさびよ梅よりおくの藪椿 雅良
 ちやの湯に残る雪のひよ鳥     芭蕉

 『野ざらし紀行』の旅の途中、伊賀で年を越し二月まで滞在した時の句。
 藪椿は自生する椿のこと。梅の華やかさに較べて、濃緑の葉の中に埋もれるように咲く椿は地味だ。私もこんな風に静かに暮らしたいという発句に、静かに茶の湯を立てながら、灰色の地味なヒヨドリを雪の上に見る、と返す。
 「われもさびよ」に同意し、寂びた景色を添える。季語は「残る雪」で春になる。ヒヨドリだけだと秋。
 椿は茶の湯の席で茶花として用いられることが多く、茶の木自体もツバキ科ツバキ属で椿の仲間でもある。椿に近いものでサザンカがあるが山の茶花と書く。椿は茶の湯に縁がある。

   我桜鮎サク枇杷の広葉哉    秋風
 筧に動く山藤の花         桃青

 同じく『野ざらし紀行』の旅の途中、京の三井秋風の別墅、花林園を尋ねた時の句。
 発句の意味はわかりにくいが、桜はまだ咲いてないが、枇杷の広葉のような鮎の開きの一夜干を桜に見立てて、今日の宴を始めましょうということか。
 それに対し、芭蕉は泉の水を引いてきた筧(懸樋)に山藤の花も咲いてます、と返す。
 秋風は風流人だが金持ちで、料理にはこだわりがあったのだろう。そこに山藤の花もきれいですよと、やや諌めた感じがする。

   梅絶て日永し桜今三日     湖春
 東の窓の蚕桑につく        桃青

 これも三井秋風の花林園での句か。
 梅の花は終わり桜にはまだあと三日くらい先か、という発句に春蚕の飼育も始まっていると付ける。

   つくづくと榎の花の袖にちる  桐葉
 独り茶をつむ藪の一家       芭蕉

 三月下旬、熱田での七吟歌仙興行の発句と脇。
 榎の花も地味な花で、こういう花はやはり茶花に用いるのだろう。藪椿の句と同様、茶を付ける。

   夏草よ吾妻路まとへ五三日   若照
 かさもてはやす宿の卯の雪     芭蕉

 鳴海の知足亭での句。
 江戸に帰ろうとする芭蕉に、夏草よ、吾妻路に絡まって足止めしてくれという発句に対し、卯の花が雪のようで、笠(旅に欠かせない)が必要ですね、と答える。

   涼しさの凝くだくるか水車   清風
 青鷺草を見越す朝月        芭蕉

 六月二日。『野ざらし紀行』の旅から戻り、少ししてからの小石川での興行。出羽尾花沢の清風を迎え、其角、嵐雪、才丸、素堂、コ齋などが揃い、百韻を巻く。清風は『奥の細道』の旅のときに尋ねてゆくが、忙しくてなかなか会ってもらえなかった。
 水車が涼しさを細かく砕いて撒いてくれてるようだ、という清風の発句に、青鷺が草越しに朝の月を見ていると水辺の景を添える。

2019年10月27日日曜日

 今日は芝離宮や浜離宮のあたりを散歩した。
 それでは芭蕉脇集の続き。

貞享元年
   何となく柴ふく風もあはれなり 杉風
 あめのはれまを牛捨にゆく     芭蕉

 芭蕉の『野ざらし紀行』の旅立ちの際の杉風の餞別句に付けたもの。無季の発句に対し、無季で付けている。
 発句の「柴ふく風」は秋風を連想させるものの、言葉には表れていない。芭蕉の脇の「牛捨にゆく」も何を意味するのかよくわからない。寓意に囚われずに、「あはれ」から連想するものを付けたか。

   芭蕉野分其句に草鞋かへよかし 李下
 月ともみぢを酒の乞食       芭蕉

 同じく『野ざらし紀行』の旅立ちの際の李下の餞別句に答えたもの。
 「芭蕉野分」は延宝九年の秋に詠んだ、

   茅舎ノ感
 芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉

を指すものと思われる。このときの茅舎は李下が贈った芭蕉一株を新しい庵に植えたことで芭蕉庵と呼ばれるようになり、それが桃青から芭蕉へと名前を変えることになった。桃青という俳号はそのまま残したものの、句に署名する時には「芭蕉」を用いるようになった。
 天和三年の九月に第二次芭蕉庵が完成したが、一年も立たずに旅立つ芭蕉に、あの茅舎を草鞋に変えてしまうのですね。それもまたいいでしょう。そうしなさい、という句に、芭蕉は「月ともみぢを酒の乞食」だからそれがふさわしい、と返す。

   い勢やまだにていも洗ふと云句を和す
   宿まいらせむさいぎゃうならば秋暮 雷枝
 はせをとこたふ風の破がさ     芭蕉

 『野ざらし紀行』の旅の途中、伊勢の西行谷で、

 芋洗ふ女西行ならば歌よまむ    芭蕉

と詠む。桶に芋(里芋)を入れて、それに棒を差して洗っている田舎の長い髪を結わずに後ろに垂らした古風な女性は、芭蕉の好みなのだろう。母親の俤があるのかもしれない。
 その句を知った雷枝(もちろん男性)は芭蕉が宿を訪ねてきたときに、西行さんですか、と問うと、芭蕉は「いいえ、芭蕉です」と答える。

   花の咲みながら草の翁かな   勝延
 秋にしほるる蝶のくづをれ     芭蕉

 発句の「みながら」は「身ながら」で、「花の咲く身」とはいっても桜ではなく草の花の咲く翁でしょうか、と疑いつつ治定する「かな」を用いる。草の花は花野の花で秋になる。
 これに対し芭蕉は「草の翁」なんてそんな立派なもんではない、秋に萎れて老いぼれてゆく蝶のようなものです、と返す。

   師の桜むかし拾はん落葉哉   嗒山
 薄を霜の髭四十一         芭蕉

 『野ざらし紀行』の旅で大垣の木因の元を尋ね、芭蕉、木因、嗒山、如行の四人で四吟歌仙を興行した時の句。
 天和の頃芭蕉さん、あなたの教えを受けたことがありますが、その時の芭蕉さんがくれた桜(教えられたことの比喩)も今は落葉になってしまってます、と謙虚な発句に対し、芭蕉も、私も霜の降りた薄のような無精ひげを生やした四十一歳になる男です、と答える。
 昔は四十で初老と呼ばれていたし、四十前後での隠居も普通だった。それにもまして芭蕉は実年齢以上に老けて見えたという。

   霜の宿の旅寝に蚊帳をきせ申  如行
 古人かやうの夜のこがらし     芭蕉

 これも大垣滞在中の句。
 蚊帳は夏の蚊を防ぐだけでなく、細かい網目は風を通さないから防寒具としても役に立つ。こうした生活の知恵に、古人もこうして夜を暖かく過ごしたのだろうかと感慨を述べる。

   能程に積かはれよみのの雪   木因
 冬のつれとて風も跡から      芭蕉

 同じく大垣滞在中の句。

 旅に支障のない程度に程よく積もってくれという木因の発句に、私が冬の風を連れてきてしまったかな、と返す。

   田家眺望
   霜月や鸛の彳々ならびゐて   荷兮
 冬の朝日のあはれなりけり     芭蕉

 『野ざらし紀行』の旅で、十一月に名古屋で興行した時の句。芭蕉、野水、荷兮、重五、杜国、正平、野水に途中から羽笠も加わって巻いた五歌仙と表六句は、『冬の日』(荷兮編貞享元年刊)として刊行された。
 これはその五番目の歌仙の句。「て」留めのこれまでの常識を破るような発句に対し、脇も体言止めではなく「けり」で応じる。
 霜月の鸛に朝日の哀れを添える。軽く流したようでいながら、興行の場所を褒め称える寓意を含んでいる。
 発句と脇を合わせると、

 霜月や鸛の彳々ならびゐて
     冬の朝日のあはれなりけり

と和歌のように綺麗につながる。

   檜笠雪をいのちの舎リ哉    桐葉
 稿一つかね足つつみ行       芭蕉

 『野ざらし紀行』の旅で、十二月に熱田で桐葉からの送別句に答える。
 発句は、檜笠(ひのきがさ)に雪の積もるのを見て、この笠が命を守ってくれると詠む。芭蕉が延宝四年に詠んだ、

 命なりわづかの笠の下涼み     桃青

の句を髣髴させる。
 これに対し芭蕉は、藁一束(わらひとつかね)で足を包みながら行きますと返す。命を守るものは笠だけではない。

2019年10月26日土曜日

 芭蕉の発句集は多いけど、脇を集めた脇集というのは聞いたことがない。ならば作ってみようか。
 句は『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)よる。

  芭蕉脇集

延宝四年
   梅の風俳諧国にさかむなり   信章
 こちとうづれも此時の春      桃青

 『桃青三百韻附両吟二百韻』の二百韻の二番目の巻の脇。信章は後の素堂。「こちとうづれも」は「こちとの連れも」の音便化したもの。
 「梅の花」に「春」という単純な付け合いに、俳諧が国に盛んだからこち(芭蕉)と連れ(素堂)もと付ける。談林流の速吟に向いた付け方だ。

   時節嘸伊賀の山ごえ華の雪   杉風
 身は爰元に霞武蔵野        桃青

 杉浦正一郎氏蔵の芭蕉俳諧真蹟懐紙による。『花供養』(天命七年・蘭更編)にもあるという。
 芭蕉が伊賀に旅立つ際の送別の興行であろう。伊賀の山を越える頃には雪でしょうな、という送別の発句に対し、我が身はいつまでもこの霞む武蔵野にあります、と答える。

延宝六年
   物の名も蛸や故郷のいかのぼり 信徳
 あふのく空は百余里の春      桃青

 『桃青三百韻附両吟二百韻』の三百韻のほうにある。信徳の発句は、

   草の名も所によりてかはるなり
 難波の葦は伊勢の浜荻       救済

の句を本歌とし、難波の「いかのぼり」は江戸の「たこ」だとする。信徳は京の人。
 「あふのく」は仰向けになるという意味だが、ここでは仰向けになって見る空は、ということ。江戸から京までは四百キロ以上あるので、京の空は百余里の彼方になる。
 発句の「いかのぼり」に放り込みのように「春」を付けている。

   寶いくつあつらへの夢あけの春
 蓑笠小槌あら玉の空        桃青

 歳旦吟で、発句の作者はわからない。
 正月の宝船には七福神とともにいくつもの宝が乗せられている。脇ではその宝の内容として、打出の小槌や玉とともに、昔は晴れ着の意味もあった蓑笠を加える。後の、

 降らずとも竹植うる日や蓑と笠   芭蕉

は蓑笠が晴れ着であることを示している。

延宝九年
   余興
   附贅一ツ爰に置けり曰ク露   揚水
 無-用の枝を立し犬蘭        桃青

 『俳諧次韻』の巻末の余興の四句の脇。
 発句は『荘子』外編の駢拇篇の、

 「駢拇枝指、出乎性哉、而侈於德。附贅縣疣、出乎形哉、而侈於性。多方乎仁義而用之者、列於五藏哉、而非道德之正也。」

 儒家の言う仁義などは指が生まれつきくっついていたり、生まれながらにイボがあったりするようなもので、余計なものだというわけだ。
 まあ、仁義礼智は本来誰しも生まれ以て身についている孟子の言葉でいえば「四端の心」から生じたものだが、それを概念にして論じようとすると、人それぞれの経験の差異から微妙に意味内容がずれて、結局は議論がかみ合わずに争いになったりする。
 俳諧の句というのもその意味では本来の情を正確に伝えるわけではなく、余計なものといえば余計なものだ。その余計なものを「露」という、と卑下してるのか美化しているのか微妙な言い回しをする。
 芭蕉の脇はそれを受けて、本来枝のない蘭に枝をつけて、これは「犬蘭」とでもいうべきか、と応じる。
 連歌の『菟玖波集』『新撰菟玖波集』に対して、俳諧の祖宗鑑が『新撰犬筑波集』を編纂したところから、「犬」は俳諧のシンボルでもある。卑下しているようでも俳諧への誇りを表わしている。

   市中より東叡山の麓に家を写せし比
   鮭の時宿は豆腐の雨夜哉    信章
 茶にたばこにも蘭のうつり香    桃青

 『下郷家遺片』に記された付け合い。
 東叡山は上野の寛永寺のこと。weblio辞書の「美術人名辞典」に、「北村季吟・松尾芭蕉と親交を深め、のちに上野不忍池畔で隠棲生活に入る。」とある。
 鮭の時分だが豆腐しかないというのは、仏道に精進しているということか。それに対し芭蕉は「茶や煙草にも高貴な蘭の香りがします、豆腐でもかまいませんよ」と返す。

天和二年
   酒債尋常住処有
   人生七十古来稀
   詩あきんど年を貪ル酒債哉   其角
 冬-湖日暮て駕馬鯉         芭蕉

 これは『虚栗』(天和三年、其角編)の其角・芭蕉の両吟歌仙。
 前書きと発句は杜甫の「曲江詩」

   曲江      杜甫
 朝囘日日典春衣 毎日江頭盡醉歸
 酒債尋常行處有 人生七十古來稀
 穿花蛺蝶深深見 點水蜻蜓款款飛
 傳語風光共流轉 暫時相賞莫相違

 朝廷を追われ春の着物を質屋に入れて送る日々
 毎日曲江の畔で酔っぱらって帰るだけだ
 行くところはどこも酒の付けがあって当たり前
 どうせ人生七十過ぎてまで生きることは稀だ
 花の間を舞うアゲハはこそこそしてるし
 水を求めるトンボはわが道を行くかのようだ
 伝えて言う、この眺望よ共に流れてゆく定めなら
 しばらくは違いに目をつぶりお互いを認め合えや

による。
 どうせいつかは死ぬんだから借金など気にせずに酒でも飲んで仲良くやろうじゃないか、とばかり「詩あきんど」つまり詩で生計を立てる者はうだうだ酒飲んでは時間を浪費し、付けが溜まってゆく。
 これに対し芭蕉は、発句の詩あきんども曲江の湖の畔で釣りをしてすごせば、やがて鯉を馬に乗せて帰ると和す。
 鯉は龍になるとも言われる目出度い魚で、これを売って一年の酒債を返しなさいということか。
 まあ其角さんのことだから、結局最後は鯉屋の旦那(杉風)が何とかしてくれるという楽屋落ちの意味があったのだろう。

2019年10月25日金曜日

 今日も『三冊子』の続き。芭蕉の脇について。

  「市中は物の匂ひや夏の月
  あつしあつしと門々の聲
 此脇、匂ひや夏の月、と有を見込て、極暑を顕して見込の心を照す。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.125)

 これは『猿蓑』の歌仙の脇だ。元禄三年六月、凡兆宅での興行になる。発句は凡兆で、それに芭蕉が脇を付ける。
 市中の物の匂いも暑さもあまり有難いものではない。市場の匂いにも夏の月があればと見込む発句に対し、芭蕉も極暑のなかで夏の月があればと見込む、というのが土芳の解釈だ。
 ただ、芭蕉はこの頃から脇を形式ばった挨拶にする事に疑問を感じていたのだろう。それは後の「蛍迯行」と同じで、それまでの脇句の常識だと、夏の月が出たのだから、それに対し「涼しい」と付けて主人を持ち上げるものだったところを、あえて「いやー、それにしても暑い」と本音で返す所に新味があったのではないかと思う。
 ただ、この「あつしあつし」も発句の「物の匂いや」に同意しているわけだから、失礼にはならない。同意しながらともに「夏の月」の有難さがあればと見込む意味では、土芳の解釈も当を得ている。

  「いろいろの名もまぎらはし春の草
  うたれて蝶の目をさましぬる
 此脇は、まぎらはしといふ心の匂に、しきりに蝶のちり乱るる様思ひ入て、けしきを付たる句也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.125)

 これは『ひさご』の歌仙で、芭蕉は脇のみの参加。前半は珍碩(後の洒堂)と路通の両吟、後半は荷兮と越人の両吟になる。元禄三年の興行で「市中は」の巻の三ヶ月前になる。発句は珍碩。
 元禄三年刊の『ひさご』では、

  いろいろの名もむつかしや春の草 珍碩
   うたれて蝶の夢はさめぬる   芭蕉

になっているが、享保二十年刊の別版『ひさご』には、土芳が引用した形で収められている。土芳の言う方が初案と言われている。
 発句の名前のよくわからない春の草(今なら名もなき雑草というところだろう)に対し、まず「うたれて」と来るわけだが、これは「畑打つ」のことだろうか。
 「うたれて蝶の目をさましぬる」だと、雑草が掘り起こされて、底に止まって休んでいた蝶は夢から醒めて飛び立つわけで、土芳が言うように「しきりに蝶のちり乱るる様思ひ入て、けしきを付たる句」になる。
 ただ、蝶の目を覚ますという所に『荘子』の胡蝶の夢の連想が働くと、これは蝶が飛び立つと同時に、自分自身もはっと打たれたように夢から醒めて元の自分に戻ることになる。「うたれて蝶の夢はさめぬる」の形だと、よりその寓意がはっきりする。
 寓意を表に出すのか裏に隠すのか、これは『去来抄』の「大切の柳」にも通じることなのかもしれない。裏に隠すのが正解なら、元禄版の『ひさご』の方が初案で、享保版『ひさご』や『三冊子』の方が改案だったのかもしれない。
 なお、この歌仙の十八句目が、

   しほのさす縁の下迄和日なり
 生鯛あがる浦の春哉      珍碩

の句が挙句っぽいので、最初半歌仙を巻いて、荷兮と越人が後から付け足したか。

  「折々や雨戸にさはる萩の聲
  はなす所におらぬ松むし
 この脇、発句の位を思ひしめて、匂よろしく事もなく付たる句也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.125)

 この句は『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)では元禄七年の夏で、

  折々や雨戸にさはる萩の聲
   放す所におらぬ松蟲

とある。元禄七年八月九日附の去来宛書簡に記されている。「あれあれて」の巻の時に引用した「しぶしぶの俳諧」の書簡だ。発句は雪芝だという。
 発句の雨戸に萩の枝が触れるような田舎の小さな家から、そこに住む人の位で付けたということか。松虫を捕まえたものの、可哀相になって放してあげる、そういう心やさしい住人ということなのだろう。

   あれあれて末は海行野分哉
 靍の頭を上る粟の穂       芭蕉

の脇も、鶴をお目出度いものという寓意で用いずに、あえて「常体の気色」で用いるところなど、やはり晩年の脇の体といえよう。
 芭蕉の脇に言及した部分はこれで終わりになり、ここから先は普通の付け句になる。

2019年10月24日木曜日

 今年は台風の当たり年で、また台風が近づいている。直撃はなさそうだが、今夜も雨が降っている。
 さて、先日の『三冊子』の続きで、芭蕉の脇の付け方を土芳を通して見てみよう。

  「菜種干ス莚の端や夕涼み
  蛍迯行あぢさいのはな
 此脇、発句の位を見しめて事もなく付る句也。同前栽其あたりの似合敷物を寄。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.124)

 この句は『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)では元禄七年の夏の所にある。

  菜種ほすむしろの端や夕涼み 曲翠
   蛍迯行あぢさゐの花    翁

とある。
 「迯」は「逃」と同じ。
 菜種は菜の花が咲いたあと二ヶ月から三ヶ月で種になり収穫し、乾燥させる。その頃には暑くなり、菜種を乾燥させている筵の隅っこに座って夕涼みすることはよくあったのだろう。
 発句の寓意を受けずにさらっと流すのは、芭蕉の晩年の脇の付け方だったのだろう。蕉風確立期なら「蛍の止まる」とでもしそうだ。意図的にその古いパターンをはずした風にも見える。

  「霜寒き旅寝に蚊帳を着せ申
  古人かやうの夜の木がらし
 此脇、凩のさびしき夜、古へかやうの夜あるべしといふ句也。付心はその旅寝心高く見て、心を以て付たる句也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.124)

 この句は『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)では、『稿本野晒紀行』の、

  霜の宿の旅寝に蚊帳をきせ申 如行
   古人かやうの夜のこがらし  蕉

の形で収められている。貞享元年の『野ざらし紀行』の旅の途中での吟だったが、二年後の貞享三年に刊行された『春の日』では発句のみ、

 霜寒き旅寝に蚊屋を着せ申   如行

と上五を直した形で掲載されている。
 「蚊帳 暖かい」で検索してみたが、案外蚊帳は暖かいという。確かに蚊が通れないような細かい網だから、風も通さないのだろう。
 如行の句は昔の人の知恵だったのだろう。今は新聞紙を防寒着に使うというのがよく言われているが、それに近いものか。
 これに対し芭蕉は古人に思いを馳せて感慨を表わす。この古人を引き合いに出すあたりに蕉風確立期の古典回帰があらわれている。

  「おくそこもなくて冬木の梢哉
  小春に首の動くみのむし
 この脇、あたたかなる日のみの虫なり。あるじの貌に客悦のいろを見せたるはたらきを付たる句也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.124~125)

 この句は『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)では、

  奥庭もなくて冬木の梢かな  露川
   小春に首の動くみのむし  翁

となっている。元禄四年の句。
 葉が落ちた木の向こうには透けて見える結構な庭があるわけでもない、と小さな庭を謙遜して詠んだ発句に対し、蓑虫も喜んで首を出しているよと答える。芭蕉が自分自身を蓑虫に喩え、「客」である芭蕉が「悦のいろを見せ」ている。