2018年11月9日金曜日

 今日はまた一転して一日雨。
 「ボヘミアンラブソディ」という映画の封切り日だったせいか、ラジオからは一日中クイーンの曲が流れる。ただ、クイーンを聴くと何となく日本にハリマオというバンドがあったのを思い出す。
 防弾少年団(バンタンソニョンダン、略してBTS)のことがニュースになっていたが、別にTシャツくらいいいじゃないか、右翼のデモが恐くての判断か。まあ、生放送だからゲリラ的に政治的アピールをされるのを警戒したのかもしれない。だけどやるとしてもせいぜいTシャツを二枚重ねて着て、最後に上のをはぐるくらいのことだろう。それくらいなら可愛いものだ。
 あの時は軍部は一億玉砕なんて言ってた頃で、戦争が終った時はこれで死なずにすんだとほっと胸をなでおろした人もたくさんいた。そして戦犯たちは国民の囂々たる非難にさらされたが、日本人はアメリカを恨んだりはしなかった。それが答だ。
 ただもちろん、何十万もの人が死んで、生き残った人の多くが後遺症に苦しんだことを考えれば、原爆が落ちて良かったなんて口が裂けても言えない。原爆なしで軍部を降伏させる方法はなかったかと思う。
 まあ、話が長くなったが、『俳諧問答』の続き。

 「くハしき事ハ奥ニ記ス」というのはこの手紙の後に『俳諧問答』に収録されている「俳諧自讃之論」のことだろうか。
 次の十七章についてもこうある。

 「一、第十七章ニ云、師在世の時、予不易・流行といはず、又前にすへずして句を作りたる事、再編の問ハ、奥の自讃といふ条目ニ記ス。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.79)

 第十八章の所は前半省略するが、

 「不易・流行は口より出て後ニあらはるる物なれバ、あながちニ不易・流行を貴しとする物にハあらず。此論奥ニ委シ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.79)

とあるように、不易流行について更に詳しく見るには「俳諧自讃之論」を読んだ方がいいのだろう。
 また少し飛んで、第二十四章のところに

 世の中を這入り兼てや蛇の穴   惟然

の句が引用され、「少あはれなる所もあり」とコメントしている。
 この頃の以前の発句は、見たものをそのまま詠んだだけなのか、それとも思いつく言葉を並べてみただけなのかといったような、句意も俳意も定かでない句が多い中で、この句は確かにわかりやすいし寓意がある。
 今で言えば引き籠りだが、昔だったら立派な隠者だ。それを自嘲気味に「蛇の穴」と呼んだのだろう。惟然にしては珍しい。
 ありのままを詠むという発想は、

 庭前に白く咲きたる椿かな    鬼貫

の句にもあるし、もう少し後に伊勢派の乙由が、

 百姓の鍬かたげ行さむさ哉    乙由

の句を詠んでいる。
 余談だが、くしゃみをした後に「畜生」と言う人はよく聞くが、地方によっては「鍬かつぐ」と言うところがあると以前どこかで聞いたことがある。あるいはこの句が元になっているのかもしれない。
 畜生は「はくしょん」「ちくしょう」で韻を踏んでいるところから来たと思われる。「鍬かつぐ」は「はくしょん」と「ひゃくしょう」が似ているところから「鍬かつぐ」になったと思われる。
 こうした平俗軽妙の句は誰でも気軽に作れるというところから、幕末明治の大量の凡句の山を生むことになったし、近代の夥しい数の写生句もその延長にある。今泉恂之介は『子規は何を葬ったのか』(新潮選書、2012)の中で、逆にこうした句を皆悉く名句だとしている。多分名句の概念が違うのだろう。
 芭蕉も『奥の細道』の旅の中で、殺生石の所で、

   殺生石
 石の香や夏草赤く露あつし   芭蕉

の句を詠んでいるが、これもそのまんまを詠んでいる。この句は曾良の『俳諧書留』ではなく『旅日記』の方にあり、後に『陸奥鵆』にも収録されている。
 芭蕉が晩年、理論や技法に囚われずに初期衝動をもっと開放した方が良いと思い立った時、惟然や風国にかつて自分が没にしたようなこういう句の読み方を逆に勧めることになったのか。
 ある意味で、今の俳句を先取りしたとも言える。ただ、去来や許六からは理解されず、「蛇の穴」の句の方を良しとしたようだ。

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