昨日の台風一過も一転して今日は一日雨がしとしと降る天気だった。
上流から流れてきた水で新たに冠水したところもあり、台風の被害が広がっている。
まあ、今回の台風の教訓といえば、八ツ場ダムにしても多摩川のスーパー堤防にしても、治水に関してはお金をケチってはいけないということか。やはり人命には変え難いし、経済活動にも支障が出るから結局金銭的にも損をすることになる。
台風も地震も津波もないヨーロッパとの比較は日本ではあまり役に立たないように思える。
東アジアの政治は古代から治水のための戦いだった。黄河や長江を抱える中国で、強力な中央集権国家が続いたのもそういう事情があったからだろう。
こうした中から人と人の絆を重視する儒教の哲学が生まれ、日本はうまくそういった絆や団結力を維持したまま民主化することに成功したが、なかなか中国では難しいのかもしれない。韓国が脱落しなければいいが。
風流の道も儒教文化が生んだもので、それが今のジャパンクールにも生きている。思想性が強くて賛否に分かれ、互いに不快な思いをするような分断をもたらす芸術ではなく、多様性を認め合いながらもみんなの心を一つにする芸術、それが理想だ。理性の芸術ではなく魂の芸術が必要だ。
それでは「あれあれて」の巻の続き。
初裏。
七句目。
きうくつそうに袴鳴なり
燭台の小き家にかがやきて 芭蕉
蝋燭は江戸時代では高価で庶民は行燈を用いていた。袴を窮屈そうに履いている人に、見分不相応ということで、小さい家の蝋燭と展開している。
八句目。
燭台の小き家にかがやきて
名ぬしと地下と立分る判 猿雖
『芭蕉門古人真蹟』には、「名ぬし」の横に「庄屋」と書いて消してある。
「名主(なぬし)」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、
「江戸時代の村役人,町役人。郷村では村落の長として村政を統轄。組頭,百姓代と合せて村方三役と呼ばれ,郡奉行や代官の支配を受けた。名主の呼称は主として関東で行われ,関西では庄屋と称した。初期には土豪的農民の世襲が多かったが,中期以降は一代限りとなり,惣百姓の入札,推薦によることが多くなった。ほかに町方で町奉行の支配を受けて町政を担当する町名主や牢名主などがあった。」
これだと名主と庄屋は関東と関西での名前の呼び方の違いのようにも見えるが、伊賀の猿雖があえて最初に関西で一般的な庄屋ではなく「名ぬし」と言ったのは、おそらく田舎の庄屋ではなく町名主の意味で言おうとしてたからではないかと思う。
町名主はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「江戸時代、町の支配に当たった町役人。地域により町年寄・町代・肝煎(きもいり)などとも称した。江戸の場合、町年寄の下に、数町から十数町に一人の町名主が置かれていた。」
とある。芭蕉が江戸に出てくるときにお世話になった卜尺(小沢太郎兵衛)も町名主だった。(小沢の左側を消すと卜尺になる。今気付いた。)
「地下(じげ」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、
「平安時代,殿上人に対して,昇殿の許されなかった官人をいった。地下人ともいい,また,殿上人を「うえびと」というのに対して,「しもびと」とも呼んだ。元来,昇殿は機能または官職によって許されるものであったため,公卿でも地下公卿,地下上達部 (かんだちめ) のような昇殿しない人や,四位,五位の地下の諸大夫もいたが,普通は六位以下の官人をさした。近世になると家格が一定し,家柄によって堂上,地下と分れた。その他,広く宮中に仕える者以外の人,農民を中心に庶民を地下と呼ぶ場合もあった。 (→名子被官制度 )」
とある。この場合は最後の単なる庶民の意味であろう。
地下の家に名主が来たので小さい家に蝋燭が灯るとする。
余談だが、地下というと『去来抄』「同門評」の芭蕉の「山路きて」の句の所に、
「湖春曰、菫ハ山によまず。芭蕉翁俳諧に巧なりと云へども、歌学なきの過也。去来曰、山路に菫をよミたる證歌多し。湖春ハ地下の歌道者也。」
とある。
湖春はウィキペディアによれば、
「元禄2年(1689年)父季吟と共に再度幕府に召し出され、江戸に移住し幕府歌学方に奉仕し歌果院と号す。湖春は父季吟とは別に俸禄200俵を幕府より役料として賜る。」
とあり庶民とは言い難いが、「昇殿の許されなかった官人」という元の意味では地下にちがいない。まあ、それをいえば頓阿も正徹も宗祇も地下になる。西行の出家前の左兵衛尉義清だったころの官位ははっきりしないが、かなり微妙な所にいる。
九句目。
名ぬしと地下と立分る判
焼めしをわりても中のつめたくて 望翠
「焼めし」は2016年9月29日の俳話で、
焼飯に青山椒を力かな 桃隣
の句のときに触れたが、兵糧や非常食に用いられる携帯できるもので、焼きおにぎりかきりたんぽに近いものだったようだ。桃隣の句も鳴子峡という険しい山道を越える時の句だった。
携帯する時にサランラップやアルミ箔などない時代だから、べとつかないように外側を焼いていたのだろう。外は熱くても中は冷たかったりする。
この句は「中」を「仲」に掛けるばかりでなく、「わりて」と「立わかる」が掛けてにはになっている貞門風の古風な付け方だ。
十句目。
焼めしをわりても中のつめたくて
おもひ窟て出ぬくらがり 土芳
『芭蕉門古人真蹟』には、「窟て」の所は最初「初より」とあり、右に「有、屈」と書いて又消して、左に「くつして」と書いて消して「窟(くつし)て」に定まっている。
焼めしをわりても中のつめたくて
おもひ初より出ぬくらがり
であれば、恋に転じたことが明白になる。「仲のつめたくて」からの素直な反応とも言える。
焼めしのように一見脈がありそうでも逢えば冷たい人を、なかなか心を開いてくれない、「出ぬくらがり」と表現している。
焼めしをわりても中のつめたくて
おもひ有より出ぬくらがり
も似たような意味になる。
これが、
焼めしをわりても中のつめたくて
おもひ屈して出ぬくらがり
となると、冷たいから思いも屈して暗がりを出られないと、男のほうの暗がりになる。
最初の「おもひ初より」に比べ「おもひ屈して」は恋の情として伝わりにくくなり、展開はしやすくなるが恋を軽視してるのではないかとも取れる。
十一句目。
おもひ窟て出ぬくらがり
頃日は扇子の要仕習ひし 卓袋
「仕習(しなら)ふ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① いつも行なう。よくなれる。よくなれてうまくなる。
※宇津保(970‐999頃)吹上下「源氏に琴の御琴たまひて遊ばす。つつむ事なく、おぼめく事なし。『いかで、かくはしならひけん』と仰せ給て」
② 学んで自分のものにする。修行する。
※応永本論語抄(1420)子張第一九「朝夕我がするわざを目に見、耳にきいて調練する処でしならふ也」
となる。
「扇子の要」は普通は扇子の骨を根もとで一まとめに止めている部分のことだが、それだと意味が通らない。扇子舞の肝心要ということか。なかなか難しくて悩んで塞ぎこむ。
十二句目。
頃日は扇子の要仕習ひし
湖水の面月を見渡す 木白
ここで木白が加わる。伊賀藩士で藤堂長定の家臣。後に苔蘇と号を変える。
湖水に映る月に扇の舞いはいかにもという感じではある。
あるいは近江の国の高島扇骨のことか。滋賀県のホームページに、
「史実では江戸時代、徳川五代将軍綱吉の頃、市内に流れる安曇川の氾濫を防ぐために植えられた竹を使って、冬の間の農閑期の仕事として始められたと伝えている。」
とある。詳しいことはよくわからない。だが、時代的には「頃日は扇子の要仕習ひし」と一致する。
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