2018年11月8日木曜日

 今日は晴れた。富士山が綺麗に見えたが、暖かいせいか大分雪が減っててっぺんだけになっていた。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「不易・流行定まらざる世界ニ、名句なきにもあらず、予不易・流行のなき世界ニ生れたらんにハあらね共、今の人不易・流行に縛クせられたる事を嘲る也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.78)

 不易流行に限らずどんな美学や芸術学の理論でも、それ自身が秀作を産むわけではない。ただ説明するためのものだ。これはもう何度も述べてきた。説明である以上、過去に遡って説明することはできる。ただ、その理論がなければ秀作が生まれないなんてことはない。
 ただ、なまじ理論を勉強したばかりに、理論に縛られるというのはいつの時代にもあることで、いつの時代でもそういうのは嘲笑の的だ。それ以上の意味はない。
 子規も虚子も写生説は説いたが写生に縛られてはいない。縛られて、本来の初期衝動を見失ってしまうのは、結局凡庸な作者だ。元から表現すべきものがないのだろう。
 表現したいという衝動もなく、ただ人からの借り物の理論でそれっぽいものをこしらえても所詮は似せ物で、そこには何の感動も生まれない。AIに芸術を作らせる場合でも、初期衝動をどうプログラミングするかがポイントだろう。
 去来もいくつもの秀逸を残しているし、別に不易流行に縛られてたわけではあるまい。ただ、余りそればかり強調すると、弟子にいい影響は与えない。芭蕉にはたくさんの優秀な弟子がいたが、去来の弟子って‥‥。

 「新古今の時、作者おぼえず
 もろこしの芳野の山にこもるとも
  おくれむとおもふ我ならなくに
といへる歌よむ人あり。撰者達の論云ク、此歌名歌なりといへ共、是俳諧体なりとて、終ニ新古今集の俳諧体ニ入たりといへり。芳野をあまり遠くよみなさむとて、唐土のよし野といへる事、実ハなき事也。是俳諧体也といへり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.78)

 新古今というのは版本を作る際の誤植か。古今集が正しい。
 この説によるなら、この「もろこし」は比喩で遠い所の喩えということになる。たとえ唐土のように遠い芳野の山にこもるとも、という意味。
 昔は「夢のハワイ」というような言い方をよくしたが、もちろんハワイは現実に存在する島で夢ではない。ただ夢のように遠いハワイという意味でこう言う。
 この歌の作者が突飛な比喩で笑いを取ろうという意図があったのかどうかは定かでない。ある程度意識されていたなら、たとえ「俳諧体」という詞がまだなかったにせよ、何かこういう笑える和歌もあってもいいんでないかいと、一つの体を意識していた可能性はある。
 真面目に歌を詠んだのだけど、比喩がちょっと突飛すぎて結局笑われてしまった、というなら創作が先で体は後ということになる。
 ただ、歌を詠む場面もいろいろあるし、その場その場で何となく詠み方をかえるというのは誰しもやっていることだろう。くだけた席で詠むのとあらたまった席で詠むのとはまた違うだろうし、独り言のように詠む場合と相手をヨイショするために詠む場合とでも作り方は違ってくる。聞く人を泣かせてやろうとして詠む場合もあれば、笑わせてやろうと思って詠む場合だってあるだろう。
 詠み分けというのはごく自然に誰もがやっていることで、ただそれを分類して何々体と名付けるのは後からだ。
 曲を作るのでも、盛り上げてやろうと思って作る曲や、ちょっと息抜きするための曲、ここはじっくり聞かせようと思って作る曲など、作り分けるのは普通のことだ。ただ、分類は音楽評論家の仕事だ。

 「作者ハ何体をよみ侍るともなく、名歌よみ出さむと斗案じたらん。っ撰者有て体を分ツなれバ、体ハ跡にして趣向先なるべし。くハしき事ハ奥ニ記ス。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.78~79)

 「名歌よみ出さむと斗案じたらん」というのもまた「過ぎたり」であろう。昔の歌人が別にひたすら名声のために歌を詠んでいたわけではないだろうし、むしろ歌の贈答などのコミュニケーションのツールとして用いてたり、まずはその場を和ませたりとか、そういうことも重要だっただろう。名歌を詠むというよりは、まずその場で受けるかどうかの方が大事だったかもしれない。そのためには場をわきまえた上で詠み分けるというのも、普通に行われていたのではないかと思う。
 「名歌よみ出さむ」というのは少なからず競争を意識してのことではないかと思う。歌合せで勝つためだとか高得点を取るためとか、あるいは勅撰集への入集を狙うだとか、そういうところで初めて意識されるのではないかと思う。
 俳諧でも発句は基本的に興行の開始の挨拶であり、本来はそんな名句を残そうとして詠むものでもなかった。談林の頃までは、俳諧の中で発句はそれほど重視はされてなかった。発句で名句が意識されたのは、かえって古池の句の大ヒットによるものだったのかもしれない。それ以降、発句で名句をよみ出さむみたいな空気が出来上がっていったのかもしれない。
 俳諧も基本は興行をどう盛り上げるかだった。そのために気の利いた挨拶と場を和ます面白いネタが必要だった。ただ、名句を意識しだすと、もはや興行から離れ、撰集の中で目を引くとことばかりを考えるようになる。そうしたことも俳諧を窒息させる原因だったのかもしれない。
 体というのは明確に意識されなくても少なからず作者の創作の際にはあるものだと思う。名句を詠むことだけを意識するというのは、和歌でも俳諧でも本来の姿ではなかったのではないかと思う。名歌名句はむしろ後の人々の決めることで、作者はただ、今表現したいものを表現するだけなのだと思う。
 よく、ホームランは狙って打てるものではないというし、下手にホームランを狙おうとすると大体は大振りになって結局空振りする。名歌も名句も他のジャンルの芸術の名作でも、それは言えるのではないかと思う。許六さんも「十団子」以来なかなかヒットに恵まれなかったのは、その辺に原因があったのかもしれない。

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