『俳諧問答』の続き。
「来書曰、故に近年以ての外の集をちりばめ、世上に辱をさらすも、専ラ此惟然坊が罪也。
廿五、去来曰、此罪又惟然にあらず。坊四方を行脚すといへども、其徒集を撰べるものすくなし。
南都に一集あり、撰者をわする。
はじめ坊助成す。然ども坊が心にかなハず。半にしてのがれぬとききぬ。
又豊後の一集あり。此ハ惟然が手筋たり。然ども此集、坊が教示より先草稿し、後坊に聞て加入すと聞けり。
そのほか坊が徒の集なし。
或曰、豊後に集已板に出。世にあらハす事ハ惟然教示ノ後ノ集也。その前より有集ハ、終に板に不出。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.68~69)
南都の集は玄梅撰の『鳥の道』(元禄十年刊)だと文庫の注にある。
豊後の集は朱拙撰の『梅桜』(元禄十年刊)だと文庫の注にある。
『俳家奇人談』(竹内玄玄一編、文化十三年)の天狗集が話題になってない所を見ると、やはりこれは後世の伝説であろう。元禄八年から九年の九州の旅の紀行『もじの関』も話題にはなっていない。
「来書曰、口すぎ世わたりの便とせば、それは是非なし。
廿六、去来曰、彼坊における、定て此事なけん。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.69)
まあ、別に金のために集を作っているわけではなかろう。当時の俳書ってそんなに金になったのかな。むしろ俳書を出すことで一門の力量を世間にアピールし、弟子を集めてという所なのだろうけど、旅ばかりして一所に落ち着かない惟然は、そんな弟子をたくさん集めて金を巻き上げることには興味なかっただろう。
「来書曰、惟然にかぎらず、浄瑠璃の情より俳諧を作り、金山談合の席に名月の句を案ずるやからも、稀々にありといへ共、是は大かた同門他門ともに本性を見届、例の昼狐とはやし侍れば、罪も少からん。
廿七、去来曰、阿兄の言感笑す。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.69)
これは惟然というよりは其角嵐雪といった古い門人や大阪談林を指すのか。
芭蕉の元禄七年二月二十五日の許六宛書簡に「其角・嵐雪が儀は、年々古狸よろしく鼓打ちはやし候はん」とあるが、それを「昼狐」に変えて、オリジナルのようにしたか。
なお、この手紙には「彦根五つ物、勢ひにのつとり、世上の人を踏みつぶすべき勇体、あつぱれ風雅の武士の手わざなるべし。」という一文もある。これを冗談に取らずに真に受けたのが、許六の「予短才未練なりといへども、一派の俳諧におゐては大敵をうけて一方の城をかため、大軍をまつ先かけ一番にうち死せんとするこころざし、鉄石のごとし。」につながったか。
「来書曰、予短才未練なりといへども、一派の俳諧におゐてハ、大敵を請て一方の城をかため、大軍を真先懸て一番に討死せんとする志、鉄石のごとし。
廿八、去来曰、勇者ハ必しも義有にあらず。此角が謂か。
義者は必勇あり。是阿兄の謂也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.69~70)
「義を見てせざるは勇無きなり」は『論語』「為政」の有名な言葉だが、義は利に対する言葉でもある。
利を見てリスクを背負うのはベンチャーだが、義はリスクに関わらずすべきことだ。
其角が果して利益のために江戸座を開いて点取り俳諧をしてたのかは定かでない。ただ、従来の興行俳諧にこだわらずに新しい俳諧のスタイルを切り開いたという意味では、これもベンチャーだったといえよう。
許六は随分物騒なことを言っているが、義からならいいが、というところだろう。
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