今朝は雨が上がっていた。今日で秋も終り。明日からは神無月で冬になる。
アメリカの中間選挙は結局大方の予想通りで特に波乱はなかったようだ。
それでは『俳諧問答』の続き。
「先生の論ハ、俳諧初りの証拠など書給ひ侍れ共、此論ハ歌の初の事を述ぶ。俳諧と分ていふにハあらず。不易・流行なき以前といふ論を察し給ふべし。
赤人のふじの歌ハ、何体・たれ風をしたふといふ事もなし。只志をよめり。今の風しり・体しりの一字半言も及がたし。
人丸のほのぼの、猿丸のおく山等又是ニ同じ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.77~78)
先生は去来のこと。俳諧の始まりについて、和泉式部、平忠盛、源頼朝を引き合いに出したことを言う。
俳諧は俗語の連歌であり、連歌は和歌の上句と下句を分ける所から生じたものだ。
土芳の『三冊子』「しろさうし」の冒頭には、「俳諧は哥也。哥は天地開闢の時より有。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,83)とある。俳諧と連歌と和歌は起源を共にし、ひろく「哥(歌)」と呼ばれていた。「歌の文字も定まらざる時」というのは、『三冊子』「しろさうし」でいう「陰神陽神磤馭慮島に天下りて、まづめがみ、「喜哉遇可美少年との給ふ。陽神は喜哉遇可美少女ととなへ給へり。是は哥としもなけれど、心に思ふ事詞に出る所則哥也。故に是を哥の始とすると也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,83)のことを言う。イザナギイザナミ神話の「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」「阿那邇夜志愛袁登売袁(あなにやしえをとめを)」を指す。
こうした記紀神話のまだ和歌の体を成してない歌から俳諧まで、歌は連続していると考えられていた。
許六が不易流行なき以前というのは、俳諧のみに限らずこうした「歌」の伝統全体を指す。
それゆえ、ここでは万葉集の歌を引用する。赤人の歌は今日では、
田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ
不尽の高嶺に雪は降りける
山部赤人
だが、当時はむしろ『新古今集』や『小倉百人一首』の、
田子の浦にうち出でてみれば白妙の
富士の高嶺に雪は降りつつ
山部赤人
の形で知られていた。
もちろんまだ和歌十体のなかった時代だ。ただ、十対の中のどれかに強引に当てはめようとすればできなくはないだろう。
赤人だって、先人の影響は受けていたかもしれない、たとえば人麿とか。それにこうした歌は今では「万葉調」と呼ばれ、この時代の一つの風として扱われている。ただ、それらはすべて後付けにすぎない。今日では写生説の見本のようにも言われているが、それは近代の写生説を当てはめているだけで、当時そのような説があったのではない。
「只志をよめり」というのは『詩経』大序の「詩者、志之所之也。在心為志、發言為詩。」から来ている。心にあることを志といい、それを言葉に表すことで詩になる。
古代東海道では田子の浦は船で越えたから、そのときに全貌を現した富士山への感動をそのまま詠んだのであろう。
「人丸のほのぼの、猿丸のおく山」は、
ほのぼのとあかしの浦の朝霧に
島隠れゆく舟をしぞ思ふ
よみ人しらず
と、
奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の
声聞く時ぞ秋はかなしき
猿丸丈夫
の歌だが、古今集の「ほのぼのと」の歌は当時は柿本人麿(人丸)の歌とされていた。
これらの歌は、詠まれた当時はもちろん不易流行説もないし、もちろん写生説もなかったが、後からそれを当てはめて説明することはできる。
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