2019年7月25日木曜日

 思うに作品というのは作者一人が作るものではない。作者は読者の反応を見ながら読者と共有する言語を探し出し、読者と共有する認識を作り上げ、それが読者と共有される一つの物語へと仕上げられてゆく。ヒット作というのはそれ自身が作者と読者のコラボではないかと思う。
 読者と共有する言葉、共有する認識は、作者が作るのではない。作者も同時に読者として他の作品に触れているし、その作品も読者は知っている。となれば、過去の作品そのが読者の一人としての作者と、たくさんの読者とを結ぶことになる。
 「あの作品面白かったね」「そうだあれは面白かった」「ならばあんな作品を作りたいね」「そうだそういう作品が読みたいんだ」こうして新しい作品が創作されてゆく。これによって過去の面白さが次の作品に引き継がれてゆく。もちろんそこに作者は更に面白くしようとあれこれ新しい要素を付加する。これが芸術の発展に繋がってゆく。
 元となった作品を少し変えて新しい要素を付け加え、つまらなかったものを削ってゆくのが新しい作品の創造なら、創作といっても少なからず二次創作の要素があり、創作と二次創作の違いは元の作品の登場人物や基本設定を残すかどうかの違いにすぎないのではないかと思う。
 二次創作が表現の自由として保障されなくてはならないのは、創作も二次創作も基本的には連続した創作活動であり、その境界線が極めて曖昧だからだ。
 たとえば歴史物を書くとき、歴史的人物を主人公にするわけだが、この歴史的人物のキャラクターは果してどこから生み出されたのだろうか。
 元は古い文献にある記述かもしれない。しかし戦国時代でも幕末でも既にたくさんの歴史物が存在する。そこである程度信長はこういうキャラ、秀吉はこういうキャラというのが出来上がっている。
 次に書く歴史物がこういう既に出来上がっているキャラを元に書かれるなら、それは二次創作と何が変わるのだろうか。
 あの『源氏物語』もひょっとしたら元は二次創作だったかもしれない。というのは、「夕顔」巻の冒頭の部分に、

 「六条わたりの御忍びありきの頃、うちよりまかで給ふなかやどりに、大弐(だいに)のめのとのいたくわづらひてあまに成りにける、とぶらはむとて、五でうなるいへたづねておはしたり。
 (源氏の君が六条御息所の所にこっそりと通ってた頃、内裏を出て六条へ向う途中の宿にと、大弐の乳母がひどく思い悩み尼になったのを見舞いに、五条へとやってきました。)」

とあるように、それまでの巻に登場しなかった六条御息所が唐突に登場するばかりでなく、源氏の君がそこにこっそりと通ってたことがあたかも周知のことであるかのように語られているからだ。
 ここでは源氏と六条がどのようにして出会い、どのようにして恋仲になったのか、その辺の物語が欠落している。
 作者自身によるか、他の作者によるものかはわからないが、源氏と六条の何らかの先行する恋物語があったのではないかと疑われる。
 平安時代に書かれた物語はすべてが現存しているわけではない。『枕草子』には現存しない物語のタイトルが記されている。
 実際に短期間に急速に女房のための物語文学が発展したのなら、そこには様々な試行錯誤があったはずで、たくさんの作られるそばから忘れ去られていった駄作が存在していただろうし、傑作といわれるものでもその後の社会変化や応仁の乱などの戦乱で失われたものもあったであろう。そんな中の一つとして源氏と六条の恋物語があったとしてもおかしくはない。
 創作と二次創作の違いは、元ネタを大きく改変して新しく創作された物語の中に消化してしまうか、元ネタを誰もがそれとわかるような形で残すかの違いにすぎない。
 もちろん元ネタを残すのにはメリットがある。それは元ネタのファンに元ネタの持つ価値を利用して読ませることができるからで、その意味では元ネタの人気に便乗する形になる。それゆえ商用では何らかの制限する仕組みは必要だが、せいぜい小遣い稼ぎくらいにしかならない同人誌では広く認めてもいいのではないかと思う。
 国際ルールとしてはヒップホップのサンプリングをモデルにするといいのかもしれない。
 俳諧でいうと本歌取りか俤かという違いではないかと思う。本歌取りは句の手柄を元歌に依存する。ただ、蕉門の本歌付けは少し変えることで作者の手柄の余地を残し、俤になれば新たな創作の中に古典を連想させる要素を取り入れるだけのものになる。
 俳諧が古典を基とするなら、古典をあくまで俤に留めることで、古典から独立した文学へと進化したともいえる。蕉門において俳諧が連歌の入門変ではなく独自の文学として確立できたのは、出典や證歌から離れ、それを俤だけに留める手法を確立したからでもある。
 この俤付けの手法は、過去のヒット作の設定やキャラや展開パターンなどのアイデアを新しい作品に取り込むときの手法として今日に受け継がれているのではないかと思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿