2018年11月30日金曜日

 この前は「恥」について考えたから、今日は「罪」について考えてみようか。
 人間が高度な知能を持つに至り、寝込みを襲ったり飛び道具を使ったり集団で襲い掛かったりして非力なものでも勝てるチャンスが出てくると、単純に腕力でもって順位を付けることが困難になり、最終的には多数派工作の勝負となっていった。
 ここで人間は多数派工作のために仲間を気遣い、積極的に利他行動を取るようになった。もちろん「情けは人のためならず」という諺のとおり、それは結局自分のためでもあった。
 ただ、良かれと思ったことでも結果的には人を傷つけてしまうこともある。そういうときに「あいつには悪いことをしてしまった」と反省する。おそらくそこから罪の意識というのは生じたのだろう。
 恥と違うのは、漠然とした集団からの排除に対する不安ではなく、明確に誰かに対して悪いことをし、「そりゃああいつだって怒るよな」と、仲間にするはずが敵になってしまうのではないかという不安から来るのが罪の意識だった。
 そしてそれを防ぐために自分に対して不利益になるようなことをわざと行い、バランスを取るのが罰の起源ではないかと思う。
 それがやがて社会の中で暗黙の掟となり、罪の意識や自分を罰する行為に留まらず、社会の方から罪を糾弾し、罰則を与え、償いを要求するようになる。それが明文化された法律となったとき、犯罪と刑罰と損害補償に発展する。
 そしてさらにその法律に神聖かつ絶対的な権威を持たせるために、一神教の罪の概念が形成されていったのではないかと思う。
 恥や原始的な罪の意識と違い、いわゆる罪というのは社会の掟と密接に結びつき、それに対する罰や償いを伴う。
 日本にも掟や法律がなかったわけではないが、法律を宗教的な神聖なものとするのではなく、むしろ法律で何もかも杓子定規に規定することを嫌い、恥をもって情状酌量の余地を残す方向に進化したことが「恥の文化」と言われる所以なのではないかと思う。
 このことが西洋の「人権」の文化と日本の「人情」の文化との分岐点になっていると思う。

 さて、余談はこれくらいにして「野は雪に」の巻に続きと行こう。
 三の懐紙の表に入る。
 五十一句目。

   覆詠も古き神前
 春の夜の御灯ちらちらちらめきて 一笑

 神社の場面なので神前に灯る火を付ける。「ちらちらちら」というオノマトペの使用は蕉門の軽みの風にしばしば現れ、やがては惟然の超軽みでも用いられてゆくが、散発的には貞門の時代にもあった。
 五十二句目。

   春の夜の御灯ちらちらちらめきて
 北斗を祭る儀式殊勝や   一以

 「御灯(ごとう)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 神仏・貴人などの前にともす灯火。みあかし。
  2 陰暦3月3日と9月3日に天皇が北辰(北極星)に灯火をささげる儀
式。また、その灯火。みとう。
 「三月には三日の御節句、―、曲水の宴」〈太平記・二四〉」

とある。そのまんまの意味。
 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注には、

 「御灯には陰暦三月三日に天子が北斗星に御灯を捧げるの意があるが、それに拠る付けではなく、ここでは普通の御灯として北斗をつけた。」

とあるが、なぜそれに拠る付けではないのか説明されてない。不可解な注だ。
 五十三句目。

   北斗を祭る儀式殊勝や
 出し初る船の行衛を気遣れ 宗房

 北斗七星のうちの五つの星は、日本では船星と呼ばれていた。コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「夏空の北斗七星のうち,α星とβ星を除いた5つの星を船に見立てた和名。北斗七星全体をさす地方もある。」

とある。
 だが、実際に進水式の時に北斗を祭る習慣があったのかどうかは定かでない。
 余談だが、我国の天皇は道教の天皇大帝から来たという説があり、天皇大帝は北辰の神であり、すべての星がこの周りを回る天の中心の神だった。
 ただ、古代の北辰は今日の北極星のことではない。天の北極は長い年月を経て位置が変わっていて、紀元前にはこぐま座のβ星に近かったという。さらに五千年前ともなるとりゅう座のα星のあたりが天の北極だったという。
 北斗はこの天の北極を回る沈まない星、つまり周極星として信仰されるようになった。コトバンクの「北斗信仰」の項の「世界大百科事典内の北斗信仰の言及」には、

 「《史記》天官書などの記述によると,北極星は天帝太一神の居所であり,この星を中心とする星座は天上世界の宮廷に当てられて紫宮,紫微宮とよばれ,漢代には都の南東郊の太一祠においてしばしば太一神の祭祀が行われた。その後,讖緯(しんい)思想(讖緯説)の盛行につれて,後漢ころには北辰北斗信仰が星辰信仰の中核をなすようになり,北辰は耀魄宝(ようはくほう)と呼ばれ群霊を統御する最高神とされた。これをうけた道教では,北辰の神号を北極大帝,北極紫微大帝もしくは北極玄天上帝などと称し,最高神である玉皇大帝の命をうけて星や自然界をつかさどる神として尊崇した。」

とある。
 なおウィキペディアによると、天皇という称号は中国にもあったという。

 「中国の唐の高宗は「天皇」と称し、死後は皇后の則天武后によって 「天皇大帝」の諡(おくりな)が付けられた。これは日本の天武天皇による「天皇」の号の使用開始とほぼ同時期であるが、どちらが先であるかは研究者間でも結論が出ていない。」

 韓国では天皇のことを日王と呼ぶが、これだとかつて征夷大将軍に対して中国から送られた「日本国王」の称号と紛らわしい。
 五十四句目。

   出し初る船の行衛を気遣れ
 涙でくらす旅の留守中   蝉吟

 船の行衛を気遣うとなれば、旅人の留守を預る家族の情となる。

2018年11月28日水曜日

 日本は恥の文化だというが、そういえば以前こんな文章を書いたことがあった。

 「恥というのは本来は危険に対して回避を促す反応である。動悸や赤面や体の震えなどの身体的な変化も、本来は危機を回避するためのものだった。
 ただ、順位制社会においては、危険は毒蛇や猛獣などの外敵であったり、内部的には自分より強い個体であったり、対象がはっきり特定しやすい。これに対し、出る杭は打たれる状態に陥った人類の祖先にとって、人間関係の中で、不特定多数の他者が結束して襲ってくるかもしれないというものが重要となる。しかし、これは具体的に誰と誰がというふうに特定しにくく、あくまで想像上の漠然とした危険となる。人間関係の中で、想像上の形のない、それでいて現実に起りうる危険に対し、その危険の回避を促す生理的な反応として、人間独自の恥の意識が生じる。
 恥というのは基本的には所属する人間関係からの排除の恐怖であり、必ずしも倫理的に善であるとは限らない。たとえば、電車でお年寄りに席を譲ったり、奉仕活動で道端のゴミを拾うような、明らかな善行であっても、実際にはそこに気恥ずかしさをともなう場合が多い。これに対し、実際には悪いことであっても、みんながやっていることについては、それほど恥の意識はない。
 恥ずかしさは、善か悪かにかかわらず、みんなとちがうことをやっているのではないかという不安から生じる。」

 これに対し「罪」は掟に反することによって具体的に制裁を受けることをいう。
 日本ではよく、海外に行ったら簡単に謝ってはいけないという。また外交関係でも謝罪はかなり慎重になる。それは恥のような漠然とした排除への不安ではなく、賠償や制裁のような具体的な反応を引き起こすと考えているからだ。
 日本は多神教文化のせいか、一人一人の考え方や立場、価値観の違いを当然のものと考え、神道も「罪」に関する厳格な教義を持たない。神に対する罪というのは存在せず、ただ様々な価値観を持つ人間に対してそれぞれの罪があるにすぎない。

 余談が長くなったが、そろそろ「野は雪に」の巻の続きといこうか。
 四十七句目。

   おく山とある歌の身にしむ
 いろはおばらむうゐのより習初 一以

 前句の「おく山とある歌」をいろは歌の「我が世誰ぞ常ならむ有為(うゐ)の奥山今日越えて」とし、子供が「らむうゐの」と順番に練習して行き、「おくやま」と続く。
 四十八句目。

   いろはおばらむうゐのより習初
 わるさもやみし閨の稚ひ   宗房

 「閨」は寝る屋で寝室のこと。「稚ひ」は「おさあい」と読む。
 「いろは」を習い始めた子供はいたずら盛りで、それがようやく止むとぐっすり眠っている。ほほえましい情景だ。芭蕉にもそんな時代があったか。
 四十九句目。

   わるさもやみし閨の稚ひ
 花垣の蠅のゆひ目もゆるうなり 蝉吟

 二裏の花の定座は蝉吟が務める。眠る子に「目もゆるうなり」と、これも一種の「掛けてには」といえようか。
 「花垣」は花の咲く垣根のことで、正花ではあっても桜ではない。
 蝉吟は十八句目の「おれにすすきのいとしいぞのふ」といい、二十三句目の「よろつかぬほどにささおものましませ」といい、こういう口語的な表現を好んだようだ。
 談林の流行も突然始まったものではなく、貞門の内部でもこういう小唄や謡曲の調子を取り入れるのは、既に流行していたのかもしれない。蝉吟もこの頃まだ二十四で若く、流行には敏感だったのだろう。
 五十句目。

   花垣の蠅のゆひ目もゆるうなり
 覆詠も古き神前       正好

 覆詠(かへりまうし)はgoo辞書の「デジタル大辞泉(小学館)」には、

 「1 使者が帰ってきて返事や報告をすること。また、その内容。復命。
 「長奉送使 (ちゃうぶそうし) にてまかり下りて、―の暁」〈続古今・離別・詞書〉
 2 神仏へ祈願のお礼参りをすること。報賽 (ほうさい) 。願ほどき。返り詣 (もう) で。
 「心一つに、多くの願を立て侍りし。その―、たひらかに」〈源・若菜上〉

とある。
 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注には、「県召の除目の御礼参り」とあり、春の季語としている。
 ウィキペディアには、

「春の除目
 諸国の国司など地方官である外官を任命した。毎年、正月11日からの三夜、公卿が清涼殿の御前に集まり、任命の審議、評定を行った。任命は位の低い官から始まり日を追って高官に進むのが順序であった。天皇の御料地である県の官人を任す意味から、県召の除目(あがためしのじもく)ともいい、中央官以外の官を任じるから、外官の除目ともいう。」

とある。

2018年11月27日火曜日

 「野は雪に」の巻、続き。
 四十一句目。

   大ぶくの爐にくぶる薫
 佐保姫と言ん姫御の身だしなみ 蝉吟

 前句の「くぶる薫(たきもの)」を「大ぶくの爐」に染み付いた香りではなく、姫君の衣の薫物とする。春三句目だから春の季語になる佐保姫を出す。
 四十二句目。

   佐保姫と言ん姫御の身だしなみ
 青柳腰ゆふ柳髪       一以

 その姫君の姿を付ける。柳腰と青柳を掛け、それに柳髪を加える柳尽くしの女性だ。
 四十三句目。

   青柳腰ゆふ柳髪
 待あぐみ松吹風もなつかしや 宗房

 柳といえば風。松は当然ながら待つに掛かる。「なつかし」は心引かれるという昔の意味で「なつく」から来ている。
 四十四句目。

   待あぐみ松吹風もなつかしや
 因幡の月に来むと約束    一笑

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注にもあるとおり、

 立ち別れいなばの山の峰に生ふる
     まつとし聞かば今帰り来む
               中納言行平

を本歌とする。「約束」という言葉が俳言になる。謡曲『松風』では松風・村雨の二人の姉妹を残し結局帰ってこなかった。
 四十五句目。

   因幡の月に来むと約束
 鹿の音をあはれなものと聞及び 正好

 因幡は稲葉に通じる。

 山里の稲葉の風に寝覚めして
     夜深く鹿の声を聞くかな
               中宮大夫師忠(新古今集)
 旅寝して暁がたの鹿の音に
     稲葉おしなみ秋風ぞ吹く
               大納言経信(新古今集)

などの歌がある。
 四十六句目。

   鹿の音をあはれなものと聞及び
 おく山とある歌の身にしむ   蝉吟

 「おく山とある歌」は『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注にもあるとおり、

 奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の
     声聞く時ぞ秋は悲しき
               猿丸大夫

の歌を指す。
 前句の「聞及び」を実際に聞いたのではなく人の話に聞いたものとし、実際に奥山にいるわけではないけど、あの歌が身に染みるとしたか。

2018年11月26日月曜日

 何かこの頃仕事が変り、疲れたところで書いていたから、いつの間にか二と三を書き間違えていた。とりあえず訂正した。
 それでは四十三ではなく三十三句目から、「野は雪に」の巻の続き。
 三十三句目。

   未だ夜深きにひとり旅人
 よろつかぬほどにささおものましませ 蝉吟

 十八句目の小唄調に続いて、ここでも芝居か何かの台詞のような口語っぽい文体で作っている。全部平仮名だとわかりにくいが「よろつかぬ程に酒(ささ)をも飲ましませ」。
 前句の「ひとり旅人」を旅立つ夫として、妻が草鞋酒を汲んで見送るというところか。
 「草鞋酒」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、「旅立ちの際に、わらじをはいたまま飲む酒。別れに際しての酒盛り。」とある。
 三十四句目。

   よろつかぬほどにささおものましませ
 市につづくは細ひかけはし   一笑

 打越の旅体を離れ、ただ市場から来た人に酒をふるまったとする。
 三十五句目。

   市につづくは細ひかけはし
 堀際へ後陣の勢はおしよせて  一以

 これは大名行列の先陣・後陣だろうか。大きな町にはいくつもの堀がめぐらされてたりするが、そこから市場へとかかる橋が細いので、後陣の列はなかなか入れなくて立ち往生する。
 三十六句目。

   堀際へ後陣の勢はおしよせて
 息きれたるを乗替の馬     蝉吟

 江戸時代の馬は宿場から隣の宿場までを往復するもので、宿場に着くたびに馬を乗り換えなくてはならなかった。後陣の勢も息を切らしてたどり着いたところで次の馬に乗換えとなる。
 二裏に入る。
 三十七句目。

   息きれたるを乗替の馬
 早使ありと呼はる宿々に   正好

 馬を乗り換える旅人を早使いとした。いまひとつ展開に乏しく、宿場の風景から脱却できない。
 三十八句目。

   早使ありと呼はる宿々に
 とけぬやうにと氷ささぐる  宗房

 ウィキペディアによれば、「江戸時代には、毎年6月1日(旧暦)に合わせて加賀藩から将軍家へ氷室の氷を献上する慣わしがあった。」という。
 前句の「早使」を氷を献上する使者とする。
 三十九句目。

   とけぬやうにと氷ささぐる
 あけて今朝あさ日ほのぼのほのめきて 一笑

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に、「前句の『氷ささぐる』を氷様(ヒノタメシ)に見なす。」とある。
 コトバンクの「氷様奏(ひのためしのそう)」の所の「世界大百科事典内の氷様奏の言及」によれば、

 「…律令制下では政府管掌の氷室が置かれ,その氷は宮廷内での飲用と冷蔵用にあてられた。また,毎年正月元日には〈氷様奏(ひのためしのそう)〉といって,その冬収納した氷の厚薄を奏聞する儀式が行われていた。清少納言が《枕草子》の中で,〈削り氷にあまづら(甘葛)入れて,あたらしき金鋺(かなまり)に入れたる〉と,いまでいえば砂糖のシロップをかけただけの“みぞれ”などと呼ぶかき氷に近いものを,高貴で優美なものとして〈あてなるもの〉の一つに数えているのも,氷がきわめて貴重なものだったことを物語る。…」

だという。
 四十句目。

   あけて今朝あさ日ほのぼのほのめきて
 大ぶくの爐にくぶる薫    正好

 「大ぶく」はおおぶくちゃ(大服茶・大福茶)のこと。コトバンクの「大辞林 第三版の解説」には、

 「元日に若水でたてた煎茶。小梅・昆布・黒豆・山椒さんしようなどを入れて飲む。一年中の悪気を払うという。福茶。 [季] 新年。」

とある。

2018年11月24日土曜日

 1970年の大阪万博の時にはまだ小学生だったか。左翼の家庭はこうした華やかな行事には大概否定的で、この年京都観光はしたが大阪までは行かなかった。
 あの頃は万博そのものが日本人にとって初めての経験で、大行列をしてはいろいろと大騒ぎしたが、あのあと何とか博というのがいくつもあって物珍しさもなくなり、今度の大阪万博もあの時のようには盛り上がらないかもしれない。
 前の万博は大企業中心だったが、もっと中小企業の隠れた技術や様々なオタク文化を紹介してゆくと面白いのではないかと思う。それが日本の底力でもある。

 それでは「野は雪に」の巻の続き。
 二十七句目。

   湯婆の湯もや更てぬるぬる
 例ならでおよるのものを引重ね 正好

 「例ならず」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「①  いつもと違う。珍しい。 「この女、-・ぬけしきを見て/宇津保 嵯峨院」
 ②  体がふつうの状態ではない。病気や妊娠をいう。 「 - ・ぬ心地出できたり/平家 6」

とある。
 「およる」は、weblio辞書の「三省堂大辞林」には、「その人を敬って寝ることをいう語。おやすみ。」とある。
 病気といってもそんなに深刻なものではなく、いつもとやや違う、何かおかしいくらいの状態を「例ならで」というのであろう。
 『源氏物語』桐壺巻の「いとあつしくなりゆきもの心ぼそげにさとがちなるを」の所の古註に「異例」とあるのも、重病というほどではなく、傍から見て様子が違うというような意味なのだろう。「もの心ぼそげ」も気に病んだ状態、今でいえばノイローゼのような精神的なもので、里へ引き籠りがちになったというニュアンスと思われる。
 深刻なものではないから、夜着を着重ねても、湯たんぽの湯は夜更けにはぬるぬるになってもただ寒いというだけでそれほど問題ない。
 二十八句目。

   例ならでおよるのものを引重ね
 あふも心のさはぐ恋風     蝉吟

 何となくいつもと様子が違うのは、病は病でも恋の病だとする。
 二十九句目。

   あふも心のさはぐ恋風
 恨あれば真葛がはらり露泪   一笑

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注で、

   百首歌を奉ったとき詠んだ歌
 わが恋は松を時雨の染めかねて
     真葛が原に風さわぐなり
              前大僧正慈円

の歌を引いている。
 その「真葛が原」に「はらり」と落ちる泪を掛詞にするのだが、「はら」と「はらり」は意味の融合が不十分で半ば駄洒落になり、それが俳諧らしい笑いとなる。
 「恨み」も葛の葉の「裏見」に掛かっているが、こちらは、

   題しらず
 嵐吹く真葛が原に鳴く鹿は
     恨みてのみや妻を恋ふらむ
              俊恵法師

の頃からの伝統的な掛詞で、笑いには結びつかない。
 三十句目。

   恨あれば真葛がはらり露泪
 秋によしのの山のとんせい   一以

 吉野葛の縁で吉野に展開するが、花のない秋の句なので、山の遁世となる。西行の俤もあるが、物でも付いているので俤付けではない。
 三十一句目。

   秋によしのの山のとんせい
 在明の影法師のみ友として   宗房

 「影法師」はフォントが見つからないでこの字にしたが、魍魎の鬼のないような字になっている。
 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注にもあるとおり、

 朝ぼらけ有明の月とみるまでに
     吉野の里にふれる白雪
              坂上是則(古今集)

の歌が「吉野」と「有明」が付け合いになる證歌となっている。
 李白の「月下独酌」に、

 挙杯邀明月 対影成三人
 盃を挙げて月を客として迎え、影と対座して三人となる。の句があり、「影法師」はそのイメージと思われる。
 芭蕉の後に『冬の日』の「狂句こがらし」の巻でも、

   きえぬそとばにすごすごとなく
 影法のあかつきさむく火を燒て 芭蕉

の句を詠んでいる。吉野の遁世に有明の影法師が出典にべったりと付いているのに対し、「消えぬ卒塔婆」の「暁」に火を焚いた「影法」は蕉風確立期の古典回帰とはいえ、出典とは違う独立した趣向を生み出している。
 三十二句目。

   在明の影法師のみ友として
 未だ夜深きにひとり旅人    正好

 朝未明の旅立ちは杜牧の『早行』を思わせる。
 ただ、『早行』とは違って一人旅立つ旅人には、有明の月の落とす影が唯一の友となる。

2018年11月23日金曜日

 今日は谷中のあたりを散歩した。谷中ビールを飲んで、夕焼けだんだんや諏訪神社など、子供の頃の思い出のある場所をめぐった。
 それでは「野は雪に」の巻の続き。

 二十一句目。

   鞠場にうすき月のかたはれ
 東山の色よき花にやれ車    一笑

 鞠場ということで王朝時代のイメージを引き継いだまま花の定座になる。
 京都東山の桜に牛車ということになるが、破(や)れ車ということで変化をつけている。後の芭蕉なら「さび色があらわれている」と言う所だろう。
 ネットで「やれ車」を調べたら、今でも中古車業界では車の劣化を表わすのに「ヤレ」という言葉を使っているようだ。
 二十二句目。

   東山の色よき花にやれ車
 春もしたえる茸狩の跡     一以

 「茸狩」は秋のものだが、跡なので秋に茸狩りをした思い出を慕ってということだろう。没落貴族だろうか。
 二十三句目。

   春もしたえる茸狩の跡
 とゝの子を残る雪間に尋ぬらし 蝉吟

 「とゝの子」は意味不明。父親の「とと」にしても魚の「とと」にしても意味がわからない。
 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注には、

 「『とらの子』の誤写か。前句の茸狩を竹林の狩として、とらの子をつけた。」

としているが、これも何かしっくりこない。竹林に茸というのはあまり聞かないし、何でわざわざ虎の子を尋ねてゆくかもわからない。比喩としての「虎の子」ならまだわかるが。
 『校本芭蕉全集 第三巻』には原本の書体がまぎらわしいため、全文の摸刻が掲載されている。それを見ると、たしかに「と」のような文字のしたにチョンとしてあるように見える。「之」にも似ている。
 あるいは前句の「たけ」を「竹」と取り成し、之の子を雪間に尋ねるとしたのかもしれない。ならば孟宗の「雪中の筍」の故事になる。植物は三句続けることができないので「竹」は出せない。
 二十四句目。

   とゝの子を残る雪間に尋ぬらし
 なつかで猫の外面にぞ啼    宗房

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注には、「前句の『とらの子』を虎猫とした。」とある。
 「之の子」だとすれば、猫が自分の子供の所へ行き、外で啼いているとなる。
 二十五句目。

   なつかで猫の外面にぞ啼
 埋火もきへて寒けき隠居処に  一以

 猫といえば火燵。だが、ここでは「埋火(うづみび)」。コトバンクの「デジタル大辞泉の解説には、

 「炉や火鉢などの灰にうずめた炭火。いけ火。《季 冬》「―もきゆやなみだの烹(にゆ)る音/芭蕉」」

とある。その上にやぐらを組んで布団を載せたものが火燵(こたつ)になる。
 火が消えて寒いから猫が寄ってこないというのは、やや理に走った感がある。
 二十六句目。

   埋火もきへて寒けき隠居処に
 湯婆の湯もや更てぬるぬる   一笑

 湯婆(たんぼ)は湯たんぽのこと。ゆばーばではない。
 生活感があり、「軽み」のようでもあるが、何のひねりもないところがやはりこの時代の風か。

2018年11月21日水曜日

 日本では何か問題を起すとすぐに記者会見があり、必ずそこで謝罪する。時には一列に並んで集団で土下座をすることもあり、外国人にはさぞかし奇妙な光景だろう。
 日本人がすぐに謝るのは怒りを静めるためで、必ずしも罪を認めたからではない。
 昔ルース・ベネディクトという人が西洋が罪の文化なのに対して日本は恥の文化だと言ったが、謝罪に関しては当たっているかもしれない。日本人の謝罪は罪を認めるのではなく、頭を下げるという恥を示すことで、相手に酌量を求める行為なのである。
 フランス人のゴーンさんの謝罪会見は今のところなく、むしろ告発した西川社長の方が謝罪している。hinomaruの唄で物議を醸した野田洋次郎さんも謝罪したし、シリアから帰ってきた安田純平さんも自己責任を認めて謝罪した。BTSも謝罪したが、これも日本の習慣に倣ったか。
 まあ、小生だってポリコレ棒で叩かれたならすぐに謝っちゃうからね。それが日本の文化だ。

 まあ、それはともかく、「野は雪に」の巻の続き。
 十五句目。

   きけば四十にはやならせらる
 まどはれな実の道や恋の道   正好

 これは「咎めてには」で連歌の頃からの付け方。
 『論語』の「四十にして惑わず」だが、色恋に迷うなという説教ではなく、逆に恋の道こそ「実(まこと)の道」だと説く。やまと歌は色好みの道、惑うべからず。
 十六句目。

   まどはれな実の道や恋の道
 ならで通へば無性闇世     宗房

 「無性(むしょう)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 
 「[名]仏語。
 1 《「無自性」の略》実体のないこと。
 2 《「無仏性」の略》仏性のないもの。悟りを開く素質のないもの。⇔有性(うしょう)。
 [名・形動ナリ]分別のないこと。理性のないこと。また、そのさま。「朝精進をして、昼からは―になって」〈浮・三所世帯〉」

とある。今日では「無性に」という形以外はほとんど用いられない。激しい衝動に突き動かされるという意味で、「無性にラーメンが食べたくなる」とかいうふうに使う。
 相手がその気がないのに一方的に衝動に突き動かされて通い続ければ、それこそ今でいうストーカーだ。まさに「闇の世」。まどうなかれ。
 十七句目。

   ならで通へば無性闇世
 切指の一寸さきも惜しからず  一以

 「一寸先は闇」という諺があるように、闇に一寸が付く。
 日本では指を切るのは忠誠の証で、江戸時代には女性が忠誠を示すために指を切って贈ったり、男の方が不倫を疑って指を切らせることがあったようだ。
 あるいは達磨に弟子入りしようとした慧可(えか)が、「自らの腕を切り落として弟子入りの願いが俗情や世知によるものではない事を示し、入門を許されたと伝えられている(雪中断臂)。」(ウィキペディアより引用:ちゃんと書いておかないと百田尚樹になっちゃうからね)から来ているのかもしれない。雪舟の絵にも「慧可断臂図」がある。
 まあ、恋の指詰めはやくざの指詰めと一緒で、堅気の人間のする事ではない。遊郭の恋は闇の世だ。
 十八句目。

   切指の一寸さきも惜しからず
 おれにすすきのいとしいぞのふ 蝉吟

 これもウィキペディアの引用になるが、「おれ」という一人称は、

 「「おれ」は「おら」の転訛で、鎌倉時代以前は二人称として使われたが次第に一人称に移行し、江戸時代には貴賎男女を問わず幅広く使われた。」

とあるように昔は男とは限らなかった。
 この場合も女性であろう。やはり女郎だろうか。自らを風にそよぐか細いススキの糸に喩え、「いとしい」と掛詞にするが、全体が小唄調にできている。このあたりに蝉吟の技が感じられる。
 十九句目。

   おれにすすきのいとしいぞのふ
 七夕は夕邊の雨にあはぬかも  宗房

 ススキが出て秋に転じたことで、七夕の恋の句にする。
 恋の句はこれで五句続いたが、連歌の「応安新式」では恋は五句まで続けて良いことになっている。まさに大和歌は色好みの道、恋は連歌の花ということで、ここでもその伝統は守られていた。
 今の七夕は新暦になって梅雨に重なるため雨になることが多いが、旧暦の時代は逆に秋雨の季節が始まって雨になることが多かった。
 語尾の「かも」は「けやも」の転じたもので、『万葉集』ではよく使われる。「かな」に近い。名古屋弁では「きゃーも」という形で残っている。
 二十句目。

   七夕は夕邊の雨にあはぬかも
 鞠場にうすき月のかたはれ   正好

 「かも」という古風な語尾に引かれたのか、蹴鞠場である「鞠場」を出す。またしてもウィキペディアの引用になるが、「貴族達は自身の屋敷に鞠場と呼ばれる専用の練習場を設け、日々練習に明け暮れたという。」とある。
 七夕の文月七日の月は半月なので、「月のかたはれ」となる。

2018年11月20日火曜日

 「野は雪に」の巻の続き。初裏に入る。
 九句目。

   景よき方にのぶる絵むしろ
 道すじを登りて峰にさか向     一笑

 「さか向(むかへ)」はコトバンクの「百科事典マイペディアの解説」によれば、

 「平安時代,現地に赴任した国司を現地官が国堺まで出迎えて行った対面儀礼。《将門(しょうもん)記》に常陸(ひたち)国の藤氏が平将門(まさかど)を坂迎えして大饗したとみえる。新しい支配者を出迎えてもてなした行為に由来し,堺迎・坂向とも書く。また中世伊勢参詣などからの帰郷者を村堺まで出迎えて共同飲食した行為を,坂迎えといい,酒迎とも記した。」

だという。
 「景よき方」に「峰」、「絵むしろ」の「坂迎え」と四つ手に付く。
 十句目。

   道すじを登りて峰にさか向
 案内しりつつ責る山城      正好

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に、

 「『さか向』を『逆向へ』(下から上に向って攻める意)に取りなし、山城(山上の城)を攻める意とした。」

とある。特に異論はない。
 十一句目。

   案内しりつつ責る山城
 あれこそは鬼の崖と目を付て   宗房

 「崖」は「いわや」と読む。前句の「山城」を鬼の岩屋に見立てるわけだが、これは物付けではなく意(こころ)付けになる。江戸後期の解説書なら「二句一章」というところだろう。
 それにしても「鬼の岩屋」とは御伽草子のような空想趣味で、後の次韻調に繋がるものかもしれない。奇抜な空想とリアルな現実が同居するのが芭蕉だ。
 十二句目。

   あれこそは鬼の崖と目を付て
 我大君の国とよむ哥       一以

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注には、

 「謡曲・大江山『草も木も我が大君の国なれば、いづくか鬼の住家なるべし』。

とある。
 『太平記』巻第十六に、

 「又天智天皇の御宇に藤原千方と云者有て、金鬼・風鬼・水鬼・隠形鬼と云四の鬼を使へり。金鬼は其身堅固にして、矢を射るに立ず。風鬼は大風を吹せて、敵城を吹破る。水鬼は洪水を流して、敵を陸地に溺す。隠形鬼は其形を隠して、俄敵を拉。如斯の神変、凡夫の智力を以て可防非ざれば、伊賀・伊勢の両国、是が為に妨られて王化に順ふ者なし。爰に紀朝雄と云ける者、宣旨を蒙て彼国に下、一首の歌を読て、鬼の中へぞ送ける。草も木も我大君の国なればいづくか鬼の棲なるべき四の鬼此歌を見て、『さては我等悪逆無道の臣に随て、善政有徳の君を背奉りける事、天罰遁るゝ処無りけり。』とて忽に四方に去て失にければ、千方勢ひを失て軈て朝雄に討れにけり。」

とあるのが出典か。
 本説付けだが、後の蕉門の本説付けのようにほんの少し変えるというのをやってなくて、そのまま付けている。このころはそれで良かったのだろう。
 十三句目。

   我大君の国とよむ哥
 祝ひとおぼす御賀の催しに   蝉吟

 「祝ひ」は『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注によれば、「『む』の誤写。「いははむ」と読む」とある。
 「賀」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」には、

 「①祝い。
  ②長寿の祝い。賀の祝い。
 参考②は、四十歳から十年ごとに「四十の賀」「五十の賀」などと祝った習慣で、平安貴族の間で盛んに行われた。室町時代以後は、「還暦」「古稀(こき)」「喜寿」「米寿」「白寿」などを祝った。」

とある。
 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注には、

 「天皇の四十歳以後十年毎に年寿を祝うこと。」

とある。前句の「我大君」と合わせて、御賀は天皇の賀ということになる。
 お祝いの時に謡う和歌といえばやはり、『古今集』巻七の、

 わが君は千代に八千代にさざれ石の
     いはほとなりて苔のむすまで
              よみ人しらず

だろうか。
 十四句目。

   祝ひとおぼす御賀の催しに
 きけば四十にはやならせらる  一笑

 「御賀」に「四十(よそじ)」と付く。御賀の説明をしただけであまり発展性はないが、貞門時代はこれで良しとしたようだ。

2018年11月18日日曜日

 今日は映画『ボヘミアン・ラプソディ』を見た。映画が終ってスタッフロールになったとき、何だかわからないが涙がぼろぼろこぼれてきた。何か映画で泣くのは久しぶりだった。
 クイーンがブレイクした頃の74年、75年ごろは日本ではオレンジ・ペコ、ドゥティードール、ハリマオといったアイドルっぽいバンドが出てきた頃で、何となくクイーンはそれに重なってしまう。
 75年にクイーンが来日した時の熱狂はそういう下地があってのことだったのだろう。ブライアン・メイは後になって「僕たちは突然ビートルズになった」と言ったとか。
 曲のほうのボヘミアン・ラプソディはシリアスに始まるが、途中からのあの合唱部分に入って「ガリレオ」だとか意味のない言葉を入れるあたりが俳諧を感じさせる。どうしようもない暗い歌でありながらそれを笑いに転じて救いを持たせているように思える。
 ハリマオの「ジョニーは戦場へいった」もあの頃の日本では画期的だったが、やはりクイーンは格が違っていた。

 それでは「野は雪に」の巻の続き。
 四句目。

   飼狗のごとく手馴し年を経て
 兀たはりこも捨ぬわらはべ    一笑

 兀は「はげ」。犬張子はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」には、

 「犬の形姿を模した紙製の置物。古くは御伽犬(おとぎいぬ),宿直犬(とのいいぬ),犬筥(いぬばこ)ともいった。室町時代以降,公家や武家の間では,出産にあたって産室に御伽犬または犬筥といって筥形の張子の犬を置いて,出産の守りとする風があった。はじめは筥形で中に守札などを入れ,顔も小児に似せたものであった。庶民の間には江戸時代後期に普及したらしく,嫁入道具の一つに加えられ,雛壇にも飾られた。犬張子を産の守りとする風は,犬が多産でお産が軽い動物と信じられ,かつ邪霊や魔をはらう呪力があると信じられたからであろう。」

という。この頃の犬張子は今のものとはやや違うようだ。
 「犬筥」で検索すると今のものや江戸時代後期のものは出てくるが、あまり古いものは残ってないようだ。本来は役目を終えたら神社に奉納するものだったのか。
 ただ子供の遊び道具になってしまったものもあって、古くなるとあちこと禿げてきて、それでも子供心になかなか手放せない。
 犬張子はまだ庶民のものではなく上流の習慣だったことで、「俗」ではなく「雅」とされていて、貞門の俳諧にふさわしい題材だったと思われる。
 五句目。

   兀たはりこも捨ぬわらはべ
 けうあるともてはやしけり雛迄  一以

 前句の張子は犬張子から切り離して只の張子とし、「わらはべ」から「雛(ひひな)」へと展開する。三月三日のひな祭り、春の句となる。
 当時は上流階級では寛永雛という小さな小袖姿の雛人形があったが、庶民の間に紙製の立ち人形が広まるのはもう少し後で、元禄二年に、

 草の戸も住替る代ぞひなの家   芭蕉

の句があるように、この頃でもそれこそ「時代が変わったな」と感じるほど画期的だったのではないかと思われる。
 古くなった張子は、あるいは流し雛のときに一緒に流したのかもしれない。
 六句目。

   けうあるともてはやしけり雛迄
 月のくれまで汲むももの酒    宗房

 ここでようやく芭蕉の登場となる。次が執筆だから末席といっていいだろう。
 「桃の酒」は曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』に、

 「[蘇頌図経]太清本草本方に云、酒に桃花を漬してこれを飲は、百病を除き、顔色を益す。[千金方]三月三日、桃花一斗一升をとり、井花水三升、麹六升、これを以て好く炊て酒に漬し、これを飲めば太(はなはだ)よろし。○御酒古草、御酒に入るる桃也。」

とある。
 晴の舞台に引き出された当時数え二十二歳の芭蕉さん。かなり緊張もあったのだろう。春の句になったところでためらわずに定座を引き上げて月を出すところは堂々としている。ただ、「まで」を重ねてしまったところは若さか。
 七句目。

   月のくれまで汲むももの酒
 長閑なる仙の遊にしくはあらじ  執筆

 桃の酒は不老不死の仙薬ということで仙人を登場させる。「しく」は及ぶということ。仙人の遊びに及ぶものはない。
 八句目。

   長閑なる仙の遊にしくはあらじ
 景よき方にのぶる絵むしろ     蝉吟

 さて一巡して蝉吟に戻ってくる。
 「しく」に「絵むしろ」は連歌でいう「かけてには」になる。こういう古風な付け方も貞門ならではだろう。

2018年11月16日金曜日

 ダライ・ラマさん、いつの間にか日本に来てたようだ。ウイグルのこともあるしチベットは大丈夫なのか。
 まあ、それはともかく、今日はよく晴れていたが、夕方には雲が多くなり、半月は朧だった。
 では「野は雪に」の巻の続き。
 さて、次は季吟の脇を見てみよう。

   野は雪にかるれどかれぬ紫苑哉
 鷹の餌ごひに音おばなき跡    季吟

 鷹は冬の季語で、飼われている鷹は人に餌をねだる時に甲高い大きな声で餌鳴きする。「鳴く」と師匠の「亡き跡」を掛けている。
 芭蕉も後に『奥の細道』の旅で、加賀の一笑の死を知らされ、

 塚も動け我が泣く声は秋の風   芭蕉

と詠んでいる。昔の日本人は韓国人のように大声で泣いたようだ。そう思うと、鷹の餌鳴きも「アイゴー」と言っているように聞こえる。
 雪の野に鷹というと、

 ふる雪に行方も見えずはし鷹の
     尾ぶさの鈴のおとばかりして
             隆源法師(千載和歌集)
 空に立つ鳥だにみえぬ雪もよに
     すずろに鷹をすゑてけるかな
             和泉式部(和泉式部集)

など、古歌に雪の鷹狩りを詠む歌は幾つもある。それゆえ雪と鷹は付き物で、あえて證歌を引くまでもない。
 それでは第三。ここからが実質的な興行の始まりで、即興のやり取りになる。

   鷹の餌ごひに音おばなき跡
 飼狗のごとく手馴し年を経て   正好

 第三は発句の師恩の情を離れて展開する。とはいえ脇の鷹の餌乞いの声と「なき跡」の掛詞だと、追悼の意は去りがたい。そのため「飼狗のごとく手馴し」と育てられた鷹の気持ちになって、鷹の主人を失った悲しみに泣くとする。苦しい展開と言えなくもない。
 鷹狩りに猟犬は付き物だが、證歌はというとよくわからない。
 『万葉集』巻七、一二八九には、

 垣越ゆる犬呼び越して鳥猟する君
 青山のしげき山べに馬息め君

の旋頭歌もある。
 コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、

 「初見は『日本書紀』仁徳(にんとく)天皇の43年(359)9月、百済(くだら)から伝えられたといわれている。しかし、鷹は元来、わが国に生息したものであり、その飼養の最初は応神(おうじん)天皇のときという説もある。令(りょう)制では兵部省のもとに主鷹司(しゅようし)が置かれ、「鷹犬調習せむ事」とあり、のち民部省に移し放鷹司と改称された。仏教思想の影響もあって、禁止令も多く出たが、奈良・平安時代にたいへん盛んになり、嵯峨(さが)天皇は儀式典礼に関心が深かったためもあって、『新修鷹経(ようきょう)』を撰(せん)し、君主の娯楽であることを明確にした。仁明(にんみょう)、陽成(ようぜい)、光孝(こうこう)、宇多(うだ)、醍醐(だいご)天皇等々、平安時代の天皇はこれを好み、北野、交野(かたの)、宇多野を天皇の狩場と定めた。『源氏物語』藤裏葉(ふじのうらば)巻にも「蔵人所(くろうどどころ)の鷹かひの北野に狩つかうまつれる」とあるように、のちには蔵人所のもとに鷹飼(たかがい)の職制を定められている。また光孝天皇のときには近衛府(このえふ)の官人または蔵人に鷹・犬をつけて諸国に下し、野鳥をとらせている。これを狩の使(つかい)という。
 正月の大臣家大饗(たいきょう)の儀には、犬飼とともに庭中に参り、酒宴にあずかる。」

など、王朝時代の鷹狩りは鷹と犬がセットになっていたことが窺われる。

2018年11月15日木曜日

 さて、貞門というと掛詞だ。
 正岡子規は明治二十七年の『芭蕉雑談』で「貞門の洒落(地口)檀林の滑稽(諧謔)」という言い方をしているが、駄洒落と掛詞の境界は確かに難しいかもしれない。
 強いて言うなら、掛詞は二つの似た音の単語を組み合わせることで意味の融合を生じるが、駄洒落の多くは意味が融合されるどころか逆に反発しあってナンセンスを生じる。
 「紫苑」と「師恩」を合わせれば鬼の醜草の異名のある忘れられない紫苑の花に師の恩が合わさり、容易に融合するが、これが「紫苑」と「四音」なら「三音なのにシオンとはこれいかに」と駄洒落になる。ちなみに紫苑とシオニズムのシオンなら、はるかな失われた故郷の忘れられないということで掛詞は可能だ。
 掛詞はもちろん貞門の専売特許ではない。談林の祖にも、

   よひの年雨降けるに
 浪速津にさくやの雨やはなの春   宗因
 今こんといひしば雁の料理かな   同
 秀たる詞の花はこれや蘭      同

の句がある。宗因も本来は連歌師だから、掛詞は得意だったはずだ。
 芭蕉の場合、貞門時代はもちろん様々な掛詞を駆使した貞門らしい句を詠んでいたが、談林時代から天和にかけてはほとんどみられない。
 ただ蕉風確立期になると掛詞が復活する。
 貞享二年の句に、

 しのぶさへ枯て餅かふやどり哉   芭蕉
 盃にみつの名をのむこよひ哉    同
 
 貞享三年の句に、

 幾霜に心ばせをの松かざり     芭蕉

の句があり、貞享四年には、

 歩行ならば杖つき坂を落馬哉    芭蕉

 貞享五年(元禄元年)には、

 はだかにはまだ衣更着のあらし哉  芭蕉
 あさよさを誰まつしまぞ片ごころ  同

 そして元禄二年、『奥の細道』の旅でも、

 あらたうと青葉若葉の日の光    芭蕉
 あつみ山や吹浦かけて夕すずみ   同
 象潟や雨に西施がねぶの花     同
 蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ    同

 またやや微妙だが、

 雲の峰いくつ崩れて月の山     同

も「尽きぬ」と「月の」を掛けていると思われる。
 この中にはいわゆる旅の句で、地名を一般的な意味とを掛けているものも多い。これは「歌枕」の発想といえよう。
 面白いのは、近代の写生説では古池の句で写生を確立した芭蕉が、それまでの貞門や談林の技巧をやめたかのように言われてきたが、実際にはその古池の句の前後の蕉風確立期に掛詞が見られるということだ。
 むしろ蕉風確立期だからこそ古典回帰が生じ、掛詞の復活になったのではないかと思う。猿蓑以降はまた鳴りを潜めることになる。
 近代俳句でも稀に掛詞の句はある。

 言の葉や思惟の木の実が山に満つ   窓秋

 思惟を椎に掛けている。

2018年11月14日水曜日

 神無月の月も半月に近づいている。
 さて、この辺でまた『俳諧問答』のほうは休憩して、俳諧を読んでみようと思う。
 季節的にまだ少し早いが、芭蕉がまだ伊賀の宗房だった頃の唯一現存している俳諧百韻、「野は雪に」の巻を読んでみよう。
 寛文五年(一六六五)霜月十三日の興行で、発句は芭蕉(当時は宗房)の主人だった藤堂良忠(俳号は蝉吟)、脇は京の季吟だが脇だけの参加なので、書簡による参加であろう。それに正好、一笑、一以、それに執筆が一句参加している。
 田中善信の『芭蕉二つの顔』(一九九八、講談社)によると、一以は明暦二年(一六五六)の『崑山土塵集』や『玉海集』に入集歴があり「宗匠格」ではないかとしている。正好、一笑は商人ではないかとしている。一笑は芭蕉が「塚も動け」の句を詠んだ加賀の一笑とは別人。
 この興行は貞門の祖松永貞徳の十三回忌追善俳諧で、発句は、

 野は雪にかるれどかれぬ紫苑哉  蝉吟

 これに、季吟が、

   野は雪にかるれどかれぬ紫苑哉
 鷹の餌ごひに音おばなき跡    季吟

と付けた所で始まる。
 紫苑は秋の季語だが、ここでは「雪」と組み合わせることで冬の句となる。
 紫苑は別名「鬼の醜草(おにのしこぐさ)」ともいう。

 忘れ草我が下紐に付けたれど
     鬼の醜草(しこくさ)言にしありけり
              大伴家持

の歌もある。原文には「鬼乃志許草」とあるが、なぜかネットで見ると「醜(しこ)の醜草(しこくさ)」になっている。
 曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には、『袖中抄』を引用し、

 「鬼醜女草、これ紫苑也。鬼のしこ草とは別の草の名にあらず。忘草は愁を忘るる草なれば、恋しき人を忘れん料に、下紐につけたれど、更にわするることなし。忘草といふ名は只事にありけん、猶恋しければ鬼のしこ草也けりといふ也。」

と書いている。
 忘れるなら忘れ草(萱草)、忘れないなら紫苑だった。
 「枯れぬ紫苑」は決して忘れることがない、という意味で、「紫苑」は「師恩」に掛かる。貞徳さんのご恩はたとえ野が雪に埋もれても決して枯れることがない、忘れることのできない師恩ですというのがこの発句の意味になる。

2018年11月11日日曜日

 今日は箱根山に登った。
 といっても新宿区にある戸山公園の箱根山、標高44メートルだが。
 西早稲田から神楽坂を散歩した。以前古代東海道、東への旅で通ったことのあるあたりだ。神楽坂は賑やかで、いろいろなイベントをやっていた。TVドラマのロケ地としても盛り上がっているようだ。
 では本題に。

 不易流行の遠い起源は、おそらく『易経』の雷風恒だろう。

 「恒、亨。无咎。利貞。利有攸往。」

とあり、「亨(とおる)。咎(とが)なし。貞(ただ)しきの利(よろ)し。往くところあるに利(よろ)し。」というふうに吉祥とされる。
 ただ、上が雷で下が風というと、積乱雲が発生して雷がぴかぴかごろごろ落ちてきて、強い上昇気流が竜巻となって登ってゆく、かなり荒れ狂う状況が想定される。それでいて吉祥なのは、上にある物が降りてきて下にある物が登ってゆくことで、それぞれ交わり地天泰と同様、陰陽和合の吉祥となる。

 「彖曰、恒久也。剛上而柔下。雷風相與、巽而動、剛柔皆応恒。」

 上の雷は「震」で長男を表す。下の風は「巽」で長女を表す。男は陽気で本来上昇するはずのものが雷となって下り、女は陰気で本来下降するはずのものが竜巻となって登ってゆく。ゆえに男女交わり陰陽和合となる。
 この交わりの元となるのは今でいう上昇気流であり、その意味では女性主導の陰陽和合、「巽而動、剛柔皆応恒。」となる。
 政治的に言えば下にある物、つまり大衆主導で君子を動かしての天下泰平となる。それゆえ、

 「恒亨、无咎、利貞、久於其道。」

となる。

 「天地之道、恒久而不已也。利有攸往、終則有始也。日月得天而能久照、四時変化而能久成、聖人久於其道而天下化成。観其所恒而天地万物之情可見矣。」

 天地の道は恒久にして止むことなく、終わりは始まりとなる。日月は沈んでもまた昇り、いつまでも照らし続け、四季の変化も延々と繰り返される。
 聖人は日月の運行や四季の変化をもとに長く天下を治める道を造り、その恒なる所を見て万物の情を見る。

 「象曰、雷風恒。君子以て立不易方。」

 雷や竜巻が荒れ狂い、この世界は変化して止まないけど、それは日月の運行や四季の循環のように繰り返されるもので、終わりは次の始まりとなり、変わることはない。君子はこの恒の道に立って、方を変えることはない。すなわち「不易」。
 流行して止まぬ世界において不易の道に立つ。それが君子だということになる。
 雷や竜巻が荒れ狂うのは、決して悪い徴ではない。
 現代的に言えば、この世は有限な大地に無限の生命が繁栄できないように、必ず生存競争が生じ、争いに満ち溢れている。しかし、その生存競争が生命の多様性と複雑な生態系を形作り、自然界を安定させる。
 人間の世界も争いが絶えず、罵りあい、街の喧騒を形作りながらも、それでも、互いに譲り、上手く折り合いをつけながら、道は多くの人が行きかい、それが街の活気となる。
 人は別に争うために生まれてきたのではない。ただ、たまたま生存競争に勝ち、多くの子孫を残すことに役に立った能力を、生まれながらに具えているにすぎない。それはあくまで能力であって目的ではない。だからその能力は平和を維持するのにも用いられる。
 日々の喧騒は鬱陶しく、憂うべきことかもしれない。ただ、その中で人は共存の道を探り、この世界を少しでも棲みやすいものに変えようとする。
 変化して止まぬ世界もそこに自ずと秩序が生まれ、混沌は万物の母となる。それが道だ。
 君子はその変化して止まぬ世界の中に、日月の運行や四季の変化のように、変化して止まない中に常に繰り返され変わることのないものを見出す。
 それは風雅の誠にしても同様であろう。風雅の誠はまさに変化して止まぬ世界の中に不易を見出す営みに他ならない。
 天がそれを押し付けるのではなく、地の側から風を吹かせ、地の上昇と天の下降が交わる時、「恒亨、无咎、利貞、久於其道。」となる。
 いわば君主が一方的に高い理想を説くのではなく、大衆の喧騒猥雑の中から巻き起こる風の動きを受けて、そこに真の理想を読み取ることが重要になる。
 夫婦もまた夫が一方的に妻を支配するのではなく、妻の情を十分汲み上げた上で家を運営する必要がある。

 「初六。浚恒。貞凶。无攸利。」

 初六は雷風恒の一番下が陰(六)であるということをいう。
 一番下が陰ということは、恒久の道といえども最下層の隅々まで残さず支配しようとするのは「凶」となり、政治はうまく行かないということを言う。

 「象曰、浚恆之凶、始求深也。」

 隅々まで残さず道を広めようとするのが良くないのは、始に深く求めすぎるからである。
 これは風雅の誠でいえば、初期衝動を抑圧してはいけないと解するべきであろう。それが道のすべての元になっている根本的な混沌で、すべてはそこから生まれる。
 逆に一番上の陰(六)については、

 「上六、振恒凶。
 象曰、振恒在上大无功也。」

とある。一番上の恒はぶれてはいけない。ぶれたらすべてが台無しになる。
 惟然の超軽みの風は初期衝動の開放という点では成功したが、それをきちんと不易の誠に繋ぎとめることができなかったため、単なる流行に終ったといってもいいだろう。芭蕉が生きていたなら、それができたかもしれない。惜しむところだ。

2018年11月9日金曜日

 今日はまた一転して一日雨。
 「ボヘミアンラブソディ」という映画の封切り日だったせいか、ラジオからは一日中クイーンの曲が流れる。ただ、クイーンを聴くと何となく日本にハリマオというバンドがあったのを思い出す。
 防弾少年団(バンタンソニョンダン、略してBTS)のことがニュースになっていたが、別にTシャツくらいいいじゃないか、右翼のデモが恐くての判断か。まあ、生放送だからゲリラ的に政治的アピールをされるのを警戒したのかもしれない。だけどやるとしてもせいぜいTシャツを二枚重ねて着て、最後に上のをはぐるくらいのことだろう。それくらいなら可愛いものだ。
 あの時は軍部は一億玉砕なんて言ってた頃で、戦争が終った時はこれで死なずにすんだとほっと胸をなでおろした人もたくさんいた。そして戦犯たちは国民の囂々たる非難にさらされたが、日本人はアメリカを恨んだりはしなかった。それが答だ。
 ただもちろん、何十万もの人が死んで、生き残った人の多くが後遺症に苦しんだことを考えれば、原爆が落ちて良かったなんて口が裂けても言えない。原爆なしで軍部を降伏させる方法はなかったかと思う。
 まあ、話が長くなったが、『俳諧問答』の続き。

 「くハしき事ハ奥ニ記ス」というのはこの手紙の後に『俳諧問答』に収録されている「俳諧自讃之論」のことだろうか。
 次の十七章についてもこうある。

 「一、第十七章ニ云、師在世の時、予不易・流行といはず、又前にすへずして句を作りたる事、再編の問ハ、奥の自讃といふ条目ニ記ス。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.79)

 第十八章の所は前半省略するが、

 「不易・流行は口より出て後ニあらはるる物なれバ、あながちニ不易・流行を貴しとする物にハあらず。此論奥ニ委シ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.79)

とあるように、不易流行について更に詳しく見るには「俳諧自讃之論」を読んだ方がいいのだろう。
 また少し飛んで、第二十四章のところに

 世の中を這入り兼てや蛇の穴   惟然

の句が引用され、「少あはれなる所もあり」とコメントしている。
 この頃の以前の発句は、見たものをそのまま詠んだだけなのか、それとも思いつく言葉を並べてみただけなのかといったような、句意も俳意も定かでない句が多い中で、この句は確かにわかりやすいし寓意がある。
 今で言えば引き籠りだが、昔だったら立派な隠者だ。それを自嘲気味に「蛇の穴」と呼んだのだろう。惟然にしては珍しい。
 ありのままを詠むという発想は、

 庭前に白く咲きたる椿かな    鬼貫

の句にもあるし、もう少し後に伊勢派の乙由が、

 百姓の鍬かたげ行さむさ哉    乙由

の句を詠んでいる。
 余談だが、くしゃみをした後に「畜生」と言う人はよく聞くが、地方によっては「鍬かつぐ」と言うところがあると以前どこかで聞いたことがある。あるいはこの句が元になっているのかもしれない。
 畜生は「はくしょん」「ちくしょう」で韻を踏んでいるところから来たと思われる。「鍬かつぐ」は「はくしょん」と「ひゃくしょう」が似ているところから「鍬かつぐ」になったと思われる。
 こうした平俗軽妙の句は誰でも気軽に作れるというところから、幕末明治の大量の凡句の山を生むことになったし、近代の夥しい数の写生句もその延長にある。今泉恂之介は『子規は何を葬ったのか』(新潮選書、2012)の中で、逆にこうした句を皆悉く名句だとしている。多分名句の概念が違うのだろう。
 芭蕉も『奥の細道』の旅の中で、殺生石の所で、

   殺生石
 石の香や夏草赤く露あつし   芭蕉

の句を詠んでいるが、これもそのまんまを詠んでいる。この句は曾良の『俳諧書留』ではなく『旅日記』の方にあり、後に『陸奥鵆』にも収録されている。
 芭蕉が晩年、理論や技法に囚われずに初期衝動をもっと開放した方が良いと思い立った時、惟然や風国にかつて自分が没にしたようなこういう句の読み方を逆に勧めることになったのか。
 ある意味で、今の俳句を先取りしたとも言える。ただ、去来や許六からは理解されず、「蛇の穴」の句の方を良しとしたようだ。

2018年11月8日木曜日

 今日は晴れた。富士山が綺麗に見えたが、暖かいせいか大分雪が減っててっぺんだけになっていた。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「不易・流行定まらざる世界ニ、名句なきにもあらず、予不易・流行のなき世界ニ生れたらんにハあらね共、今の人不易・流行に縛クせられたる事を嘲る也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.78)

 不易流行に限らずどんな美学や芸術学の理論でも、それ自身が秀作を産むわけではない。ただ説明するためのものだ。これはもう何度も述べてきた。説明である以上、過去に遡って説明することはできる。ただ、その理論がなければ秀作が生まれないなんてことはない。
 ただ、なまじ理論を勉強したばかりに、理論に縛られるというのはいつの時代にもあることで、いつの時代でもそういうのは嘲笑の的だ。それ以上の意味はない。
 子規も虚子も写生説は説いたが写生に縛られてはいない。縛られて、本来の初期衝動を見失ってしまうのは、結局凡庸な作者だ。元から表現すべきものがないのだろう。
 表現したいという衝動もなく、ただ人からの借り物の理論でそれっぽいものをこしらえても所詮は似せ物で、そこには何の感動も生まれない。AIに芸術を作らせる場合でも、初期衝動をどうプログラミングするかがポイントだろう。
 去来もいくつもの秀逸を残しているし、別に不易流行に縛られてたわけではあるまい。ただ、余りそればかり強調すると、弟子にいい影響は与えない。芭蕉にはたくさんの優秀な弟子がいたが、去来の弟子って‥‥。

 「新古今の時、作者おぼえず
 もろこしの芳野の山にこもるとも
  おくれむとおもふ我ならなくに
といへる歌よむ人あり。撰者達の論云ク、此歌名歌なりといへ共、是俳諧体なりとて、終ニ新古今集の俳諧体ニ入たりといへり。芳野をあまり遠くよみなさむとて、唐土のよし野といへる事、実ハなき事也。是俳諧体也といへり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.78)

 新古今というのは版本を作る際の誤植か。古今集が正しい。
 この説によるなら、この「もろこし」は比喩で遠い所の喩えということになる。たとえ唐土のように遠い芳野の山にこもるとも、という意味。
 昔は「夢のハワイ」というような言い方をよくしたが、もちろんハワイは現実に存在する島で夢ではない。ただ夢のように遠いハワイという意味でこう言う。
 この歌の作者が突飛な比喩で笑いを取ろうという意図があったのかどうかは定かでない。ある程度意識されていたなら、たとえ「俳諧体」という詞がまだなかったにせよ、何かこういう笑える和歌もあってもいいんでないかいと、一つの体を意識していた可能性はある。
 真面目に歌を詠んだのだけど、比喩がちょっと突飛すぎて結局笑われてしまった、というなら創作が先で体は後ということになる。
 ただ、歌を詠む場面もいろいろあるし、その場その場で何となく詠み方をかえるというのは誰しもやっていることだろう。くだけた席で詠むのとあらたまった席で詠むのとはまた違うだろうし、独り言のように詠む場合と相手をヨイショするために詠む場合とでも作り方は違ってくる。聞く人を泣かせてやろうとして詠む場合もあれば、笑わせてやろうと思って詠む場合だってあるだろう。
 詠み分けというのはごく自然に誰もがやっていることで、ただそれを分類して何々体と名付けるのは後からだ。
 曲を作るのでも、盛り上げてやろうと思って作る曲や、ちょっと息抜きするための曲、ここはじっくり聞かせようと思って作る曲など、作り分けるのは普通のことだ。ただ、分類は音楽評論家の仕事だ。

 「作者ハ何体をよみ侍るともなく、名歌よみ出さむと斗案じたらん。っ撰者有て体を分ツなれバ、体ハ跡にして趣向先なるべし。くハしき事ハ奥ニ記ス。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.78~79)

 「名歌よみ出さむと斗案じたらん」というのもまた「過ぎたり」であろう。昔の歌人が別にひたすら名声のために歌を詠んでいたわけではないだろうし、むしろ歌の贈答などのコミュニケーションのツールとして用いてたり、まずはその場を和ませたりとか、そういうことも重要だっただろう。名歌を詠むというよりは、まずその場で受けるかどうかの方が大事だったかもしれない。そのためには場をわきまえた上で詠み分けるというのも、普通に行われていたのではないかと思う。
 「名歌よみ出さむ」というのは少なからず競争を意識してのことではないかと思う。歌合せで勝つためだとか高得点を取るためとか、あるいは勅撰集への入集を狙うだとか、そういうところで初めて意識されるのではないかと思う。
 俳諧でも発句は基本的に興行の開始の挨拶であり、本来はそんな名句を残そうとして詠むものでもなかった。談林の頃までは、俳諧の中で発句はそれほど重視はされてなかった。発句で名句が意識されたのは、かえって古池の句の大ヒットによるものだったのかもしれない。それ以降、発句で名句をよみ出さむみたいな空気が出来上がっていったのかもしれない。
 俳諧も基本は興行をどう盛り上げるかだった。そのために気の利いた挨拶と場を和ます面白いネタが必要だった。ただ、名句を意識しだすと、もはや興行から離れ、撰集の中で目を引くとことばかりを考えるようになる。そうしたことも俳諧を窒息させる原因だったのかもしれない。
 体というのは明確に意識されなくても少なからず作者の創作の際にはあるものだと思う。名句を詠むことだけを意識するというのは、和歌でも俳諧でも本来の姿ではなかったのではないかと思う。名歌名句はむしろ後の人々の決めることで、作者はただ、今表現したいものを表現するだけなのだと思う。
 よく、ホームランは狙って打てるものではないというし、下手にホームランを狙おうとすると大体は大振りになって結局空振りする。名歌も名句も他のジャンルの芸術の名作でも、それは言えるのではないかと思う。許六さんも「十団子」以来なかなかヒットに恵まれなかったのは、その辺に原因があったのかもしれない。

2018年11月7日水曜日

 今朝は雨が上がっていた。今日で秋も終り。明日からは神無月で冬になる。
 アメリカの中間選挙は結局大方の予想通りで特に波乱はなかったようだ。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「先生の論ハ、俳諧初りの証拠など書給ひ侍れ共、此論ハ歌の初の事を述ぶ。俳諧と分ていふにハあらず。不易・流行なき以前といふ論を察し給ふべし。
 赤人のふじの歌ハ、何体・たれ風をしたふといふ事もなし。只志をよめり。今の風しり・体しりの一字半言も及がたし。
 人丸のほのぼの、猿丸のおく山等又是ニ同じ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.77~78)

 先生は去来のこと。俳諧の始まりについて、和泉式部、平忠盛、源頼朝を引き合いに出したことを言う。
 俳諧は俗語の連歌であり、連歌は和歌の上句と下句を分ける所から生じたものだ。
 土芳の『三冊子』「しろさうし」の冒頭には、「俳諧は哥也。哥は天地開闢の時より有。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,83)とある。俳諧と連歌と和歌は起源を共にし、ひろく「哥(歌)」と呼ばれていた。「歌の文字も定まらざる時」というのは、『三冊子』「しろさうし」でいう「陰神陽神磤馭慮島に天下りて、まづめがみ、「喜哉遇可美少年との給ふ。陽神は喜哉遇可美少女ととなへ給へり。是は哥としもなけれど、心に思ふ事詞に出る所則哥也。故に是を哥の始とすると也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,83)のことを言う。イザナギイザナミ神話の「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」「阿那邇夜志愛袁登売袁(あなにやしえをとめを)」を指す。
 こうした記紀神話のまだ和歌の体を成してない歌から俳諧まで、歌は連続していると考えられていた。
 許六が不易流行なき以前というのは、俳諧のみに限らずこうした「歌」の伝統全体を指す。
 それゆえ、ここでは万葉集の歌を引用する。赤人の歌は今日では、

 田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ
     不尽の高嶺に雪は降りける
                山部赤人

だが、当時はむしろ『新古今集』や『小倉百人一首』の、

 田子の浦にうち出でてみれば白妙の
     富士の高嶺に雪は降りつつ
                山部赤人

の形で知られていた。
 もちろんまだ和歌十体のなかった時代だ。ただ、十対の中のどれかに強引に当てはめようとすればできなくはないだろう。
 赤人だって、先人の影響は受けていたかもしれない、たとえば人麿とか。それにこうした歌は今では「万葉調」と呼ばれ、この時代の一つの風として扱われている。ただ、それらはすべて後付けにすぎない。今日では写生説の見本のようにも言われているが、それは近代の写生説を当てはめているだけで、当時そのような説があったのではない。
 「只志をよめり」というのは『詩経』大序の「詩者、志之所之也。在心為志、發言為詩。」から来ている。心にあることを志といい、それを言葉に表すことで詩になる。
 古代東海道では田子の浦は船で越えたから、そのときに全貌を現した富士山への感動をそのまま詠んだのであろう。
 「人丸のほのぼの、猿丸のおく山」は、

 ほのぼのとあかしの浦の朝霧に
     島隠れゆく舟をしぞ思ふ
              よみ人しらず

と、

 奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の
     声聞く時ぞ秋はかなしき
              猿丸丈夫

の歌だが、古今集の「ほのぼのと」の歌は当時は柿本人麿(人丸)の歌とされていた。
 これらの歌は、詠まれた当時はもちろん不易流行説もないし、もちろん写生説もなかったが、後からそれを当てはめて説明することはできる。

2018年11月6日火曜日

 今日は午前中は小雨で、午後から本降りになった。
 久しぶりにまとまった雨になった。

 『俳諧問答』続きに行く前に、ほんのちょっとこやん曰、
 人間の行動というのは、長い進化の過程で獲得した様々な欲望、感情、衝動によるもので、これらは皆その場その場で偶発的に起きた突然変異の集積で、別に統一されたものではない。ただ、どれも結局子孫を残すということに偶然役立ったために生き残っているにすぎない。
 誰だってそのときの気分で同じ物事でも感じ方が違ったり、昨日は大いに楽しんだことでも今日には飽きていたり、考え方もその時々でバラバラで平気で矛盾したようなことをするし、まあ結局それが人間というものだ。いくら理性で律するといっても、完全な人間なんてどこにもいない。
 だから理想の美だの理想の芸術だの言っても、どこにも答があるわけではない。ただ初期衝動に突き動かされ、言葉を発し、それをメロディーをつけて歌ってみたり、振り付けをして踊ってみたりして、多くの人が面白いと思えばそれは秀逸だ。絵や造形でも同じだ。
 過去のいろんな秀逸な作品を整理し、そこに理論を立てることはできる。理論が先にできて、そこから秀逸な作品が生まれることはまずない。
 それは結局政治においても同じなのだと思う。
 一人一人がその場その場で、どうすれば他人と無駄に争うことなく幸福な生活が確保できるかいろいろ工夫する。こうしたことの積み重ねが社会秩序を形作っている。
 自分の欲望と他人の欲望が真っ向からぶつかり合い喧嘩になれば、いつでも勝てるという保証はない。特に人間は頭がいいから、いくら腕っ節が強い者でも、飛び道具を用いたり騙まし討ちにしたり、大勢でかかったりすれば簡単に倒せることを知っている。体力のある物が勝つとは限らないし、頭のいいものが勝つとは限らない。誰でも勝つチャンスはある。その意味では人間は平等だ。
 だから人間はいつでも負ける可能性を頭に入れておかなくてはならない。ならば喧嘩は極力避けたほうが良いということになる。
 政治というのは結局はいろいろ妥協しながらも、みんなが安心して自分の欲望を満たせるよう工夫する、一人一人のその積み重ねからできている。これは政治の初期衝動とでも言えよう。
 こうした積み重ねによってできた様々な習慣、法、制度をあとから理論としてまとめることはできる。それが思想だ。理論が先にあって、そこから習慣や法や制度が作られるのではない。人々の実生活から来る政治の初期衝動を無視して理論だけが一人歩きすれば、かならずディストピアに陥る。
 理想の芸術を作るにも、理想の社会を作るにも、人間は答を知らない。だからあれこれ試行錯誤して良い物を残し悪い物を捨てて、自然選択と同じようなことを人為的に繰り返してゆくしかない。その繰り返しと蓄積が人類の唯一の進歩を生み出す。
 科学も無数の仮説を立てて検証されたものだけを残してゆくことで、限りなく真理の近似値を得る事ができる。芸術でも政治でも同じことをするしかない。
 今アメリカでは中間選挙が行われているが、選挙がなぜ必要かというと、政治的対立は「論駁」で解決することはできないからだ。どんな主張にも必ず反対の主張を立てることができるということは、古代ギリシャの人たちが既に知っていたことだった。だから人を裁くのには裁判を行い、物事を決めるのには採決を取ることにした。
 政治を決定するのは一部の思想家ではない。国民一人一人の政治への初期衝動が何よりも重要だ。

2018年11月5日月曜日

 体というのは、基本的には後から振り返って分類しているだけで、実際の創作の際は一々意識しているわけではない。
 写生説にしても、客観写生を説いた高浜虚子の句がすべて客観写生なわけではない。

 過ぎて行く日を惜みつつ春を待つ  虚子
 山辺赤人が好き人丸忌       同
 藤袴吾亦紅など名にめでて     同
 小春ともいひ又春の如しとも    同
 顧みる七十年の夏木立       同
 過ちは過ちとして爽やかに     同
 ここに来てまみえし思ひ翁の忌   同
 初時雨しかと心にとめにけり    同

など、様々な体の句を詠んでいる。

 去年今年貫く棒の如きもの     虚子

などは虚子の代表作ともいえる。
 句を詠むときに大事なのは、何かを表現したいという初期衝動で、理論や技法はそれを助けるものにすぎない。理論や技法だけが一人歩きしてしまうと、力のない、何を言っているのかわからない句になる。
 芭蕉も、貞門談林の技法に習熟し、蕉風の独自の技法を開発して、不易流行や虚実の論も自ら生み出してきた。それでも晩年になって初期衝動の大切さは見失ってなかった。惟然や風国に教えたのもそういうことだろう。
 田氏捨女の自撰句集には、貞門の技法に習熟した円熟した作品に彩られているが、結局世間に知られているのは、捨女自身の作かどうかも定かでない、

 雪の朝二の字二の字の下駄の跡  捨女

だった。
 この句には貞門の高度な技法はどこにもないが、初期衝動なら確かにある。「俳諧は三尺の童にさせよ」というのもそういう意味だったのであろう。
 不易と流行は「体」であるというのは、同時にそれは体にすぎないという意味でもある。
 創作の時にはそれに囚われるべきではないし、むしろそうした既存の枠組みをブレイクスルーしたところに本当の新味が生まれる。
 許六が去来に不易と流行に迷っていると言ったのは、体というのはあくまでも便宜的な分類すぎず、後から説明するための理論だということを言いたかったのだろう。
 芭蕉が不易流行を説く前にもいくらでも秀逸があった。芭蕉にも古池の句があるし、さらには連歌や和歌にもたくさんの秀逸が残されている。

 「一、第十六章問答ノ返書ニ云ク、予が不易・流行なき以前の論を嘲て、俳諧和歌の一体たる事を示せり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.77)

 去来は俳諧が和歌の一体にすぎなかったことを示し、こうしたものが神代にあったとしても、句があれば風があり、句がないなら風もない。
 不易も流行も風である。
 故に句があれば不易も流行もあり、句がないなら不易も流行もない。不易流行以前の句なるものは存在しない、という奇妙な論理を展開した。

 「幷ニそと織姫の風をしたひて、小町ハ歌をよめり。西行ハ古ニよめりと、後鳥羽院ののたま侍りし事も、是明也。
 其そとおり姫ハ誰が風をよめるぞ。又師ハたれが風と押シて尋る時ハ、神代の風に成ぬ。
 歌の文字も定まらざる時、歌十体、又ハ不易・流行、又ほそミ・しほりなどいへる事なけれ共、忝も皆名歌となれり。
 歌幷俳諧少もかはる事なし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.77)

 たとえば子規が写生説を唱える以前に写生はなかったかというとそうではない。ただ写生があったということと写生説があったということはまったく別だ。
 実際近代の俳人や歌人も同じ過ちを犯して、芭蕉の句に写生的なものがあるから、芭蕉が写生説を説いたと考えている。万葉集に関しても同じで、万葉の時代に写生説があったかのように論じている。
 同じようなことは様々な場面で起こっている。マルクスが共産主義を説く前にも、共産主義的なものはあった。だが、共産主義的なものがあるのと共産主義があるのとは同じでない。しかし、この混同から文明以前に「原始共産制」が仮定されている。
 不易流行の考え方も朱子学の影響によるものだが、それ以前に遡れば『易経』の雷風恒にまで遡れる。しかしそれは芭蕉の不易流行説ではない。だがもちろん不易流行的な発想は古代からあった。
 去来が句があるなら不易も流行もあると考えるのは、こうした発想によるものだ。芭蕉は不易流行を説いたが、後から見るなら昔にも不易の歌はあるし流行の歌もあったとおもわれる。
 許六が言うのは、あくまで芭蕉が不易流行を説く前、不易流行が明確に意識される前にも秀逸があったということで、古代の文字も定まらぬ頃の歌に不易や流行が見出されるかではない。
 理論というのは後から振り返って説明するもので、それは確かに過去に遡って説明することも可能だ。だが創作は過去に遡ることはできない。創作は理論よりも先にあった。
 この誤りはひとえにあたかも今日の我々の理論は完璧であり、古今東西のすべてのものを説明できると信じる思い上りから来る。
 不易流行は一つの説にすぎず、これがあれば悉く名句が生まれるというようなものではない。理論は所詮理論にすぎず、自ずと限界があり、時には初期衝動によって簡単に打ち破られる。
 同様、写生説も一つの説にすぎない。共産主義も一つの説にすぎない。人権思想だってそうだ。科学だっていまだ統一理論が存在しない以上、この世のすべてのものを説明することはできない。
 人間の理論は限界があり、人間の創作は必ずそれを越える。故にそれを「神」と呼ぶ。

2018年11月4日日曜日

 昨日は妙義山へ行った。
 浦上玉堂の絵にあるような屹立する岩峰をリアルに見ることができた。
 あたりに店も少なく、来るのは登山客で、観光地としてはやや寂しい感じがするが、それだけにここは穴場かもしれない。
 景色はすばらしいし、蒟蒻や下仁田ネギは地味に旨い。
 大分歩いたので今日は家でお休み。外は小雨が降っている。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 このあと許六は「再呈落柿舎先生」を書く。前回の手紙への反省や何かは省略して、不易流行に係わる所を見てみよう。

 「一、十四章の問答に、不易・流行を前にすへて、後ニ句を案ずる事、全クなき事といふにハあらず。一座の興、又ハ導の為ニハ、前にすへて、不易をせむ、流行して見せむなど、我黨もなき事ニあらず。此論奥の自讃といふ条目の下ニ、委敷記ス。
 題の発句・讃物の類の引導、先生の言ト是レ信あり。予も亡師在世の時これを習ひ置事。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.75)

 遊びだったり指導するためだったりで、不易の句はこう作る、流行の句はこう作るというのは、去来門だけでなく、我黨(わがなかま)にもあると許六が認めている。
 問題はその次だ。

 「一、十五章の問答ニ、風ト体の二ツ、問ひ答へいささか相違有事。
 予きく、師の雑談おりふしニ、不易流行の事出たり。千歳不易の体、一時流行の体とハのび給へり。不易の風・流行の風とハ、終ニきかず。但予が耳の癖歟。先生の慈恩ニよく明して、一生の迷ひを照し給へ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.75)

 芭蕉は許六にも積極的にではないが雑談の合い間に、不易流行のことを話はしていたようだ。
 ただ、その時は「不易の体、流行の体」と言っていて、「不易の風、流行の風」とは言わなかったようだ。
 これは芭蕉が途中で考えを変えたのか、それとも去来が勘違いして覚えていたか、どちらかであろう。どちらかは定かでない。
 ただ、後に去来は『去来抄』で「不易の体」「流行の体」という言い方をしているので、去来の勘違いだった可能性が高い。おそらくこの問答の後、他の門人にも確かめて、過ちを認めたのだろう。

 「先生の書ニ云、風は万葉・古今の風、又ハ国風・一人の風といへり。体ハ古今を押渡りて用捨なしとあり。是レ先師の言ト貫之の論も相違なし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.75~76)

 風や体が意味することに関しては、去来さんの書も先師や紀貫之の論とも相違ない。風は変わるが、体はその時代によって用いられたり捨て去られたりするものではない。

 「予察するに、万葉の風を古今にうつし、古今の風を新古今ニ変ず。
 定家の風をやめて西行の風にうつさば、捨る所の風ハいたづらに成ル味あり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.76)

 万葉、古今、新古今と風を変えるのは発展段階と考えることができるが、定家の風から西行の風と言った場合は、発展ではなく、そもそも作風の違う二人なのだから、西行の風を取れば定家の風は捨てることになる。

 「返書のごとく、宗因の風用ひられて貞徳の風ハいひ出す人もなく、信徳むづかしといひて亡師の風にうつる。
 亡師の風も又同じ。炭俵出て跡々の風を廃ス。
 先生、不易・流行を風といはば、取捨の風儀に落む歟。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.76)

 宗因の風を取れば貞徳の風は捨てられ、信徳が先師の次韻の新風に移るときには宗因の風は捨て去られる。
 そう言われてみれば、不易流行が一時の風ではないのは明白だ。
 先師の風を変える場合でも、蕉風確立期には天和調を捨て、猿蓑調になればそれまでの風を捨て、炭俵の風になれば猿蓑調も捨てる。
 ならば、不易・流行が風ならば、それらは次の風に変わったときに捨て去られるようなものなのか。

 「予が云ク、風ハうごきニして、枝葉也。体ハ根にして古今を貫く。
 宗因の風ハすたれ共、俳諧の体ハ世に昌むニ残り、信徳ハとらぬ共、其体ハ相続して、あらぬ島々まで俳諧せぬものなき世也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.76)

 宗因の風は廃れても、宗因の開いた俳諧の体は残り、いまや日本中俳諧を知らないものはないような世の中となった。

 「今の不易・流行ハ俳諧の体也。きのふの流行ハすたれ共、又今日の流行あり。今日の流行捨たれ共、明日の流行に富めり。是レ枝葉ハ動くといへ共、全ク根の動ざる事しれり。しからバ不易・流行ハ体といはん歟。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.76~77)

 風は変わっても、その時その時の流行はある。流行は普遍的な現象であり、一つの風は流行しても流行そのものはいつの世にもどこの国にもある。流行は一時の現象ではなく、それ自体は「体」だということになる。

 「又先生の風といへるも一理なきにハあるまじ。不易・流行ハ亡師の風といはば、風ともいふべきか。なれ共、芭蕉風の中ニ、不易・流行ハ体也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.76~77)

 確かに、芭蕉の俳諧を蕉風と言うことができる以上、芭蕉の俳諧も貞徳風、宗因風があるのと同様、一つの風と呼ぶことができる。だから不易流行も先師の風だと言えなくもない。
 ただ、蕉風の中には不易の体と流行の体がある。宗因亡き後も宗因が開いた俳諧の体があるように、芭蕉亡き後も不易の体と流行の体はある。
 これを近代で言えば、たとえば正岡子規の写生説は正岡子規が提唱し、はやらせた一つの風と言えなくもない。
 ただ、写生は様々な時代、様々な文化、様々な芸術の中に一つの要素として常に存在している。その意味では写生は「体」といえよう。
 万葉集にも蕉風にも蕪村風にも写生的な要素はある。近代でも写生の句を作ろう、理想の句を作ろうとあらかじめ決めて句を作ることもできる。
 写実主義や理想主義はその時代の風ではあるが、写生も理想も時代を超えて存在するので「体」と言っていいだろう。

2018年11月2日金曜日

 明け方の月がどこへ行ったのかと探してしまうくらい東によっていた。今日は旧暦九月二十五日。秋ももう残り少ない。
 それでは『俳諧問答』の続き。去来の手紙の最後まで。

 「来書曰、故に同門のそねみ・あざけりをかへり見ず、筆をつつまずして此を起す。此雑談隠密の事にさたにおよ不及、諸門弟の眼にさらし、向後を慎む便とならば、大幸ならん。
 廿九、去来曰、阿兄道に志ざすの深き、此言にいたる。尤感涙す。
 是を他日湖南の丈草兄・正秀兄におくりて、猶二子の俳胸を聞ん。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.70)

 このあたりは社交儀礼で締めに入っているだけで、それほど問題はないだろう。

 「来書曰、願くハ高弟、予と共に志を合して蕉門をかため、大敵を防ぎ給へ。
 卅、去来曰、阿兄の言勇つべし。然ども予が性もと柔弱にして、敵に当るの器にあらず。曾ツ十月のはじめより、心虚ト労役を兼病す。
 今日薬におこたらず。向来猶弓を引、矛を振ふの力なけん。
 幸強将下に弱兵なし。益兵をやしなひ、陣を練て、大敵をやぶり給へ。
 阿兄のごときハ実に蕉門の忠臣、一方の大将軍也。
   元禄丁丑十二月日      落柿舎嵯峨去来
  五老井許先生
       几右」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.70~71)

 惟然については大賊ではなく単に迷っているだけだと弁護し、そのほかの敵についても軽く受け流した去来は、もちろん許六と一緒に戦うなんて気はさらさらなかったのだろう。
 ただあからさまな言い方をせず、病弱にかこつけてここでは辞退することになる。
 この書簡には追伸がついている。

 「病後精力いまだ全からず。是故に此一書、風国をなのみ清書仕候畢。誤字・脱字・衍文等、御考御披見可被下候。猶語意きこへがたき物ハ、重而御不審を蒙たきもの也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.71)

 これで去来の手紙は終る。

2018年11月1日木曜日

 『俳諧問答』の続き。

 「来書曰、故に近年以ての外の集をちりばめ、世上に辱をさらすも、専ラ此惟然坊が罪也。
 廿五、去来曰、此罪又惟然にあらず。坊四方を行脚すといへども、其徒集を撰べるものすくなし。
 南都に一集あり、撰者をわする。
 はじめ坊助成す。然ども坊が心にかなハず。半にしてのがれぬとききぬ。
 又豊後の一集あり。此ハ惟然が手筋たり。然ども此集、坊が教示より先草稿し、後坊に聞て加入すと聞けり。
 そのほか坊が徒の集なし。
 或曰、豊後に集已板に出。世にあらハす事ハ惟然教示ノ後ノ集也。その前より有集ハ、終に板に不出。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.68~69)

 南都の集は玄梅撰の『鳥の道』(元禄十年刊)だと文庫の注にある。
 豊後の集は朱拙撰の『梅桜』(元禄十年刊)だと文庫の注にある。
 『俳家奇人談』(竹内玄玄一編、文化十三年)の天狗集が話題になってない所を見ると、やはりこれは後世の伝説であろう。元禄八年から九年の九州の旅の紀行『もじの関』も話題にはなっていない。
 
 「来書曰、口すぎ世わたりの便とせば、それは是非なし。
 廿六、去来曰、彼坊における、定て此事なけん。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.69)

 まあ、別に金のために集を作っているわけではなかろう。当時の俳書ってそんなに金になったのかな。むしろ俳書を出すことで一門の力量を世間にアピールし、弟子を集めてという所なのだろうけど、旅ばかりして一所に落ち着かない惟然は、そんな弟子をたくさん集めて金を巻き上げることには興味なかっただろう。

 「来書曰、惟然にかぎらず、浄瑠璃の情より俳諧を作り、金山談合の席に名月の句を案ずるやからも、稀々にありといへ共、是は大かた同門他門ともに本性を見届、例の昼狐とはやし侍れば、罪も少からん。
 廿七、去来曰、阿兄の言感笑す。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.69)

 これは惟然というよりは其角嵐雪といった古い門人や大阪談林を指すのか。
 芭蕉の元禄七年二月二十五日の許六宛書簡に「其角・嵐雪が儀は、年々古狸よろしく鼓打ちはやし候はん」とあるが、それを「昼狐」に変えて、オリジナルのようにしたか。
 なお、この手紙には「彦根五つ物、勢ひにのつとり、世上の人を踏みつぶすべき勇体、あつぱれ風雅の武士の手わざなるべし。」という一文もある。これを冗談に取らずに真に受けたのが、許六の「予短才未練なりといへども、一派の俳諧におゐては大敵をうけて一方の城をかため、大軍をまつ先かけ一番にうち死せんとするこころざし、鉄石のごとし。」につながったか。

 「来書曰、予短才未練なりといへども、一派の俳諧におゐてハ、大敵を請て一方の城をかため、大軍を真先懸て一番に討死せんとする志、鉄石のごとし。
 廿八、去来曰、勇者ハ必しも義有にあらず。此角が謂か。
 義者は必勇あり。是阿兄の謂也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.69~70)

 「義を見てせざるは勇無きなり」は『論語』「為政」の有名な言葉だが、義は利に対する言葉でもある。
 利を見てリスクを背負うのはベンチャーだが、義はリスクに関わらずすべきことだ。
 其角が果して利益のために江戸座を開いて点取り俳諧をしてたのかは定かでない。ただ、従来の興行俳諧にこだわらずに新しい俳諧のスタイルを切り開いたという意味では、これもベンチャーだったといえよう。
 許六は随分物騒なことを言っているが、義からならいいが、というところだろう。