今日は皐月の晦日で、明日からは水無月になる。水無月になったらまた、水無月の俳諧を読んでみようと思う。
今日はその間のつなぎということで、そもそも論を少々やってみようと思う。
そもそも美とは何か。
美は前に述べたとおり、世界の秩序に関する情報のストックを作ることに与えられる快楽報酬なのだと思う。
因果関係のはっきりしない、役に立つかどうかわからないような秩序の発見に関しても、一応情報としてストックしておいた方が、何かの時に役に立つかもしれない。
そのため美は当面の有用性を必要としない。最初の時点では無駄と思えることでも、今まで経験したことのない出来事に遭遇して、新たな仮説を立てなくてはならなくなったとき、様々なイマジネーションをストックしておいた方が物事に柔軟に対応できる。
芸術は何のために必要かというと、結局は石頭にならないために必要なのである。
人間以外の動物に美を感じることがあるのだろうかというと、もしかしたらあるのかもしれない。以下は以前にゆきゆき亭のホームページに書いてたことだが、それを引用しておこう。
下北のニホンザルを観察してきた足沢貞成によると、サルが夜寝る時に泊り場として選ぶ場所は、人間が見ても一度覚えたら忘れられないような景観を具えたところだという。
「泊り場は細かく見れば種々の多用な地形的条件の所にあり、一言でいうのは難しい。何本かの側枝の多いヒバの木があって、樹冠をおおい樹冠移動が可能であり、周囲には急峻な地形の箇所があり、下方には比較的見通しがよくきいて安全性の高い条件を具えたところというような言い方になろうか。大きくみたなら非常に特徴的な景観を具えていて、遠くからでもあそこと指摘できるほどわかりやすいところで、たとえば顕著な岩峰ないし岩場の周辺とか、特徴のある沢の奥まりとか、独立峰のふところ斜面とか、はっきりとした沢の出会い付近あるいは尾根の末端部とかいったたぐいで、一度覚えてしまうといつでもまざまざと思い出すことができるほど景観的特徴を具えていた。
この遠くからでもわかりやすいという点は、サルにとって遊動上重要な意味を持っているのではないだろうか。」(『下北のサル』井沢紘生編、1981、どうぶつ社、p.98、足沢貞成)
人間ならこのような場所には、ある種の美しさを感じるであろう。いわゆる絶景ポイントと言ってもいい。しかし、ニホンザルはこのような場所を泊り場として選ぶ時、果たしてその景色を「美しい」と感じるのだろうか。
ニホンザルにとって、泊り場に特徴のある景観の場所を選ぶということは、生存上決して無意味なことではない。つまり、生活圏の地図を思い描く時に、記憶に残りやすい、特徴のある景色というのは、自分の位置を知る上で重要な情報になる。ニホンザルはただ、生存のために、覚えやすい特徴のある景色を記憶し、道に迷わないようにしているだけかもしれない。
しかし、こう考えることもできる。自分の生活圏のマップを作る際、景色にある種の特徴を発見し、記憶することに、遺伝子が何らかの脳内快楽物質を分泌して、報酬を与えるようにプログラムしているかもしれない。つまり、もしある種の景色に遭遇した時に、何らかの快楽を覚えるとしたら、それは「美」を認識していると言ってもいいのかもしれない。
スキナーボックスのハトにも、同じことが言えるかもしれない。
スキナーボックスはアメリカの20世紀の心理学者、バラス・F・スキナーが、オペラント条件付けの実験用に考案したもので、行動主義の心理学者の間で広く用いられている。
オペラント条件付けというのはいわゆる試行錯誤学習のことで、パブロフの犬の条件反射のような古典的条件付けに対し、何らかの未知の道具を与えて試行錯誤させて一定の行動を獲得させることをこういう。つまり、同じ刺激の繰り返し、たとえば餌をやる時に必ずベルを鳴らすことで、ベルの音を聞いただけでよだれが出るような行動を学習させるのではなく、あるスイッチを押すと餌が出てくるような状況を作り、それを見つけるまでに様々な試行錯誤をさせて、一定の行動を学習させることをいう。
そのスキナーボックスとは、こういうものである。
「研究室で動物の学習や刺激の識別について研究するとき、多くの場合スキナー・ボックスを使う。被験動物には通常ラットかハトを使う。被験動物を腹をすかせた状態でスキナー・ボックスに入れ、研究対象の刺激以外はほとんどすべての刺激を断つ。被験動物は餌を手に入れるには、ある特定の刺激が与えられたときに、ボックス内のなにかをうまく操作しなくてはならない。ボックスのなかからは、不透明な壁にさえぎられて外にあるものが見えないようになっている。また外の音をカモフラージュするために、波長範囲のひろいシューという音が流されることも多い。したがって被験動物はボックス内の装置を操作する他はほとんどなにもすることがない。またその装置は、この種の動物が簡単に操作を学習することがあらかじめわかっているものがえらばれている。ラットが操作しなくてはならないのは床に近いレバーで、ラットはそれを前足で押しさげることができる。ハトが操作しなくてはならないのは、壁につけて透明材質を裏から照らしてあるキーあるいは小片で、ハトがくちばしでたやすくつつくことのできる高さにしてある。スキナー・ボックスにはもう一つ、機械的に操作されて、食物やときには水を供給する食物桶がとりつけられているが、食物も水も、ふつうは一度に数秒間しか得られない。レバーとか逆光照明のキーは、食物桶をコントロールしたり、動物に与える刺激を変化させるために、マイクロスイッチにつながれている。ボックス全体も照明がついている。ハトはもっばら視覚に頼っているので、この「室内照明」を消すと、キーをつつくなどの行動もほとんどしなくなってしまう傾向がある。」(『動物の心』ドナルド・R・グリフィン、1995、青土社、p.211)
ハトはこのような箱の中に、空腹な状態で入れられ、たいていはそれほど時間を待たずにキーを突くという。腹をすかせたハトが、何でも手当たり次第に突いてみることは、学習というよりは遺伝的にプログラムされた行動で、スイッチ以外に何もない部屋でキーを突くという行動は程なく発見される。しかし、それで餌が出てこないなら、すぐにやめてしまうことになる。
このとき、たとえば赤いランプが点灯した時には餌は出ず、緑のランプが点灯した時のみ餌が出てくるようにする。そうなると、ハトはやがて緑のランプが点灯した時以外はキーを突かなくなる。ここで、ハトは赤と緑の色の違いを識別できるということが明らかになる。
こうしたやり方で、餌の出てくる条件をどんどん複雑にしてゆき、ハトがどの程度まで対象の違いを識別できるのかを調べることができる。
「別の一連の実験で、リチャード・ヘルンスタインなど数人の心理学者が、記憶と感覚を試すじつにむずかしい問題をハトに示した。ヘルンスタインとラヴランド(Herrnstein and Loveland 1964)が行った先躯的な実験では、標準型のスキナー・ボックスを少し変えて、食物が得られる通常のキーの他に、壁と水平に小さなスクリ-ンがあり、そこにカラー写真が映写できるようになっていた。スクリーンはキーの役目もしていて、ハトがつつくと電源が入るしかけになっていた。このミニスクリーンにさまざまな映像が映しだされた。室内や戸外の光景、人々、動物、建物、木々、花、町並みなど。これらすべての実験で、一部の写真が正解で、食物が手に入る信号だった。正解の写真をつつくと、食物桶がときどき数秒開いた。他の写真は不正解で、それは強化刺激ではなかった。つまりつついても効果はなかった。あるいは「室内照明」が消えて、ハトは暗闇にとりのこされることになった。」(『動物の心』ドナルド・R・グリフィン、1995、青土社、p.217)
これによってわかったのは、「(1)カシの葉と他の木の葉(Cerella 1979)、(2)木々のある光景と木々のない光景、(3)水がある光景とない光景、(4)特定の人物が映っている写真と、人物はぜんぜん映っていないか他の人が映っている写真(Herrnstein, Loveland, and Cable 1976)、(5)魚のいる水中写真と、同じような水中で魚のいないもの(Herrnstein and de Villiers 1980)。」(『動物の心』ドナルド・R・グリフィン、1995、青土社、p.218)といったものだった。こうした結果は、ハトが決して単なる試行錯誤だけで学習しているのではなく、あらかじめ様々な認識のパターンを遺伝的に持っていて、それに基づいて新たな状況を洞察的に学習していることが想定されるもので、行動主義者にとってはむしろ好ましくない結果かもしれない。
このような実験の延長で、渡辺茂はピカソとモネの絵を見分けることができるかどうかという実験を行っている。これによってハトは10枚のピカソの絵と10枚のモネのの絵を識別したが、これにも単に20枚の絵を丸暗記したのではないかという疑問が残るので、それまでの訓練では見せなかった絵を見せてみたという。
「しかし、これはハトがピカソとモネの区別ができるようになったのではなく、二○枚の絵を逐一おぼえただけのことかもしれない。実際、ハトはこのくらいの数の図をまるごとおぼえる記憶力をもっている。そこで、訓練のときには見せなかった絵を見せてみた。図6の上の図はモネの絵に反応し、ピカソの絵には反応しないという訓練をうけたハトの場合、下の図は反対にピカソの絵に反応し、モネには反応しないという訓練をうけたハトの場合である。あきらかに、はじめて見る絵でもモネとピカソの区別をしている。ハトは訓練に使われた特定の作品をおぼえたのではなく、「ピカソ」の作品、「モネ」の作品という作風をおぼえたと考えられる。
わたしたちはセザンヌやルノアールの絵をピカソよりもモネに近いものと感じる。また、ブラックやマチスの絵を見ればモネよりもピカソに近いものと感じる。つまり、印象派とかキュビズムといったまとめ方もできる。ハトではどうだろうか。図6に見られるように、モネに反応する訓練をうけたハトはモネに画風が似ているセザンヌにも反応しており、ピカソに反応する訓練をうけたハトではピカソに近いブラックにも反応している。ハトはなにか具象画に共通なもの、抽象画に共通なものを見ているのだろう。」(『認知の起源を探る』渡辺茂、1995、岩波書店、p.17~37)
この実験ではさらに、具象画の場合上下の逆を区別するが、抽象画の場合は上下ひっくり返しても区別がつかないこともわかったという。抽象画の上下は人間でも間違えることがあるのだから、ハト認識の仕方は案外人に似ているのかもしれない。
同様な実験で、音楽に関しても、バッハやビバルディのような古典音楽とシェーンベルクやカーターのような現代音楽の識別実験にも成功しているという。
このとき果たして、ハトは美を意識しているのだろうか。かつてハトのような鳥類は外見上、いわゆる大脳皮質がないということで、爬虫類なみの原始的な脳とされてきた。しかし、実際は皮質構造はなくても、それに相当する部分が大脳基底核の上に存在していて、哺乳類とは別の構造に進化した高度な脳であることがわかっている。実際ゴミ捨て場のカラス対策に手を焼いている人だったら、カラスがいかに賢いかを理解できるであろう。
ハトもまた、かなり高度な脳を持っていることは間違いない。もし絵画や音楽を識別する際、何らかの秩序が存在することを発見したなら、その発見の際に快楽報酬を得ている可能性はある。つまり「美」を感じている可能性はある。
次にそもそも詩とは何かを考えてみよう。
これも前に述べたとおり、文法や論理以外の別の秩序を持つ文章、それが詩の定義といって良い。
通常の言語表現は文法を備えているし、言葉を使ってものを考えるときには論理という構造を備えている。
詩はそれ以外の構造を持つ。能記においては音節数や韻、リフレインなどがあり、所記においては対句や比喩がある。比喩は述語の一致による誤謬推理から来るもので、たとえば「君は薔薇のように美しい」というのは「君は美しい、薔薇は美しい、故に君は薔薇だ」という推論に基づく。これは論理という一つの秩序でありながら、誤謬推理を意図的に用いることで詩の独自の秩序を構成する。
詩は古来より音楽と結びつくことが多かったのは、こうした詩独自の秩序は、リズムや音階という音楽的秩序にまで容易に拡張できたからであろう。
和歌は五七五七七という音節数を基本としながらも、それを吟じることで音楽的秩序と結びついていた。それは連歌や俳諧にも受け継がれていた。近代において正岡子規によって素読による観賞が奨励された時、この伝統は終わりを告げる。
最後にそもそも文学とは何かを考えてみよう。
文学は文学的なものと文学的でないものとを区別する事により、ある種の文芸を特権的なものに高めることをいう。
洋の東西を問わず、聖書や経典のような神仏など超越的な存在に関する書物が権威を持っていた時代には、その超越的な存在について書かれたものが無条件に特権を持つ。
西洋では唯一神からやがて形而上学的な理性の単一性を表現するものへと文学は変わっていった。
これに対し多神教の我々の文化では神仏の顕現した痕跡を「故実」と呼び、18世紀の中頃までの学問は基本的に故実の学であり、故実に基づいて得られた現象の背後にあると思われる神の世界については、部立てし一種の辞典を作ることで現象の背後を知る手引きとしてきた。そして現実の変化して止まぬ世界にその知識を応用するには、「機知」が必要とされた。
連歌において、雅語や本歌本説は故実に相当し、春夏秋冬、恋述懐、神祇釈教などに分類し部立てされ、付け句の機知を競った。
神仏儒道、詩歌連俳、利休の茶、雪舟の絵、世阿弥の能、様々な道があっても、根本的なものは一つと考えられることによって、その現世における多様な顕現が保障されていた。
18世紀の中頃を過ぎると、こうした故実に描き出されてきた世界の背後の世界が急速に疑われるようになり、学問を「もの」に基づいて再編する動きが出てきて、国学、蘭学、心学、条理学など様々な新しい学問が登場し、やがて寛政異学の禁が出るに至った。
ただ、これらは結局明治の近代化の中で蘭学の系譜のみが「科学」として生き残ってゆくことになった。そして、西洋から「文学」の概念が入ってきて、和歌俳諧は近代短歌・近代俳句へとまったく新しい考え方の元に再編されることとなった。
近代文学は基本的には単一の理性(精神)の様々な多様な個(肉体)による表現といえよう。ただ、単一の理性が幻想にすぎないなら、多様な個の表現は無秩序な何でもありの世界になってしまう。そして、その個と個を結ぶ共通の価値もないまま、互いに理解困難な分断された世界を生み出すだけになる。あるいは政治権力によってそれは統制されることになるのか。
多神教原理によって文学を再編するなら、基本的にはダーウィニズムのモデルが有用になる。つまりすべての作品は仮説であり、それらは大衆の審判を仰ぎ、生き残ったものが真実への近似値になる。
様々な作品が流行を繰り返す中で、残ったものが不易になる。それが文学である。
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