午前中は雨も風も強かった。
では「温海山や」の巻の続き。
『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)の注には、
「淇水編『俳諧袖の浦』(明和三年刊)によれば、この巻の初め半折ばかりは、袖の浦に舟を浮かべての吟ともいう。又三吟三筆の懐紙は「袖の浦江上の納涼」と端書があり、もと亀崎山下雲竜寺に秘蔵されたが、寛延末年に焼失した旨を記している。」
とある。
焼失して証拠がないあたりがやや怪しげではあるが、だからといって否定する根拠もない。発句の温海山から吹浦までの雄大な眺望を考えると、ありそうな話ではある。
曾良の『旅日記』には舟遊びに記述はないが、快晴とあるから舟遊びにはちょうど良かっただろう。
それでは初裏に。
七句目。
あられの玉を振ふ蓑の毛
鳥屋籠る鵜飼の宿に冬の来て 芭蕉
鳥屋(とや)は鳥小屋で、「応安新式」には鷹の小屋で「鳥屋鷹」というのがあったが、ここでは鵜の小屋。前句の蓑を着た人物を鵜匠とした。
八句目。
鳥屋籠る鵜飼の宿に冬の来て
火を焼かげに白髪たれつつ 不玉
寒いから火を焚いて暖を取る。
九句目。
火を焼かげに白髪たれつつ
海道は道もなきまで切狭め 曾良
「海道」は海沿いの道。これから行く親知らず子知らずのことを想像したか。市振の手前になる。『奥の細道』には、
「今日(けふ)は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返(こまがへ)しなど云北国(いふほくこく)一の難所(なんじょ)を越(こえ)てつかれ侍れば、枕引(ひき)よせて寐(いね)たるに、一間融(ひとまへだて)て面(おもて)の方(かた)に、若き女の声二人計(ばかり)ときこゆ。」
とある。いわゆる市振の遊女の場面だ。
薩埵峠の道が開かれる前の清見関も海道の難所だった。『更級日記』には、
「清見が関は、片つ方は海なるに、関屋どもあまたありて、海までくぎぬきしたり。けぶりあふにやあらむ。清見が関の波も高くなりぬべし。おもしろきこと限りなし。」
とある。この「けぶりあふにやあらむ」のイメージだったのかもしれない。「白髪たれつつ」は藻塩焼く海士のことだったのか。
十句目。
海道は道もなきまで切狭め
松かさ送る武隈の土産(つと) 芭蕉
武隈の松は既にこの『奥の細道』の旅で通過している。そこで復元された根本で二つに分かれた松の姿を見、
桜より松は二木を三月越シ 芭蕉
と詠んでいる。
ただしここは海辺の狭い道ではない。句の意味としては、武隈の松を見たお土産にその松ぼっくりを持って帰る途中ということだろうか。
芭蕉は姨捨山の旅、つまり『更科紀行』の旅のときに、
木曾のとち浮世の人のみやげ哉 芭蕉
と詠み、荷兮に橡の実を土産に持ち帰っている。
木曽の月みてくる人の、みやげにとて杼(とち)の
実ひとつおくらる。年の暮迄(くれまで)うしなはず、
かざりにやせむとて
としのくれ杼の実一つころころと 荷兮
と詠んではいるものの、どうしていいものか困ったのではなかったか。
十一句目。
松かさ送る武隈の土産
草枕おかしき恋もしならひて 不玉
前句の松かさを武隈の地元の女から土産にと貰ったものとしたか。
「おかしき」は王朝時代のような心引かれるという意味ではなく、ここでは変な、だとか笑えるだとかいう意味であろう。まあ、土産に松ぼっくりが落ちになるというところで、真剣な恋ではなさそうだ。遊女の戯れか。
十二句目。
草枕おかしき恋もしならひて
ちまたの神に申かねごと 曾良
ちまたの神は猿田彦大神で道祖神と習合していた。
「かねごと」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、
「前もって言っておく言葉。約束の言葉。『かねこと』とも。」とある。
猿田彦大神は曾良の神道の方での師匠である吉川惟足や、林羅山、山崎闇斎などの朱子学系の神道では最高神とされていた。芭蕉の道祖神も不易流行や風雅の誠と同様、曾良の影響によるものだったのだろう。
猿田彦大神といえば「土金之秘訣」。天孫を導くのも土金の徳とされ、天皇を補佐する幕府の役割もそこに求められた。
『古事記』の、
「爾に日子番能邇邇芸命、天降りまさむとする時に、天の八衢に居て、上は高天の原を光し、下は葦原中国を光す神、是に有り。」
の光を土の中の光で金を表わすという解釈によるもので、山崎闇斎はこの光を神秘体験と結び付けていたようだ。
ところで句をよくよく見ると、「申」はサルと読めるし、それに「かね」が続く。
旅の恋も猿田彦大神にあやかるという、いかにも曾良らしい句だ。
0 件のコメント:
コメントを投稿