今日は三日月が見えた。正確には四日月で、旧暦九月四日、「松風に」の巻の興行された日だ。
秋が寂しげなのは、やはり万物が死に向うからだろうか。草木は枯れ、虫は死に、土に帰って行く。それと逆に空は澄み切って天は高く、月や星は輝く。
陰気の降下、陽気の上昇で天と地は引き裂かれてゆく。
秋もまた夕暮れとなれば、沈む夕陽が死を暗示させる。生きるのを喜び死を悲しむ。それが秋の夕暮れの心だ。
台風や夕立の時は空全体が真っ赤に染まるが、大気が安定している時の夕暮れはそれほど赤くならず、薄っすらと赤い地平のすぐ上はやや緑のかかった青になり、そのまま色を失って行く。それがまた寂しげだ。
冷戦が終わりこのまま世界は平和が来るのかと思ったら、古い思想にしがみ付く蔦葛に人は地面に縛り付けられ、このまま黄昏てゆくのだろうか。秋暮れて滅びの風の子守唄。それでも来なかった春はない。
それでは「松風に」の巻の続き。
十三句目。
あふげど餅のあぶれかねつる
せりせりとなく子を籮につきすへて 卓袋
「せりせり」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘副〙 (多く「と」を伴って用いる)
① 動作などの落ち着かないさま、せきたてるさまを表わす語。せかせか。
※浄瑠璃・心中宵庚申(1722)道行「気のとっさかな姑に、せりせりいぢりたでられて」
② せせこましいさまを表わす語。こせこせ。
※中華若木詩抄(1520頃)中「祗自寛すと云は、これをせりせりと思ても叶ふべきことか」
③ 言動などのうるさいさまを表わす語。
※俳諧・みかんの色(1768)「せりせりとなく子を籮につきすへて〈卓袋〉 大工屋根やの帰る暮とき〈芭蕉〉」
とある。
「籮」は「ふご」と読ませているが、餌籮(えふご)の「ふご」か。餌籮は餌を入れる竹籠のことで、「ふご」は単に籠のこと。赤ちゃんを入れる駕籠は「いづめ」とも言う。
芭蕉筆の『甲子吟行画巻』の富士川の捨て子もいづめに入れられている。
十四句目。
せりせりとなく子を籮につきすへて
大工屋根やの帰る暮とき 芭蕉
昔は子供は大事にされていた。それには理由があって、幼児虐待は死罪だから、少しでもそれと疑われるようなことは避けなくてはならなかった。
だから大工さんが来て屋根屋さんが来ても子供は自由に遊びまわり、大工さんや屋根屋さんに可愛がられていた。
帰るときには子供も別れが嫌で泣き出す。
十五句目。
大工屋根やの帰る暮とき
用の有時はかけ込藪どなり 支考
これは用を足すということだろうか。芭蕉の人情味溢れる前句に対して、シモネタで落としたか。
十六句目。
用の有時はかけ込藪どなり
雨のふる日の節句ゆるやか 雪芝
用があると何かと頼られてしまう人なのだろう。節句とあらば、お客さんをもてなす家から、何かとものを借りに来たりして、おちおち昼寝もできない。
雨ならば静かなものだ。
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