Dアニメで「氷菓」を見てみた。まだ二話までだが、ノスタルジーを誘うような美しい画像は流石だった。ここからミステリー展開してゆくのか、楽しみだ。
画面に監督の名前が表示されると、やはり悲しくなり、現実に引き戻される。
こういう甘美な世界が物足りないというなら、別のアニメを見ればいいだけだし、純丘曜彰さんや山本寛さんの言っていることは、結局ストーカーに刺されるのは誘惑する女が悪いという論理ではないかと思う。
本当の遊び人はプロの誘惑のテクニックをわかっていて楽しむくらいの余裕があるものだ。本当のアニメオタクも同じだろう。
連歌・俳諧も絵空事だとわかってて、その作意と技術を楽しむもので、作品の世界にのめり込ませないためにも、一句毎に話題を変えてゆくのだと思う。作品との距離を学ぶというのも俳諧の徳ではないかと思う。
かえって純文学の方の人のほうが虚構と現実の区別が曖昧なのではないかと思う。
それでは「俳諧問答」の続き。
「一、去々年、愚歳旦ニ
干鮭にかえてやゑぞがきぞ始
ト云句せしに、大津尚白が句に、
干鮭に衣かえけりゑぞの人
と云句せし、翁も笑ハれたるよし、等類不吟味沙汰のかぎりと申侍る。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.144~145)
「着衣始(きそはじめ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 江戸時代、正月三が日のうち吉日を選んで、新しい着物を着始めること。また、その儀式。《季・春》
※俳諧・犬子集(1633)一「きそ初してやいははん信濃柿」
とある。
「干鮭(からざけ)」は鮭をそのまま干したもので、江戸後期に新巻鮭が広まる前はこちらの方が一般的だった。棒鱈と並んで冬の保存食だった。
乾鮭も空也の痩も寒の中 芭蕉
は元禄三年の句。空也念仏の僧(「鉢叩き」ともいう)の痩せているのを見ると、寒風の中でさながら干物になったかのようだ。
当時本土では実際にアイヌを見ることはなかっただろう。「ゑぞ」のイメージは古代に東北にいた人たちで、坂上田村麻呂が戦ったのも蝦夷なら、奥州三代も蝦夷に含まれるし、江戸時代に松前藩を作った蠣崎氏も東北の蝦夷の末裔であろう。
干鮭にかえてやゑぞがきぞ始
の句は、松前の人たちは干鮭を売って新しい着物を買い、正月に着衣始をするという意味か。しかし、この句は、
干鮭に衣かえけりゑぞの人 尚白
の句と見事にかぶってしまった。しかも尚白の句のほうがすっきりしていてわかりやすい。
多分この頃京都の街に出回る干鮭の量も増え、さぞかし蝦夷はもうかっているな、という空気があったのだろう。
「翁も笑ハれたるよし」とあるから元禄七年の歳旦か。「去々年」とあるが「一昨年」のことではないだろう。去来の元禄十年の歳暮と十一年の歳旦を話題にしているから、四年前になる。
「此事以の外相違也。第一此句撰集に見えず。撰集に出ぬ句ハ等類の難なかるべしと、俊成ものたまひ侍る。
其上愚句ハ、ゑぞが衣ニかえる事面白とて、趣向ニおもひよりたるにハあらず。予が趣向ハ、からざけ面白侍るゆへに、此歳旦ニおもひつけたる也。
尚白、第一衣にかえる所に眼をつけ、よろこびたる事明也。其時代も大きにふるし。此尚白句の外ニも、いくばくかあるべし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.145)
まあ、発表してないから等類にはならないのは確かだろう。人の絵をそのまま写し取っても、発表しなければただの模写で終る。自分の作品だといって発表して初めて盗作となる。
許六の句は干鮭が流行っているので、これを歳旦の趣向にしようというところから着想したようだ。当時は江戸後期の新巻鮭のような正月料理として干鮭を食べるという習慣はなかったのだろう。だから干鮭だけでは歳旦にならず、何か正月の題材はないかと探っているうちに、蝦夷の人は干鮭の収入で着衣始をやっているのでは、という所に行き着いたようだ。あるあるネタだはなく、推測ネタであろう。推測だから「や」と疑うことになる。
尚白の句はそれでいえば歳旦にはなっていない。衣更えだから夏の句となる。
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