今日は芝離宮や浜離宮のあたりを散歩した。
それでは芭蕉脇集の続き。
貞享元年
何となく柴ふく風もあはれなり 杉風
あめのはれまを牛捨にゆく 芭蕉
芭蕉の『野ざらし紀行』の旅立ちの際の杉風の餞別句に付けたもの。無季の発句に対し、無季で付けている。
発句の「柴ふく風」は秋風を連想させるものの、言葉には表れていない。芭蕉の脇の「牛捨にゆく」も何を意味するのかよくわからない。寓意に囚われずに、「あはれ」から連想するものを付けたか。
芭蕉野分其句に草鞋かへよかし 李下
月ともみぢを酒の乞食 芭蕉
同じく『野ざらし紀行』の旅立ちの際の李下の餞別句に答えたもの。
「芭蕉野分」は延宝九年の秋に詠んだ、
茅舎ノ感
芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉
を指すものと思われる。このときの茅舎は李下が贈った芭蕉一株を新しい庵に植えたことで芭蕉庵と呼ばれるようになり、それが桃青から芭蕉へと名前を変えることになった。桃青という俳号はそのまま残したものの、句に署名する時には「芭蕉」を用いるようになった。
天和三年の九月に第二次芭蕉庵が完成したが、一年も立たずに旅立つ芭蕉に、あの茅舎を草鞋に変えてしまうのですね。それもまたいいでしょう。そうしなさい、という句に、芭蕉は「月ともみぢを酒の乞食」だからそれがふさわしい、と返す。
い勢やまだにていも洗ふと云句を和す
宿まいらせむさいぎゃうならば秋暮 雷枝
はせをとこたふ風の破がさ 芭蕉
『野ざらし紀行』の旅の途中、伊勢の西行谷で、
芋洗ふ女西行ならば歌よまむ 芭蕉
と詠む。桶に芋(里芋)を入れて、それに棒を差して洗っている田舎の長い髪を結わずに後ろに垂らした古風な女性は、芭蕉の好みなのだろう。母親の俤があるのかもしれない。
その句を知った雷枝(もちろん男性)は芭蕉が宿を訪ねてきたときに、西行さんですか、と問うと、芭蕉は「いいえ、芭蕉です」と答える。
花の咲みながら草の翁かな 勝延
秋にしほるる蝶のくづをれ 芭蕉
発句の「みながら」は「身ながら」で、「花の咲く身」とはいっても桜ではなく草の花の咲く翁でしょうか、と疑いつつ治定する「かな」を用いる。草の花は花野の花で秋になる。
これに対し芭蕉は「草の翁」なんてそんな立派なもんではない、秋に萎れて老いぼれてゆく蝶のようなものです、と返す。
師の桜むかし拾はん落葉哉 嗒山
薄を霜の髭四十一 芭蕉
『野ざらし紀行』の旅で大垣の木因の元を尋ね、芭蕉、木因、嗒山、如行の四人で四吟歌仙を興行した時の句。
天和の頃芭蕉さん、あなたの教えを受けたことがありますが、その時の芭蕉さんがくれた桜(教えられたことの比喩)も今は落葉になってしまってます、と謙虚な発句に対し、芭蕉も、私も霜の降りた薄のような無精ひげを生やした四十一歳になる男です、と答える。
昔は四十で初老と呼ばれていたし、四十前後での隠居も普通だった。それにもまして芭蕉は実年齢以上に老けて見えたという。
霜の宿の旅寝に蚊帳をきせ申 如行
古人かやうの夜のこがらし 芭蕉
これも大垣滞在中の句。
蚊帳は夏の蚊を防ぐだけでなく、細かい網目は風を通さないから防寒具としても役に立つ。こうした生活の知恵に、古人もこうして夜を暖かく過ごしたのだろうかと感慨を述べる。
能程に積かはれよみのの雪 木因
冬のつれとて風も跡から 芭蕉
同じく大垣滞在中の句。
旅に支障のない程度に程よく積もってくれという木因の発句に、私が冬の風を連れてきてしまったかな、と返す。
田家眺望
霜月や鸛の彳々ならびゐて 荷兮
冬の朝日のあはれなりけり 芭蕉
『野ざらし紀行』の旅で、十一月に名古屋で興行した時の句。芭蕉、野水、荷兮、重五、杜国、正平、野水に途中から羽笠も加わって巻いた五歌仙と表六句は、『冬の日』(荷兮編貞享元年刊)として刊行された。
これはその五番目の歌仙の句。「て」留めのこれまでの常識を破るような発句に対し、脇も体言止めではなく「けり」で応じる。
霜月の鸛に朝日の哀れを添える。軽く流したようでいながら、興行の場所を褒め称える寓意を含んでいる。
発句と脇を合わせると、
霜月や鸛の彳々ならびゐて
冬の朝日のあはれなりけり
と和歌のように綺麗につながる。
檜笠雪をいのちの舎リ哉 桐葉
稿一つかね足つつみ行 芭蕉
『野ざらし紀行』の旅で、十二月に熱田で桐葉からの送別句に答える。
発句は、檜笠(ひのきがさ)に雪の積もるのを見て、この笠が命を守ってくれると詠む。芭蕉が延宝四年に詠んだ、
命なりわづかの笠の下涼み 桃青
の句を髣髴させる。
これに対し芭蕉は、藁一束(わらひとつかね)で足を包みながら行きますと返す。命を守るものは笠だけではない。
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