2019年7月18日木曜日

 京都で痛ましい事件が起きた。ただでさえ零細経営の多いこの業界で社員の五分の一近くを失ってしまったら、業務の再開もできるのだろうか。いくら寄付を集めても人は帰ってこない。
 涼宮ハルヒのシリーズは小説は読んだがアニメは見ていないけど、「たまこまーけっと」と「甘城ブリリアントパーク」は見た。今や世界にも誇れる日本のアニメの製作現場の一つが失われるとしたら、ジョン・レノンの死にも匹敵するものかもしれない。
 アニメは西洋から入ってきたものだが、それが日本の俳諧や浮世絵などの大衆文化の伝統と結びつき、戦後になって急速に日本独自の発展を遂げた。何よりも子供向けのものからマニアックなものまで様々なアニメが制作されている、その多様性こそが世界に誇れるものではないかと思う。
 それが海外でも多くのファンを持つに至ったのは、それがたんなる「虚」ではなく「実」を具えていて、「風雅の誠」に通じるものを今日に引き継いでいるからだと思う。

 支考の虚実論が近代にも十分通用するのは、虚が先で実が後だという部分だ。
 これはそのまま、先に宇宙があって、人間が現れたのはきわめて最近であり、人間の登場でもって初めて宇宙の「実」が問われるようになったという今日の科学的世界観と合致する。
 記紀神話においても、先に天地開闢があって天孫降臨の際の猿田彦の登場をもって、初めて人としての道が始まる。
 人間もまた宇宙の一部分である以上、我々は虚なしには実を探求することも語ることも出来ない。
 『俳諧十論』の「第一 俳諧ノ伝」にはまたこうある。

 「此一段は俳諧の根ざす所にして、儒・仏・老の三道より千差万別の岐(ちまた)あれども、帰する所は虚実の二なるに、今は俳諧の一道をもて、きょじつをあつかふ仲立といへる、媒の一字に『十論』をつくして、世法に時宜の二字ある事を信ずべし。」

 宗教もいろいろとあり、それが様々な宗派に分かれというところは、今日では宗教に限らない思想信条の多様を含めることが出来るだろう。
 左翼にしてもリベラルにしても人それぞれ言うことが違っていて内紛が絶えないように、人間の概念形成は各自の体験からくる記憶の構造化によるもので、人それぞれみんな違う。その一人一人違う概念でもって論理を組み立てても、結局は哲学者の数だけ哲学があるということにしかならない。
 ただ、そのように多種多様な物の考え方があったとしても、基本は虚と実の二つになる。つまり物理的のこの宇宙としての「虚」。そしてそこから引き出される「実」。
 俳諧はその虚実を仲立ちする。つまり虚において実を表わすことで、虚実を結びつける。
 天地自然から人事にいたる様々な現象を描き出すことによって、そこにあるべき道を求める。それは先見的に直感的に「ある」のではなく、あくまでたくさんの多種多様な作品が生み出され、そので多くの人の共感するところとなり、面白いと判断されたものは、記憶に残るのみならず、それを真似してまた新たな作品が生まれる。そうでないものは忘れ去られ淘汰される。このダーウィン的な過程を経ることで、芸術はきわめて短い期間で急速に発展する。
 芭蕉の時代の俳諧がそうだったし、同時代の歌舞伎や文楽もそうだった。江戸中期の浮世絵もそうだ。近代で言えば戦後のポップミュージックや映画や漫画・アニメなどもそうだ。それらはみな、虚において実を行う。
 このようなときには無用な議論をすべきではないことを芭蕉は説いている。『俳諧十論』の序に、芭蕉の言葉として、

 「今や世間の俳諧を見るに、春の草木の萌出るがごとき、人のちからをもて刈つくすべからず。」

そういって、支考が十論の公刊に反対したという。

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