昨日は妙義山へ行った。
浦上玉堂の絵にあるような屹立する岩峰をリアルに見ることができた。
あたりに店も少なく、来るのは登山客で、観光地としてはやや寂しい感じがするが、それだけにここは穴場かもしれない。
景色はすばらしいし、蒟蒻や下仁田ネギは地味に旨い。
大分歩いたので今日は家でお休み。外は小雨が降っている。
それでは『俳諧問答』の続き。
このあと許六は「再呈落柿舎先生」を書く。前回の手紙への反省や何かは省略して、不易流行に係わる所を見てみよう。
「一、十四章の問答に、不易・流行を前にすへて、後ニ句を案ずる事、全クなき事といふにハあらず。一座の興、又ハ導の為ニハ、前にすへて、不易をせむ、流行して見せむなど、我黨もなき事ニあらず。此論奥の自讃といふ条目の下ニ、委敷記ス。
題の発句・讃物の類の引導、先生の言ト是レ信あり。予も亡師在世の時これを習ひ置事。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.75)
遊びだったり指導するためだったりで、不易の句はこう作る、流行の句はこう作るというのは、去来門だけでなく、我黨(わがなかま)にもあると許六が認めている。
問題はその次だ。
「一、十五章の問答ニ、風ト体の二ツ、問ひ答へいささか相違有事。
予きく、師の雑談おりふしニ、不易流行の事出たり。千歳不易の体、一時流行の体とハのび給へり。不易の風・流行の風とハ、終ニきかず。但予が耳の癖歟。先生の慈恩ニよく明して、一生の迷ひを照し給へ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.75)
芭蕉は許六にも積極的にではないが雑談の合い間に、不易流行のことを話はしていたようだ。
ただ、その時は「不易の体、流行の体」と言っていて、「不易の風、流行の風」とは言わなかったようだ。
これは芭蕉が途中で考えを変えたのか、それとも去来が勘違いして覚えていたか、どちらかであろう。どちらかは定かでない。
ただ、後に去来は『去来抄』で「不易の体」「流行の体」という言い方をしているので、去来の勘違いだった可能性が高い。おそらくこの問答の後、他の門人にも確かめて、過ちを認めたのだろう。
「先生の書ニ云、風は万葉・古今の風、又ハ国風・一人の風といへり。体ハ古今を押渡りて用捨なしとあり。是レ先師の言ト貫之の論も相違なし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.75~76)
風や体が意味することに関しては、去来さんの書も先師や紀貫之の論とも相違ない。風は変わるが、体はその時代によって用いられたり捨て去られたりするものではない。
「予察するに、万葉の風を古今にうつし、古今の風を新古今ニ変ず。
定家の風をやめて西行の風にうつさば、捨る所の風ハいたづらに成ル味あり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.76)
万葉、古今、新古今と風を変えるのは発展段階と考えることができるが、定家の風から西行の風と言った場合は、発展ではなく、そもそも作風の違う二人なのだから、西行の風を取れば定家の風は捨てることになる。
「返書のごとく、宗因の風用ひられて貞徳の風ハいひ出す人もなく、信徳むづかしといひて亡師の風にうつる。
亡師の風も又同じ。炭俵出て跡々の風を廃ス。
先生、不易・流行を風といはば、取捨の風儀に落む歟。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.76)
宗因の風を取れば貞徳の風は捨てられ、信徳が先師の次韻の新風に移るときには宗因の風は捨て去られる。
そう言われてみれば、不易流行が一時の風ではないのは明白だ。
先師の風を変える場合でも、蕉風確立期には天和調を捨て、猿蓑調になればそれまでの風を捨て、炭俵の風になれば猿蓑調も捨てる。
ならば、不易・流行が風ならば、それらは次の風に変わったときに捨て去られるようなものなのか。
「予が云ク、風ハうごきニして、枝葉也。体ハ根にして古今を貫く。
宗因の風ハすたれ共、俳諧の体ハ世に昌むニ残り、信徳ハとらぬ共、其体ハ相続して、あらぬ島々まで俳諧せぬものなき世也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.76)
宗因の風は廃れても、宗因の開いた俳諧の体は残り、いまや日本中俳諧を知らないものはないような世の中となった。
「今の不易・流行ハ俳諧の体也。きのふの流行ハすたれ共、又今日の流行あり。今日の流行捨たれ共、明日の流行に富めり。是レ枝葉ハ動くといへ共、全ク根の動ざる事しれり。しからバ不易・流行ハ体といはん歟。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.76~77)
風は変わっても、その時その時の流行はある。流行は普遍的な現象であり、一つの風は流行しても流行そのものはいつの世にもどこの国にもある。流行は一時の現象ではなく、それ自体は「体」だということになる。
「又先生の風といへるも一理なきにハあるまじ。不易・流行ハ亡師の風といはば、風ともいふべきか。なれ共、芭蕉風の中ニ、不易・流行ハ体也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.76~77)
確かに、芭蕉の俳諧を蕉風と言うことができる以上、芭蕉の俳諧も貞徳風、宗因風があるのと同様、一つの風と呼ぶことができる。だから不易流行も先師の風だと言えなくもない。
ただ、蕉風の中には不易の体と流行の体がある。宗因亡き後も宗因が開いた俳諧の体があるように、芭蕉亡き後も不易の体と流行の体はある。
これを近代で言えば、たとえば正岡子規の写生説は正岡子規が提唱し、はやらせた一つの風と言えなくもない。
ただ、写生は様々な時代、様々な文化、様々な芸術の中に一つの要素として常に存在している。その意味では写生は「体」といえよう。
万葉集にも蕉風にも蕪村風にも写生的な要素はある。近代でも写生の句を作ろう、理想の句を作ろうとあらかじめ決めて句を作ることもできる。
写実主義や理想主義はその時代の風ではあるが、写生も理想も時代を超えて存在するので「体」と言っていいだろう。
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