2019年7月17日水曜日

 今日は久しぶりに梅雨の中休みというか、晴れ間も見えて、夜には満月が見えた。まさに「五月雨やある夜ひそかに松の月 蓼太」だ。
 それでは本題に。

 支考というと虚実の論があるが、岩倉さやかさんの『俳諧の心─支考「虚実」論を読む─』(二〇〇三、ぺりかん社)に支考の『俳諧十論』のテキストがあったので、そこから少しばかり拾ってみた。
 まず、十論の第一「俳諧ノ伝」だが、そこで日本の神話について触れている箇所がある。

 「ちはやぶる我朝には、天の浮橋に此心を伝へて、伊弉諾・伊弉冉の鴂鴒の喩より、天照御神はうけつぎ給ひて、虚実の間に道をひろめむとて、猿田彦は其姿おかしく、天ノ鈿女は其情さびし。爰に風雅の俳優をしれとならん。」

 神話における最初の歌はイザナギ・イザナミの国生みの時の、天の浮橋の上に立ち、天沼矛(あめのぬぼこ)を指し下ろし、淤能碁呂嶋(おのころじま;『日本書紀』では磤馭慮嶋)を生んだ後、

 イザナミ;阿那邇夜志愛袁登古袁(あやによしえをとこを)
 イザナギ:阿那邇夜志愛袁登賣袁(あやによしえをとめを)

と詠んだことに始まる。
 これによって淡島が生まれるが満足できず、順番を変えて

 イザナギ:阿那邇夜志愛袁登賣袁(あやによしえをとめを)
 イザナミ;阿那邇夜志愛袁登古袁(あやによしえをとこを)

と詠んでことで北海道を除く日本列島が次々と生み出されてゆくことになる。
 この場面の『日本書紀』には、

 一書曰、陰神先唱曰「美哉、善少男。」時以陰神先言故爲不祥、更復改巡、則陽神先唱曰「美哉、善少女。」遂將合交而不知其術、時有鶺鴒、飛來搖其首尾、二神見而學之、卽得交道。

とある。ここに鶺鴒(鴂鴒)が登場する。
 大和歌が色好みの道であるのはここに端を発する。実際の歴史でも和歌は歌垣にその起源があったと思われる。求愛のためのラブソングがすべての始まりとなる。
 ここにおいて生み出された風雅の道は、天照御神に受け継がれ、天孫降臨を以て「虚実の間に道をひろめ」ることとなる。
 この場合天津神のいる高天原が虚となり、天孫降臨の際に道案内をした猿田彦大神と天鈿女命(あまのうずめのみこと)が虚の中に実を見出すことになり、「風雅の俳優」となる。
 ここに吉川神道の土金の説を挿入することも可能だろう。土の中に見出された金の光こそ、天地陰陽の虚において人間の実を開くことになる。この金の徳は猿田彦の徳であるとともに、道祖神や庚申様とも習合し、江戸時代に人々にも深く根を下ろしてゆくことになる。
 天地陰陽は朱子学では「気」であり、実在する宇宙のことを言う。それは昔の人の感覚では見せかけの世界、現象の世界であり、虚とみなされる。これに対し、朱子学ではその背後にある「理」がこの宇宙の実体であり、人間だけがそれを認識できるとする。
 西洋のカント哲学でも現象と物自体が区別されているが、こうした感覚は前近代的な世界では一般的だったのかもしれない。それは多分、人間が経験的に知っていることがあまりにわずかでちっぽけなものだったため、世界は常に人智を超えた神秘に満ち溢れたものと映っていて、常にその未知なる世界の背後に興味が行っていたからではなかったかと思われる。
 東アジアでも、気については陰陽不測で、その背後にある「理」を知ることに重点が置かれていた。「理」は「道」であり、気の隠された通り道だった。
 『俳諧十論』の「第四 虚実ノ論」には、

 「其虚は先にして天地陰陽あり。其実は後にして君臣父子あり。是を大小の論とはいはず。是を先後の弁とやいはん。」

とある。
 天地自然は「気」であるがゆえに虚で、天地開闢の時から存在している。これに対し人倫の秩序である君臣父子は後から開かれたもので、いわば土の中の金を見つけるように、人間が天地自然に対して開かれた存在であることによって、初めてその背後に触れ、人倫の道を立てることができるとする。
 岩倉さやかさんの『俳諧の心─支考「虚実」論を読む─』には、『十論為弁抄』の次の言葉が引用されている。

 「さて天道の虚・実といふは、大なる時は天地の未開と已開にして、小なる時は一年の未生と已生なり。」
 この未と已の関係は朱子学の未発・既発の関係と見ていいだろう。未発は実(理)で既発は虚(気)になる。
 去来は『去来抄』「修行教」のなかで、

 「あらまし人体にたとへていはば、先不易は無為の時、流行は座臥行住屈伸伏仰の形同じからざるが如し。一時一時の変風是也これなり。」

と不易流行説の文脈で語っている。これを合わせるなら、実は不易であり風雅の誠である。これに対し虚は流行ということになる。
 「虚において実を行う」という芭蕉の言葉は、流行において不易を行うと言い換えることも出来よう。基本的には同じことを言っているといっていい。
 俳諧は実をそのまま述べるのではない。それを天地陰陽の変化して止まない事象において語る所にその真実がある。
 そしてその真実はというと、我国の伝統においてそこには「恋」があるということも付け加えておこう。

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