2019年7月31日水曜日

 「俳諧問答」の続き。

 「皆衣にかえる事をよろこぶ句なるべし。予が趣向、會て此事よろこび侍らず。只干鮭面白侍る故に、歳旦ニ取合たる也。きぞ始ハ、仮令歳旦ゆへにむすび合たる也。
 元朝ぬくぬくときたる顔を見れバ、冬中、日本国中賤山がつまでくらひあましたるからざけ、此五文字にて冬中の事よくきこえ侍るを、うれしくて取合たる也。是全ク等類幷ふるしとハ、ふつふつ申がたし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.145~146)

 干鮭は冬の安くて手ごろな保存食だったのか、「日本国中賤(しず)山がつまでくらひあましたる」ほど大量に消費されていたようだ。ただ、この大量消費の方に比重を置くなら、もっと違う趣向があっただろう。「かえてやゑぞがきぞ始」では、やはり干鮭で着物を変えるというネタの方が立ってしまう。

 「此句難じていはば、『きぞ始』うまくてあししといひたし。外の詞ニて、歳譚の季をもたせ侍らバ、よく侍るべし。
 から鮭のゑぞハ古手で御慶かな
などむすびたらバ、よく侍らんか。『衣にかえてきぞ始』と、俗のよろこぶ所に、大きにしたるき所あり。等類ノ難ハ會てなし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.145~146)

 「古手」は使い古した衣類で、着衣始で新しい着物を着るのとはあえて逆にしたわけだが、どっちにしても蝦夷のことは推測だし、どのような正月を迎えていたかはよくわからない。だから古手で御慶でもいいわけだ。これだと確かに等類にはならない。

 「右申如ク、句ハ産所をきくを宗匠とハ申也。尚白が産所と愚が産所ハ大きに相違なる所より出侍れバ、等類ニてハなし。
 能因・頼政の白川の歌にてよくしれたり。鎌倉のかつほハ兼好より申ふるし、月下に門をたたく事ハ、賈島よりいひあまし侍れ共、師新敷いひ出し侍れバ、用ひやうにて、いかやうにもいはれ侍るもの也。
 おもき・かるきと云事をしらぬ作者なれバ、衣にかえるといふ面白ミにくらひつきて、からざけのかるきのあゆみをしらぬゆへに、等類の沙汰を申也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.146~147)

 能因・頼政の白川の歌は、

 都をば霞とともに立ちしかど
     秋風ぞ吹く白河の関
             能因法師
 都にはまだ青葉にて見しかども
     紅葉散り敷く白河の関
             源頼政

のことで、昔からよく似ていることで有名だ。頼政の歌は歌合せの歌として青葉、紅葉、白河の色彩の華やかさを取り柄として、オリジナルと認められた。能因法師の歌も「みちのくにゝまかり下りけるに白川の關にてよみ侍りける」という前書が付いていることから、本当に旅で詠んだとされているが、十訓抄や古今著聞集には旅をしたように装って発表したとされている。
 まあ、京から白河まで弥生の終わりに旅立ったとしても、三ヶ月以上もかかったというのは、いくら昔の旅のペースでもゆっくり過ぎる感じはする。芭蕉は霞とともに江戸を発ったが田植えの頃には白河にたどり着いている。
 この二つは似ているけど、能因の歌は真相はともかくとしても羇旅として詠まれたもので、頼政の歌は歌合せの余興で詠まれている。産所は確かに違う。
 「鎌倉のかつほハ兼好より申ふるし」は『徒然草』だい百十九段の、

 「鎌倉の海に鰹と言ふ魚は、かの境にはさうなきものにて、この比もてなすものなり。それも、鎌倉の年寄りの申し侍りしは、この魚、おのれら若かりし世までは、はかばしき人の前へ出づる事侍らざりき。頭は下部も食はず、切りて捨て侍りしもなり。と申しき。かやうな物も、世も末になれば、上ざままでも入りたつわざにこそ侍れ。」

を指すと思われる。
 鮮魚に乏しい京の人からすれば、鎌倉の鰹は珍しかったのだろう。ただここでは鰹を武家の比喩として用いて、鎌倉幕府の時代になって武士が威張ってるのを、昔は捨ててた鰹がもてはやされているのと重ね合わせて、世も末だと嘆いている。
 芭蕉はこの比喩を踏まえてか、

 鎌倉を生きて出でけん初鰹    芭蕉

と詠んでいる。命からがら北へ遁れた義経のイメージもあるのだろう。
 「月下に門をたたく事ハ、賈島より」は「推敲」の詞の語源となった有名な故事だが、芭蕉は、

 三井寺の門たたかばやけふの月  芭蕉

と詠んでいる。この句は謡曲『三井寺』も踏まえた二重の出典を持つが、出典の元の意味に拘泥せず、出典を知らなくても意味が通るように詠まれている。これを「軽み」という。
 ただ、許六のいう「からざけのかるきのあゆみ」はそれとは意味が違うように思える。
 別に尚白の「衣にかえるといふ面白ミ」が何らかの出典を持っているわけではないし、どちらも軽みの句だと思う。

2019年7月30日火曜日

 Dアニメで「氷菓」を見てみた。まだ二話までだが、ノスタルジーを誘うような美しい画像は流石だった。ここからミステリー展開してゆくのか、楽しみだ。
 画面に監督の名前が表示されると、やはり悲しくなり、現実に引き戻される。
 こういう甘美な世界が物足りないというなら、別のアニメを見ればいいだけだし、純丘曜彰さんや山本寛さんの言っていることは、結局ストーカーに刺されるのは誘惑する女が悪いという論理ではないかと思う。
 本当の遊び人はプロの誘惑のテクニックをわかっていて楽しむくらいの余裕があるものだ。本当のアニメオタクも同じだろう。
 連歌・俳諧も絵空事だとわかってて、その作意と技術を楽しむもので、作品の世界にのめり込ませないためにも、一句毎に話題を変えてゆくのだと思う。作品との距離を学ぶというのも俳諧の徳ではないかと思う。
 かえって純文学の方の人のほうが虚構と現実の区別が曖昧なのではないかと思う。
 それでは「俳諧問答」の続き。

 「一、去々年、愚歳旦ニ
 干鮭にかえてやゑぞがきぞ始
ト云句せしに、大津尚白が句に、
 干鮭に衣かえけりゑぞの人
と云句せし、翁も笑ハれたるよし、等類不吟味沙汰のかぎりと申侍る。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.144~145)

 「着衣始(きそはじめ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 江戸時代、正月三が日のうち吉日を選んで、新しい着物を着始めること。また、その儀式。《季・春》
 ※俳諧・犬子集(1633)一「きそ初してやいははん信濃柿」

とある。
 「干鮭(からざけ)」は鮭をそのまま干したもので、江戸後期に新巻鮭が広まる前はこちらの方が一般的だった。棒鱈と並んで冬の保存食だった。

 乾鮭も空也の痩も寒の中   芭蕉

は元禄三年の句。空也念仏の僧(「鉢叩き」ともいう)の痩せているのを見ると、寒風の中でさながら干物になったかのようだ。
 当時本土では実際にアイヌを見ることはなかっただろう。「ゑぞ」のイメージは古代に東北にいた人たちで、坂上田村麻呂が戦ったのも蝦夷なら、奥州三代も蝦夷に含まれるし、江戸時代に松前藩を作った蠣崎氏も東北の蝦夷の末裔であろう。

 干鮭にかえてやゑぞがきぞ始

の句は、松前の人たちは干鮭を売って新しい着物を買い、正月に着衣始をするという意味か。しかし、この句は、

 干鮭に衣かえけりゑぞの人  尚白

の句と見事にかぶってしまった。しかも尚白の句のほうがすっきりしていてわかりやすい。
 多分この頃京都の街に出回る干鮭の量も増え、さぞかし蝦夷はもうかっているな、という空気があったのだろう。
 「翁も笑ハれたるよし」とあるから元禄七年の歳旦か。「去々年」とあるが「一昨年」のことではないだろう。去来の元禄十年の歳暮と十一年の歳旦を話題にしているから、四年前になる。

 「此事以の外相違也。第一此句撰集に見えず。撰集に出ぬ句ハ等類の難なかるべしと、俊成ものたまひ侍る。
 其上愚句ハ、ゑぞが衣ニかえる事面白とて、趣向ニおもひよりたるにハあらず。予が趣向ハ、からざけ面白侍るゆへに、此歳旦ニおもひつけたる也。
 尚白、第一衣にかえる所に眼をつけ、よろこびたる事明也。其時代も大きにふるし。此尚白句の外ニも、いくばくかあるべし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.145)

 まあ、発表してないから等類にはならないのは確かだろう。人の絵をそのまま写し取っても、発表しなければただの模写で終る。自分の作品だといって発表して初めて盗作となる。
 許六の句は干鮭が流行っているので、これを歳旦の趣向にしようというところから着想したようだ。当時は江戸後期の新巻鮭のような正月料理として干鮭を食べるという習慣はなかったのだろう。だから干鮭だけでは歳旦にならず、何か正月の題材はないかと探っているうちに、蝦夷の人は干鮭の収入で着衣始をやっているのでは、という所に行き着いたようだ。あるあるネタだはなく、推測ネタであろう。推測だから「や」と疑うことになる。
 尚白の句はそれでいえば歳旦にはなっていない。衣更えだから夏の句となる。

2019年7月29日月曜日

 今日ようやく梅雨が明けた。明け方の空には細い月が見えて、水無月もあとわずか。
 こうして毎日のように季節のことを話題にする、その延長線上に本来の発句というのはあったんだろうな。梅雨明けに待ってましたと‥何しよう。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「一、予が当歳旦・歳暮の事、二ツながらいひ捨也。中々三ツ物帳に出す覚悟にあらず。歳暮、猶いひ捨也。歳旦も姿ふるめかし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.143)

 歳旦帳は誰もが出すわけではなかった。許六は出してなかったようだ。

 「蛤に弓初取合たる所、俗のしらぬかるき所とおもひて、姿のふるめかしき事もかまはず仕侍るなれ共、是仕損たるべし。達人などハせぬ事にてあるべし。此句ならでハ発句といふ物なきならバ、さもあるべし。沢山にいひ出さるる事なれバ、早速捨べき事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.144)

 蛤に弓初めの句は不明。許六というと、

 やつこ茶屋春の勢や弓初    許六
 梅が香や通り過れば弓の音   同

といった句があるが、どちらも元禄五年の『旅館日記』のもの。
 蛤も夫婦和合のお目出度いもので御節料理に用いるから、蛤と弓初めの取り合わせもありかもしれないが、いまひとつ狙いがはっきりしなかったのだろう。弓だけに。
 まあ、おざなりな句で毎年歳旦帳を出すのは俗流の師匠のすることで、達人ならこれはという句ができないならわざわざ発表することもないということか。

 「師遷化の後ハ、究め申宗匠なけれバ、自己ニ決定せぬ句など、出す物にハあるまじとおもひ侍る。向後よくたしなみ可申事也。
 たとひ仕損じたり共、自己に決定してよきとおもひ侍らバ、一段たるべし。
 中にふらりの句、人々ある事也。急度見究て、口外へ出さぬ事たるべし。心ひきひき、少の所に執心をかけて、一句ニなぐり置事、たしかに人々の上にあり。
 翁のいひ給ふあやうき所の仕損じといふ類にハあらず。是等ハとかく下品の類の句也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.144)

 先師芭蕉がいた頃はお伺いを立ててお墨付きを貰って発表することもあったが、先師亡き後はそうもいかない。発表するかどうかの決断は自分でしなくてはならない。
 発表すべきかどうか迷う句というのも、誰にでもあるものだが、しっかりと見究め、迷うような句なら発表しない方がいい。それでも捨てがたくてついつい発表してしまうことはありそうなことだが。
 芭蕉の言っていたような、ルールすれすれがやや逸脱したようでも見所のあるような「あやうき所の仕損じ」でないなら、だいたいは駄作といえる。

2019年7月28日日曜日

 台風は熱帯低気圧に変り、こちらでは夜中のうちに通り過ぎた。暑い夏らしい天気になり、もう梅雨明けだろう。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「一、第三、『あたたかで』の字、難じて云ク、古来より『で』と『て』ハとまりにも嫌ハず。折合にもかまはぬおきてなれば、第三『てどまり』にハ成まじとおもふ。
 此句、『にどまり』の句也。但、何の詞にても、第三とまる事あれバ、畢竟ハそれか。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.142)

 この「あたたかで」の第三のある巻については不明。
 脇は体言、第三は「て」か「らん」で留めるのが普通だが、もちろんそんなことは式目にはない。ただ古くから習慣として行われているだけで、稀に例外はあった。
 たとえば延宝四年の「此梅に」の巻は、

 此梅に牛も初音と鳴つべし      桃青
   ましてや蛙人間の作       信章
 春雨のかるうしやれたる世中に    信章

 貞享元年の「霜月や」の巻は、

 霜月や鸛の彳々ならびゐて     荷兮
   冬の朝日のあはれなりけり   芭蕉
 樫檜山家の体を木の葉降      重五

 元禄三年の「灰汁桶の」の巻は、

 灰汁桶の雫やみけりきりぎりす     凡兆
    あぶらかすりて宵寝する秋    芭蕉
 新畳敷ならしたる月かげに       野水

 元禄四年の「梅若菜」の巻は、

 梅若菜まりこの宿のとろろ汁     芭蕉
   かさあたらしき春の曙      乙州
 雲雀なく小田に土持比なれや     珍碩

というように、「て」「らん」以外の第三が用いられている。その意味では「で」で留めても基本的には問題はない。
 中世の連歌でも稀にそういう例はある。「顕証院会千句」の第八百韻に、

 みだれおふ蓬や萩の朝ねかみ     忍誓
   露置ゐたる常夏の秋       原秀
 月くらき草の枕の更る夜に      竜忠

とあるし、「湯山三吟」は、第三は「て」留めだが、

 うす雪に木葉色こき山路哉      肖柏
   岩もとすすき冬や猶みん     宗長
 松虫にさそはれそめし宿出でて    宗祇

のように脇が体言止めになっていない。
 また、「至徳二年石山百韻」では、

 月は山風ぞしくれににほの海     良基
   さざ波さむき夜こそふけぬれ   石山座主坊
 松一木あらぬ落葉に色かへで     周阿

と「で」留めも用いられている。
 ただ、ここで許六が言いたいのは、この場合は「あたたかに」で良かったのではないか、清濁を表示しないのいいことに、「で」を「て」と書いて、いかにも「て」留めを守りましたみたいなのがせこいということなのだろう。

 「しかし発句にも過去のしにて切たる発句あり。予おもふニ、達人ハセまじき事とおもふ。しらぬ人此『し』にても切るるとおもふべし。又ハてにはしりたるもの、過去の『し』切字とおもひて置たるなど、嘲り侍るも無念也。人々いひわけも成まじければ、所詮せぬ事たるべしと、予ハ終ニせず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.142~143)

 発句の切れ字に用いられる「し」は、

 五月雨を集めて早し最上川   芭蕉

のように、普通は形容詞の終止形をいう。
 『野ざらし紀行』の三井秋風亭での句、

 梅白し昨日や鶴を盗まれし   芭蕉

にしても、「白し」の方が切れ字で、「盗まれし」は切れ字ではないので切れ字は一つしか用いてない。

 「但、過去の『し』にて、切字なしの発句にする事也。よき句ならバ、少も憚る事あらず。翁の句に、
 ちち母のしきりに恋し雉子の声
かやうの名句ならバ憚るまじ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.143)

 芭蕉は「きれ字に用ふる字は四十八字皆切レ字也。不用時は一字もきれじなしと也。」と言ったと『去来抄』「故実」にあるが、この許六の難に答えたものか。
 中世の連歌でも梵灯の『長短抄』に、切れ字のない発句として「大廻し」と「三体発句」を挙げている。

 山はただ岩木のしづく春の雨

は大廻しで、

 あなたうと春日の磨く玉津島

は三体発句になる。
 ただ、

 ちち母のしきりに恋し雉子の声 芭蕉

の句の場合は、恋したという過去形ではなく、恋しいという形容詞ではないかと思う。
 「しきりに」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「しきり-に 【頻りに】
 副詞
 ①繰り返し。たびたび。
 出典源氏物語 薄雲
 「天変しきりにさとし、世の中静かならぬは」
 [訳] 天空に起こる異変が繰り返し(起こって)お告げをもって知らせ

、世の中が落ち着かないのは。
 ②たいそう。むやみに。
 出典平家物語 二・大納言死去
 「身にはしきりに毛おひつつ」
 [訳] (鬼界が島の住人は)身体にはむやみに毛が生えていて。」

とあり、この場合は②の方の意味だから、「恋し」は形容詞になる。①の意味だと度々恋したということになるが、それだと意味が通じない。

 「貴句当歳旦ノ第三『で』の事、過去の『し』文字同様、せまじき事と

思ふ。先生いかがおもひ給ふぞ。『で』の字にて、『てどまり』に成るとおもひて仕たるなど、嘲るるも無念歟。
 其上、此一句述懐の第三とききなし侍る。いかが。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.143)

 これに対する去来の答えは、先に掲げた『去来抄』「故実」の「先師曰、きれ字に用ふる字は四十八字皆切レ字也。不用時は一字もきれじなしと也。」だと思う。
 第三に述懐のような重いテーマはいけないというのもあくまで慣習であり、式目にはない。

2019年7月27日土曜日

 朝は時折雨が強く降ったがその後止み、近所の盆踊りは無事に行われた。
 そういえば十日ぐらい前になるが、沖縄のジュゴンの解剖が行われ、腹部にエイの棘があったが死因は特定できなかったという。今問題になっているプラスチックごみとは関係なかったようだ。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「一、歳暮『牛の尾』の事、是以予ハうれしからず。『牛尾』、殊の外面白、千人ずきの句たるべし。
 されバ貴句にハ不足とはいはんか。其すく所にしたるき所侍る故に、俗のよろこぶ事うたがひなし。
 退て案ずるに、季吟門弟ニ可仙とやらいへるもの有。大方かやうの味までハ、其時代参たる作者也。しかとハおぼえね共、新古の沙汰いぶかし。両句共ニ、貴句ニハ不足といはんか。中々塵俗の及ぶ所ニあらず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.141~142)

 歳暮の句は『俳諧問答』の横澤三郎注には、

 としもはや牛の尾ほどのたより哉   去来

だという。元禄十年は丑年だった。芭蕉が『野ざらし紀行』の旅で

 誰が聟ぞ歯朶に餅おふうしの年    芭蕉

の句を詠んでからちょうど十二年、干支が一回りしたわけだ。
 牛は巨体でも尻尾は小さい。今年も残りわずかで、牛の尻尾のような頼りないわずかな日数を残すのみになったと、イメージとしては分かりやすい。
 また、「牛の尾」は「鶏口牛後」という言葉を連想させる。大きな組織にくっ付いてゆくよりも、小さな組織のリーダーになれという意味。スポーツで言えば名門クラブの補欠よりは弱小クラブのレギュラーになったほうが良いということか。とはいえ寄らば大樹の陰で、飛び出してゆく勇気もないまま牛の尻尾にぶら下がり、今年一年も過ぎてしまったかと、そんな寓意も読み取れる。
 許六が「殊の外面白、千人ずきの句」と言うのは、そういう寓意も含めてのことだろう。
 ただ、「其すく所にしたるき所侍る故に、俗のよろこぶ事うたがひなし。」とも言う。「したるき」はweblio辞書の「三省堂 大辞林」に、

 「したる・し( 形ク )
 ①  衣などがべたついている。 「しづのめも大路井筒に夕すずみ-・きあさのころもすすぎて/夫木 36」
 ②  ものの言い方が甘ったるい。舌たるい。 「すこし-・き野郎をまねき/浮世草子・置土産 5」
 ③  にぶい。のろのろしている。 〔日葡〕」

とある。
 「まあ、そうだな、今年も終っちゃったな」という緩さだけの句で、多くの人は共感するけど、だから何?って感じの句ではある。蕉門的な鋭さはない。
 可仙についてはよくわからなかた。

2019年7月26日金曜日

 『俳諧問答』の続き。

 「一、先生当歳旦五文字、『元日や』の事、予會てうれしからず。時代四五年もふるかるべし。
 もはや『元日や』といふ五文字ハ、よくよくあたらしミをはしらせ侍らずバ、をきがたからんか。ことの外いひふるしたる五文字也。此事三四年已前より、つぶやき置侍る事也。
 蓬莱と成共、大ぶくと成共、かるく侍らバ、一入うれしかるべし。先生如何おもひ給ふぞ、ききたし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.141)

 この歳旦は元禄十一年の、

   落柿舎歳旦
 元日や土つかうだる顔もせず  去来

の句だろうか。「つかうだる」は「つかんだる」で、普段は土にまみれているお百姓さんも正月はそんなそぶりも見せずということか。
 去来にはもう一句、

 元日や家にゆづりの太刀帯ン  去来

の句もあるが、これは上五を「初春や」としたものが『貞享三年其角歳旦帳』にあるというので、かなり前の句だ。
 許六にも、

 元日や関東衆の国ことば    許六

の句があるが、これも古い句のようだ。
 『去来抄』ではこの句は切れ字「や」の用法の問題として提起されているが、ここでは流行の問題として提起されている。
 撰集では「元旦や」と言った句はほとんど見られないから、歳旦帖で「元日や」の上五が流行った時期があったのだろう。
 四五年といえば『炭俵』の頃で、『猿蓑』の頃の季語をまず主題として置いて、そこからあるあるネタを探る手法が一通り出尽くしてしまった頃ではないかと思う。
 『猿蓑』では時雨というと、

 時雨きや並びかねたる魦ぶね     千那
 幾人かしぐれかけぬく勢田の橋    丈艸
 鑓持の猶振たつるしぐれ哉      正秀
 廣沢やひとり時雨るゝ沼太良     史邦
 舟人にぬかれて乗し時雨かな     尚白

のように時雨あるあるで押していった時期だった。
 梅の句にしても、

 梅が香や山路獵入ル犬のまね      去来
 むめが香や分入里は牛の角      句空
 痩藪や作りたふれの梅の花      千那
 灰捨て白梅うるむ垣ねかな      凡兆

といった句が好まれた。歳旦帖でも「元旦や」と五文字を置いて元旦あるあるを続けるパターンがあったのかもしれない。
 『続猿蓑』の頃になると、

 この比の垣の結目やはつ時雨     野坡
 しくれねば又松風の只をかず     北枝
 けふばかり人も年よれ初時雨     芭蕉
 一時雨またくづをるゝ日影哉     露沾
 初しぐれ小鍋の芋の煮加減      馬見

と単純な時雨あるあるは影を潜めている。
 何事にも流行というのはある。純文学だって流行はあるし、近代俳句も時代によって変化している。ただ、それは当時の人なら敏感に意識していたけど、何百年も経過してしまうと大雑把に元禄の頃の風になってしまい、細かな変化を辿るのは難しくなる。
 余談だが、アニメの世界も京アニの全盛の頃は「日常系」のはやった時代だった。今は異世界転生の全盛期で、それもそろそろ出尽くしかもしれない。
 「小説家になろう」というサイトから次々とヒット作が出るようになると、それまでのラノベの約束だったティーンエージャーが主人公というのが崩れて、転生した大人が主人公になるケースが増えている。読者層が高齢化してきたのもあるかもしれない。
 『異世界かるてっと』はそんな中で異世界転生もののキャラたちが学園という日常系の世界に閉じ込められている。
 ジョンレノンの死もちょうどニューウェーブの台頭してきた頃で、時代の変わり目だった。京アニも日常系の終わりを象徴してしまうのだろうか。それとも次に復活する時にはまた最先端のアニメを作ってくれるのだろうか。

2019年7月25日木曜日

 思うに作品というのは作者一人が作るものではない。作者は読者の反応を見ながら読者と共有する言語を探し出し、読者と共有する認識を作り上げ、それが読者と共有される一つの物語へと仕上げられてゆく。ヒット作というのはそれ自身が作者と読者のコラボではないかと思う。
 読者と共有する言葉、共有する認識は、作者が作るのではない。作者も同時に読者として他の作品に触れているし、その作品も読者は知っている。となれば、過去の作品そのが読者の一人としての作者と、たくさんの読者とを結ぶことになる。
 「あの作品面白かったね」「そうだあれは面白かった」「ならばあんな作品を作りたいね」「そうだそういう作品が読みたいんだ」こうして新しい作品が創作されてゆく。これによって過去の面白さが次の作品に引き継がれてゆく。もちろんそこに作者は更に面白くしようとあれこれ新しい要素を付加する。これが芸術の発展に繋がってゆく。
 元となった作品を少し変えて新しい要素を付け加え、つまらなかったものを削ってゆくのが新しい作品の創造なら、創作といっても少なからず二次創作の要素があり、創作と二次創作の違いは元の作品の登場人物や基本設定を残すかどうかの違いにすぎないのではないかと思う。
 二次創作が表現の自由として保障されなくてはならないのは、創作も二次創作も基本的には連続した創作活動であり、その境界線が極めて曖昧だからだ。
 たとえば歴史物を書くとき、歴史的人物を主人公にするわけだが、この歴史的人物のキャラクターは果してどこから生み出されたのだろうか。
 元は古い文献にある記述かもしれない。しかし戦国時代でも幕末でも既にたくさんの歴史物が存在する。そこである程度信長はこういうキャラ、秀吉はこういうキャラというのが出来上がっている。
 次に書く歴史物がこういう既に出来上がっているキャラを元に書かれるなら、それは二次創作と何が変わるのだろうか。
 あの『源氏物語』もひょっとしたら元は二次創作だったかもしれない。というのは、「夕顔」巻の冒頭の部分に、

 「六条わたりの御忍びありきの頃、うちよりまかで給ふなかやどりに、大弐(だいに)のめのとのいたくわづらひてあまに成りにける、とぶらはむとて、五でうなるいへたづねておはしたり。
 (源氏の君が六条御息所の所にこっそりと通ってた頃、内裏を出て六条へ向う途中の宿にと、大弐の乳母がひどく思い悩み尼になったのを見舞いに、五条へとやってきました。)」

とあるように、それまでの巻に登場しなかった六条御息所が唐突に登場するばかりでなく、源氏の君がそこにこっそりと通ってたことがあたかも周知のことであるかのように語られているからだ。
 ここでは源氏と六条がどのようにして出会い、どのようにして恋仲になったのか、その辺の物語が欠落している。
 作者自身によるか、他の作者によるものかはわからないが、源氏と六条の何らかの先行する恋物語があったのではないかと疑われる。
 平安時代に書かれた物語はすべてが現存しているわけではない。『枕草子』には現存しない物語のタイトルが記されている。
 実際に短期間に急速に女房のための物語文学が発展したのなら、そこには様々な試行錯誤があったはずで、たくさんの作られるそばから忘れ去られていった駄作が存在していただろうし、傑作といわれるものでもその後の社会変化や応仁の乱などの戦乱で失われたものもあったであろう。そんな中の一つとして源氏と六条の恋物語があったとしてもおかしくはない。
 創作と二次創作の違いは、元ネタを大きく改変して新しく創作された物語の中に消化してしまうか、元ネタを誰もがそれとわかるような形で残すかの違いにすぎない。
 もちろん元ネタを残すのにはメリットがある。それは元ネタのファンに元ネタの持つ価値を利用して読ませることができるからで、その意味では元ネタの人気に便乗する形になる。それゆえ商用では何らかの制限する仕組みは必要だが、せいぜい小遣い稼ぎくらいにしかならない同人誌では広く認めてもいいのではないかと思う。
 国際ルールとしてはヒップホップのサンプリングをモデルにするといいのかもしれない。
 俳諧でいうと本歌取りか俤かという違いではないかと思う。本歌取りは句の手柄を元歌に依存する。ただ、蕉門の本歌付けは少し変えることで作者の手柄の余地を残し、俤になれば新たな創作の中に古典を連想させる要素を取り入れるだけのものになる。
 俳諧が古典を基とするなら、古典をあくまで俤に留めることで、古典から独立した文学へと進化したともいえる。蕉門において俳諧が連歌の入門変ではなく独自の文学として確立できたのは、出典や證歌から離れ、それを俤だけに留める手法を確立したからでもある。
 この俤付けの手法は、過去のヒット作の設定やキャラや展開パターンなどのアイデアを新しい作品に取り込むときの手法として今日に受け継がれているのではないかと思う。

2019年7月24日水曜日

 また台風が来るようだし、なかなか梅雨は明けない。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「されば愚集ニ、
 外郎買に荷ハ先へやる
と云句せし、退て見るに、不玉が継尾集のはいかいに、
 荷ハ先へやる堂の近道
と云句あり。是等類也。
 随分吟味を逐るといへ共、眼届かずして後悔也。
 『荷ハ先へやる』と云七字にて、下ハ如何やうニも産出さるる也。もと此一句の魂ハ、『荷ハ先へやる』と云事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.140)

 「外郎(ういろう)買に」の句は李由・許六編『韻塞』の、

   亡師三回忌 報恩
 月雪に淋しがられし紙子哉    許六

を発句とする巻の十二句目で、

   人宿の後はやがて城の塀
 外郎買に荷は先へやる      許六

の句だ。
 前句の「人宿(ひとやど)」はここでは単に旅籠(はたご)のことであろう。
 外郎は「いと凉しき」の巻の六十五句目に、

   伽羅の油に露ぞこぼるる
 恋草の色は外郎気付にて    似春

の句がある。仁丹に似た薬で口臭消しや気付け薬に用いる。
 外郎は小田原の名物で、前句を小田原宿としたのだろう。荷物は馬に乗せて先に箱根を越させて、自分は後から行くというのだが、参勤交代の武士の「あるある」だったか。
 「荷ハ先へやる堂の近道」の句は不玉編の『継尾集(つぎおしゅう)』(元禄五年刊)の句で、この集には「あつみ山や」の巻や「忘なよ」の巻も収録されている。乙州の句。明け方の風景に付けている。
 この二句は「荷ハ先へやる」が重要で、後はどうとでも作れるとして等類だという。

 「舟のたよりに荷ハ先へやる
ともいひ、又
 でつちをのせて荷ハ先へやる
などとも、いくばくかいひかへあらんなれバ、是等類の罪のがれがたし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.141)

 この二句も同様で、「荷ハ先へやる」の方を多少言い換えなければ等類だという。
 現代の著作権の考え方でも、アイデアには著作権はない。音楽ならメロディーの一致、文章なら語句の一致が著作権侵害になる。だから少し変えるというのは誰でもやっている。
 アイデアの場合は、たとえば一つの事件の解決を野球の試合にたとえ、未解決の状態から一気に解決された結末にもって行き、その間何があったかを後で「七回の裏」と称して種明かしする。宮藤官九郎脚本・演出のドラマ『木更津キャッツアイ』がそれだが、これをサッカーに変えて何とかイレブンにしてもアイデアを盗む分には盗作にはならない。
 前半にノーカットのドラマをもってきて、後半にそのメイキングシーンを面白く描いても、設定や内容が違えば構成のアイデア自体を真似ても盗作にはならない。
 昔日本の映画で新幹線に一定の速度を割ると爆発する爆弾を仕掛けるという映画があったが、それをバスに変えてもアイデアだけなら盗作ではない。
 アニメの進化も大体こういうもので、たとえば隔絶された田舎で起こる大災厄を食い止めるだとか、主人公が都会の少年で地元の巫女が重要な役割を果たすというところが一致していても、あくまでもアイデアを真似ただけなので「君の名は。」は「ひぐらしのなく頃に」の盗作にはならない。
 同様にネットでたまたま表示された難問を解いたらゲームに巻き込まれ、最後は超飛躍(ウルトラ・ジャンプ)というところが似ていても、「サマーウォーズ」は「消閑の挑戦者」の盗作ではない。
 むしろ過去の面白いパターンを上手く取り入れ、それに別の要素も加えながら、より面白い作品を作り上げてゆく所に、アニメは進化してゆく。アイデアの利用は抑制すべきではない。
 ヒットした作品ほど、過去の作品の王道を行くアイデアを踏襲している。あまり独自性を出そうとするとかえってこける場合が多い。

2019年7月23日火曜日

 今日は旧暦六月二十二日。夏もあと残りわずか。梅雨は明けるのかな。蝉も少しづつ鳴き始めているが。
 漫画アニメの貴重な原画はリスクを回避するという意味では分散して保管した方がいいのではないかと思う。
 かつて国立メディア芸術総合センターなるものが立案され、そこに貴重な原画を集約して保管しようとしたことがあったけど、そこが焼けたら全部いっぺんに失われることになる。貴重なものほど様々な民間の博物館や個人コレクター(海外も含めて)のもとに分散して存在していた方がいいのではないかと思う。
 日本の昔の貴重な絵画も、明治以降かなりのものが海外に流出したが、そのおかげで残っているものも多いと思う。
 山田太郎さんの言う「海賊版のアップロード側への対応」「パロディや二次創作の合法化」「日本文化への外国圧力に対抗」「クリエイターの低賃金・長時間労働待遇の見直し」には賛成だが、「メディア芸術センター」は要らないのではないかと思う。メディア芸術への権力の介入を防ぐという意味でも。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「此句『藪も動かぬ』とハ直し侍れ共、まださし合侍らバ、
 月夜の風の嵯峨に吹也
 など直しても、一句景曲のあたらしミハつくなり。いくらも直り侍るべし。
 藪のなりやむ嵯峨の初春
 此『藪も鳴やむ』といふハ、初春をよく見つけたる藪にて、上七字の中ニ十分俳諧あり。『藪も鳴やむ』と云詞ならでハ、此代をする言葉・趣向あるまじ。さすれバ『なりやむ』と云七字より出生の句也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.139)

 「まださし合侍らバ」というのは、たとえば打越かその前に植物があった場合、「藪」は使えなくなる。そのときは、

   皺の手に琥珀の数珠のたふとさよ
 月夜の風の嵯峨に吹也

と変えればいい。
 連歌や俳諧で句を付ける人は、その場での使える言葉使えない言葉から、常にどう言い換えればいいのかを考えている。そこから言わずしてほのめかす技術が発達した。式目をどうかいくぐるかが俳諧師の腕の見せ所と言ってもいいだろう。
 ただ、この言い換えだと「有明」が消えている。明け方の静寂を月の清々しさで代用したということか。

   皺の手に琥珀の数珠のたふとさよ
 藪のなりやむ嵯峨の初春

は秋に展開できず、しかも月が既に出てしまっている場合であろう。
 木枯らしに悲しげな音を立てていた藪も、春になって穏やかな日和になるのを、「数珠のたふとさ」とする。
 初春へ転ずることが必然なら、「藪も動かぬ」は「藪のなりやむ」になる。
 俳諧の練習というのはこういうことだったのだろう。これはいいと思った句が思い浮かんでも、式目上無理な場合が多々ある。こういう時にうまく言い換えられるのは日頃の鍛錬といえよう。こういう訓練は日常的にも、タブーとされる言葉を言い換えるだとか、角の立つ言葉を和らげるだとか、いろいろ応用が利く。

 「只形のよく似たるまでにて、魂各別の句也。似たるなど論ずる人あり共、耳にかけべからず。
 但、去年尾張か伊勢かの歳暮三ッ物の中に、『藪のがさつくとしのくれ』とやら、『寒さ哉』とやらいへる句ありとおぼえ侍る。是、季ハかハり、詞もいひかへたりといへ共、元来の趣向、俳諧の気のつけ所おなじ所なれバ、作例といはむか。其上、大綴に出たる三ッ物帳の中なれバ、よく見覚えたる人もあるべし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.139~140)

 「藪も動かぬ嵯峨の有明」と「藪のなりやむ嵯峨の初春」は、月をだせないだとか、秋ではなく春にしなくてはいけないだとかいう事情の違いから、まったく違う趣向の句になっている。元の句を直したのだから形は似ているが、別の所でこの句を詠んだとしても等類ではない。
 方や静まり返った明け方の静寂で、方や木枯らしの止んで春の訪れを喜ぶ句になる。
 前句との関係でも、有明は死者を弔う数珠に付き、初春は尊さに付く。まったく別の句といえる。
 ただ、初春の方は「藪のがさつくとしのくれ」というフレーズが去年の歳暮三つ物のなかにあり、年の暮れは藪ががさついてたが初春には鳴り止むと、同じことを歳暮の側から詠むか初春の側から詠むかの違いだけになる。
 これでいくと、たとえば「いと涼しき」の巻の十三句目の、

   座頭もまよふ恋路なるらし
 そびへたりおもひ積て加茂の山  桃青

と七十二句目の、

   来て見れば有し昔にかはら町
 小石をひろひ塔となしけり    信章

は石を積んで塔を立てるというのは一緒だが、芭蕉(桃青)の句は恋の思いの募る句なのに対し、素堂(信章)の句は追悼の思いの募る句となっている。

2019年7月22日月曜日

 参議院選挙も終った。結局日本国民は現状維持を選択したか。
 アベノミクスもとっくに限界は見えているというのに、それに代わる策は与党にも野党にもなかった。年金問題についてもやはりどちらにも決定的な策はないまま、また日韓関係についても与党野党ともにひたすら沈黙し、しらけきった選挙になってしまった。このままだとオリンピックの後が恐い。
 それでは久しぶりになるが『俳諧問答』の続きを。

 「一、文通ニ云ク、風国当歳旦脇の事、是愚集ノ句に似侍るよし、よく気をつけらるる事也。此句全ク等類の罪にあるまじ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.138)

 この等類の句については風国の歳旦の脇も許六の集の句も残ってないようだ。岩波文庫の注には「風国の歳旦の脇句、及び許六の集の名未詳。」

とある。

 「藪も動かぬ嵯峨のありあけ
 此句もとハ、
 嵯峨の在家のあり明の月
とせしニ、打こし居所あるに寄て、此風情をいひかへたり。
 只さびしく閑なる景曲一遍なり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.138)

 これは李由・許六編『韻塞』の、

 雌を見かえる鶏のさむさ哉    木導

を発句とする木導・朱㣙・許六の三吟の十四句目で、

   皺の手に琥珀の数珠のたふとさよ
 藪も動かぬ嵯峨の有明      朱㣙

の句で、前句は、

   座敷へ舁(かき)て上る駕物
 皺の手に琥珀の数珠のたふとさよ 木導

だから、打越の「座敷」が居所になる。
 「駕物」は駕籠者(かごもの)、つまり駕籠かきのことか。駕籠のまま座敷に上がるというのは普通ではないが、乗っていたのが皺々の手の老僧で、足腰もおぼつかないならやむをえないか。
 朱㣙(㣙は宙の異体なので「しゅちゅう」か)の句は、この数珠の老人を出家僧ではなく在家として、嵯峨のあたりに住んでいるとし、最初は、

   皺の手に琥珀の数珠のたふとさよ
 嵯峨の在家のあり明の月     朱㣙

とする。長年連れ添った妻が亡くなり、その供養をしているのだろうか。嵯峨のあだし野はかつて鳥辺野と同様風葬の地だった。
 在家は仏教徒の一つのあり方で居所とは思えないが、「家」の字を嫌ったのであろう。在家と言わずして在家を匂わす、

   皺の手に琥珀の数珠のたふとさよ
 藪も動かぬ嵯峨の有明      朱㣙

で治定された。

 「在家の二字をぬきてハ、一句の魂もなくなるといへ共、是非なく『藪も動かぬ』とハ仕かへ侍りぬ。
 此在家とこゑにてよませたるハ、さるミのの『晴天に有明月』の事ヲちから也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.138~139)

 「さるミのの『晴天に有明月』」は、猿蓑の「鳶の羽も」の巻の二十九句目、

   おもひ切たる死ぐるひ見よ
 青天に有明月の朝ぼらけ     去来

の句をいう。
 死の覚悟を決めた武士の句の「おもひ切たる」を恋の未練を断ち切ることに取り成し、後朝の月の風景を付けている。猫の恋のようにうらやましくもなく、人は死のような苦しみを味わう。そこに明け方の月が何事も無いかのように静かにあたりを照らしている。「青天」は「青雲」と同じで明方のまだ暗い濃い青みがかかった空をいう。
 「藪も動かぬ」の静寂と厳粛な空気は、この去来の句からインスピレーションされたものだったようだ。
 どこか中世連歌の、

   罪の報いもさもあらばあれ
 月残る狩り場の雪の朝ぼらけ   救済(きゅうせい)

に通じるものがある。

2019年7月20日土曜日

 昨日の朝、今日の朝と続けてヒグラシの声を聞いた。
 ヒグラシは連歌の「応安新式」でも秋の季語になっていて、近代俳句までそのまま受け継がれているが、実際には他の蝉が鳴き始める前に鳴き始める。
 そこでヒグラシの句でもと思ったが、芭蕉の時代にヒグラシを詠んだ句はほとんどない。ネット上で、

 日ぐらしや山田を落る水の音   諷竹
 ほし合や蜩になる蝉の声     其角
 蜩やづぶりと消て念仏水     正秀

という句を見つけるのがやっとだった。
 おそらく、当時の人は蝉の種類に余り頓着せず、ヒグラシも蝉に含めて夏に詠んでいたのではないかと思う。芭蕉の「閑さや」の句も、宿に荷物を置いて夕方に立石寺を訪れたことを考えれば、あの蝉はヒグラシだったのではないかと思われる。
 貞徳の『俳諧御傘』には、

 「日ぐらし 秋也。一座一句の物也。文字も別に、虫のなりも声もかはりたれども、根本蝉と同類なれば蝉とは連のごとく、俳にも折を嫌が能也。ひぐらしを立入て今一句連にも侍れば、俳には蟪姑と声にいひて以上三句有べし。皆折をかふる也。」

とある。
 「秋也。一座一句の物也。」は「応安新式」にある通り。
 基本蝉なので連歌でも俳諧でも同じ懐紙に蝉と蜩を両方詠むべきではない。「蝉」も一座一句なので、懐紙を変えて蝉一句、蜩一句を詠むことができる。
 「蟪姑」は蝉のこと。『荘子』「逍遥遊」に「蟪蛄は春秋を知らず」とある。俳諧の場合は「蟪姑」を含めて三句、懐紙を変えて詠むことができる。

2019年7月18日木曜日

 京都で痛ましい事件が起きた。ただでさえ零細経営の多いこの業界で社員の五分の一近くを失ってしまったら、業務の再開もできるのだろうか。いくら寄付を集めても人は帰ってこない。
 涼宮ハルヒのシリーズは小説は読んだがアニメは見ていないけど、「たまこまーけっと」と「甘城ブリリアントパーク」は見た。今や世界にも誇れる日本のアニメの製作現場の一つが失われるとしたら、ジョン・レノンの死にも匹敵するものかもしれない。
 アニメは西洋から入ってきたものだが、それが日本の俳諧や浮世絵などの大衆文化の伝統と結びつき、戦後になって急速に日本独自の発展を遂げた。何よりも子供向けのものからマニアックなものまで様々なアニメが制作されている、その多様性こそが世界に誇れるものではないかと思う。
 それが海外でも多くのファンを持つに至ったのは、それがたんなる「虚」ではなく「実」を具えていて、「風雅の誠」に通じるものを今日に引き継いでいるからだと思う。

 支考の虚実論が近代にも十分通用するのは、虚が先で実が後だという部分だ。
 これはそのまま、先に宇宙があって、人間が現れたのはきわめて最近であり、人間の登場でもって初めて宇宙の「実」が問われるようになったという今日の科学的世界観と合致する。
 記紀神話においても、先に天地開闢があって天孫降臨の際の猿田彦の登場をもって、初めて人としての道が始まる。
 人間もまた宇宙の一部分である以上、我々は虚なしには実を探求することも語ることも出来ない。
 『俳諧十論』の「第一 俳諧ノ伝」にはまたこうある。

 「此一段は俳諧の根ざす所にして、儒・仏・老の三道より千差万別の岐(ちまた)あれども、帰する所は虚実の二なるに、今は俳諧の一道をもて、きょじつをあつかふ仲立といへる、媒の一字に『十論』をつくして、世法に時宜の二字ある事を信ずべし。」

 宗教もいろいろとあり、それが様々な宗派に分かれというところは、今日では宗教に限らない思想信条の多様を含めることが出来るだろう。
 左翼にしてもリベラルにしても人それぞれ言うことが違っていて内紛が絶えないように、人間の概念形成は各自の体験からくる記憶の構造化によるもので、人それぞれみんな違う。その一人一人違う概念でもって論理を組み立てても、結局は哲学者の数だけ哲学があるということにしかならない。
 ただ、そのように多種多様な物の考え方があったとしても、基本は虚と実の二つになる。つまり物理的のこの宇宙としての「虚」。そしてそこから引き出される「実」。
 俳諧はその虚実を仲立ちする。つまり虚において実を表わすことで、虚実を結びつける。
 天地自然から人事にいたる様々な現象を描き出すことによって、そこにあるべき道を求める。それは先見的に直感的に「ある」のではなく、あくまでたくさんの多種多様な作品が生み出され、そので多くの人の共感するところとなり、面白いと判断されたものは、記憶に残るのみならず、それを真似してまた新たな作品が生まれる。そうでないものは忘れ去られ淘汰される。このダーウィン的な過程を経ることで、芸術はきわめて短い期間で急速に発展する。
 芭蕉の時代の俳諧がそうだったし、同時代の歌舞伎や文楽もそうだった。江戸中期の浮世絵もそうだ。近代で言えば戦後のポップミュージックや映画や漫画・アニメなどもそうだ。それらはみな、虚において実を行う。
 このようなときには無用な議論をすべきではないことを芭蕉は説いている。『俳諧十論』の序に、芭蕉の言葉として、

 「今や世間の俳諧を見るに、春の草木の萌出るがごとき、人のちからをもて刈つくすべからず。」

そういって、支考が十論の公刊に反対したという。

2019年7月17日水曜日

 今日は久しぶりに梅雨の中休みというか、晴れ間も見えて、夜には満月が見えた。まさに「五月雨やある夜ひそかに松の月 蓼太」だ。
 それでは本題に。

 支考というと虚実の論があるが、岩倉さやかさんの『俳諧の心─支考「虚実」論を読む─』(二〇〇三、ぺりかん社)に支考の『俳諧十論』のテキストがあったので、そこから少しばかり拾ってみた。
 まず、十論の第一「俳諧ノ伝」だが、そこで日本の神話について触れている箇所がある。

 「ちはやぶる我朝には、天の浮橋に此心を伝へて、伊弉諾・伊弉冉の鴂鴒の喩より、天照御神はうけつぎ給ひて、虚実の間に道をひろめむとて、猿田彦は其姿おかしく、天ノ鈿女は其情さびし。爰に風雅の俳優をしれとならん。」

 神話における最初の歌はイザナギ・イザナミの国生みの時の、天の浮橋の上に立ち、天沼矛(あめのぬぼこ)を指し下ろし、淤能碁呂嶋(おのころじま;『日本書紀』では磤馭慮嶋)を生んだ後、

 イザナミ;阿那邇夜志愛袁登古袁(あやによしえをとこを)
 イザナギ:阿那邇夜志愛袁登賣袁(あやによしえをとめを)

と詠んだことに始まる。
 これによって淡島が生まれるが満足できず、順番を変えて

 イザナギ:阿那邇夜志愛袁登賣袁(あやによしえをとめを)
 イザナミ;阿那邇夜志愛袁登古袁(あやによしえをとこを)

と詠んでことで北海道を除く日本列島が次々と生み出されてゆくことになる。
 この場面の『日本書紀』には、

 一書曰、陰神先唱曰「美哉、善少男。」時以陰神先言故爲不祥、更復改巡、則陽神先唱曰「美哉、善少女。」遂將合交而不知其術、時有鶺鴒、飛來搖其首尾、二神見而學之、卽得交道。

とある。ここに鶺鴒(鴂鴒)が登場する。
 大和歌が色好みの道であるのはここに端を発する。実際の歴史でも和歌は歌垣にその起源があったと思われる。求愛のためのラブソングがすべての始まりとなる。
 ここにおいて生み出された風雅の道は、天照御神に受け継がれ、天孫降臨を以て「虚実の間に道をひろめ」ることとなる。
 この場合天津神のいる高天原が虚となり、天孫降臨の際に道案内をした猿田彦大神と天鈿女命(あまのうずめのみこと)が虚の中に実を見出すことになり、「風雅の俳優」となる。
 ここに吉川神道の土金の説を挿入することも可能だろう。土の中に見出された金の光こそ、天地陰陽の虚において人間の実を開くことになる。この金の徳は猿田彦の徳であるとともに、道祖神や庚申様とも習合し、江戸時代に人々にも深く根を下ろしてゆくことになる。
 天地陰陽は朱子学では「気」であり、実在する宇宙のことを言う。それは昔の人の感覚では見せかけの世界、現象の世界であり、虚とみなされる。これに対し、朱子学ではその背後にある「理」がこの宇宙の実体であり、人間だけがそれを認識できるとする。
 西洋のカント哲学でも現象と物自体が区別されているが、こうした感覚は前近代的な世界では一般的だったのかもしれない。それは多分、人間が経験的に知っていることがあまりにわずかでちっぽけなものだったため、世界は常に人智を超えた神秘に満ち溢れたものと映っていて、常にその未知なる世界の背後に興味が行っていたからではなかったかと思われる。
 東アジアでも、気については陰陽不測で、その背後にある「理」を知ることに重点が置かれていた。「理」は「道」であり、気の隠された通り道だった。
 『俳諧十論』の「第四 虚実ノ論」には、

 「其虚は先にして天地陰陽あり。其実は後にして君臣父子あり。是を大小の論とはいはず。是を先後の弁とやいはん。」

とある。
 天地自然は「気」であるがゆえに虚で、天地開闢の時から存在している。これに対し人倫の秩序である君臣父子は後から開かれたもので、いわば土の中の金を見つけるように、人間が天地自然に対して開かれた存在であることによって、初めてその背後に触れ、人倫の道を立てることができるとする。
 岩倉さやかさんの『俳諧の心─支考「虚実」論を読む─』には、『十論為弁抄』の次の言葉が引用されている。

 「さて天道の虚・実といふは、大なる時は天地の未開と已開にして、小なる時は一年の未生と已生なり。」
 この未と已の関係は朱子学の未発・既発の関係と見ていいだろう。未発は実(理)で既発は虚(気)になる。
 去来は『去来抄』「修行教」のなかで、

 「あらまし人体にたとへていはば、先不易は無為の時、流行は座臥行住屈伸伏仰の形同じからざるが如し。一時一時の変風是也これなり。」

と不易流行説の文脈で語っている。これを合わせるなら、実は不易であり風雅の誠である。これに対し虚は流行ということになる。
 「虚において実を行う」という芭蕉の言葉は、流行において不易を行うと言い換えることも出来よう。基本的には同じことを言っているといっていい。
 俳諧は実をそのまま述べるのではない。それを天地陰陽の変化して止まない事象において語る所にその真実がある。
 そしてその真実はというと、我国の伝統においてそこには「恋」があるということも付け加えておこう。

2019年7月15日月曜日

 あいかわらず一日中小雨が降っているような変わり映えのしない天気で、本当にこのまま秋になってしまいやしないか心配だ。日本はいくらでも米を買う金はあるが‥‥。
 アメリカにつきたい北、中国によってしまった南、統一はいつの日か。
 それでは「忘るなよ」の巻、挙句まで。

 二十七句目。

   水をしたむる蛤の銭
 下帯の跡のみ白き裸身に     支考

 ここから二句づつ詠むようになる。
 前句を蛤を採る海人とする。
 「下帯」は男性の褌と女性の腰巻の両方の意味がある。どちらでもいいのだが、男としては海女にしておきたいところだ。
 江戸後期の浮世絵には赤い腰巻の海女がしばしば描かれている。肌の色を白く描いているが実際の海女は真っ黒に日焼けしていたと思われる。
 もちろん男の褌の跡としてもいい。趣味の問題というとLGBT団体に怒られるかな。
 二十八句目。

   下帯の跡のみ白き裸身に
 雲母坂より一のしにやる     如行

 雲母坂(きららざか)は比叡山山頂に続く古道。「一のし」はこの古道の起点の一乗寺のことか。「乗せる」に掛けて用いてるのだろう。
 このあたりは女人禁制だったから、前句を褌姿の駕籠かきとしたか。
 二十九句目。

   雲母坂より一のしにやる
 末枯のクノ木に月の残りけり   如行

 クヌギは葉が枯れても落葉せずに残る。
 月が沈んだのかと思ったら、クヌギの木の陰に隠れてただけでまだ残っていた。
 前句を単なる場所の設定にして流している。
 三十句目。

   末枯のクノ木に月の残りけり
 あきやや寒き饅頭の湯気     支考

 日本の饅頭は、一三四九年に来日した林浄因が伝えたものとされている。その後、奈良で饅頭が作られるようになった。古今集の奈良伝授を受けた林宗二もその子孫だという。
 中国では饅頭はパンのような存在だし、韓国では餃子のことも饅頭と呼ぶが、日本では饅頭は食事ではなくスイーツとして広まった。各地に名物の饅頭ができたのもこの頃だった。
 まだ月の残る朝早くから、街道や門前の町では饅頭を蒸す湯気が垂れ込めてたりしたのだろう。
 二裏。
 三十一句目。

   あきやや寒き饅頭の湯気
 日雀鳴篭の目ごとの物おもひ   支考

 「日雀(ひがら)」はシジュウカラの仲間でコガラよりも小さい。秋の季語になっている。
 篭の鳥は自由のない遊女や妾などの象徴としても用いられる。見世の格子窓の向こう見える遊女達の物憂げな姿が浮かんでくる。まあ、とにかくそんな楽しい仕事なんかじゃないからね。
 篭目(かごめ)は一方では易で言う地天泰で、陽気の上昇を示す上向きの三角と陰気の降下を示す下向きの三角とが交わる陰陽和合の相を表わす目出度いものだったが、篭の鳥というネガティブの面との両面を持っていた。まあ、遊女でなくても、婚姻もまた陰陽和合、鶴と亀のお目出度さと裏腹に、女性が家の中に閉じ込められ、苗字や姓をつけて呼ばれることすらなかった。夫婦同姓は西洋文明による一つの開放であって、残念ながら日本の伝統ではなかった。
 三十二句目。

   日雀鳴篭の目ごとの物おもひ
 木葉散しくのしぶきの屋根    如行

 「のしぶき」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「①  檜皮ひわだ葺きで、檜ひのきの皮を、葺き足を短く厚く葺いたもの。
  ②  葺き板を重ねて釘で打ち留めた屋根。」

とある。遊郭の屋根がどちらなのかはよくわからない。ただ、①の意味だと神社やお寺へ展開できるので、それを見越してのことか。
 三十三句目。

   木葉散しくのしぶきの屋根
 何事をむすこ坊主のやつれけむ  如行

 やはりというかお寺のこととして坊主を登場させた。両吟で二句続けて詠む場合は、こういうふうに次の句を考えて展開できる。
 木の葉散る桧皮葺のお寺でいかにも寂しげだが、一体どんな世俗の憂きことを抱えてやつれてしまったのか。
 まあ、若いうちなら都会に出て遊んでみたいし、恋もしてみたいということか。
 三十四句目。

   何事をむすこ坊主のやつれけむ
 ともし火のこる宵の庚申     支考

 庚申待ちをその原因とする。庚申待ちはコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「庚申(かのえさる)の日、仏家では青面金剛(しょうめんこんごう)または帝釈天(たいしゃくてん)、神道では猿田彦神を祭り、徹夜する行事。この夜眠ると、そのすきに三尸(さんし)が体内から抜け出て、天帝にその人の悪事を告げるといい、また、その虫が人の命を短くするともいわれる。村人や縁者が集まり、江戸時代以来しだいに社交的なものとなった。庚申会(こうしんえ)。《季 新年》」

とある。
 三尸の虫はやがて猿田彦大神と結びついたせいか、「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿の姿で表わされるようになった。
 庚申待ちは主に男どもの宴会に終始するところがあって、女性はむしろ裏方に廻り、まして男女の同衾はタブーとされていた。女性はむしろ二十三夜待ちで発散していたようだ。
 若いお坊さんもホスト役だから、村の長老達に気を使いながら、結構神経をすり減らしたりしたのだろう。
 三十五句目。

   ともし火のこる宵の庚申
 初花に酒のかよひを借よせて   如行

 支考の順番だが、ここは如行に花を持たせたか。
 庚申待ちに酒は付き物だったようだが、あまり飲むと寝ちゃいそうだから、そこは程々だったのだろう。
 酒はむしろ昼間に花の下で飲むもので、その時は人の通い帳借りて勝手に酒を注文したりして悪事も働いたが、夕方になるとそのまま庚申待ちに入る。酔いつぶれて寝ちゃって、この罪は天帝の知ることになるんだろうな。
 挙句。

   初花に酒のかよひを借よせて
 かすみはるかに背戸の撞部屋   支考

 搗米屋が広まる前は家の裏手の小屋で自分で精米していたのだろう。こんな所で密かに花見をする者もいたか。

 蕉風確立期のまでの風だと出典の解説が多くなるが、軽みになると当時の生活についての解説が必要になる。
 不玉・己百の両吟部分はそのどちらでもなくて、あまり言うことがない。それが如行・支考の両吟になると、急に調べることが多くなる。
 特に、支考の風はいわゆるあるあるネタではなく、かなり空想が入っていて、ありそうもないけど面白いという所を狙ってくる。
 今日で言えば大槻ケンヂの才能に近いのかもしれない。「リュックサックに猫詰めて」みたいなのは実際にやる人はいないだろうけど、でも何となくそれにリアリティーを持たせてしまうのが大槻ケンヂの才能だ
 虚において実を行うというよりも、虚なんだけど実にしてしまうのが支考だったのかもしれない。

2019年7月14日日曜日

 「忘るなよ」の巻の続き。

 二表。
 十九句目。

   河原おもてを渡る朝東風
 立あがる鷺の雫の春日影     如行

 水鳥の鷺だから立ち上がる時に雫が滴るというのだが、そんな細かい所が本当に見えるのかどうかはわからない。ただ、それに春の日が当たってきらきら光れば幻想的な光景と言えよう。
 「牛流す」の巻の十八句目に、

    道もなき畠の岨の花ざかり
 半夏を雉子のむしる明ぼの    支考

の句のように、雉が蛇と間違えて毒草のカラスビシャクをついばむなどという、「いや、実際にはないだろう」と思わせる辺りで面白く付けるのは支考流なのかもしれない。
 河原に鷺、東風に春日、よく付いている。
 二十句目。

   立あがる鷺の雫の春日影
 しもくにおろす搗鐘の錠     支考

 「しもく」は撞木(しゅもく)のこと。鐘を突く丁字形の棒でハンマーに似ている。シュモクザメ(ハンマーヘッド・シャーク)の名はこの撞木から来ている。撞木を使うのはお寺でも外にある大きな鐘ではなく、お寺の中で伝達に用いる半鐘の方であろう。
 勝手に鐘を搗く人のいないように撞木に鍵をかけることもあったか。支考のことだから、「あるある」かどうかはわからない。
 むしろ、多分前句の鷺を驚かせないために半鐘を自粛して錠をおろすというふうに作っているのではないかと思われる。
 二十一句目。

   しもくにおろす搗鐘の錠
 こき込の茶を干ちらす六月に   如行

 茶を「こく」というのは「挽く」ということ。
 抹茶を作る場合、収穫した葉をすぐに蒸して乾燥させ不要なものを取り除いて「碾茶(てんちゃ)」を作る。これを茶臼で挽くと抹茶になる。「こき込の茶を干ちらす」というのはこの乾燥過程のことだろう。
 元禄の頃は煎茶の前身に当たる唐茶も流行したが、抹茶も広く飲まれていた。
 このまえNHKの「やまと尼寺 精進日記」で作って飲んでいた茶は唐茶の系譜を引くものだろう。
 干した茶をひろげているので、法事もお休みで半鐘は叩かないということか。
 二十二句目。

   こき込の茶を干ちらす六月に
 子の這かかる膳もちてのく    支考

 赤ちゃんが這い這いして干している碾茶を散らしたり食べたりしては困るから、膳に乗せて片付ける。これはありそうだ。
 二十三句目。

   子の這かかる膳もちてのく
 小屑灰に歯黒の皿を突すへて   如行

 赤ちゃんが食事のお膳をひっくり返しそうだったので、あわてて鉄漿(おはぐろ)の入っている鉄漿杯(かねつき)を小屑灰(こずばい)の上に置いて膳を移動させる。
 二十四句目。

   小屑灰に歯黒の皿を突すへて
 いもくしの名を立るいさかひ   支考

 「いもくし」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 (「いも」は天然痘、また、その治った跡。「くし」も同意という) あばた。
 ※俳諧・継尾集(1692)四「小屑灰(コズばひ)に歯黒の皿を突すへて〈如行〉 いもくしの名を立るいさかひ〈支考〉」

とある。
 鉄漿杯(かねつき)を乱暴に小屑灰(こずばい)の上に置く場面を、いさかいの場面とする。
 顔にあばたがあるなんて噂を流されたら、そりゃ怒る。

 二十五句目。

   いもくしの名を立るいさかひ
 霙降庄司が門ンの唐居敷     如行

 「庄司」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 荘園領主から任命され、荘園を管理し、荘園内の一切の雑務をつかさどった役人。荘官。荘のつかさ。」

とある。
 「唐居敷」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「門の下部にあって門柱を受け、また扉の軸受けとなる厚板。石材で作ることもある。」

とある。
 これは「いもくし」を導き出す序詞のように付けたか。「からいしき」「いもくし」、そんなには似てないが語呂は良い。
 天然痘の流行の評判が立ったとなれば庄司としても問題だろう。
 二十六句目。

   霙降庄司が門ンの唐居敷
 水をしたむる蛤の銭       支考

 これは御伽草子の「蛤の草紙」であろう。コトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」には、

 「御伽草子。渋川版の一つ。天竺摩訶陀(てんじくまかだ)国の〈しじら〉は釣りをして母を養っていたが,ある日美しい蛤を一つ釣りあげた。それは船の中でにわかに大きくなり,二つに開いて,中から17~18歳の容顔美麗な女房が現れる。40歳になるまで女房を持たないのも母へ孝養を尽くすためと言い訳する〈しじら〉を説きふせて,女房と〈しじら〉とは夫婦になる。女が麻と錘(つむ)と〈てがい〉を求めて紡ぎ,機(はた)を求めて織りはじめると,見知らぬ者が2人来て,ともに織るのを手伝う。」

とある。鶴の恩返しにも通じる話だが、この織物が銭になる。

2019年7月12日金曜日

 テレビで「未来のミライ」というアニメをやっていた。最初のシーンは「さざんかの宿」?曇りガラスを手で拭いて‥‥。
 では「忘るなよ」の巻の続き。

 十三句目。

   横川に月のはづる中ぞら
 降やめど傘はすぼめぬ秋しぐれ  不玉

 時雨は和歌では秋にも冬にも詠むもので、秋の場合は紅葉を染める時雨になる。時雨の上がった後の月は冬に詠む場合が多い。ただ、ここでは月が出た後なので、あと二句秋の句を続けなくてはいけない。
 十四句目。

   降やめど傘はすぼめぬ秋しぐれ
 八朔ちかきふところの帳     己百

 八朔は旧暦八月一日のことで、日頃お世話になっている人に贈り物をする習慣があった。ただ、「八朔ちかき」だとまだ八月になってないから七月初秋で時雨の季節ではない。
 昔は正月とお盆の前に決算で、それまで通い帳で購入してきた代金をまとめて支払ったが、「八朔ちかき」だとそれを過ぎて新しい帳面になってということだが、贈り物の買い物もしなくてはいけないし、というところだ。
 十五句目。

   八朔ちかきふところの帳
 薄縁の下に雪駄をはき込て    己百

 「薄縁(うすべり)」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「藺草(いぐさ)で織った筵むしろに布の縁をつけた敷物。」

とある。「はき込」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「あらたまったよそ行きの履物や目立つ履物などをはく。
 ※俳諧・継尾集(1692)四「八朔ちかきふところの帳〈己百〉 薄縁の下に雪踏をはき込て〈同〉」

とある。
 八朔の頃はまだ暑い季節で、部屋には茣蓙が敷いてあったりする。雪駄は風流人に好まれたと言うから、「八朔ちかき」とはいいながら、八朔の挨拶回りの句にしてしまったか。
 十六句目。

   薄縁の下に雪駄をはき込て
 しばし多葉粉をとむる立願    不玉

 立願は願掛けのこと。雪駄を履いて出かけた先は神社かお寺か。願掛けの時には何か好きなものを絶ったりする。タバコが好きだったのだろう。
 十七句目。

   しばし多葉粉をとむる立願
 夜もすがら笈に花ちる夢心    己百

 夜の立願というとお百度参りだろうか。夜もすがら何度も何度も繰返しお参りしてると、いつしかランナーズハイのような状態になるのかもしれない。まして桜の季節ならなおさらだ。
 十八句目。

   夜もすがら笈に花ちる夢心
 河原おもてを渡る朝東風     不玉

 前句を旅人の笈としたか。河原で一夜を過ごし、花の散る夢を見ているといつの間に朝が来ていて、朝の春風が吹いていた。
 このあたりの句は、どこか言い足りないことが多くて面白さが伝わりにくい。
 八朔にどういう物語があったのか、何の願掛けをしたのか、旅人の花散る夢心にどういう思いが込められていたのか、そのあたりの深みにまで切り込むことが出来ず、表面をさーっと撫でるだけになってしまっている。
 古典の出典をはずしていることから、『奥の細道』の頃より後の、これから見る如行と支考の両吟の詠まれた元禄五年のほうに近いのかもしれない。

2019年7月11日木曜日

 夏だというのに涼しい日が続いている。一九九三年以来のことだという声もある。あの年は米が不足して、急遽外米を輸入したが、今年もタイ米が食べられるのかな。
 筋少の替え歌で、♪タイの米を知っているのか?‥‥知らないのかピラフ・リゾット・チャーハンにすると美味いんだ。

 さて、「忘るなよ」の巻の続きだが、初裏は己百と不玉の両吟になる。己百(きはく)は美濃の人。weblio辞書の「芭蕉関係人名集」に、

 「岐阜の日蓮宗妙照寺住職日賢和尚。貞亨五年の笈の小文の旅中に芭蕉を京都に訪ねて入門。「しるべして見せばや美濃の田植え歌」という句で芭蕉を誘って美濃に案内したことで有名。『あら野』・『花摘』・『其袋』などに入句。」

とある。貞享五年六月十九日興行の「蓮池の」の五十韻に参加している。

   かし立岨の風のよめふり
 古寺の瓦葺たる軒あれて     己百
   みどりなる朴の木末の蝉の声
 弁当あらふ清水なりけり     同
   籬の月にくるま忍ばせ
 この里に籾するおとのさらさらと 同

の三句を詠んでいる。
 その己百から。
 初裏、七句目。

   漏もしどろに晴るる村さめ
 笠島を見による筈の馬かりて   己百

 これは、

 笠島はいづこさ月のぬかり道   芭蕉

の句を知ってたのだろうか。曾良の『俳諧書留』に、

   泉や甚兵はに遺スの発句・前書。
   中将実方の塚の薄も、道より一里ばかり
   左りの方にといへど、雨ふり、日も暮に
   及侍れば、わりなく見過しけるに、笠島
   といふ所にといづるも、五月雨の折にふ
   れければ
 笠島やいづこ五月のぬかり道   翁

とある。この句は既に出来ていたので、芭蕉か曾良から聞いた可能性はある。
 中将実方は任地に赴く途中、この笠島の道祖神の前を通るとき、馬から降りて拝んで行くこともなしに、そのまま馬に乗って通り過ぎようとしたところ、社の前でばたっと馬が倒れて実方は転がり落ちて死んだという。
 馬から降りずに通り過ぎるのではなく、わざわざ笠島の道祖神を見に行くくらいの信仰があるなら、村雨も晴れてくれることだろう。芭蕉は雨の中結局たどり着けなかったが。
 八句目。

   笠島を見による筈の馬かりて
 入日かがやく藪のはりの木    不玉

 打越の「晴るる村さめ」とやや被っている感じがする。「はりの木」は榛(はん)の木のこと。湿地に森林を形成する。
 九句目。

   入日かがやく藪のはりの木
 足うらの米をいただく里神楽   不玉

 神事では邪気を払うために散米を行う。それが足の裏にくっ付くので、ありがたく頂戴する事にする。
 十句目。

   足うらの米をいただく里神楽
 むすめなぶれば襟をつくろふ   己百

 「なぶる」は今日で言えば「いじる」ということか。一種のイジメだが暴力的ではなく、周囲を笑わせるためにやることが多い。ただ、何事も行き過ぎはいけない。
 里神楽に集まった娘達が誰かをいじってはしゃいでる姿だろう。ふと我に返って乱れた襟を整える。
 十一句目。

   むすめなぶれば襟をつくろふ
 待宵に枕香炉のほのめきて    己百

 「枕香炉」は「香枕」とも「伽羅枕」ともいうい。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」の「香枕」には、

 「枕の中に香をたく仕掛けのあるもの。多く、表面に蒔絵(まきえ)を施す。香の枕。きゃら枕。こうちん。」

とあり、同じく「伽羅枕」のところには「遊女などが用いた」とある。
 遊女が香をたいて客を待つ間、女同士で誰かをいじっては笑ったりしていたのだろう。「待宵」で月呼び出しになる。
 十二句目。

   待宵に枕香炉のほのめきて
 横川に月のはづる中ぞら     不玉

 「横川(よかわ)」はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 「滋賀県大津市坂本本町にある比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)の三塔の一つ。第3代天台座主(てんだいざす)円仁(えんにん)が横川を開き、根本如法(こんぽんにょほう)塔を中心に諸堂が建てられた。967年(康保4)横川に住房をもつ良源(りょうげん)(慈慧(じえ)大師)が座主となると、横川は繁栄し、台密(たいみつ)の覚超(かくちょう)の系統が川流(かわりゅう)として栄えた。恵心僧都(えしんそうず)源信(げんしん)(942―1017)は横川恵心院に住して浄土教を鼓吹し、恵心流の祖とされる。道元や日蓮(にちれん)も横川で学問修行した。未来の弥勒菩薩(みろくぼさつ)下生(げしょう)の地という信仰も生まれた。[田村晃祐]」

とある。
 横川は延暦寺の中央からやや外れた場所にあるが、数々の名僧を輩出した場所でもある。
 前句の枕香炉をお寺で焚く香のこととし、中央よりやや外れた場所だが真如の月の輝く場所として「横川」を付けている。

2019年7月9日火曜日

 昨日の続き。

 「忘るなよ」の巻は四つに分けられる。
 一つは会覚の発句と芭蕉の脇。芭蕉の脇は芭蕉が羽黒山南谷を発ち、酒田へ行きそれから象潟へ行き再び坂田に戻ってくる間に詠まれている。
 二つ目はこの発句と脇に、不玉が曾良の『俳諧書留』にあるのと違う第三を付け、不白、釣雪、主筆が句を付けて成立した表六句。
 三つ目は己百と不玉の両吟による初裏。
 四つ目は如行と支考の両吟による二の表裏。
 まず面六句を見てみよう。

   餞別
 忘なよ虹に蝉鳴山の雪      会覚
   杉のしげみをかへりみか月  芭蕉
 弦かくる弓筈を膝に押当て    不玉
   まへ振とれば能似合たり   不白
 ばらばらに食くふ家のむつかしく 釣雪
   漏もしどろに晴るる村さめ  主筆

 発句と脇は昨日見たとおりだが、「杉のしげみ」は書き間違いか記憶違いか、曾良の『俳諧書留』の「杉の茂り」が正しいと思う。
 第三は作り直されている。このせいで曾良の四句目がなくなってしまった。

   杉のしげみをかへりみか月
 弦かくる弓筈を膝に押当て    不玉

 弓筈(ゆはず)は弓の両端の弦をかけるところ。「弦かくる弓筈」はそのまんまで弓筈の説明してしまっている。
 弓筈を膝に押し当てる仕草は「胴造り」と呼ばれる動作で、玉川学園の弓道部のホームページにある「全日本弓道連盟、弓道教本第一巻より抜粋」には、

 「胴造りは、足踏みを基礎として両脚の上に上体を正しく安静におき、腰をすえ、左右の肩を沈め、背柱および項(うなじ)を真直ぐに伸 ばし、総体の重心を腰の中央におき、心気を丹田におさめる動作である。
 この場合、弓の本弭は左膝頭におき、右手は右腰の辺にとる。 以上の動作と配置によって全身の均整を整え、縦は天地に伸び、横 は左右に自由に働けるような、やわらかい且つ隙のない体の構えを作るとともに気息をととのえることが肝要である。
 こうした鎮静的な動作は、つぎの活動的な動作へ移る前提であり、 胴造りは終始行射の根幹となり、射の良否を決定する。 胴造りは、外形的には一見きわめて単純な動作のようにみえるが、 内的にはまことに重要なものである。」

とある。
 句はただ弓道の動作を言うだけで、前の「磯伝ひ」の第三のほうが良かったように思える。芭蕉の指導がない分だけ後退した感じがする。
 四句目。

   弦かくる弓筈を膝に押当て
 まへ振とれば能似合たり   不白

 不白は名前からすると不玉の弟子のようだがよくわからない。曾良の『旅日記』の六月二十五日の所に、

 「廿五日 吉。酒田立。船橋迄被送。袖ノ浦向也。不玉父子・徳左・四良右・不白・近江や三郎兵・かがや藤右・宮部弥三郎等也。」

とある。
 「まへ振(ぶり)」は『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)の注に、

 「魚網を打ったり曳いたりする際に腰に着ける藁・棕櫚などで作った前垂れ」

とある。
 コトバンクの「大辞林 第三版の解説」には、

 「元服前の少年の、前髪をつけた姿。 「あつたら-を惜しきは常の人こころ/浮世草子・武道伝来記 8」

とある。
 この場合は「とれば」とあるから前垂れのことか。
 漁師に身を落としてはいるが、元は立派な武士だったということか。
 五句目。

   まへ振とれば能似合たり
 ばらばらに食くふ家のむつかしく 釣雪

 釣雪は『校本芭蕉全集 第四巻』の注に「京都の僧」とある。羽黒山本坊での「有難や雪をかほらす風の音 芭蕉」の発句による興行に参加している。
 「食くふ」は「めしくふ」と読む。
 前句との関係が分かりにくいが、食事の時間がみんな違っていたりすると、確かに面倒くさい。漁師の家ではありがちなのか。
 六句目。

   ばらばらに食くふ家のむつかしく
 漏もしどろに晴るる村さめ   主筆

 家族がばらばらというところから、雨漏りのする貧しい家としたか。

2019年7月8日月曜日

 水無月の俳諧ということで「温海山や」の巻を読んできたが、もう少しここに留まりたい。
 『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)だと、次に「忘るなよ(四句)」というのが載っている。
 曾良の『俳諧書留』だと、「温海山や」の巻のあと、象潟の句に戻って、そのあと

   羽黒より被贈
 忘るなよ虹に蝉鳴山の雪   会覚
 杉の茂りをかへり三ヶ月   芭蕉
 磯伝ひ手束の弓を提て    不玉
 汐に絶たる馬の足跡     曾良

 海川や藍風わかる袖の浦   曾良

とあって、そのあと直江津の「文月や」の巻になる。
 「温海山や」の巻が六月十九日日から二十一日で、象潟は六月十六日から十八日になる。それよりもさらに戻って六月十三日、羽黒山から最初に酒田に向かう時の『旅日記』にはこう記されている。

 「一 十三日 川船ニテ坂田ニ趣。船ノ上七里也。陸五里成ト。出船ノ砌、羽黒ヨリ飛脚、旅行ノ帳面被調、被遣。又、ゆかた二ツ被贈。亦、発句共も被為見。船中少シ雨降テ止。申ノ刻ヨリ曇。暮ニ及テ、坂田ニ着。玄順亭ヘ音信、留守ニテ、明朝逢。」

とある。会覚の発句はこのときのものと思われる。ただ、この日には玄順(不玉)には会えなかったので、四吟はこの日ではない。
 この日は羽黒山南谷から最上川まで行き、船で最上川を下り酒田に行く。最上川に出るまでが五里、そこから酒田までが七里ということか。
 船出のときに羽黒山から飛脚が来て浴衣二着と発句が贈られてくる。何で浴衣がというところだが、このあたりには温泉が多いからだろうか。
 この翌日の『旅日記』にはこうある。

 「○十四日 寺島彦助亭ヘ被招。俳有。夜ニ入帰ル。暑甚シ。」

 このときの「俳」は

 凉しさや海に入たる最上川   芭蕉

を発句とする。この興行に不玉も参加しているから、無事に会えたのであろう。
 翌十五日には象潟へ向うが、このときにも不玉は同行し、

 象潟や汐焼跡は蚊のけふり   不玉

の句を詠んでいる。残念ながら『奥の細道』には入らなかった。
 象潟から酒田に帰ると、「温海山や」の巻を三日かけて巻くことになる。
 十八日に象潟から酒田に戻る。曾良の『旅日記』には、

 「十八日 快晴。早朝、橋迄行、鳥海山ノ晴嵐ヲ見ル。飯終テ立。アイ風吹テ山海快。暮ニ及テ、酒田ニ着。」

とある。「橋迄」は象潟橋(欄干橋)でここから鳥海山が見える。帰りは船に乗ったのだろう。「アイ風」は岩波文庫の『芭蕉おくのほそ道』の注に、

 「藍風。『北国にては東風をあゆの風といふ』(物類呼称)。」

とある。

  海川や藍風わかる袖の浦   曾良

の句はこの時のものだろうか。
 ここでふと思うのは、淇水編『俳諧袖の浦』(明和三年刊)に「この巻の初め半折ばかりは、袖の浦に舟を浮かべての吟」とあるのは、前日の象潟からの帰りのときの船旅と混同されてた可能性がある。この時の温海山から吹浦にかけての眺望をもとに、翌日の興行が成されたのではなかったか。
 むしろ、この船旅のときの吟は、あの四句だった可能性がある。

 忘るなよ虹に蝉鳴山の雪   会覚

 山の雪は月山の山頂付近のもので、『奥の細道』にも「氷雪を踏てのぼる事八里」とあるし、南谷でも「雪をかほらす」と詠んでいる。
 滞在中に虹が出たこともあったのだろう。曾良の『旅日記』には「五日 朝ノ間、小雨ス。昼ヨリ晴ル。」とあるし、月山や湯殿山を廻った時は晴れていたが、八日にはまた「朝ノ間小雨ス。昼時ヨリ晴」とあるし、十一日、十二日にも村雨が降っている。
 まあ、この楽しかった時のことをどうか忘れないでいてください、ということなのだろう。これに芭蕉は、

   忘るなよ虹に蝉鳴山の雪
 杉の茂りをかへり三ヶ月   芭蕉

と和す。「蝉鳴く山」に「杉の茂り」と応じ、かえり見ると三日月を掛けて、あの杉の山の上に見た三日月のことは今でも忘れませんと答える。

   杉の茂りをかへり三ヶ月
 磯伝ひ手束の弓を提て    不玉

 「手束(たつか)弓」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「手に握り持つ弓。たつかの弓。
 ※万葉(8C後)一九・四二五七「手束弓(たつかゆみ)手に取り持ちて朝狩に君は立たしぬたなくらの野に」
 ※散木奇歌集(1128頃)恋下「つくつくと思ひたむればたつかゆみかへる恨みをつるはへてする」

とある。「提て」は「ひっさげて」と読む。いにしえの狩人に思いを馳せて、いつしか日も暮れ三日月をかえりみるとする。

   磯伝ひ手束の弓を提て
 汐に絶たる馬の足跡     曾良

 砂浜だけに狩人の乗る馬の足跡は波が消してゆく。
 この四句は芭蕉と曾良が去った跡、不玉の手によって第三から先が作り直され一の懐紙が満たされ、それに更に後になってから支考と如行が二の懐紙を両吟で仕上げ、歌仙一巻となる。

2019年7月7日日曜日

 やはり今年の七夕も雨だった。
 まあ、家でゆっくり出来たので、「温海山や」の巻も一気に挙句まで。

 二十七句目。

   月さへすごき陣中の市
 御輿は真葛の奥に隠しいれ   曾良

 真葛が原はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 「京都市東山区円山町の円山公園を中心とし,周囲の青蓮院,知恩院,双林寺,八坂神社などを含む地域。東山山麓の傾斜地。《新古今和歌集》巻十一に〈わが恋は松をしぐれの染めかねて真葛原に風騒ぐなり〉の歌を残す慈円は青蓮院門跡であった。文人の愛好した地で,双林寺境内に西行庵があり,ここで没した頓阿の像とともに西行像が安置される。平康頼の山荘も双林寺付近にあり,そこで《宝物集》を著したという。近世,池大雅も住した。」

とある。

 わが恋は松をしぐれの染めかねて
     真葛原に風騒ぐなり
                前大僧正慈円

をはじめとして、恋の歌の題材とされている。同じ「新古今集」に、

 嵐吹く真葛が原に鳴く鹿は
     恨みてのみや妻を恋ふらむ
                俊恵法師

の歌もあり、もとは妻問う鹿の情だったのを人間の恋の情に転じたのであろう。
 『校本芭蕉全集 第四巻』の注は、「夫木抄」の「人めのみしのぶの岡の真葛原」の歌を引いているが、下の句の調べがつかなかった。
 高貴な女性が輿を隠して、お忍びで殿様に逢いにきたのだろうか。
 二十八句目。

   御輿は真葛の奥に隠しいれ
 小袖袴を送る戒の師      不玉

 「小袖袴(こそでばかま)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 「男女ともに下着とする小袖の上に袴だけをつけた略装。衵(あこめ)や袿(うちき)の類を省いた下姿(したすがた)。小袖が上着となるに従って、江戸時代には正装とされた。
 ※俳諧・曾良随行日記(1689)「御輿は真葛の奥に隠しいれ 小袖袴を送る戒の師〈不玉〉」

とある。「戒の師」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「出家する人に戒律を授ける師の僧。戒師。
「御―、忌むことのすぐれたるよし仏に申すにも」〈源・若菜下〉」

とある。
 この場合「御輿」は戒師の乗物で、若い僧に小袖袴を密かに贈る稚児ネタではなかったかと思う。
 二十九句目。

   小袖袴を送る戒の師
 吾顔の母に似たるもゆかしくて 芭蕉

 「戒の師」が出家前に妻としていた女性の娘を見て、懐かしくなって小袖袴を贈ったか。『西行物語』の娘との再会のシーンを思い浮かべたのかもしれない。
 三十句目。

   吾顔の母に似たるもゆかしくて
 貧にはめらぬ家はうれども   曾良

 「めらぬ」はweblio辞書の「日本語活用形辞書」に、

 「【文語】ラ行四段活用の動詞「減る」の未然形である「減ら」に、打消の助動詞「ず」の連体形が付いた形。」

とある。「減る」は、weblio辞書の「三省堂 大辞林」に、

 「①  へる。少なくなる。低下する。 「地ガ-・ッタ/日葡」
  ②  衰える。弱くなる。 「過言申す者は必ず奢り易く、-・りやすし/甲陽軍鑑 品三〇」
  ③  日本音楽で、音高を標準よりも低めにする。多くは管楽器、特に尺八でいう。 ⇔ かる」

とある。
 ただ、貧しくても衰えない家を売るというのがわかりにくい。「あらぬ」の間違いかもしれない。
 いずれにせよ母より受け継いだ家は売ってしまったが、自分の顔に母の面影は残っている、という意味であろう。
 二裏。
 三十一句目。

   貧にはめらぬ家はうれども
 奈良の京持伝へたる古今集   不玉

 これは古今集の「奈良伝授」のことか。
 ウィキペディアには、

 「二条家の秘伝は二条為世の弟子であった頓阿によって受け継がれ、その後経賢、尭尋、尭孝と続いた。尭孝は東常縁に秘伝をことごとく教授し、常縁は室町時代中期における和歌の権威となった。常縁は足利義尚や近衛政家、三条公敦などに古今集の伝授を行った。古今和歌集は上流階級の教養である和歌の中心を成していたが、注釈無しでその内容を正確に理解することは困難であった。このため、古今集解釈の伝授を受けるということには大きな権威が伴った。文明三年(1471年)、常縁は美濃国妙見宮(現在の明建神社)において連歌師宗祇に古今集の伝授を行った。
 宗祇は三条西実隆と肖柏に伝授を行い、肖柏が林宗二に伝えたことによって、古今伝授の系統は三つに分かれることになった。三条西家に伝えられたものは後に「御所伝授」、肖柏が堺の町人に伝えた系譜は「堺伝授」、林宗二の系統は「奈良伝授」と呼ばれている。」

とある。林宗二は京都の生まれだが、代々続く奈良の饅頭屋を継いで、そのかたわら肖柏から古今伝授を受けた。
 三十二句目。

   奈良の京持伝へたる古今集
 花に符を切坊の酒蔵      芭蕉

 「符」は「封」のことだと『校本芭蕉全集 第四巻』の注にある。「坊の酒蔵」は僧坊酒のことであろう。
 僧坊酒は織田信長の時代の大寺院の弾圧によって廃れたとされているが、それ以前の奈良の寺院では「南都諸白」と呼ばれる名酒が作られていた。この技術は江戸時代になっても奈良の酒屋に受け継がれている。
 古今集は饅頭屋に伝わったが、名酒もまた奈良に伝わっていて、花見には欠かせない。
 三十三句目。

   花に符を切坊の酒蔵
 鶯の巣に立初る羽づかひ    曾良

 花の頃、鶯も巣を作り始める。
 三十四句目。

   鶯の巣に立初る羽づかひ
 蠶種うごきて箒手に取     不玉

 「蠶種(こだね)」は「さんしゅ」とも言う。蚕の卵のこと。蚕が孵化して動き始めたら「掃立(はきたて)」という作業が行われる。コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」には、

 「蟻蚕に初めて桑葉を与え,蚕座に移す作業。散種 (ばらだね) の場合は,掃立直前に種枠の上面に光線を当て,薄紙の裏に蟻蚕がはい上がってから種枠を広げ,刻んだ桑を与える。蚕が桑についた頃,桑とともに掃下 (はきおろし) して枠を除き,蚕座をつくる。」

とある。
 羽箒を用いるので、前句の「羽づかひ」が掃立の作業のことに取り成され、鶯の巣の季節に「立初る羽づかひ」「箒手に取」と付く。
 三十五句目。

   蠶種うごきて箒手に取
 錦木を作りて古き恋を見ん   芭蕉

 「錦木」はウィキペディアには、

 「いわゆる奥州錦木伝説にまつわる錦木。五彩の木片の束であるとも、5種類の木の小枝を束ねたものともいわれる。」

とある。
 謡曲『錦木』には、

 「昔よりこの所の習いにて。男女の媒にはこの錦木を作り。
 女の家の門に立てつるしるしの木なれば。美しくいろどり飾りてこれを錦木という。
 さるほどに逢うべき夫の錦木をば取り入れ。逢うまじきをば取り入れねば。
 或いは百夜三年まで錦木立てたりしによって。三年の日数重なるを以って千束とも詠めり。」

とある。
 昔は「狹布(きょう)の細布(ほそぬの)」という幅の狭い白い麻布がこの錦木と対になって、陸奥の信夫の里の名物だった。

 錦木はたてながらこそ朽ちにけれ
     けふのほそぬのむねあはじとや
                能因法師

の歌は「後拾遺集」に見られる。
 一方で、この地域は養蚕の盛んな地域でもあった。曾良もこの『奥の細道』の旅で、

 蚕する姿に残る古代哉     曾良

の句を詠んでいる。曾良の『俳諧書留』では須賀川の所にあるが、『奥の細道』では尾花沢のところに、

 蚕飼する人は古代のすがた哉  曾良

の形に改められて収録されている。
 挙句。

   錦木を作りて古き恋を見ん
 ことなる色をこのむ宮達    曾良

 錦木は五色の木を束ねたものということで、大宮人は様々な色を好む、大和歌が色好みの道であることを思い起こしてこの一巻は終了する。

2019年7月6日土曜日

 今日は旧暦の六月四日だが、新暦では七夕の前夜。毎度のことながら新暦の七夕は梅雨のさ中で晴れることは少ない。明日はどうだろうか。
 それでは「温海山や」の巻の続き。

 二表。
 十九句目。

   おぼろの鳩の寝所の月
 物いへば木魂にひびく春の風  不玉

 鳩を山鳩(キジバト)のこととして、山奥の木魂を付ける。
 二十句目。

   物いへば木魂にひびく春の風
 姿は瀧に消る山姫       芭蕉

 木魂に山姫というと「応安新式」の「非人倫」の所に出てきてた。山姫は神と妖怪の両方の意味がある。「非人倫」で「非神祇」。
 二十一句目。

   姿は瀧に消る山姫
 剛力がけつまづきたる笹づたひ 曾良

 山の怪異に山で荷物をかついで運ぶ剛力もびっくりしてけ躓く。このあと山中温泉で詠む、

    青淵に獺の飛こむ水の音
 柴かりこかす峰のささ道    芭蕉

の句にも影響を与えてたかもしれない。
 「強力(ごうりき)」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「山伏,修験者 (しゅげんじゃ) に従い,力役 (りょくえき) をつとめる従者の呼称。修験者が,その修行の場を山野に求め,長途の旅を続けたところから,その荷をかついでこれに従った者。中世になると社寺あるいは貴族に仕え,輿 (こし) をかつぐ下人をも強力と称した。現在では,登山者の荷物を運び,道案内をする者を強力と呼ぶが,これは日本の登山が,修験者の修行に始ることに由来する。」

とある。
 二十二句目。

   剛力がけつまづきたる笹づたひ
 棺を納るつかのあら芝     不玉

 剛力が運んでたのは棺だった。「棺(くわん)を納(おさむ)る」と読む。
 二十三句目。

   棺を納るつかのあら芝
 初霜はよしなき岩を粧らん   芭蕉

 ただの何の変哲もない岩も初霜で薄っすらと化粧したようになる。それを死化粧(しにけしょう)に喩えたか。
 二十四句目。

   初霜はよしなき岩を粧らん
 ゑびすの衣を縫々ぞ泣     曾良

 『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)の注は匈奴に嫁いだ王昭君の俤とする。
 二十五句目。

   ゑびすの衣を縫々ぞ泣
 明日しめん雁を俵に生置て   不玉

 王昭君は匈奴へと出発する時に琵琶を奏でると、雁が飛ぶのを忘れて落ちたという伝説があり、落雁美人は画題にもなった。
 ここではそれをそのまま付けてしまうと王昭君ネタが三句に渡ってしまうため、前句の「ゑびす」を十月二十日の恵比寿講のこととし、恵比寿講のご馳走の雁とした。
 後の『炭俵』にも、

 振売の雁あはれなりゑびす講  芭蕉

の発句がある。
 明日には喰われる運命の雁を哀れに思い、恵比寿講のための服を縫いながら女は涙する。
 二十六句目。

   明日しめん雁を俵に生置て
 月さへすごき陣中の市     芭蕉

 『図解戦国合戦がよくわかる本』(二木謙一監修、二〇一三、PHP研究所)によると、

 「秀吉が鳥取城を攻めたときのこと。三万余の大軍で鳥取城を包囲した秀吉は、兵糧攻めを敢行した。このとき、秀吉は軍の士気が低下しないよう、陣中に町屋を建て、市を開かせた。また歌舞の者を呼んで兵士達を楽しませてもいる。」

という。
 合戦も長引くと、兵士達の私的な物資の調達のために市が立つことはそう珍しくもなかっただろう。秀吉はそれを自ら指揮して行わせた。
 歌舞の者というが、こういう人たちは同時に遊女である事も多く、戦場に売春婦が群がるのは洋の東西問わずどこにでもあったのではないかと思う。
 ただ、旧日本軍のようにそれを国策でやったのはまずかった。たとえ直接手をくださないにせよ、軍に忖度する人たちが裏社会の人たちと通じて荒っぽいことをする結果になった。
 「月さへすごき」というのはそういう陣中の、明日の命をも知れぬ兵士の捨て鉢なすさんだ空気をよく表わしている。

2019年7月5日金曜日

 今年は冷夏になるという予報も出ている。梅雨明けも遅くなるのかな。
 それでは「温海山や」の巻の続き。

 十三句目。

   ちまたの神に申かねごと
 御供して当なき吾もしのぶらん 芭蕉

 これは『源氏物語』の惟光の立場にたった句か。源氏に付き合ってみすぼらしい狩衣を着させられたりしていた。巷の女に会いに行くのなら夕顔の俤か。
 十四句目。

   御供して当なき吾もしのぶらん
 此世のすゑをみよしのに入   不玉

 これは一転して西行の俤であろう。「見る」と「み吉野」を掛けている。
 十五句目。

   此世のすゑをみよしのに入
 あさ勤妻帯寺のかねの声    曾良

 コトバンクの「世界大百科事典内の妻帯の言及」には、

 「すでに平安中期のころ,清僧(せいそう)は少なく,女犯妻帯の僧が多くなった。すなわち,大寺院では組織の分化がすすみ,衆徒大衆(しゆとだいしゆう)と総称される堂衆(どうしゆう)や行人(ぎようにん)などの下級の僧侶集団が形成され,彼らは妻子を養い,武力をもち,ときには荘園の経営や物資の輸送や商行為まで営むようになり,寺院の周辺や山麓の里は彼らの集住する拠点となって繁栄した。」

とある。吉野の金峯山寺のような大きな寺院では、麓に妻帯した僧がたくさん住んでいたのであろう。鐘は世尊寺の三郎鐘だろうか。
 十六句目。

   あさ勤妻帯寺のかねの声
 けふも命と嶋の乞食      芭蕉

 これは佐渡に流された日蓮上人だろうか。だいぶ苦労なされたようだ。
 十七句目。

   けふも命と嶋の乞食
 憔たる花しちるなと茱萸折て  不玉

 「憔(かじけ)たる」の「かじける」は「悴ける・忰ける」という字も書く。コトバンクの「大辞林 第三版の解説」には、

 「①  寒さで凍えて、手足が自由に動かなくなる。かじかむ。
 「手ガ-・ケタ/ヘボン 三版」
 ②  生気を失う。しおれる。やつれる。
 「衣裳弊やれ垢つき、形色かお-・け/日本書紀 崇峻訓」

とある。この場合は②の意味で、「し」は強調の言葉。萎れた花よどうか散らないでくれ、と茱萸(グミ)を折る。この場合は苗代の季節に実るというナワシログミであろう。
 「花」は島流しの流刑人の比喩とも取れるが、花の咲くのを見ながら、

それに自分を重ね合わせて「散るな」という意味なら似せ物ではなく本物の花になる。
 十八句目。

   憔たる花しちるなと茱萸折て
 おぼろの鳩の寝所の月     曾良

 「鳩の寝所のおぼろの月」の倒置。春の朧月の句になる。鳩も心あるのか、桜ではなくグミの枝で巣を作っていたのだろう。

2019年7月4日木曜日

 午前中は雨も風も強かった。
 では「温海山や」の巻の続き。

 『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)の注には、

 「淇水編『俳諧袖の浦』(明和三年刊)によれば、この巻の初め半折ばかりは、袖の浦に舟を浮かべての吟ともいう。又三吟三筆の懐紙は「袖の浦江上の納涼」と端書があり、もと亀崎山下雲竜寺に秘蔵されたが、寛延末年に焼失した旨を記している。」

とある。
 焼失して証拠がないあたりがやや怪しげではあるが、だからといって否定する根拠もない。発句の温海山から吹浦までの雄大な眺望を考えると、ありそうな話ではある。
 曾良の『旅日記』には舟遊びに記述はないが、快晴とあるから舟遊びにはちょうど良かっただろう。
 それでは初裏に。
 七句目。

   あられの玉を振ふ蓑の毛
 鳥屋籠る鵜飼の宿に冬の来て  芭蕉

 鳥屋(とや)は鳥小屋で、「応安新式」には鷹の小屋で「鳥屋鷹」というのがあったが、ここでは鵜の小屋。前句の蓑を着た人物を鵜匠とした。
 八句目。

   鳥屋籠る鵜飼の宿に冬の来て
 火を焼かげに白髪たれつつ   不玉

 寒いから火を焚いて暖を取る。
 九句目。

   火を焼かげに白髪たれつつ
 海道は道もなきまで切狭め   曾良

 「海道」は海沿いの道。これから行く親知らず子知らずのことを想像したか。市振の手前になる。『奥の細道』には、

 「今日(けふ)は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返(こまがへ)しなど云北国(いふほくこく)一の難所(なんじょ)を越(こえ)てつかれ侍れば、枕引(ひき)よせて寐(いね)たるに、一間融(ひとまへだて)て面(おもて)の方(かた)に、若き女の声二人計(ばかり)ときこゆ。」

とある。いわゆる市振の遊女の場面だ。
 薩埵峠の道が開かれる前の清見関も海道の難所だった。『更級日記』には、

 「清見が関は、片つ方は海なるに、関屋どもあまたありて、海までくぎぬきしたり。けぶりあふにやあらむ。清見が関の波も高くなりぬべし。おもしろきこと限りなし。」

とある。この「けぶりあふにやあらむ」のイメージだったのかもしれない。「白髪たれつつ」は藻塩焼く海士のことだったのか。
 十句目。

   海道は道もなきまで切狭め
 松かさ送る武隈の土産(つと) 芭蕉

 武隈の松は既にこの『奥の細道』の旅で通過している。そこで復元された根本で二つに分かれた松の姿を見、

 桜より松は二木を三月越シ   芭蕉

と詠んでいる。
 ただしここは海辺の狭い道ではない。句の意味としては、武隈の松を見たお土産にその松ぼっくりを持って帰る途中ということだろうか。
 芭蕉は姨捨山の旅、つまり『更科紀行』の旅のときに、

 木曾のとち浮世の人のみやげ哉 芭蕉

と詠み、荷兮に橡の実を土産に持ち帰っている。

     木曽の月みてくる人の、みやげにとて杼(とち)の
     実ひとつおくらる。年の暮迄(くれまで)うしなはず、
     かざりにやせむとて
 としのくれ杼の実一つころころと 荷兮

と詠んではいるものの、どうしていいものか困ったのではなかったか。
 十一句目。

   松かさ送る武隈の土産
 草枕おかしき恋もしならひて  不玉

 前句の松かさを武隈の地元の女から土産にと貰ったものとしたか。
 「おかしき」は王朝時代のような心引かれるという意味ではなく、ここでは変な、だとか笑えるだとかいう意味であろう。まあ、土産に松ぼっくりが落ちになるというところで、真剣な恋ではなさそうだ。遊女の戯れか。
 十二句目。

   草枕おかしき恋もしならひて
 ちまたの神に申かねごと    曾良

 ちまたの神は猿田彦大神で道祖神と習合していた。
 「かねごと」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「前もって言っておく言葉。約束の言葉。『かねこと』とも。」とある。
 猿田彦大神は曾良の神道の方での師匠である吉川惟足や、林羅山、山崎闇斎などの朱子学系の神道では最高神とされていた。芭蕉の道祖神も不易流行や風雅の誠と同様、曾良の影響によるものだったのだろう。
 猿田彦大神といえば「土金之秘訣」。天孫を導くのも土金の徳とされ、天皇を補佐する幕府の役割もそこに求められた。
 『古事記』の、

 「爾に日子番能邇邇芸命、天降りまさむとする時に、天の八衢に居て、上は高天の原を光し、下は葦原中国を光す神、是に有り。」

の光を土の中の光で金を表わすという解釈によるもので、山崎闇斎はこの光を神秘体験と結び付けていたようだ。
 ところで句をよくよく見ると、「申」はサルと読めるし、それに「かね」が続く。
 旅の恋も猿田彦大神にあやかるという、いかにも曾良らしい句だ。

2019年7月3日水曜日

 梅雨の末期になると毎年のようにどこかが豪雨に見舞われ、大きな水害が発生する。昔から繰り返されてるのだろうけど、これだけ文明の世になってもどうすることもできないことはまだある。人智の及ばぬ所それは結局「天」なのか。
 どこかの国では国策で漫画やアニメの作家を養成しようとして失敗したようだが、文学も芸術も国家は過剰な干渉をしないほうがいい。むしろ放っておいて自由にやらせたほうがいい。
 日本が誇る今日のクールジャパンも、学校では習わないばかりか、どれもこれも教育に有害だとされてきたものばかりだし、それでも好きなものに賭ける情熱は止められない。本来文学も芸術もそういうものではないかと思う。
 文学芸術に必要なのは自由な制作意欲と、そして多様性だ。美というのが当面役に立たない秩序のストックであるならば、そのストックは多種多様であればあるほど良い。多様性こそが美の本質だ。決してたった一つの美なんてものはない。
 自由のない独裁国家ではどんなに権力者が力を入れて芸術を振興しようとも、みんなどこかで見たようなコピーばかりになる。
 芸術というのは、みんなが自由にいろいろなものを作りあって、面白いものはこぞって取り入れ、つまらないものは自然と忘れてゆく、それによって自然淘汰が働き進化してゆくものだ。
 芭蕉の時代の俳諧もこうしたエネルギーに満ち溢れていた。江戸幕府が俳諧師を養成したなんて話は聞かない。みんな「かまわぬ」から生まれた。
 さて、今日から水無月。朔日ということで、地球の反対側では日食もあった。この鈴呂屋でも水無月の俳諧を読んでいこうと思う。
 談林のスピード感と対照的なのが、蕉風確立期の蕉門で、特に『奥の細道』の旅の途中の曾良の日記なんかを見ると、興行は遅々として進まず、歌仙一巻に二日三日かかってたりする。
 今回取り上げるのはその三日かかったという歌仙を取り上げてみようと思う。
 別に素人が混ざっていたから遅くなったというわけでもない。メンバーは芭蕉、曾良、そして酒田の不玉の三人、三吟歌仙だ。
 発句は、

   出羽酒田 伊東玄順亭にて
 温海山や吹浦かけて夕凉    芭蕉

の句で、『奥の細道』にも記されている。『奥の細道』にはこうある。

 「羽黒を立(たち)て鶴が岡の城下、長山氏(ながやまうぢ)重行と云(いふ)物のふの家にむかへられて、誹諧(はいかい)一巻有(あり)。左吉も共に送りぬ。川舟に乗(のり)て酒田の湊(みなと)に下る。淵庵不玉(ゑんあんふぎょく)と云医師(いふくすし)の許(もと)を宿(やど)とす。


 あつみ山や吹浦(ふくうら)かけて夕すゞみ
 暑き日を海にいれたり最上川」

 伊東玄順はこの淵庵不玉のことで、名は玄順、俳号は不玉、医号は淵庵だった。
 句の方は「温海山(あつみやま)」という今日のあつみ温泉のあるあたりの地名に、「吹浦(ふくうら)」という最上川が海に注ぐあたりの地名を並べることで、暑い所に風が吹いて夕涼みとする。温海山は酒田の南、吹浦は酒田の北ということで、正反対の景色が詠み込まれている。
 「温海山に吹浦(を)掛けて夕涼みや」の倒置になる。
 これに対し、亭主の不玉はこう和す。

   温海山や吹浦かけて夕凉
 みるかる磯にたたむ帆筵    不玉

 「みる」は水松・海松といった字を当てる。海藻で古くから食用にされていた。そのミルを刈る磯に「たたむ帆筵」と停泊することで、芭蕉にここにしばらく帆をたたんで滞在していって下さいというもてなしの心とする。
 第三は曾良が付ける。

   みるかる磯にたたむ帆筵
 月出ば関やをからん酒持て   曾良

 帆筵を畳んだ船乗り達が、関所の番人の寝泊りする小屋を借りて月見酒、と展開する。
 このあたりで関というと、温海山の南に鼠ヶ関がある。その向こうは越後の国の村上になる。
 四句目。

   月出ば関やをからん酒持て
 土もの竃の煙る秋風      芭蕉

 「土もの」は陶器のことをいう。秋風に乗って流れてくる陶器工場の煙が煙たいので関屋を借りようとなる。
 五句目。

   土もの竃の煙る秋風
 しるしして堀にやりたる色柏  不玉

 秋風というと、

 秋来ぬと目にはさやかに見えねども
     風の音にぞおどろかれぬる
             藤原敏行(古今集)

の歌が思い浮かぶが、秋風の目に見えるしるしとして、柏の葉が色づいて秋風に堀に散っている。
 六句目。

   しるしして堀にやりたる色柏
 あられの玉を振ふ蓑の毛    曾良

 色づいた柏の散る堀の情景を冬の来る印として、蓑を来た船頭が霰の玉を振い落とす。その蓑もかなり痛んで毛羽立っている。
 談林の頃のような本歌や謡曲や付け合いで付けるのではなく、前句にふさわしい景物を選んでは付けている。これだとどうしても展開は重くなり、一句ひねり出すのに時間がかかってしまう。

2019年7月2日火曜日

 今日は皐月の晦日で、明日からは水無月になる。水無月になったらまた、水無月の俳諧を読んでみようと思う。
 今日はその間のつなぎということで、そもそも論を少々やってみようと思う。

 そもそも美とは何か。
 美は前に述べたとおり、世界の秩序に関する情報のストックを作ることに与えられる快楽報酬なのだと思う。
 因果関係のはっきりしない、役に立つかどうかわからないような秩序の発見に関しても、一応情報としてストックしておいた方が、何かの時に役に立つかもしれない。
 そのため美は当面の有用性を必要としない。最初の時点では無駄と思えることでも、今まで経験したことのない出来事に遭遇して、新たな仮説を立てなくてはならなくなったとき、様々なイマジネーションをストックしておいた方が物事に柔軟に対応できる。
 芸術は何のために必要かというと、結局は石頭にならないために必要なのである。
 人間以外の動物に美を感じることがあるのだろうかというと、もしかしたらあるのかもしれない。以下は以前にゆきゆき亭のホームページに書いてたことだが、それを引用しておこう。

 下北のニホンザルを観察してきた足沢貞成によると、サルが夜寝る時に泊り場として選ぶ場所は、人間が見ても一度覚えたら忘れられないような景観を具えたところだという。

 「泊り場は細かく見れば種々の多用な地形的条件の所にあり、一言でいうのは難しい。何本かの側枝の多いヒバの木があって、樹冠をおおい樹冠移動が可能であり、周囲には急峻な地形の箇所があり、下方には比較的見通しがよくきいて安全性の高い条件を具えたところというような言い方になろうか。大きくみたなら非常に特徴的な景観を具えていて、遠くからでもあそこと指摘できるほどわかりやすいところで、たとえば顕著な岩峰ないし岩場の周辺とか、特徴のある沢の奥まりとか、独立峰のふところ斜面とか、はっきりとした沢の出会い付近あるいは尾根の末端部とかいったたぐいで、一度覚えてしまうといつでもまざまざと思い出すことができるほど景観的特徴を具えていた。
 この遠くからでもわかりやすいという点は、サルにとって遊動上重要な意味を持っているのではないだろうか。」(『下北のサル』井沢紘生編、1981、どうぶつ社、p.98、足沢貞成)

 人間ならこのような場所には、ある種の美しさを感じるであろう。いわゆる絶景ポイントと言ってもいい。しかし、ニホンザルはこのような場所を泊り場として選ぶ時、果たしてその景色を「美しい」と感じるのだろうか。
 ニホンザルにとって、泊り場に特徴のある景観の場所を選ぶということは、生存上決して無意味なことではない。つまり、生活圏の地図を思い描く時に、記憶に残りやすい、特徴のある景色というのは、自分の位置を知る上で重要な情報になる。ニホンザルはただ、生存のために、覚えやすい特徴のある景色を記憶し、道に迷わないようにしているだけかもしれない。
 しかし、こう考えることもできる。自分の生活圏のマップを作る際、景色にある種の特徴を発見し、記憶することに、遺伝子が何らかの脳内快楽物質を分泌して、報酬を与えるようにプログラムしているかもしれない。つまり、もしある種の景色に遭遇した時に、何らかの快楽を覚えるとしたら、それは「美」を認識していると言ってもいいのかもしれない。
 スキナーボックスのハトにも、同じことが言えるかもしれない。
 スキナーボックスはアメリカの20世紀の心理学者、バラス・F・スキナーが、オペラント条件付けの実験用に考案したもので、行動主義の心理学者の間で広く用いられている。
 オペラント条件付けというのはいわゆる試行錯誤学習のことで、パブロフの犬の条件反射のような古典的条件付けに対し、何らかの未知の道具を与えて試行錯誤させて一定の行動を獲得させることをこういう。つまり、同じ刺激の繰り返し、たとえば餌をやる時に必ずベルを鳴らすことで、ベルの音を聞いただけでよだれが出るような行動を学習させるのではなく、あるスイッチを押すと餌が出てくるような状況を作り、それを見つけるまでに様々な試行錯誤をさせて、一定の行動を学習させることをいう。
 そのスキナーボックスとは、こういうものである。

 「研究室で動物の学習や刺激の識別について研究するとき、多くの場合スキナー・ボックスを使う。被験動物には通常ラットかハトを使う。被験動物を腹をすかせた状態でスキナー・ボックスに入れ、研究対象の刺激以外はほとんどすべての刺激を断つ。被験動物は餌を手に入れるには、ある特定の刺激が与えられたときに、ボックス内のなにかをうまく操作しなくてはならない。ボックスのなかからは、不透明な壁にさえぎられて外にあるものが見えないようになっている。また外の音をカモフラージュするために、波長範囲のひろいシューという音が流されることも多い。したがって被験動物はボックス内の装置を操作する他はほとんどなにもすることがない。またその装置は、この種の動物が簡単に操作を学習することがあらかじめわかっているものがえらばれている。ラットが操作しなくてはならないのは床に近いレバーで、ラットはそれを前足で押しさげることができる。ハトが操作しなくてはならないのは、壁につけて透明材質を裏から照らしてあるキーあるいは小片で、ハトがくちばしでたやすくつつくことのできる高さにしてある。スキナー・ボックスにはもう一つ、機械的に操作されて、食物やときには水を供給する食物桶がとりつけられているが、食物も水も、ふつうは一度に数秒間しか得られない。レバーとか逆光照明のキーは、食物桶をコントロールしたり、動物に与える刺激を変化させるために、マイクロスイッチにつながれている。ボックス全体も照明がついている。ハトはもっばら視覚に頼っているので、この「室内照明」を消すと、キーをつつくなどの行動もほとんどしなくなってしまう傾向がある。」(『動物の心』ドナルド・R・グリフィン、1995、青土社、p.211)

 ハトはこのような箱の中に、空腹な状態で入れられ、たいていはそれほど時間を待たずにキーを突くという。腹をすかせたハトが、何でも手当たり次第に突いてみることは、学習というよりは遺伝的にプログラムされた行動で、スイッチ以外に何もない部屋でキーを突くという行動は程なく発見される。しかし、それで餌が出てこないなら、すぐにやめてしまうことになる。
 このとき、たとえば赤いランプが点灯した時には餌は出ず、緑のランプが点灯した時のみ餌が出てくるようにする。そうなると、ハトはやがて緑のランプが点灯した時以外はキーを突かなくなる。ここで、ハトは赤と緑の色の違いを識別できるということが明らかになる。
 こうしたやり方で、餌の出てくる条件をどんどん複雑にしてゆき、ハトがどの程度まで対象の違いを識別できるのかを調べることができる。

 「別の一連の実験で、リチャード・ヘルンスタインなど数人の心理学者が、記憶と感覚を試すじつにむずかしい問題をハトに示した。ヘルンスタインとラヴランド(Herrnstein and Loveland 1964)が行った先躯的な実験では、標準型のスキナー・ボックスを少し変えて、食物が得られる通常のキーの他に、壁と水平に小さなスクリ-ンがあり、そこにカラー写真が映写できるようになっていた。スクリーンはキーの役目もしていて、ハトがつつくと電源が入るしかけになっていた。このミニスクリーンにさまざまな映像が映しだされた。室内や戸外の光景、人々、動物、建物、木々、花、町並みなど。これらすべての実験で、一部の写真が正解で、食物が手に入る信号だった。正解の写真をつつくと、食物桶がときどき数秒開いた。他の写真は不正解で、それは強化刺激ではなかった。つまりつついても効果はなかった。あるいは「室内照明」が消えて、ハトは暗闇にとりのこされることになった。」(『動物の心』ドナルド・R・グリフィン、1995、青土社、p.217)

 これによってわかったのは、「(1)カシの葉と他の木の葉(Cerella 1979)、(2)木々のある光景と木々のない光景、(3)水がある光景とない光景、(4)特定の人物が映っている写真と、人物はぜんぜん映っていないか他の人が映っている写真(Herrnstein, Loveland, and Cable 1976)、(5)魚のいる水中写真と、同じような水中で魚のいないもの(Herrnstein and de Villiers 1980)。」(『動物の心』ドナルド・R・グリフィン、1995、青土社、p.218)といったものだった。こうした結果は、ハトが決して単なる試行錯誤だけで学習しているのではなく、あらかじめ様々な認識のパターンを遺伝的に持っていて、それに基づいて新たな状況を洞察的に学習していることが想定されるもので、行動主義者にとってはむしろ好ましくない結果かもしれない。
 このような実験の延長で、渡辺茂はピカソとモネの絵を見分けることができるかどうかという実験を行っている。これによってハトは10枚のピカソの絵と10枚のモネのの絵を識別したが、これにも単に20枚の絵を丸暗記したのではないかという疑問が残るので、それまでの訓練では見せなかった絵を見せてみたという。

 「しかし、これはハトがピカソとモネの区別ができるようになったのではなく、二○枚の絵を逐一おぼえただけのことかもしれない。実際、ハトはこのくらいの数の図をまるごとおぼえる記憶力をもっている。そこで、訓練のときには見せなかった絵を見せてみた。図6の上の図はモネの絵に反応し、ピカソの絵には反応しないという訓練をうけたハトの場合、下の図は反対にピカソの絵に反応し、モネには反応しないという訓練をうけたハトの場合である。あきらかに、はじめて見る絵でもモネとピカソの区別をしている。ハトは訓練に使われた特定の作品をおぼえたのではなく、「ピカソ」の作品、「モネ」の作品という作風をおぼえたと考えられる。
 わたしたちはセザンヌやルノアールの絵をピカソよりもモネに近いものと感じる。また、ブラックやマチスの絵を見ればモネよりもピカソに近いものと感じる。つまり、印象派とかキュビズムといったまとめ方もできる。ハトではどうだろうか。図6に見られるように、モネに反応する訓練をうけたハトはモネに画風が似ているセザンヌにも反応しており、ピカソに反応する訓練をうけたハトではピカソに近いブラックにも反応している。ハトはなにか具象画に共通なもの、抽象画に共通なものを見ているのだろう。」(『認知の起源を探る』渡辺茂、1995、岩波書店、p.17~37)

 この実験ではさらに、具象画の場合上下の逆を区別するが、抽象画の場合は上下ひっくり返しても区別がつかないこともわかったという。抽象画の上下は人間でも間違えることがあるのだから、ハト認識の仕方は案外人に似ているのかもしれない。
 同様な実験で、音楽に関しても、バッハやビバルディのような古典音楽とシェーンベルクやカーターのような現代音楽の識別実験にも成功しているという。
 このとき果たして、ハトは美を意識しているのだろうか。かつてハトのような鳥類は外見上、いわゆる大脳皮質がないということで、爬虫類なみの原始的な脳とされてきた。しかし、実際は皮質構造はなくても、それに相当する部分が大脳基底核の上に存在していて、哺乳類とは別の構造に進化した高度な脳であることがわかっている。実際ゴミ捨て場のカラス対策に手を焼いている人だったら、カラスがいかに賢いかを理解できるであろう。
 ハトもまた、かなり高度な脳を持っていることは間違いない。もし絵画や音楽を識別する際、何らかの秩序が存在することを発見したなら、その発見の際に快楽報酬を得ている可能性はある。つまり「美」を感じている可能性はある。

 次にそもそも詩とは何かを考えてみよう。
 これも前に述べたとおり、文法や論理以外の別の秩序を持つ文章、それが詩の定義といって良い。
 通常の言語表現は文法を備えているし、言葉を使ってものを考えるときには論理という構造を備えている。
 詩はそれ以外の構造を持つ。能記においては音節数や韻、リフレインなどがあり、所記においては対句や比喩がある。比喩は述語の一致による誤謬推理から来るもので、たとえば「君は薔薇のように美しい」というのは「君は美しい、薔薇は美しい、故に君は薔薇だ」という推論に基づく。これは論理という一つの秩序でありながら、誤謬推理を意図的に用いることで詩の独自の秩序を構成する。
 詩は古来より音楽と結びつくことが多かったのは、こうした詩独自の秩序は、リズムや音階という音楽的秩序にまで容易に拡張できたからであろう。
 和歌は五七五七七という音節数を基本としながらも、それを吟じることで音楽的秩序と結びついていた。それは連歌や俳諧にも受け継がれていた。近代において正岡子規によって素読による観賞が奨励された時、この伝統は終わりを告げる。

 最後にそもそも文学とは何かを考えてみよう。
 文学は文学的なものと文学的でないものとを区別する事により、ある種の文芸を特権的なものに高めることをいう。
 洋の東西を問わず、聖書や経典のような神仏など超越的な存在に関する書物が権威を持っていた時代には、その超越的な存在について書かれたものが無条件に特権を持つ。
 西洋では唯一神からやがて形而上学的な理性の単一性を表現するものへと文学は変わっていった。
 これに対し多神教の我々の文化では神仏の顕現した痕跡を「故実」と呼び、18世紀の中頃までの学問は基本的に故実の学であり、故実に基づいて得られた現象の背後にあると思われる神の世界については、部立てし一種の辞典を作ることで現象の背後を知る手引きとしてきた。そして現実の変化して止まぬ世界にその知識を応用するには、「機知」が必要とされた。
 連歌において、雅語や本歌本説は故実に相当し、春夏秋冬、恋述懐、神祇釈教などに分類し部立てされ、付け句の機知を競った。
 神仏儒道、詩歌連俳、利休の茶、雪舟の絵、世阿弥の能、様々な道があっても、根本的なものは一つと考えられることによって、その現世における多様な顕現が保障されていた。
 18世紀の中頃を過ぎると、こうした故実に描き出されてきた世界の背後の世界が急速に疑われるようになり、学問を「もの」に基づいて再編する動きが出てきて、国学、蘭学、心学、条理学など様々な新しい学問が登場し、やがて寛政異学の禁が出るに至った。
 ただ、これらは結局明治の近代化の中で蘭学の系譜のみが「科学」として生き残ってゆくことになった。そして、西洋から「文学」の概念が入ってきて、和歌俳諧は近代短歌・近代俳句へとまったく新しい考え方の元に再編されることとなった。
 近代文学は基本的には単一の理性(精神)の様々な多様な個(肉体)による表現といえよう。ただ、単一の理性が幻想にすぎないなら、多様な個の表現は無秩序な何でもありの世界になってしまう。そして、その個と個を結ぶ共通の価値もないまま、互いに理解困難な分断された世界を生み出すだけになる。あるいは政治権力によってそれは統制されることになるのか。
 多神教原理によって文学を再編するなら、基本的にはダーウィニズムのモデルが有用になる。つまりすべての作品は仮説であり、それらは大衆の審判を仰ぎ、生き残ったものが真実への近似値になる。
 様々な作品が流行を繰り返す中で、残ったものが不易になる。それが文学である。