「野は雪に」の巻の続き。初裏に入る。
九句目。
景よき方にのぶる絵むしろ
道すじを登りて峰にさか向 一笑
「さか向(むかへ)」はコトバンクの「百科事典マイペディアの解説」によれば、
「平安時代,現地に赴任した国司を現地官が国堺まで出迎えて行った対面儀礼。《将門(しょうもん)記》に常陸(ひたち)国の藤氏が平将門(まさかど)を坂迎えして大饗したとみえる。新しい支配者を出迎えてもてなした行為に由来し,堺迎・坂向とも書く。また中世伊勢参詣などからの帰郷者を村堺まで出迎えて共同飲食した行為を,坂迎えといい,酒迎とも記した。」
だという。
「景よき方」に「峰」、「絵むしろ」の「坂迎え」と四つ手に付く。
十句目。
道すじを登りて峰にさか向
案内しりつつ責る山城 正好
『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に、
「『さか向』を『逆向へ』(下から上に向って攻める意)に取りなし、山城(山上の城)を攻める意とした。」
とある。特に異論はない。
十一句目。
案内しりつつ責る山城
あれこそは鬼の崖と目を付て 宗房
「崖」は「いわや」と読む。前句の「山城」を鬼の岩屋に見立てるわけだが、これは物付けではなく意(こころ)付けになる。江戸後期の解説書なら「二句一章」というところだろう。
それにしても「鬼の岩屋」とは御伽草子のような空想趣味で、後の次韻調に繋がるものかもしれない。奇抜な空想とリアルな現実が同居するのが芭蕉だ。
十二句目。
あれこそは鬼の崖と目を付て
我大君の国とよむ哥 一以
『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注には、
「謡曲・大江山『草も木も我が大君の国なれば、いづくか鬼の住家なるべし』。
とある。
『太平記』巻第十六に、
「又天智天皇の御宇に藤原千方と云者有て、金鬼・風鬼・水鬼・隠形鬼と云四の鬼を使へり。金鬼は其身堅固にして、矢を射るに立ず。風鬼は大風を吹せて、敵城を吹破る。水鬼は洪水を流して、敵を陸地に溺す。隠形鬼は其形を隠して、俄敵を拉。如斯の神変、凡夫の智力を以て可防非ざれば、伊賀・伊勢の両国、是が為に妨られて王化に順ふ者なし。爰に紀朝雄と云ける者、宣旨を蒙て彼国に下、一首の歌を読て、鬼の中へぞ送ける。草も木も我大君の国なればいづくか鬼の棲なるべき四の鬼此歌を見て、『さては我等悪逆無道の臣に随て、善政有徳の君を背奉りける事、天罰遁るゝ処無りけり。』とて忽に四方に去て失にければ、千方勢ひを失て軈て朝雄に討れにけり。」
とあるのが出典か。
本説付けだが、後の蕉門の本説付けのようにほんの少し変えるというのをやってなくて、そのまま付けている。このころはそれで良かったのだろう。
十三句目。
我大君の国とよむ哥
祝ひとおぼす御賀の催しに 蝉吟
「祝ひ」は『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注によれば、「『む』の誤写。「いははむ」と読む」とある。
「賀」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」には、
「①祝い。
②長寿の祝い。賀の祝い。
参考②は、四十歳から十年ごとに「四十の賀」「五十の賀」などと祝った習慣で、平安貴族の間で盛んに行われた。室町時代以後は、「還暦」「古稀(こき)」「喜寿」「米寿」「白寿」などを祝った。」
とある。
『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注には、
「天皇の四十歳以後十年毎に年寿を祝うこと。」
とある。前句の「我大君」と合わせて、御賀は天皇の賀ということになる。
お祝いの時に謡う和歌といえばやはり、『古今集』巻七の、
わが君は千代に八千代にさざれ石の
いはほとなりて苔のむすまで
よみ人しらず
だろうか。
十四句目。
祝ひとおぼす御賀の催しに
きけば四十にはやならせらる 一笑
「御賀」に「四十(よそじ)」と付く。御賀の説明をしただけであまり発展性はないが、貞門時代はこれで良しとしたようだ。
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