やはり今年の七夕も雨だった。
まあ、家でゆっくり出来たので、「温海山や」の巻も一気に挙句まで。
二十七句目。
月さへすごき陣中の市
御輿は真葛の奥に隠しいれ 曾良
真葛が原はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、
「京都市東山区円山町の円山公園を中心とし,周囲の青蓮院,知恩院,双林寺,八坂神社などを含む地域。東山山麓の傾斜地。《新古今和歌集》巻十一に〈わが恋は松をしぐれの染めかねて真葛原に風騒ぐなり〉の歌を残す慈円は青蓮院門跡であった。文人の愛好した地で,双林寺境内に西行庵があり,ここで没した頓阿の像とともに西行像が安置される。平康頼の山荘も双林寺付近にあり,そこで《宝物集》を著したという。近世,池大雅も住した。」
とある。
わが恋は松をしぐれの染めかねて
真葛原に風騒ぐなり
前大僧正慈円
をはじめとして、恋の歌の題材とされている。同じ「新古今集」に、
嵐吹く真葛が原に鳴く鹿は
恨みてのみや妻を恋ふらむ
俊恵法師
の歌もあり、もとは妻問う鹿の情だったのを人間の恋の情に転じたのであろう。
『校本芭蕉全集 第四巻』の注は、「夫木抄」の「人めのみしのぶの岡の真葛原」の歌を引いているが、下の句の調べがつかなかった。
高貴な女性が輿を隠して、お忍びで殿様に逢いにきたのだろうか。
二十八句目。
御輿は真葛の奥に隠しいれ
小袖袴を送る戒の師 不玉
「小袖袴(こそでばかま)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、
「男女ともに下着とする小袖の上に袴だけをつけた略装。衵(あこめ)や袿(うちき)の類を省いた下姿(したすがた)。小袖が上着となるに従って、江戸時代には正装とされた。
※俳諧・曾良随行日記(1689)「御輿は真葛の奥に隠しいれ 小袖袴を送る戒の師〈不玉〉」
とある。「戒の師」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「出家する人に戒律を授ける師の僧。戒師。
「御―、忌むことのすぐれたるよし仏に申すにも」〈源・若菜下〉」
とある。
この場合「御輿」は戒師の乗物で、若い僧に小袖袴を密かに贈る稚児ネタではなかったかと思う。
二十九句目。
小袖袴を送る戒の師
吾顔の母に似たるもゆかしくて 芭蕉
「戒の師」が出家前に妻としていた女性の娘を見て、懐かしくなって小袖袴を贈ったか。『西行物語』の娘との再会のシーンを思い浮かべたのかもしれない。
三十句目。
吾顔の母に似たるもゆかしくて
貧にはめらぬ家はうれども 曾良
「めらぬ」はweblio辞書の「日本語活用形辞書」に、
「【文語】ラ行四段活用の動詞「減る」の未然形である「減ら」に、打消の助動詞「ず」の連体形が付いた形。」
とある。「減る」は、weblio辞書の「三省堂 大辞林」に、
「① へる。少なくなる。低下する。 「地ガ-・ッタ/日葡」
② 衰える。弱くなる。 「過言申す者は必ず奢り易く、-・りやすし/甲陽軍鑑 品三〇」
③ 日本音楽で、音高を標準よりも低めにする。多くは管楽器、特に尺八でいう。 ⇔ かる」
とある。
ただ、貧しくても衰えない家を売るというのがわかりにくい。「あらぬ」の間違いかもしれない。
いずれにせよ母より受け継いだ家は売ってしまったが、自分の顔に母の面影は残っている、という意味であろう。
二裏。
三十一句目。
貧にはめらぬ家はうれども
奈良の京持伝へたる古今集 不玉
これは古今集の「奈良伝授」のことか。
ウィキペディアには、
「二条家の秘伝は二条為世の弟子であった頓阿によって受け継がれ、その後経賢、尭尋、尭孝と続いた。尭孝は東常縁に秘伝をことごとく教授し、常縁は室町時代中期における和歌の権威となった。常縁は足利義尚や近衛政家、三条公敦などに古今集の伝授を行った。古今和歌集は上流階級の教養である和歌の中心を成していたが、注釈無しでその内容を正確に理解することは困難であった。このため、古今集解釈の伝授を受けるということには大きな権威が伴った。文明三年(1471年)、常縁は美濃国妙見宮(現在の明建神社)において連歌師宗祇に古今集の伝授を行った。
宗祇は三条西実隆と肖柏に伝授を行い、肖柏が林宗二に伝えたことによって、古今伝授の系統は三つに分かれることになった。三条西家に伝えられたものは後に「御所伝授」、肖柏が堺の町人に伝えた系譜は「堺伝授」、林宗二の系統は「奈良伝授」と呼ばれている。」
とある。林宗二は京都の生まれだが、代々続く奈良の饅頭屋を継いで、そのかたわら肖柏から古今伝授を受けた。
三十二句目。
奈良の京持伝へたる古今集
花に符を切坊の酒蔵 芭蕉
「符」は「封」のことだと『校本芭蕉全集 第四巻』の注にある。「坊の酒蔵」は僧坊酒のことであろう。
僧坊酒は織田信長の時代の大寺院の弾圧によって廃れたとされているが、それ以前の奈良の寺院では「南都諸白」と呼ばれる名酒が作られていた。この技術は江戸時代になっても奈良の酒屋に受け継がれている。
古今集は饅頭屋に伝わったが、名酒もまた奈良に伝わっていて、花見には欠かせない。
三十三句目。
花に符を切坊の酒蔵
鶯の巣に立初る羽づかひ 曾良
花の頃、鶯も巣を作り始める。
三十四句目。
鶯の巣に立初る羽づかひ
蠶種うごきて箒手に取 不玉
「蠶種(こだね)」は「さんしゅ」とも言う。蚕の卵のこと。蚕が孵化して動き始めたら「掃立(はきたて)」という作業が行われる。コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」には、
「蟻蚕に初めて桑葉を与え,蚕座に移す作業。散種 (ばらだね) の場合は,掃立直前に種枠の上面に光線を当て,薄紙の裏に蟻蚕がはい上がってから種枠を広げ,刻んだ桑を与える。蚕が桑についた頃,桑とともに掃下 (はきおろし) して枠を除き,蚕座をつくる。」
とある。
羽箒を用いるので、前句の「羽づかひ」が掃立の作業のことに取り成され、鶯の巣の季節に「立初る羽づかひ」「箒手に取」と付く。
三十五句目。
蠶種うごきて箒手に取
錦木を作りて古き恋を見ん 芭蕉
「錦木」はウィキペディアには、
「いわゆる奥州錦木伝説にまつわる錦木。五彩の木片の束であるとも、5種類の木の小枝を束ねたものともいわれる。」
とある。
謡曲『錦木』には、
「昔よりこの所の習いにて。男女の媒にはこの錦木を作り。
女の家の門に立てつるしるしの木なれば。美しくいろどり飾りてこれを錦木という。
さるほどに逢うべき夫の錦木をば取り入れ。逢うまじきをば取り入れねば。
或いは百夜三年まで錦木立てたりしによって。三年の日数重なるを以って千束とも詠めり。」
とある。
昔は「狹布(きょう)の細布(ほそぬの)」という幅の狭い白い麻布がこの錦木と対になって、陸奥の信夫の里の名物だった。
錦木はたてながらこそ朽ちにけれ
けふのほそぬのむねあはじとや
能因法師
の歌は「後拾遺集」に見られる。
一方で、この地域は養蚕の盛んな地域でもあった。曾良もこの『奥の細道』の旅で、
蚕する姿に残る古代哉 曾良
の句を詠んでいる。曾良の『俳諧書留』では須賀川の所にあるが、『奥の細道』では尾花沢のところに、
蚕飼する人は古代のすがた哉 曾良
の形に改められて収録されている。
挙句。
錦木を作りて古き恋を見ん
ことなる色をこのむ宮達 曾良
錦木は五色の木を束ねたものということで、大宮人は様々な色を好む、大和歌が色好みの道であることを思い起こしてこの一巻は終了する。
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