「俳諧問答」の続き。
「皆衣にかえる事をよろこぶ句なるべし。予が趣向、會て此事よろこび侍らず。只干鮭面白侍る故に、歳旦ニ取合たる也。きぞ始ハ、仮令歳旦ゆへにむすび合たる也。
元朝ぬくぬくときたる顔を見れバ、冬中、日本国中賤山がつまでくらひあましたるからざけ、此五文字にて冬中の事よくきこえ侍るを、うれしくて取合たる也。是全ク等類幷ふるしとハ、ふつふつ申がたし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.145~146)
干鮭は冬の安くて手ごろな保存食だったのか、「日本国中賤(しず)山がつまでくらひあましたる」ほど大量に消費されていたようだ。ただ、この大量消費の方に比重を置くなら、もっと違う趣向があっただろう。「かえてやゑぞがきぞ始」では、やはり干鮭で着物を変えるというネタの方が立ってしまう。
「此句難じていはば、『きぞ始』うまくてあししといひたし。外の詞ニて、歳譚の季をもたせ侍らバ、よく侍るべし。
から鮭のゑぞハ古手で御慶かな
などむすびたらバ、よく侍らんか。『衣にかえてきぞ始』と、俗のよろこぶ所に、大きにしたるき所あり。等類ノ難ハ會てなし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.145~146)
「古手」は使い古した衣類で、着衣始で新しい着物を着るのとはあえて逆にしたわけだが、どっちにしても蝦夷のことは推測だし、どのような正月を迎えていたかはよくわからない。だから古手で御慶でもいいわけだ。これだと確かに等類にはならない。
「右申如ク、句ハ産所をきくを宗匠とハ申也。尚白が産所と愚が産所ハ大きに相違なる所より出侍れバ、等類ニてハなし。
能因・頼政の白川の歌にてよくしれたり。鎌倉のかつほハ兼好より申ふるし、月下に門をたたく事ハ、賈島よりいひあまし侍れ共、師新敷いひ出し侍れバ、用ひやうにて、いかやうにもいはれ侍るもの也。
おもき・かるきと云事をしらぬ作者なれバ、衣にかえるといふ面白ミにくらひつきて、からざけのかるきのあゆみをしらぬゆへに、等類の沙汰を申也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.146~147)
能因・頼政の白川の歌は、
都をば霞とともに立ちしかど
秋風ぞ吹く白河の関
能因法師
都にはまだ青葉にて見しかども
紅葉散り敷く白河の関
源頼政
のことで、昔からよく似ていることで有名だ。頼政の歌は歌合せの歌として青葉、紅葉、白河の色彩の華やかさを取り柄として、オリジナルと認められた。能因法師の歌も「みちのくにゝまかり下りけるに白川の關にてよみ侍りける」という前書が付いていることから、本当に旅で詠んだとされているが、十訓抄や古今著聞集には旅をしたように装って発表したとされている。
まあ、京から白河まで弥生の終わりに旅立ったとしても、三ヶ月以上もかかったというのは、いくら昔の旅のペースでもゆっくり過ぎる感じはする。芭蕉は霞とともに江戸を発ったが田植えの頃には白河にたどり着いている。
この二つは似ているけど、能因の歌は真相はともかくとしても羇旅として詠まれたもので、頼政の歌は歌合せの余興で詠まれている。産所は確かに違う。
「鎌倉のかつほハ兼好より申ふるし」は『徒然草』だい百十九段の、
「鎌倉の海に鰹と言ふ魚は、かの境にはさうなきものにて、この比もてなすものなり。それも、鎌倉の年寄りの申し侍りしは、この魚、おのれら若かりし世までは、はかばしき人の前へ出づる事侍らざりき。頭は下部も食はず、切りて捨て侍りしもなり。と申しき。かやうな物も、世も末になれば、上ざままでも入りたつわざにこそ侍れ。」
を指すと思われる。
鮮魚に乏しい京の人からすれば、鎌倉の鰹は珍しかったのだろう。ただここでは鰹を武家の比喩として用いて、鎌倉幕府の時代になって武士が威張ってるのを、昔は捨ててた鰹がもてはやされているのと重ね合わせて、世も末だと嘆いている。
芭蕉はこの比喩を踏まえてか、
鎌倉を生きて出でけん初鰹 芭蕉
と詠んでいる。命からがら北へ遁れた義経のイメージもあるのだろう。
「月下に門をたたく事ハ、賈島より」は「推敲」の詞の語源となった有名な故事だが、芭蕉は、
三井寺の門たたかばやけふの月 芭蕉
と詠んでいる。この句は謡曲『三井寺』も踏まえた二重の出典を持つが、出典の元の意味に拘泥せず、出典を知らなくても意味が通るように詠まれている。これを「軽み」という。
ただ、許六のいう「からざけのかるきのあゆみ」はそれとは意味が違うように思える。
別に尚白の「衣にかえるといふ面白ミ」が何らかの出典を持っているわけではないし、どちらも軽みの句だと思う。
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