今日は台風一過で長月の十五夜の月が見える。
今度の台風は関東直撃と言われながらも、関東よりもむしろ長野や福島、宮城など、かなり広域で被害が出た。台風が来るたびに繰り返されることとはいえ、自然はやはり恐ろしい。ただ、とりあえず東京の下町水没という「天気の子」にはならずにすんだ。
こういうときだから、次に読む俳諧は時期的に一ヵ月半ほど遡って、元禄七年七月二十八日の夜、伊賀の猿雖亭で興行された歌仙にしてみた。
発句は、
元禄七七月廿八日夜猿雖亭
あれあれて末は海行野分哉 猿雖
元禄七年の七月に、伊賀の方を襲う台風があったのだろう。
今日のような台風情報がなかった時代だから、台風の進路についてどの程度の認識があったのかはよくわからない。ただ、日本は島国だからどのみち最後は海に出ることになる。
木枯の果てはありけり海の音 言水
のような感覚だったのか。
この少しあとに書かれた八月九日付けの去来宛書簡には、
「爰元度々会御座候へ共、いまだかるみに移り兼、しぶしぶの俳諧、散々の句のみ出候而致迷惑候。此中脇二つ致候間、懸御目候。
〇をりをりや雨戸にさはる荻の声
放すところにをらぬ松虫
〇荒れ荒れて末は海行く野分かな
鶴の頭をあぐる粟の穂
鶴は常体之気しきに落可申候哉。」
とある。
伊賀での俳諧がなかなか猿蓑調を抜け出なくて苦労していたことが窺われる。
「あれあれて」の巻は『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)に二つのテキストが収められている。
一つは『芭蕉門古人真蹟』(蝶夢編)にある、推敲課程のわかる未定稿で、もう一つは『芭蕉翁遺芳』(芭蕉翁顕彰会, 1973)所載の「芭蕉真蹟懐紙」を底本とし、『今日の昔』(朱拙編、元禄十二年刊)との校異を注に示したとある。
ここでは後者を用いることにする。
発句は台風が去っての興行ということで、大変だったけどここで興行ができましたという挨拶になる。
これに対し芭蕉はこう答える。
あれあれて末は海行野分哉
靍の頭を上る粟の穂 芭蕉
二〇一八年八月十六日の俳話にも書いたが、芭蕉の粟の発句は二句ある。
よき家や雀よろこぶ背戸の秋 芭蕉
粟稗にとぼしくもあらず草の庵 芭蕉
「よき家や」の句は貞享五年七月八日、『笈の小文』の旅の途中に鳴海の知足亭を尋ねた時の句で、「粟稗に」の句は同じ年の七月二十日、名古屋の竹葉軒長虹の家で行われた興行の発句だった。
七月やまづ粟の穂に秋の風 許六
の句もあるように粟の穂は七月初秋のものだった。粟の収穫は中秋の初めになる。
鶴は冬鳥だが、当時はコウノトリを鶴と呼ぶこともあった。粟の穂は垂れて鶴は頭を上げる。
去来宛書簡の「鶴は常体之気しきに落可」というのは鶴のお目出度さを詠んでないという意味か。
第三は伊賀の配刀が付ける。
靍の頭を上る粟の穂
朝月夜駕籠に漸追付て 配刀
配刀は『校本芭蕉全集 第五巻』の注に、藤堂藩伊賀付作事目付役、食禄三百石」とある。
鶴は殿様、粟の穂は家臣に喩えられる。朝の出発に遅刻したのがいたか。そりゃ頭が上がらない。
四句目。
朝月夜駕籠に漸追付て
ちやの煙たる暖簾の皺 望翠
駕籠に追いつくという旅体に街道の茶屋を付ける。皺のよった暖簾がうらさびた感じがする。
五句目。
ちやの煙たる暖簾の皺
かつたりと枴をおろす雑水取 土芳
「枴(あふご)」はweblio辞書の「歴史民俗用語辞典」に、
「物を荷う棒、天秤棒。」
とある。「雑水取(ざうすゐとり)」は『校本芭蕉全集 第五巻』の注に「雑炊を炊事場から運ぶ人」とある。
『芭蕉門古人真蹟』(蝶夢編)には「荷ふたる」を消して右に「かつたりと」とある。こういう擬音の使用が炭俵調以降の軽みの一つの特徴でもあった。
雑炊は元禄九年刊の『本朝食鑑』には「粥之水多キ者也」とあるという。
六句目。
かつたりと枴をおろす雑水取
きうくつそうに袴鳴なり 卓袋
雑炊取は袴を履いていたようだ。
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