2017年3月31日金曜日

 またこれから寒くなるらしいけど、桜は順調に咲き始めている。山沿いでは雪の予報があるからではないけど、今日のテーマは雪柳。
 とはいえ、これもレアな季語で、今のところ確認しているのは、

 小米花奈良のはづれや鍛冶が家   万乎『続猿蓑』

の一句のみ。
 曲亭馬琴編の『増補俳諧歳時記栞草』には、

 「糏花(こごめばな) [和漢三才図会]糏花は小樹叢生す。高さ三四尺、葉狭く長く薄し、縦理(たてすぢ)有。二三月白花ひらく。大さ銭ばかり、蒸たる糏(こごめ)のごとし。故に俗、呼て小米花と名づく。」

とある。堀切実はここに、

 ちればこそ小米の花もおもしろき  莫二

という例句を書き加えているが、この句について、グーグル検索ではいつ頃のどんな作者の句なのかはわからなかった。出典が成美編の『浅草ほうご』になっているので、寛政の頃の句か。
 この歳時記には「雪柳」の項目がない。雪柳という名称はいつ頃から広まったものなのか。
 糏は精米した時に出る米の屑か、あるいは細かく砕いた米のことを言う。これを蒸すと団子になってしまうが、おそらく馬琴が言おうとしているのは道明寺粉を蒸した物のことだろう。薄赤く色をつければ関西式の桜餅になる。ひょっとしたら山桜が主流だった頃は桜餅も白かったのか。
 ところで、

 小米花奈良のはづれや鍛冶が家   万乎

の句だが、奈良と雪柳には何か深い関係があるのか、今でも奈良の海龍王寺や久米寺は雪柳の名所として知られている。かつては自生していたともいうが、今日では自生の雪柳はほとんど見られないという。
 おそらく芭蕉の時代でも雪柳は奈良を連想させる何かがあったのだろう。奈良は渡来人の昔から刃物作りが盛んで、鍛冶屋もたくさんいた。奈良と鍛冶屋と小米花、多分これは鉄板の取り合わせだったに違いない。

2017年3月29日水曜日

 都内の桜の開花が伝えられてから一週間以上たつが、開花してから咲きそろうまでにこんなに時間がかかるというのも珍しい。今でも咲いている木と咲いてない木がある。
 染井吉野の老木化はこのあたりでも深刻で、桜並木はあちこち枯れて歯が欠けたようになっているし、残った細い枝だけになっているものもある。そういう木はもちろんまだ咲いていない。
 染井吉野自体、そんなに歴史は古くないし、今のように全国に広まったのは戦後の高度成長期で、ほとんど限られた個体からのクローンだとも言う。それだけに、この桜が日本の心だというのには違和感を感じる。
 古今集にも詠まれ、西行が愛し、江戸時代の俳諧にも詠まれた桜は山桜で、染井吉野はその頃には存在しなかった。
 本居宣長も、

 敷島の大和心を人問わば
     朝日ににおう山桜花

と歌っている。
 八重桜や糸桜(枝垂桜)や姥桜(彼岸桜)は古くからあったが、染井吉野はごく最近の桜だし、その寿命もそう長くないのかもしれない。
 お隣の韓国では、かつては桜を日程の象徴として嫌っていたが、最近では染井吉野=王桜説を信じて、あちこちに染井吉野を植える運動を行っているとも言う。染井吉野は本来日本の心でもなんでもないのだから、染井吉野は韓国に譲ってもいい。
 日本人は毒々しいピンクの桜をさらにライトアップまでして、電飾ぎらぎらの桜文化を戦後作り上げたが、そろそろ白い清楚な山桜のような心を取り戻すべき時が来ているのではないか。
 電気のなかった時代には、夜桜は姿は見えなくて、ただかすかに匂いがするというものだった。満月ならうっすらとその白い姿を見ることができたかもしれないが、春の満月は曇りやすく、桜の開花期間ともなかなか重ならないだけに貴重なものだった。

 闇の夜は心の内の花見哉   友志『伊達衣』

 多分これからの日本の桜は多様化の時代を迎えると思う。河津桜はその一つの兆しだと思う。高度成長期の国民一丸になってという時代はとっくに終わってると思う。
 『伊達衣』から桜の句をもう少し、昔の人の心を忍んで。

 自堕落な人には見せそ山櫻  包抄『伊達衣』

 櫻は山にあるのだから、そこまで行こうという根性のある人しか見ることができない。実際はお寺とかで桜を植えているところは多いから、町中でも花見はできたけど、やはり山に咲く桜の花の雲はそれなりに気合を入れて見に行かなくてはいけない。

 古城は野と成迄よ山ざくら  薫牛『伊達衣』

 古城を文化財として保存するという思想は近代に入ってからのもので、城はかつてはリアルな軍事要塞だったのだから、むしろ戦争や武力に物言わせた圧制の悪夢を思い起こさせるものでもあった。江戸の太平の世で戦国時代の城が野と成り、そこに山桜の花が咲くのは、むしろ庶民としては喜ばしいことだった。

 雪吹こそ木兎(づく)の耳ふる山櫻 一露『伊達衣』

 桜吹雪というと今では遠山の金さんだが、白い山桜が散る様は雪に喩えられた。ミミズクに桜吹雪、なかなか面白い取り合わせだ。

 上代もかく侍(はんべ)るかやまざくら 季毛『伊達衣』

 山桜は古典と現代をつなぐ。染井吉野にはそれがない。

2017年3月27日月曜日

 今日も冷たい雨が。ほとんど霙に近かった。午後から雨は止み、夕方には晴れ間も見えてきた。
 今日は惟然撰の『二葉集』から花の句を。

 こちとらも駕籠でやる衆も花は花  芳船『二葉集』

 花見というのは寺社などの公界に様々な身分の人が集まる。

 京は九万九千くんじゅの花見哉   芭蕉

の句はわかりやすい。「くんじゅ」は群衆のこと。

 景清も花見の座には七兵衛     芭蕉

も、たとえ平家物語の悪七兵衛景清だろうと、「よお、七兵衛じゃねえか」てな感じで、身分関係なく屈託なく酒を酌み交わすような、それは理想でもある。

 木のもとに汁も膾も桜かな     芭蕉

も、たとえ汁と膾だけの粗末なご馳走でも立派な花見になる、と芭蕉の花の句は大部理想が入っている。
 それに比べると、芳船の句は「花は花」と言いながらも、どこか駕籠でやって来る衆を羨むような雰囲気が見えて面白い。「花は花」でも本音では、同じ花でも何でこう違うのかと思うのは自然な情だ。

 どこぞでは何のいでいでよし野野を 擧桃『二葉集』

 播磨では吉野が花の名所だといわれてもさすがに遠い。これはこれはの吉野山も「どこぞでは」になってしまう。

 どつさくさ花の盛よさればなを   遅川『二葉集』

 「どさくさ」という言葉は今では「ドサクサに紛れて」とは言うが、単独で使われることは稀だ。花の盛りには人がたくさん押し寄せて混雑する。どんなに花が綺麗でも、余り人が多いと辟易するのは仕方ない。古くは、

 花見んと群れつつ人の来るのみぞ
     あたら桜の咎にはありける
               西行法師

の歌もある。

 どさくさのまぎれに花を折てせう  鳥五『二葉集』

 本来の蕉風の風雅では理想に走りすぎて、こういう句は付け句ではいいにしても、これを発句にしちゃう所が『二葉集』の面白さでもある。
 昔は江戸時代というと貧農史観が支配的で、江戸庶民は搾取され、封建的な暗黒時代として描かれてきた。
 80年代くらいから江戸学が流行し貧農史観が見直されたが、今度は逆に美化しすぎる傾向も出てきた。
 江戸時代の法制度を中心に語ると、事細かに定められた禁令の数々と刑罰の過酷さに目を奪われ、自由のない暗黒時代に見えてしまう。
 しかしそれは今日の道路交通法から21世紀初頭の日本の道路には一台の車も止まってなかった、なぜなら駐車違反は厳しく取り締まられ罰せられてたからだ、ということになる。サリン等による人身被害の防止に関する法律の存在も、こういう法律があるからサリンを撒く人なんていなかったということではなく、むしろ撒く人がいたからこういう法律が出来た。
 逆に文学作品や芝居や落語などから江戸時代を描き出すと、これは「サザエさん」の世界をそのまま昭和の家庭はみんなこうだったと結論するような間違いに陥りやすい。
 特に大衆向けの作品というのは、現実のつらい生活を忘れたくて求めるもので、大体は悪い人なんていない、みんな良い人ばかりの人情味溢れる世界になりがちだ。アメリカ映画を観てあれがアメリカの現実だなんて思ってはいけないように、日本のアニメを見てあれが日本人の生活だと思ってもいけないように、江戸時代の歌舞伎や落語の世界が江戸時代の生活だと思ってはいけない。
 ブルーハーツの「トレイントレイン」という唄に、「ここは天国じゃないんだ、かといって地獄でもない、いい奴ばかりじゃないけど、悪い奴ばかりでもない」というのはいつの時代でも同じだと思う。
 江戸の花見も別に天国だったわけではない。もちろん地獄でもなくそれなりに楽しかったとは思う。

2017年3月26日日曜日

 今日は一日冷たい雨が降った。それでも桜は開き始めるのをやめることはなく、その姿には元気付けられる。
 まあ、花も咲いたことだから、そろそろ花の句に行ってみよう。

   勧酔吟
 先寐入花見帰や花を夢   其角『伊達衣』

 酔うとすぐ寝る人がいる。花見に行ってもそういう人はすぐ寝てしまうので、夢の中の花見となってしまう。「勧酔吟」という前書きは白楽天の「勧酒」あたりを意識しているのか。

 君不見春明門外天欲明
 喧喧歌哭半死生
 遊人駐馬出不得
 白輿素車争路行
 帰去来 頭已白
 典銭将用買酒喫

 朝になると世間の人々が動き出して喧々諤々の騒ぎになっている。早く帰ろう。もう頭も白いし、酒でも飲んだ方がいい、そんな感じの詩だ。
 こういう古典の言葉を換骨奪胎し、花見に行ってもすぐに酒飲んで寝てしまう幸せな?人の話にすり代える。其角の得意なパターンだ。
 もう一句『伊達衣』から。

 二時の食喰間も惜き花見哉 杜覚『伊達衣』

 昨日の牧童の句に「食喰さして」とあったから、「食喰」で何か特別な読み方があるのかと思ったが、検索すると「しょっく」と読ませるカフェと何故か「東京喰種(トーキョーグール)」が出てきてしまう。特に「食喰」で何かイディオムがあるわけではなく、この句は「二時のしょく、くふ間も」と読んでいいのだろう。
 「二時の食」というのは江戸時代の前期まではまだ朝夕の一日二食の所が多く、芭蕉の時代あたりから少しづつ昼食か夜食を加えて三食に変わって行ったようだ。だから「二時の食」は今の感覚でいえば「三度の飯」と同じに考えればいいのだろう。要するに飯喰う間も惜しい花見ということ。飯食わずに何しているかというと、どうせ飲んでいるのだろう。

2017年3月25日土曜日

 ようやく家の近くでも染井吉野が咲いた。といっても一本の木に二輪三輪といったところか。咲いてない木もまだたくさんある。
 ところで、

 たのもしき子を置ちるや姥櫻  牧童『卯辰集』
 遍照の蓑さへもたじ春の雨   牧童『卯辰集』

 の句を詠んだ牧童は加賀金沢藩の御用研師で『奥の細道』で加賀のあたりを芭蕉と同行した北枝の兄にあたるという。その牧童の句を拾ってみよう。

 たんぽぽや芹生小原のまがひ道  牧童『卯辰集』

 芹生は鞍馬山貴船神社の奥にある芹生峠の辺りを指すのか。小原は大原と同じ。三千院がある。
 この二つの地名は「小原木踊」という踊り歌の「小原静原芹生の里、おぼろの清水に、影は八瀬の里人、知られぬ梅の匂ふや」から来ていると思われる。静原は大原と鞍馬の間にある。狂言「若菜」にもこの歌は登場する。
 タンポポは西洋ではサラダにするし、韓国ではセンチェにする。日本では若菜というと春の七草が思い浮かぶが、タンポポはあまり重視されてなかったようだ。
 「まがひ道」というのは他の道の入り混じった間違えやすい道というような意味か。「芹生」という地名に掛けて、芹と入り混じってタンポポが咲いているさまを間違えやすい道に喩えたのだろう。

 かくれ家や食喰さして摘五加木  牧童『卯辰集』

 「五加木」はウコギのこと。唐音だろうか。ウィキペディアには、

 「一六〇三年(慶長八年)の『日葡辞書』ではVcoguiとして『根は薬用に、葉は和え物に、幹は酒に用いる』とあり」とある。
 『卯辰集』ではこの句の前に、

 おもしろき盗や月のうこぎ垣   李東『卯辰集』

の句があり、ウコギは古くから食べられる垣根として珍重されてきた。後に米沢藩では上杉鷹山が奨励したとも言われている。春の季語になる。
 「食喰さして」は食っては「くひさし」つまり食うのをやめてということか。食ってる途中でもう少し欲しくなったか、垣根まで行って摘んできてさっと茹でてまた食べる。

 里の昼菜の花深し鶏の声     牧童『卯辰集』

 これも美しい句だ。鶏の声は陶淵明の「帰園田居」の「狗吠深巷中、鶏鳴桑樹頂」を髣髴させる。
 弟の北枝は『奥の細道』にも登場するし、加賀の俳壇を支え、この『卯辰集』を編纂した人でもあるが、兄の牧童もなかなかだと思う。ただ、後の芭蕉の軽みの風から外れてしまったために損しているのだろう。

2017年3月23日木曜日

 今日も家の近くの桜はまだ開かなかった。
 昨日は「初ざくら」がテーマだったが、今日は「姥桜」で行ってみようか。
 「姥桜」は曲亭馬琴編の『増補俳諧歳時記栞草』に、

 「姥桜 [羅山拾稿]この花、繁栄にして枝上葉なきが如し。老婆、多く歯落てなし。歯と葉と和訓相通ず、故に是を姥桜と云。」

とある。
 『羅山拾稿』の引用らしいが、引用元となったこの本は不明で、要するにソースのはっきりしない情報だが、今日「姥桜」をネットで検索しても、大体判を押したように似たような説が載っている。
 染井吉野がなかった頃は、桜というと山桜で、山桜は花とともに葉っぱも芽吹くので、葉(歯)のある桜になる。大島桜も八重桜も葉っぱが一緒に出る。葉の出ない姥桜というと、昔は江戸彼岸か寒緋桜のことだったのだろう。
 今の日本の桜の主流となっている染井吉野は、姥桜の江戸彼岸と葉のある大島桜の雑種が交雑してできた単一の樹のクローンだと言われている。花が咲くときには葉が出ないので、これも姥桜に含まれる。
 枝垂桜も江戸彼岸系のものが多く、やはり姥桜。
 最近増えてきている河津桜は、寒緋桜と大島桜の自然交雑種だと推定されている。これも姥桜。
 山桜が主流だった時代と違い、今では染井吉野という姥桜が主流になってしまったせいか、今では「姥桜」という言葉はほとんど老婆の比喩としてしか用いられなくなった。実際の桜の木を指して「姥桜」というには、そこらじゅう姥桜だらけだからだ。
 姥桜の句というと、

 姥桜さくや老後の思ひ出   芭蕉『佐夜中山集』

の句が検索に引っかかる。
 「姥桜」という名称の由来が言葉遊びなのだから、姥桜の句も言葉遊びにならざるを得ない。姥だから老後のことが浮かんでくる。この句は芭蕉がまだ伊賀にいて「宗房」の名だった頃の句で、貞門時代の句だ。
 蕉門の句で姥桜の句はなかなか見つからなかった。
 とりあえず見つかったのは、

 たのもしき子を置ちるや姥櫻  牧童『卯辰集』
   小町讃
 影うつせさそふ水あらば姥櫻  一空『庭竈集』

の二句だ。牧童は春雨の句のときに、

 遍照の蓑さへもたじ春の雨   牧童『卯辰集』

の句を紹介している。
 姥桜を読む場合、やはり老婆を意味する「姥」と掛けて詠むのが定石だろう。姥桜が散る頃にはようやく葉っぱも芽吹いてくる。葉と入れ替わりに散ってゆくその花の姿に、頼もしい子供を置いて散ってゆく母親の姿を読み取っている。
 一空の句は、『卒塔婆小町』などの老いた小町を面影とした句で、影を映してみろと誘ってくる水があるなら、そこに姥桜の老いても猶美しい姿が映し出される。
 ちなみに韓国の王桜「왕벚나무」(瀛州桜)はウィキペディアによるとエドヒガンとオオヤマザクラの種間雑種だという。他にも諸説あるがはっきりしないのは、純血の王桜が絶滅寸前で、様々な雑種交配した桜を一緒くたにして「王桜」と呼んでいるからだと思われる。いずれにせよ染井吉野同様、姥桜に属する。

2017年3月22日水曜日

 東京では昨日染井吉野の開花宣言があったが、確かに都内の道を走っているとチラッと何か白いものは見える。まだ家の近くでは咲いていない。
 そういえば俳諧の集を読んでいると「初ざくら」という季語がある。必ずしも花の句の並ぶ中で冒頭に出てくるわけではなく、案外最後の方に八重桜と並んでたりもする。
 芭蕉七部集では『続猿蓑』のみ、春之部、花櫻の冒頭に登場する。

 温石のあかるる夜半やはつ櫻   露沾『続猿蓑』
 寝時分に又みむ月か初ざくら   其角『続猿蓑』
 顔に似ぬほつ句も出よはつ櫻   芭蕉『続猿蓑』

 温石(おんじゃく)はウィキペディアによれば、「平安時代末頃から江戸時代にかけて、石を温めて真綿や布などでくるみ懐中に入れて胸や腹などの暖を取るために用いた道具」だそうだ。懐炉のようでもあり、健康法としても用いられたようで、今でも「温石」で検索すると、その手のサイトがたくさん出てくる。今ではホットストーンと呼ぶようだ。
 その温石がなくてももう十分だという暖かい夜に、ふと外を見ると桜が咲いていたということなのだろうか。
 次の其角の句も夜の句だ。寝る前にもう一度月でも見ようかと思ったら桜が咲いているのに気づいたようだ。
 芭蕉の句はこの並びだと、露沾や其角と比べて自分が年取ったことを自虐的に言っているように聞こえる。そんな芭蕉も二十一の頃は、

 姥桜さくや老後の思ひ出(いで) 芭蕉『佐夜中山集』

と詠んでいる。歳は取りたくないね。
 芭蕉には、

 初桜折りしもけふは能(よき)日なり 芭蕉

の句もある。

 いらいらと日和おもふや初ざくら 井水『皮籠摺』

 「いらいら」は古語辞典を見ると、「心が騒いで落ち着かないさま」とある。今日の「いらっとする」感覚とは多少違うのだろう。むしろ花見への期待から落ち着かないという感じか。

 すなをなる空になしてやはつ桜  柴白『ばせをだらひ』

 「すなを」は「すなほ(素直)」のことか。やはり良い日和だといい。まあ、雨の日でも、

 雨の日や人なき家のはつ桜    青曲『杜撰集』

 これは空き家に取り残された桜が花をつけているということか。「月やあらぬ」系の句と見ていいだろう。

 初ざくらそろはぬ人の歩みかな  松花『桃舐集』

 桜が咲いいるのが目に止まっても、引き寄せられるように見入ってしまう人もいれば、忙しさに足早に通り過ぎる人もいる。反応は様々だ。

 はつ杓子とって初客はつ桜    朱林『ばせをだらひ』

 桜が咲くと急にお客さんが増えたりする。特にお寺とか花の名所だったりすると、花見に来た人を泊めたりもする。あまり長居すると「下下の下の客」と言われたりする。

 有増の願は盡ず初ざくら     此筋『陸奥鵆』

 「有増(あらまし)」は本来はこうあったらいいなという意味で、今の言葉だと「夢」と言ってもいいかもしれない。昔は「夢」という言葉は良い夢ばかりではなく悪夢も含めたもので、今日のように「将来の夢」みたいな用い方はしなかった。将来の夢は「あらまし」だった。
 そういうわけで、桜が咲いて夢は尽きることがない、ということで締めにしておきましょう。

2017年3月21日火曜日

 今年は雨が少ないような気がしてたが、今日は一日雨が降った。そういうわけで、今日のテーマは春雨。
 土芳の『三冊子』「くろさうし」によると、

 「春雨はをやみなくふりつづくやうにする、三月をいふ。二月末よりも用る也。正月、二月はじめを春の雨と也。」

とある。今は旧暦で二月末なので「春雨」ということになる。まあ、確かに今日の雨は「をやみ(小止み)」なく降り続いた。
 実際、「春雨」と「春の雨」がこのように区別されていたのかどうかはよくわからない。曲亭馬琴編の『増補俳諧歳時記栞草』には「兼三春物」として、

 「春雨 春の雨 膏雨 [鬼貫独言]云、春の雨はものこもりてさびし。」

とある。特に区別されてない。
 とりあえず「春の雨」の句をいくつか拾ってみた。

 遍照の蓑さへもたじ春の雨   牧童『卯辰集』

 遍照の蓑というと、許六編『風俗文選』の巻之四「説類」にある山口素堂の「蓑蟲ノ説」に、

 「みのむしみのむし。玉虫ゆゑに袖ぬらしけむ。田蓑の島の名にかくれずや。いけるもの誰か此まどひなからん。鳥は見て高くあがり。魚は見て深く入。遍照が蓑をしぼりしも、ふるつまを猶わすれざる也。」

とある。
 「玉虫ゆゑに袖ぬらしけむ」というのは蓑虫が玉虫に恋をしてということらしい。蓑が非人などの卑賤の象徴だとすれば、身分違いの恋ということになるのだろう。
 「田蓑の島の名にかくれずや」というのは『古今和歌集』の、

   難波へまかりける時、たみのの島にて雨にあひてよめる
 雨によりたみのの島を今日ゆけど
      名には隠れぬものにぞありける
                 紀貫之

の歌による。名前は田蓑の島でも、名前の通りには行かずずぶ濡れになったというのだろう。濡れるというのは涙を流すという裏の意味がある。
 「いけるもの」以下は、動物だって恋に迷い、鳥は高く上がり魚は深くもぐるということか。そして遍照となる。
 これは『大和物語』第168段や『今昔物語集』巻十九第一話に記された物語で、遍照がにょうぼ子供を捨てて出家したものの、ある日暗がりで蓑を地面に敷いてお勤めをしていたら参詣の御一行がやってきて、聞くと夫が突然失踪してその消息を尋ねているようで、その声はまぎれもなく捨ててきた妻の声だった。当然ながら遍照は涙を流し、蓑をびしょ濡れにしたとなる。
 遍照は蓑があってもびしょ濡れになる。ならば春の雨は、ということで、

 遍照の蓑さへもたじ春の雨   牧童

 遍照といえばみのをびしょ濡れにして泣いた人ではなかったか。それがみのをぬらすどころか蓑すら持ってないとはどういうことか、と思わせて「春に雨」だったからだよ~ん、と落ちに持ってゆく。まあ、そんなところだろう。

  もるまでは庵にしらじ春の雨  雨邑『卯辰集』

 春の雨は音も立てずに降って来るから、雨水がある程度屋根に溜まり、雨漏りしてくるまで雨が降ったのに気づかない。

 こっそりと降出す音や春の雨  木導『正風彦根躰』

 これはそのまんまといっていいだろう。

 掃溜にくらす烏や春の雨    菊阿『正風彦根躰』

 これはカラスの濡れ羽色からの発想か。同様のものに、

 春雨の晴て烏の光かな     桃賀『陸奥鵆』

がある。この方がわかりやすい。

 桑の芽や蠶紙卵わる春の雨   越蘭『正風彦根躰』

 桑が芽吹くのは晩春だから、土芳の説とは一致しないが、実際「春雨」と「春の雨」はそんな厳密に区別されていたわけではなかったのだろう。「蠶紙」というのは、蚕種紙あるいは蚕卵紙とも呼ばれるもののことで、蚕の卵の産み付けられた紙のことをいう。桑の芽が芽吹く頃、蚕も卵を割って生まれてくる。それが春雨の季節だった。

 春雨や桑の香に酔美濃尾張   其角『皮籠摺』

 美濃、尾張はかつて養蚕の盛んな地域だったということで、やはり春雨の季節が桑の芽吹く季節だということでこの句となったのだろう。「酔う」という言葉の裏には蚕も生まれてきて、ということが含まれているのだろう。

 不性さやかき起されし春の雨  芭蕉『猿蓑』

 まあ、春の雨というのは何となく物憂くて起き上がりたくなかったんだろう。多分孟浩然の「春眠不覚暁」を意識して、それを俳諧っぽく「不性(不精)さや」っておどけてみたんだろうな。

 春雨や蜂の巣つたふ屋ねの漏  芭蕉『炭俵』

 「不性さや」が孟浩然の出典から離れないのに対し、『炭俵』の頃になると「軽み」ということで春雨の雨漏りが天井もなく剝き出しの屋根の萱か梁にかかった蜂の巣を伝って落ちてくる様を描写して、侘しい感じを出して隠棲する人の一場面を匂わせる。
 芭蕉というともう一句、

 春雨や蓬をのばす草の道    芭蕉『道の草』

の句がある。蓬は「蓬生」という『源氏物語』の巻の名前もあるように、荒れ果てた家でひっそり暮らす末摘花の姿を連想させる。そういえば末摘花の所を最初に尋ねたのが春の宵だったっけ。このあと春雨が降って蓬が育ち、そして蓬生になったということか。やはり出典に即しているあたりで、まだ「軽み」を説く前の句だ。
 さて、春雨の句はまだまだある。

 蛛の井に春雨かかる雫かな   奇生『阿羅野』
 春雨や屋ねの小草に花咲きぬ  嵐虎『猿蓑』

 無名の作者だけど、これはなかなか美しい句ではないか。
 最後に、

 さりとてはさりとては降春の雨 且流『二葉集』

 これは惟然流の超軽みの句。まあ、春雨は小雨だからたいしたことはないとは言っても、やはりしとしとしとしと一日中降られちゃ嫌になるね。

2017年3月20日月曜日

 桜も開花宣言前夜となって、世の中は多分三日後には桜哉になっているだろうな。その前に珍しい杏の句を、

 杏(からもも)や和尚の前に薬酒  橘之『陸奥鵆』

 度々登場する曲亭馬琴編の『増補俳諧歳時記栞草』には、

 「杏花(あんずのはな)〇和名加良毛々[大和本草]其花うるはし。唐音を呼てアンズと云。一種、花紅にして八重なるあり。俗に六代と名く。其木ひくき時、花を見るによし、長じては切べし。平重盛の孫六代、年長じてきられし故に名有。」

とある。和名は「からもも」で「アンズ」は「杏子」の唐音読みと思われる。
 平重盛は清盛の長男で、治承三年(一一七九)、四十二歳で死去。
 重盛の孫六代というのは、六波羅平家の初代正盛、二代目忠盛、三代目清盛、四代目重盛、五代目維盛と来て、その次の六代目高清(妙覚)のことだという。『平家物語』では幼名の平六代の名で登場したため、六代の名で通っている。出家して妙覚となる。最後は処刑され、六波羅平家は六代で途絶えた。アンズも背が高くならないように剪定していたことから六代と呼ばれていた。
 同じく春の季語で「杏(からもも)の粥」というのも『増補俳諧歳時記栞草』に載っている。

 「杏の粥 [玉燭宝典]寒食に大麦粥をつくり、杏仁を研(くだ)きて酪とし、餳(あめ)を以て是に沃ぐ。」

とある。寒食は冬至から百五日目に火を使わずにあらかじめ用意した冷たいものを食うという習慣で、旧暦三月の季語となる。
 さて、橘之の句だが、杏は日本では実を食べる習慣がなく、花を観賞する他は、種に含まれる杏仁を薬用に用るくらいだった。杏の粥も薬膳だったと思われる。そして、薬用というと薬酒、ということになる。
 酒を飲んではいけない和尚さんが、薬だといって杏の酒を飲んでいる。どうりでお寺の庭に杏の花が咲いているわけだ。「和尚の庭前にからももが咲いている、薬酒用か」という意味だと思う。
 ちなみに岩波文庫の『増補俳諧歳時記栞草』には、

 しほるるは何かあんずの花の色   貞徳『犬子集』

という例句が注として追加されている。
 この句は言うまでもなく「杏」と「案ず」を掛けた言葉遊びの句。蕉門の笑いとの質の違いは見ておいていいだろう。

2017年3月17日金曜日

 梅の花はほぼ終わりを迎え、桜はまだ開かない。何となく中途半端な季節だが、柳の糸はまばゆいばかりの黄緑の芽を吹き、雪柳も開き始め、杏、コブシ、寒緋桜、桃などいろいろな花が咲いている。
 ただ、杏は公園などに散発的に植えてあっても梅や桜のようなまとまった名所は少ない。かなり前に見た杏林のCMで杏の林が映ってたが、長野の方だと杏の名所もあるようだ。
 桜も河津桜がこれだけブレイクしたのだから、河津桜と染井吉野の間に咲く桜の名所があれば、染井吉野の後の八重桜まで絶え間なく花見が出来るのではないかと思う。
 それに比べると、芭蕉の時代の俳諧の花の種類は少ない。『阿羅野』の春のところをたどってみても、梅、若菜、水仙、椿、土筆、柳、菜の花、桜、菫、あざみ、山吹、躑躅、藤、とわずか十三種類しかない。『猿蓑』だと、若菜のところになづな、芹の花が加わる。それに桃、木瓜、海棠が加わる程度だ。『続猿蓑』だと、蒲公英、小米花(雪柳のこと)が登場する。それからするとあまり贅沢は言えないか。
 もうすぐ染井吉野や山桜が咲く。そうなると本格的な花見の季節が来る。
 庶民の花見は享保の頃から始まったというい人もいるが、ならば、これらの句は何なのだろうか。

 山や花墻根墻根の酒ばやし    亀洞『春の日』
 山里に喰ものしひる花見かな   尚白『阿羅野』
 何事ぞ花みる人の長刀      去来『阿羅野』
 はなのなか下戸引て来るかいな哉 亀洞『阿羅野』
 疱瘡の跡まだ見ゆるはな見哉   傘下『阿羅野』
 知る人にあはじあはじと花見かな 去来『猿蓑』

 享保の頃八代将軍吉宗が飛鳥山に公園を作ったというのが花見の始めだというのがその根拠らしいが、それ以前でも山に行けば普通に桜が咲いていたし、町の人もお寺などで花見をしていた。江戸では上野寛永寺と浅草浅草寺が花の名所だった。

 一日は花見のあてや旦那寺    沾圃『続猿蓑』

の句もある。
 花見といえば、『ひさご』の歌仙の発句、

 木のもとに汁も膾も桜かな    芭蕉

の句がある。『ひさご』だと、これに、

   木のもとに汁も膾も桜かな
 西日のどかによき天気なり    曲水

と続くが、この句は最初、

   木のもとに汁も膾も桜かな
 明日来る人はくやしがる春    風麦

の脇が付いていた。間違いなく花見の句だ。

2017年3月15日水曜日

 今日は寒かったけど雪にはならなかった。
 この前の日曜日には松陰神社と豪徳寺に行った。豪徳寺は招き猫が増えていた。
 松陰神社というと吉田松陰だが、

 「今急に武備を修め、艦略ぼ具はり礮略ぼ足らば、則ち宜しく蝦夷を開墾して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加・隩都加を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからしめ、朝鮮を責めて質を納れ貢を奉ること古の盛時の如くならしめ、北は満州の地を割き、南は台湾・呂宋の諸島を収め、漸に進取の勢を示すべし。」
 「濠斯多辣利の地は神州の南に在り、其の地海を隔てて甚しくは遠からず、其天度正に中帯に在り。宜なり、草木暢茂し人民繁殷し、人の争ひ取る所となるも。而して英夷開墾して拠るも僅かに其の十の一なり。吾れ常に怪しむ、苟も吾れ先ず之を得ば、当に大利あるべしと。」

と『幽囚録』で侵略戦争の必要を説いた吉田松陰。何が間違ってたかといったら、結局は、

 「葡萄牙・西班雅・英吉利・払郎察の如き、乃ち能く我れを朶頤し、我れ亦以て患と為す。」

という西洋列強がこぞって日本を占領しようとたくらんでいると考え、あたかも世界が戦国時代で天下統一を争っているかのような恐怖にとらわれてしまったということだろう。
 正岡子規も明治十八年の『筆まかせ』で、

   「文明の極度
 世界文明の極度といへば世界万国相合して同一国となり、人間万種相和して同一種となるの時にあるべし 併シなほ一層の極点に達すれば国の何たる人種の何たるを知らざるに至るべし。」

と言い、やがて世界が一つにならなければならないと考えていた。しかし、世界が一つの国になり、世界が一つの人種になるというのが何を意味するのか、その過程で何が起こるのかと考えたとき、結局は天下統一の戦いにならざるを得ない。
 三十年正月の『明治二十九年の俳句界』では、

 「日本が世界列國の間に押し出して日本帝國たる者を世界に認められんとするには日清戦争は是非とも必要なりしなり。日清戦争は初めより此目的を以て起りたる者に非れども少くも此大勢は日清戦争の端を開かしむる上に於て暗々裡に之を助けたるや凝ひ無し。」

と言っているし、明治二十八年正月の『俳諧と武事』では、

 「戦闘の如きは太平の詩人が実験するを得ざるのみか安永天明頃徳川の盛時に方りて世人の夢寐にも想はざる者而して之を論議する者林子平あり之を風詠する〈者〉謝蕪村あり。共に是れ一世の豪傑なり。」

と戦争の句を詠んだ蕪村を賛美している。
 明治から今日に至るまで、日本人を突き動かしてきたのは、

 やがて世界が一つになる→世は正に天下統一へ向けての戦国時代→世界が一つになる時には日本は滅ぶか日本が天下を統一するかどちらかだ→守っているだけではいつかどこかの国に滅ぼされるから、常に外に向かって攻めていかなくてはいけない→侵略するしかない、否それは侵略ではなく防衛だ

この論理だったのだと思う。
 もし自分の周囲の人間が皆自分を殺そうと虎視眈々と狙っているという被害妄想に取り付かれたなら、殺られるまえに殺れということになるだろう。日本中がその妄想に取り付かれたら、侵略される前に侵略しろということになる。根底にあるのは猜疑心と、そこから来る恐怖だ。
 恐怖心を煽り立てられれば人間というのは弱い。恐怖をのがれるためなら手段を選ばなくなる。侵略、略奪、殺人、虐殺、殲滅、あらゆる悪が「防衛」を理由に正当化される。そのどさくさに紛れて強姦や放火までもが肯定されたりする。日本はそんな異常な情態に長いことあった。
 確かに生きとし生ける者は皆生存競争の中にあるから、誰もが生きる上でのライバルで、それこそ万人の万人に対する闘争情態は当然なのかもしれない。 ただ、それは自然界の真実ではない。たった一種類の生物が存在するだけでは環境の変化によってその一種類の生存が困難になれば、そこですべての生命が失われ死の世界だけが残る。多種多様な生物が存在することで、一つが滅んでも他のものが残る。多様性は保険であり、生物が40億年に渡ってこの星に生存できたのも多様性あってのことだった。
 生物種だけではない。人類がこれから先末永く繁栄してゆくためにも、文化的多様性は維持されなくてはならないし、おそらく放っておいても世界は自然に多様化するに違いない。
 風流の道は『古今集』仮名序にあるように、「たけきもののふの心をなぐさめ、力をいれずしてあめつちを動かす」、今まさに戦争を起こそうとしてる人々に思いとどまらせ、非暴力にして世界を変革する道だ。
 それは笑いを通じてぎすぎすした人間関係をほぐし、どんなに異質なものであっても共存共栄を目指す道だ。
 これは明治初期の旧派の句。

 どの道を行もひとつの花野哉   永機

 恐怖心や猜疑心は人間だから仕方がない。誰しもそういう時はある。でも、だから何なんだ。どのみち人間はいつかは死ぬんだし、地球上の生命だって何億年という長い年月が経てば、どのみち地球そのものが太陽に飲み込まれ滅亡するんだ。
 どうせいつか死ぬのなら笑って死んだ方がいい。人を信じ、誠を貫くなら、それは命を掛けるに値する。それが風雅の誠だ。

2017年3月12日日曜日

 山吹や蛙飛び込む水の音
 古池や蛙飛び込む水の音

 この二句の違いは、「山吹や」の上五が直接『古今和歌集』の、

 かはづなくゐでの山吹散りにけり
      花のさかりにあはましものを
               よみ人知らず

を想起させることで、古典の風雅と結びついているのに対し、
 「古池や」の上五は、古歌を通さずに直接当時の人々の共通体験を想起させることで、言葉には表れていない、

 月やあらぬ春や昔の春ならぬ
     わが身ひとつはもとの身にして
               在原業平朝臣

の情を連想させる。
 古池の句が画期的だったのは、古典の持つ本意本情、いわば「不易」の情、古典によって長年にわたりコード化された日本人の季節感、季節が持つ様々なメタファーの体系を否定して純粋な写生に徹したのではなく、それを卑近なあるあるネタを通じて間接的に想起させる方法を見出したことにあったと思われる。
 ただこの古池の句の革新性は、子規だけでなく芭蕉の門人にも必ずしも理解されているわけではなかった。
 『去来抄』「同門評」にある、

 「応々といへどたたくや雪のかど   去来
  丈草曰く、此句不易にして流行のただ中を得たり。支考曰、いかにしてかく安き筋よりハ入らるるや。正秀曰、ただ先師の聞たまハざるを恨るのミ。曲翠曰、句の善悪をいハず、当時作せん人を覚へず。其角曰、真ノ雪門也。許六曰、尤も好句也。いまだ十分ならず。露川曰、五文字妙也。去来曰、人々の評又おのおの其位よりいづ。此句ハ先師迁化(せんげ)の冬の句也。その比同門の人々も難しと、おもへり。今ハ自他ともに此この場にとどまらず。」

の一節は、その不安を的中させている。
 去来の句は、典型的なあるあるネタで、雪が降っていると炬燵から離れるのが億劫だから、人が訪ねて来てもついつい「おうおう」と生返事をするだけでなかなか出ていかない。そうしている間にも訪れてきた客の方は門を叩き続ける。いかにもありそうなことだ。
 ただ問題は、この句が古歌にも詠まれた不易の情を想起させているかどうかだ。そのためこの句が作られた当時でも評価は分かれたし、「今ハ自他ともに此この場にとどまらず」というように、結局たいした句ではないということで忘れ去られていった。
 本人は、

 嘆きつつひとりぬる夜のあくる間は
     いかにひさしきものとかは知る
               右大将道綱母

を踏まえたつもりだったようだが、これは恋の情で、「応々と」からは恋の情は読み取りがたい。つまり古歌の不易の情への連想が働いていない。ただのあるあるネタで終わっている。
 同じ、『去来抄』「同門評」の、

 「時雨(しぐ)るるや紅粉(もみ)の小袖を吹ふきかへし 去来
  正秀曰、いとに寄のたぐひ、去来一生の句くずなり。去来曰、正秀が評いまだ解し得ず。予ハただ時雨もてくるあらしの路上に、紅粉(もみ)の小袖吹かへしたるけしき、紅葉落吹きおろす山おろしの風ト、ながめたる上の俳諧なるべしと作し侍るのミ也なり。」

にしても去来は同じ間違いを犯している。
 「紅粉(もみ)」というのは紅花の染料を揉んで着色するところから来た名で、赤い薄絹は主に女性の着物の裏地に用いる。小袖は当時は綿を入れたりして冬の重ね着にしていたが、その小袖が風に吹かれ、赤い裏地をチラチラさせる姿に、紅粉(もみ)=紅葉(もみじ)の連想が働いたのだろう。古来、

  龍田川錦織かく神無月
      しぐれの雨をたてぬきにして
                詠み人知らず

 のように時雨に紅葉が色づく歌は多く、それは時雨の露が夕日に映えて美しく輝くからで、去来の句はこうした情とはやや離れて、風に小袖がめくれて赤いものがチラチラするのと、時雨に紅葉が染まるのとの類似だけの句になっている。どちらかというと、

 敷島の大和心はチラリズム  会田誠

の情に近い。その意味では不易といえば不易なのだが。
 『去来抄』「修行教」に、

 「牡年(ぼねん)曰、心にとどまる所はみな発句になるべきか。
 去来曰、此内発句に成とならぬは、たとへば
  つき出すや樋のつまりの蟇(ひきがへる) 好春
 此句先師の古池やの蛙と同じ様に思へるとなん。こと珍らしく等類なしと、嘸(さぞ)心にもとどまり、興も有らん。されど発句にはなしがたし。」

とあり、

 つき出すや樋のつまりの蟇  好春

を芭蕉の古池の句とは似て非なるものとして「発句にはなしがたし」と言っている。
 五月雨の雨で樋に大量の水が流れ込んでくれば、そこにいたヒキガエルも突き出されるようにそこをどかなくてはならなくなる。その趣向自体は面白いし、実際にあってもよさそうなものだが、ただこれに繋がる古典作品は思い浮かばない。付け句としてはこれで一つのネタとなっていて問題はないが、発句としては不十分と判断したのだろう。
 ただ、去来の先の二句と比べてこの句が劣っているようには見えない。なぜなら、去来の二句も古歌の情に繋がってないからだ。去来は古歌の持つ深い情を喚起できなくても、単に古歌に似ているというくらいのところで発句と付け句の境を判断している。
 子規も惜しい所までは行った。古典の言葉を通じて古典の情につながろうとするだけでは古典の言葉の通俗的なイメージに縛られてしまい、真情が伝わりにくい。
 「山吹や」ではすぐに古歌が思い浮かんだとしても、ほとんどの人は見たことのない井出の玉川の辺に咲く山吹には、さしたる共感も生まれない。それと同様に、古典の言葉や趣向に基づいて句を作ったところで、今の時代の多くの人が感じている情と程遠ければ共感を得ることは難しい。
 こうした月並を打破しようとした子規の姿勢は間違ってはいなかった。ただ、「古池や」の句は単なる写生ではなく当時の多くの人の共通体験に根ざしていたということと、それがきちんと古典の情につながっているという点にまで思い至らなかったという点で、結局誤解の上塗りをしてしまった。
 今日、確かに古池の句は誰もが知っている。ただそれは教科書に載っていて、試験に出るということで覚えさせられた結果で、この句のどこが名句なのか説明できる人は皆無だ。それは結局近代俳句の敗北といってもいい。近代俳句は古池の句の伝統を受け継げなかった。

2017年3月10日金曜日

 古池の句の続き。

 前に真偽不明の知足宛書簡を引用したが、ここでもう一度それを見てみよう。

 「先達而(せんだって)の山吹の句、上五文字、此度、句案(あんじ)かへ候間、別に認遣(したためつかは)し候。初のは反古に被成可被下(なされくださるべき)候。此度、其角行脚致し候。是又宜(よろしく)御世話頼(たのみ)入候。
 知足様                  芭蕉」

 あくまでこれが本当だとしてという仮定の話だが、それだとすると、この句はまず「蛙飛び込む水の音」の下七五ができて、それに芭蕉が自分で思いついたか其角の案を採用してか、一度は、

 山吹や蛙飛び込む水の音

の原案があったということになる。この句の切れ字の「や」の用法が、後に多く用いられるようになる詠嘆の「や」、要するに関西弁で語尾に用いられる「や」と同様のものではなく、古い係助詞的な「や」の用法だったとすれば、これは、

 山吹に蛙飛び込む水の音(のする)や

の倒置ということになる。芭蕉の句はこうした古い用法の「や」が多く用いられている。詳しくは拙著『奥の細道─道祖神の旅─』の第五章、「帰り道」の一、「七夕の二句」を見て欲しい。
 「古池や」の場合も「古池に」の「に」が「や」に変わったものだが、古池の場合、水の音のした場所だということが明白なのに対し、「山吹に」だとややわかりにくくなる。蛙は池には飛び込むが山吹に飛び込んだりはしない。山吹が咲いている水のあるところに蛙が飛び込んだという意味になる。
 そうなると気になるのが、復本一郎の『芭蕉古池伝説』(一九八八、大修館書店)で紹介されている田文里(でんぶんり)著の『去来抄解』(文化三年)の一節だ。

 「翁、古池ヤ蛙飛込ム水ノ音、初ハ上五、玉川ヤ、ト冠置レタルガ、サ有テハ上五文字云過タリトテ、古池ヤト改テ云々」

 「玉川」というのは多摩川ではなく、『古今和歌集』の、

 かはづなくゐでの山吹散りにけり
      花のさかりにあはましものを
               よみ人知らず

の「ゐで(井出)」、今の京都府綴喜郡井手町を流れる「玉川」を指す。この川は平成の名水百選にも選ばれている。

 玉川や蛙飛び込む水の音

 つまり、

 玉川に蛙飛び込む水の音(のする)や

だと、確かに文法的にもわかりやすい。
 そして、玉川だと確かに「云過(いひすぎ)」という感じがする。古今集の歌の趣向を借りたことが露骨にわかってしまうからだ。「山吹」だと、表向き場所は明示されていないが、山吹に蛙と来れば、やはり古今集のあの歌のことだとすぐわかってしまう。本歌を取る時には少し変えないとそれこそパクリになってしまうので、一応「かはづなく」ではなく「かわずとびこむ」には変えてはいるものの、それでも本歌の趣向を離れるものではなく、句の手柄は芭蕉にではなく古今集の無名作者の方にある。
 「山吹」でも「玉川」でもどっちにしても大して良い句とは思えない。この形では後世に残るような名句にはならなかった。
 この二つの原案が本当にあったとしたら、芭蕉は実際に蛙が飛び込むのを聞きつけて「蛙飛び込む水の音」のフレーズを思いついたのではなく、むしろ古今集の蛙の歌の本歌取りで発句を作ろうとした際、どこか本歌と変えなくてはいけないという理由で「蛙飛び込む」を導き出した可能性がある。
 つまりこの句を最初に芭蕉が思いついたときには、卑近な水音に俳諧を聞きつけたのではなく、鳴く蛙を何か俳諧らしい卑近なものに言い換えられないかと思案しているうちに思いついたということになる。
 案外それが正解だったのかもしれない。しかし、「古池や」の上五を思いついたとき、この句はとんでもないものに化けた。そして「古池や」の句が出来上がってみると、何で芭蕉さんは最初「山吹や」だの「玉川や」だのという上五を冠していたのが不思議になる。そこで「山吹や」は実は其角の案だったという後付の説明がまことしやかに広まったのではないかと思う。
 上五を「古池や」とすることで、この句は化ける。井出の玉川という昔からある名所ではなく、誰もがどこかで見たことのある「古池」なら、そのイメージは聞いた人の各自の内面の記憶を掘り起こすことになる。
 それはたとえば、「富士山」といえば誰もが同じあの富士山しかイメージしない。だが「名もなき山」といえば各自それぞれ自分の記憶の中を探るしかない。そのため各自の故郷の景色であったり、その人の最も思い入れのある場所が浮かんでくる。同じように「井出の玉川」と言われれば、行ったことのない名所に関するステレオタイプ的なイメージしか出てこない。「古池」ならそれぞれの記憶の中にある古池が再現される。
 古池には大体二種類あるだろう。一つは農業用の溜池か何かで、廃村となって放置されたままになっているもの。もう一つは元は屋敷の庭に作られた池で、空き家になって荒れ果てているもの。いずれにせよ、何かしら悲劇的なものが連想される。村一つなくなったにしても、屋敷の主がいなくなってしまったにせよ、一体何があったのか想像を掻き立てる。
 それこそ子供の頃に近所にそんな古池があると、その謂れに関する噂話があって、幽霊が出るなどと脅されたりしそうだ。恐いもの見たさに行ってみると蛙の飛び込む水の音に驚いて「出たーーー」なんてことにもなりかねない。
 古池は確かにどこにでもありそうだ。そんな池で蛙が飛び込む水の音がするというのもいかにもありそうだ。それは確かに「あるあるネタ」に違いない。ただ、この「あるある」は当時なら誰もが思い描ける一種の原風景の域にまで達していたのではなかったか。

2017年3月9日木曜日

 古池の句の続き。

 もちろん、「夷狄」に関してはいろいろ問題はあるだろう。四季のある地域で四季を愛さぬ民族はないだろうし、雨季と乾季しかなくても、一年中熱帯雨林だとしても、そこに暮らす人にとって、自然は単なる物理現象ではなく、それは同時に比喩としてその持つ意味が拡大され、自然は様々なメタファーに溢れているに違いない。
 花の心、月の心はおそらく世界どこへ行ってもそんなに変わるものではあるまい。ただ、たまたま日本の春は桜が目立つだけで、西洋人にとってバラは特別な意味を持っているだろうし、お互いの違いを自覚することで理解可能だ。
 同じ日本人でも、地域が違えば咲く花は違うし、時代が変わればメタファーの意味も変容して、我々も江戸時代の俳諧の理解は簡単ではないわけだ。
 こうした民族による違い、時代による違いは「流行」ということで理解できる。同じイギリスからの移民の集団だったアメリカ人も、長いこと離れて暮らしていれば東海岸と西海岸の文化の違いが生じてくるし、方言も形成される。人類の祖先だって、元は一つだったのに、それが世界中に多種多様な文化を生じるに至ったのは、離れた地域でそれぞれに新しいものが作られては流行し、変化していくことで独自の文化が形成され、様々な違いが生じて来たにすぎない。
 世界中の文化を統一して一つのものにすることは、事実上不可能だ。なぜなら人は必ず進歩を求め、新しいものを創造しようとする。新しいものが生まれれば、それが一瞬にして世界中に広まらない限り、ある特定の地域、あるいは特定のネット民の間だけでまず流行し、そこだけで独自な世界が生じることになるからだ。
 世界の文化を均質化させるには、いかなる新たな創作をも認めないような強力な独裁体制で人をがんじがらめに縛り付けるしかあるまい。それも小さな国ならともかく世界全体で行うことはやはり不可能だ。必ずどこかで反乱が起こる。それゆえ我々はどこまでも文化の多様性と付き合っていかなくてはならない。
 人間のあくなき創作意欲は、まず流行という形で現れる。流行の波及には時間がかかるため、それゆえ文化の違いが生じる。文化の違いが生じれば、お互いに自分の所の文化の波及してない人たちをしばしば蔑んでは「夷狄」と呼ぶ。ただ、そうしてお互い自分の文化を自慢し張り合うことで互いに刺激しあって、それが新たな文化の発展の原動力になることもある。だから、こうした蔑視感情も一概に悪い面ばかりでなく、むしろ仲良く喧嘩ができる状態が理想ともいえよう。
 自分たちの文化だけで閉鎖的になれば、それ以上の発展は難しくなる。お互いの文化の良いところを見つけては盗みあうことでまた、文化というのは更なる発展を遂げて行く。
 結局の所、みんなやっていることは同じなんだとわかれば、その「同じこと」が「不易」だと気づくわけだ。それぞれいろいろ違うことを試してはみても、結局はみんな同じ「道」をたどっている。みんな今より良い暮らしがしたいだけだ。より平和でより自由でより豊かになりたいだけだ。それが風雅の心だ。
 「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における」ものも、どれ一つ人を不幸にしようとしてやってきたことではない。みんなより平和で自由で豊かで人間らしい暮らしができるようにやってきたことだ。そして、「俳諧」も当然そのようなものでなければならない。
 さて、土芳の『三冊子』にもどろう。

 「詩哥連俳はともに風雅也。上三のものは餘す所もその餘す所迄俳はいたらずと云所なし。花に鳴鶯も、餅に糞する縁の先と、まだ正月のおかしきこの比を見とめ、又、水に住む蛙も、古池にとび込水の音といひはなして、草にあれたる中より蛙のはいる響に、俳諧を聞付たり、見るに有。聞に有。作者の感るや句と成る所は、則俳諧の誠也。」

 漢詩、和歌、連歌、俳諧はともに風雅である。このうち漢詩、和歌、連歌が扱うことが出来ない題材も、俳諧はすべて取り扱うことが出来る。漢詩、和歌、連歌が扱わない題材、それは日常卑近な題材、卑俗な題材を意味する。その例として土芳が引き合いに出すのが、詩歌連の「花に鳴く鶯」も、

 うぐいすや餅に糞する縁の先  芭蕉

と俳諧の発句に詠み、詩歌連の「水に住む蛙」も、

 古池や蛙飛び込む水の音    芭蕉

と立派な発句になる。
 「花に鳴く鶯」「水に住む蛙」は『古今和歌集』な仮名序の、

 「花に鳴く鶯、水に住むかはずの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」

を踏まえたものだ。
 ここでは古池の句が餅に糞する鶯と並ぶくらい卑俗な、漢詩や和歌や連歌ではありえない卑俗な題材として扱われていることに注意する必要があるだろう。そして、当時としてはそこが画期的だったというのが推測できる。
 確かに、中世の連歌論書『砌塵抄』(著者・成立年未詳)には「水音と云言葉、いやしき也、河音などは可然候」とある。サラサラという河音が風雅なのに対し、ジャボッという水音は、むしろ風雅な雰囲気をぶち壊す雑音だったのだろう。
 こうした語感は時代によって変わってゆくもので、おそらく今日、この音に少しも卑俗な感じがしないのは、むしろ芭蕉の句によって「水音」が見事に風雅の文脈に取り込まれ、万人がそれを認めてきた結果であろう。
 つまり「水の音」はこの句の「俳言」であり、水音の響きに俳諧を聞きつけたことが、当時としては「餅の糞」に匹敵する滑稽と新味があったのだろう。
 もっとも、この句に関しては無俳言を主張する人もいるし、享保十年(一七二五)の支考の『十論為弁抄』には、「古池はつくろはずして俗語」とあり、「古池」を俳言とする説もある。
 ただ、はたして「古池」という言葉に、本来の和歌にはふさわしくないような卑俗さがあったのだろうか。
 古池は「八重葎」や「蓬生」や「夏草」のように荒れ果てた冷えさびた情を喚起できるため、必ずしも風雅の情に反するものではない。
 没落した貴族の荒れ果てた庭に「古池」があってもおかしくないし、左遷で田舎暮らしを余儀なくされたり、出家して隠棲してたりする侘び人が荒れ果てた古池の傍で暮らしてたとしても何ら問題はない。
 本来風雅な響を持たなかった言葉はというと、ジャボッという濁った、それも不意をつくような蛙の水音の方だったと思われる。
 水音が本来持つイメージは、むしろ元禄二年(一六八九)、『奥の細道』の旅の途中で巻いた『山中三吟』(「馬かりて」の巻)の中の曾良の付句、

   鞘ばしりしをやがてとめけり
 青淵に獺の飛こむ水の音      曾良

の方によく現われている。
 「鞘ばしり」は文字通り読めば刀が自然にすべって抜けることだが、前句が「月よしと角力に踏袴ぬぎて 芭蕉」だったことを考えても、これは刀を抜くことをぼやかして言っていると見たほうがいい。「曲者!」とばかりに刀に手をかけると川獺だった、という古典的なギャグだ。水音は不意に生じて、そこには「驚かす」「ヒヤッとさせる」といったイメージが含まれていた。
 芭蕉の古池の句は、その驚きを、荒れ果てた池にも春が来ている、という驚きに転化することによって、「月やあらぬ春や昔の春ならぬ」(在原業平)の風雅に高められていた。(そのことを曾良も当然知ってて、あえて俳諧の付け句ではそれをパロディーにしてみたのだろう。)
 土芳が「草に荒れたる中より」と言っているように、古池が荒れ果てた草に埋もれたというイメージを持つのは、ごく自然なことだったのであろう。其角も古池の句に、

   古池や蛙飛び込む水の音
 芦の若葉にかかる蜘蛛の巣    其角

という脇を付けている。
 古池の蛙は蜘蛛の巣のはる芦の若葉と同様、荒れ果ててしまい物悲しい中にも春が来ている、というイメージで、そのため本来嬉しいはずの春がかえって悲しくなる。卑俗な水音に、漢詩・和歌・連歌にまさるとも劣らない風雅を聞きつける、それがまさに、「見るに有、聞に有。作者感るや句と成る所は、則俳諧の誠也。」だった。

2017年3月8日水曜日

 朱子学の「理」の概念はかつてはある程度感覚的に理解できたのではないかと思う。今ならまだ「誠」という言葉の方がなじみがあるだろう。「理」に関してはともすると西洋の理性( reason)と一緒くたにされやすい。むしろ訓で読んで「みち」と言った方がいいのかもしれない。
 「みち」というと「道」という字を当てるほうが普通だし、朱子学の「理」も基本的には「道」のことを言うといっていいと思う。「道」というのが道家の言葉で、仏教でも「仏道」というので、それと区別するために「理」と読んでいる節がある。基本的には同じものを違う名前で言い表したといっていいと思う。
 洋の東西を問わず、かつては物質的な世界の背後に真の世界が隠されているという考え方が普通だった。仏教でも形あるものは色相で、色相はそれこそ色即是空だった。その背後にある仏の世界、実相の世界が重要だった。
 西洋でもプラトンが眼に見える現象の世界は洞窟のイドラ(偶像:アイドル)であり、イデア(アイデア)の影にすぎなかった。アリストテレスも本質は実存に先立つとし、現象の背後に真の世界があると考えていた。
 この背後にある真の世界に関して、きわめて合理的な形で批判したのが18世紀後半に活躍したドイツの哲学者、イマヌエル・カントだった。
 カントはこうした現象の背後にある世界を「物自体(Ding an sich)と呼び、理性の生み出す幻想(先見的仮象)として退けた。しかしそれは科学的認識の場所から退けただけで、倫理的要請として結局は肯定することになる。例えばキリスト教の全知全能であり万物を創造した神の存在に関しては、証明しようとするとアンチノミーに陥るしかないが、倫理的には必要なものとされた。
 このあたりに世界の背後に真の世界を仮定する理由が見えてくるようにおもえる。つまりわれわれの生活の中で何が正しくて何が間違っているかは、1足す1が2であったり、水素を燃やせば水が出来るみたいに明確に説明することが出来ない。そこにはいろいろな考え方の人がいるし、実際に良いと思ってやったことが最悪の結果を引き起こすこともある。
 明確に答を出すことの出来ない問題に対して、何らかの答が欲しい。その答を求める気持ちが、理屈では割り切れない何かを常に求めてしまう。そこに、現象からは説明できない真理が存在すると人は考える。
 ただ、それが正しいかどうかは検証できない。それでも必要なものとして一つの民族、社会から要請される真理、それが「物自体」だったのではないかと思う。
 それゆえ、この背後にある真の世界というのは文化によってその表れ方が異なってくる。一神教の文化では全知全能の神がその中心を占める。これに対し日本を含む東アジアの多神教の文化では、「道(理)」という概念を中心として構成されることになる。
 多神教的な世界では、宇宙は混沌から生まれる。『古事記』にも、

 「臣安萬侶言。夫、混元既凝、氣象未效、無名無爲、誰知其形。」

 とある。武田祐吉訳によると、

 「わたくし安萬侶(やすまろ)が申しあげます。宇宙のはじめに當つては、すべてのはじめの物がまずできましたが、その氣性はまだ十分でございませんでしたので、名まえもなく動きもなく、誰もその形を知るものはございません。」

となる。
 中国では陰陽思想と五行思想が融合し、混沌が陰と陽に別れ五行を生じそれが乾坤を生む過程が体系化されてゆくことになる。宋学も基本的にその成果を引き継いでいる。
 現実世界は常に混沌としていて、陰と陽のような相反するものが常に互いに交錯しぶつかり合っている。それが様々な事象を生み出し、この世界の多様性を生み出している。そして、人智を超えたこうした陰と陽との測り知れない動きを「神」と呼んだ。『易経』の「陰陽不測これを神という。」がわれわれの多神教世界の神概念の基礎になっている。つまり理屈で説明できないものはすべて神なのである。今日でも「神」という言葉は、スポーツでもアニメでも理屈抜きに感動できるものを表すのに用いられている。
 こうした多種多様な混沌としたものに秩序を与えているのが「道」という概念になる。それは文字通り道路のイメージからきている。道は老若男女、貴賎を問わず、民族の宗教も異なる多種多様な人々が行きかう。騒々しく、時には罵声が飛び交う中を、人々はそれでも同じ道を通るように、天地万物も多種多様で混沌としたものでありながらも、そこには自ずと道がある。人間社会のルールもそのようにあるべきだというのが、多神教世界の理想であり、倫理的要請だった。
 西洋のように唯独りの造物主の作った唯一のルールに従うというのではない。混沌とした中に自ずと現れるルール、それが尊重された。
 今日でも西洋的な価値観の人たちは、口では多様性の重要さを説くものの、その多様性というのはあくまでも肉体の多様性(人種、ジェンダー、障害の有無、等)であり、多様な肉体を持つものに同一の精神を持つことを強いている。民族固有の精神や価値観の多様性を求める者は、かえってレイシスト呼ばわりされることになる。
 また、西洋では宇宙は唯一の神の創造したものとして、明確な始まりが規定されていて、やがて最後の審判を経て神の国で永遠の命を手にすることで終わる。マルクス主義もまた最後の審判の代わりに社会主義革命を最終的な戦いとし、そのあとに共産主義のユートピアが訪れるとしている。
 これに対し、東アジアの多神教世界では宇宙の始まりを仮定する必要はなかった。天地は無始無終、ただ四季のような永遠の循環があるだけだった。そして人の一生もこの四季の循環になぞられられ、そこに四季の心が語られてきた。それが『笈の小文』の「造化にしたがひて四時を友とす。見る処花にあらずといふ事なし、おもふ所月にあらずといふ事なし。」であり、それを知ることが「夷狄を出、鳥獣を離れ」ることだった。なぜならば、それがまさに「道(理)」だからだ。そして、それこそが「俳諧の誠」だからだ。

2017年3月6日月曜日

 古池の句の続き。

 明治二十七年の時点では、まだ決して、純粋に事物の描写として古池の句を理解していたわけではなかった。それは単なる一個の写生句というよりは、写生の理念そのものを含蓄した句として、特別な意味を持たせていた。それゆえ、若い頃思いついたminor imageの説を決して否定しなかった。蛙の音はあくまで静寂を意味し、そこから連想される古池に生じた波紋は、鏡のように静止した水面を意味していた。そして、そこに同時に俳句もまた、こうした鏡のように、事物をありのままに写すべきであることが含蓄されていた。
 しかし、写生の理念をより徹底させるには、こうした新しい象徴も、またminor imageという一つの技巧も余計なものだったのであろう。明治三十一年の『古池の句の弁』では、その点を更に徹底させている。

 「古池の句の意義は一句の表面に現われたるだけの意義にして、復他に意義なる者なし。」

 「さればこの句の真価を知らんと欲せば、この句以前の俳諧史を知るに如かず、意義においては古池に蛙の飛び込む音を聞きたりといふ外、一毫も加ふべきものにあらず、もし一毫だもこれに加へなば、そは古池の句の真相に非ざるなり。明々白地、隠さず掩はず、一点の工夫を用ゐず、一字の曲折を成さざる処、この句の特色なり。豈他あらんや。」

 もはやここには静寂すらない。この句にはもはや、芭蕉を写生説の先駆者に仕立て上げ、その記念すべき第一号である他には何の意味もない。子規自身、もはやこの句は写生句であるという以外に興味を引くものではなかった。

 「余らもまた古池を以て芭蕉の佳句とは思はず、否、古池以外に多くの佳句あるを信ずるなり」

 高浜虚子もまた子規のこの説を引き継いで、『俳句はかく解しかく味う』の中でこう述べる。

 「実際この句の如きはそうたいしたいい句とも考えられないのである古池が庭に在ってそれに蛙の飛び込む音が淋しく聞こえるというだけの句である。」

 こうした解釈は他の芭蕉句へも拡大されていった。たとえば『仰臥漫録』の、

 「五月雨をあつめて早し最上川   芭蕉
 この句俳句を知らぬ内より大きな盛んな句のやうに思ふたので今日まで古今有数の句とばかり信じて居た。今日ふとこの句を思ひ出してつくづくと考へて見ると『あつめて』といふ語はたくみがあって甚だ面白くない。」

 「芭蕉の
 荒海や佐渡に横たふ天の川
といふ句はたくみもなく疵もなけれど明治のやうに複雑な世の中になってはこんな簡単な句にては承知すまじ。」

などのように、作品の背後にどういう情が込められていたかということは、決して問題になることはなかった。
 子規が近代の古池句解釈の方向を決定づけた点は、この句を蛙の持つ様々な伝統的なものから切断したという所にある。しかし、芭蕉の俳諧そのものがそうした伝統の決別という性格を持つと言うなら、明らかにそれは誤りだ。伝統と決別したのはあくまで子規やその後継者にほかならない。
 そして、こうした俳人や研究者が芭蕉句の「今日的な」意義を探そうとする限り、かすかな伝統との差異を拾い上げては拡大し、伝統と連続している部分は無視せざるをえなかった。
 たとえば白石悌三は『芭蕉』(一九八八、花神社)という本の中の「蛙─滑稽と新しみ─」の中で、古池の句が静寂を表わすという解釈をしりぞけ、断続的な水音に春の遅日の情を読み取ろうと試みている。
 しかし、この一見新しそうな解釈も、歌を詠み軍(いくさ)をする蛙という伝統に飽き足らなくなった芭蕉が、「即座の興」に基づくことにより、「伝統歌学の重圧から感受性を解き放ち、失われた叙情性を俳諧に復活し」、「蛙もまた観念から存在へとよみがえった」と言うあたり、子規の提起をそのままなぞっているだけと言える。
 いわば、遅日の情というのも、結局のところ伝統をしりぞけることによって得られる純粋な景色の描写から読み取り、つけ加えうる任意の新解釈の一つにすぎない。
 複本一郎も、『芭蕉古池伝説』という著書で古池の句だけで一冊の本を書くくらい資料をそろえ、いろいろな角度で論じているが、その中心はあくまで「従来の諸文芸の蛙の『声』の桎梏から脱却して、『音』を詠んだ」というもので、この音は閑寂を表すという解釈は子規の解釈の域を出ていない。
 しかし、問題は、どういう意味で「従来の漢詩、和歌、連歌の美意識にこだわらずに、対象を自由に『見とめ、聞とめ』る」と言っているかだ。一体古池の句の静寂は、山下一海が言うのと同様の、歌を詠まない蛙によって生じる静寂、単なる沈黙から来る静寂なのだろうか、それとも、声に託しきれない情を水音で表現した時の静寂の名だろうか。
 芭蕉は決して伝統を否定したり、古典の本意を軽視したような発言はしていない。ただそれを昔ながらの雅語によって表すのではなく、卑近な事象を俗語で言い表すことにより新味を出そうとしたにすぎない。滑稽な俗語が同時に見事に古典の風雅を表現し、俗語を雅語の領域にまで高め、土芳の『三冊子』「くろさうし」に「師のいはく、俳諧の益は俗語を正す也」とあるように、「正す」ことが重要だった。

 ならば、古池の句は本来どういう意味だったのか。確かに子規を批判するだけでなく、対案を示すことは重要だろう。
 古池の句に関しては、同時代の人による明確な解説があるわけではない。将来発見される可能性はあるが、今のところはない。
 手懸りの一つになるのは、土芳の『三冊子』「しろさうし」の、次の文章だろうか。

 「詩哥連俳はともに風雅也。上三のものは餘す所もその餘す所迄俳はいたらずと云所なし。花に鳴鶯も、餅に糞する縁の先と、まだ正月のおかしきこの比を見とめ、又、水に住む蛙も、古池にとび込水の音といひはなして、草にあれたる中より蛙のはいる響に、俳諧を聞付たり、見るに有。聞に有。作者の感るや句と成る所は、則俳諧の誠也。」

 まずここから探ってってみよう。
 詩哥連俳は、漢詩、和歌、連歌、俳諧のことで、これらがともに風雅だということは、芭蕉の『笈の小文』のなかにある、

 「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其の貫道する物は一なり。」

と同様に考えていいだろう。いわば、

 「造化にしたがひて四時を友とす。見る処花にあらずといふ事なし、おもふ所月にあらずといふ事なし。」

ということにおいて等しいということだ。
 造化にしたがうということは、いわば朱子学の言葉を借りるなら、天地万物の理に従うということになる。理は天地万物の本来通るべき道であり、「人間は万物の霊也。」という儒教の思想は、人間だけがこの道を自覚する存在であることを言い表している。従って、造化に従うとは、自然の本来あるべき姿を自覚することによって、「夷狄を出、鳥獣を離れ」ることを意味する。

2017年3月5日日曜日

 今日は都筑のせせらぎ公園と大塚・歳勝土遺跡公園の古民家に展示された飾り雛を見に行った。
 去年は開成町の古民家瀬戸屋敷のつるし雛を見に行ったが、今年は近場で。
 さすがに開成町のには及ばないが、それでも古民家に飾られて雛人形とつるし雛は季節を感じさせてくれた。
 ミツマタやサンシュユの花が咲いていた。コブシや雪柳も一部咲き始めていた。
 ひな祭りというと、

   けふあるともてはやしけり雛(ひひな)迄
 月のくれまで汲む桃の酒    宗房

というまだ伊賀にいた頃の若き芭蕉の句も思い浮かぶ。かつては仙人の食べる不老不死の桃の実にあやかって、桃を浸した酒を飲んだのだろう。
 今日は桃の酒ではなく、センター北でクラフトビールを飲んで帰った。
 それでは子規論の続き。

 明治十八年頃から盛んに俳句を作り続けてきた子規は、明治二十五年頃になると、行き詰まりを感じるようになる。もっとも子規が貞門や化政調を真似ていたのはごく初期の段階で、この頃は蕪村などの天明調の模倣を行なっていた。この頃の子規の句はというと、

 山々は萌黄浅黄やほととぎす
 猿ひきを猿のなぶるや秋のくれ
 雲助の睾丸黒き榾火哉
 谷底に樵夫の動く桜かな
 白牡丹ある夜の月に崩れけり
 乞食の葬礼見たり秋の暮
 神に灯を上げて戻れば鹿の声
 汽車道の一すぢ長し冬木立

といったものだった。こうした句がいいか悪いかは人それぞれ意見の分かれる所であろう。むしろ問題なのは、子規自身、蕪村の思い描いていた小国寡民の桃源郷や天道思想にどの程度共鳴していたかである。いわば、樵夫の住む山奥で桜を見る生活を本当に子規自身求めていたのだろうか。鹿の声に天地自然の神妙な声を聞きたかったのだろうか。もしそれが心底表現したかった世界だったなら、何の問題もなかったはずである。
 しかし、たとえば子規は明治二十二年の『道徳の標準』という文章で、

 「余は固よりスケプチックなり。余は道徳の標準(絶対的の)を見出すまでは到底総てに疑を存せざるを得ず、しかし余は進んでその標準を発見せんと企つる者故、その時までは今のままに曖昧にくらすつもりなり。余らの如く疑の中に世を送るよりは、むしろ半分は感情をまじへても何か一つの主義を信じたる方が幸福多きやもはかられねど、余はどうしても信ずることが出来ぬなり。」

と言っている。旧制高校時代に自由民権運動に熱中し、当時としては先端を行く西洋の学問を身につけた子規が、蕪村の描き出す甘い夢の世界に没頭できるはずがなかった。むしろよ拠り所とする精神文化を見失ってしまったことが、子規以後長い間我が国の知識人を悩ませていた問題だったとすれば、いくら天明調を忠実に再現しても共鳴する人もなければ、自分自身後でふり返ってもやはり「こんなはずではなかった」ということになる。
 子規はあまりに近代化・西洋化の思想に感化されすぎていた。同時代でも旧派の師匠たちは、まだこうした古い時代との間に感覚的な連続性を保持していたかもしれない。
 もちろん江戸時代といっても二百五十年以上も続いたため、初期と末期ではかなり長い時間の経過があり、生活も大きく変わったし、清の時代の中国文化の流入もオランダからの西洋文化の流入もあり、特に十八世紀の後半ぐらいから世界観も大きく変わっていった。幕末の頃には既に蕉門の俳諧はもとより蕪村などの明和・天明の俳諧も理解が困難になっていたのではないかと思われる。まして、彼らとて開国や明治維新によって生じた生活の変化の影響を受けなかったはずはなかろう。
 明治初期の月並調というのは、既に旧派の俳諧そのものが芭蕉や蕪村の時代と遠く隔たり、その本来の精神を再現することが困難になった中で、発展の方向性を見失っていたことによるのではないかと思われる。
 これに対して子規の場合、それがよかったか悪かったかは別としても西洋化という明確な方向性を持っていた。古池の句をスペンサーのminor imageで解釈しようとしたのもその一端だったし、最初は蕉門の権威に反発してそのアンチテーゼとして蕪村を持ち上げてみたものの、蕪村にも近代性を見出すのは困難だったのは確かだろう。
 俳諧の精神の喪失というのは、たとえばかつて芭蕉の時代に多くの人が共有できた隠喩の世界、つまり花といえば単なる植物の花ではなく花の心を表し、月といっても単なる天体現象ではなくて付きの心を持っていた。その隠喩の世界を共有することで「夷狄を出で、鳥獣を離れて」という意識を共有できた。
 月花に限らず、四季折々の花鳥風月は単なる自然現象ではなくそれ自体がメタファーの体系であり、それは生活の中に溶け込み、コード化されていた。月を見ても心は月にあらず、月という現象(色相)を超えて空を見つめていた。そして、その精神世界の共有こそが本意本情と呼ばれるものだった。
 しかし、時代が変わると共有していたはずの世界はすっかり形骸化し、いつの間にか生活とかけ離れたものとなっていった。明治の近代化はそれまでの伝統的な世界を危機に落とし入れ、それが風流の道全体の衰退を運命付けていた。
 子規が思いついたのは、こうした古いメタファーを新しい理想のもとに再編することではなかった。むしろメタファーそのものを消去し、単純に物理的世界の描写に向かうことだった。写生説はこれまでの一切の花鳥風月に託された伝統的メタファーを切り捨てることから始まった。
 ここに旧派と子規の俳句革新とは決定的に違う方向に進むことになった。もしこの頃に旧派の中に西洋の哲学を学びつつも伝統的な価値観と融合させてゆくだけの力のある者がいたなら、旧派と新派の断絶は生じなかったかもしれない。しかし残念ながら旧派からの真の改革者は現れなかった。
 明治二十五年頃、子規は小説『月の都』を書き上げている。この小説は幸田露伴に酷評され、すぐには日の目を見ることはなく、後に発表された時もさして評判にはならなかった。また、このころ子規は新体詩の創作も試みているし、さらに俳句を十二ヶ月並べて一組とした連作も盛んに作っている。その一方で、俳句の十七文字の組み合わせには数限りがあって、良い組み合わせはもうとっくに出つくし、明治の終わり頃には、もう新しい句は一句も生まれないのではないかと考えるようになっていた。おそらく、この頃はまだ、月並の原因が俳句の形式にあると考え、そのため他の形式を実験しようとしていたのであろう。
 明治二十七年は、日清戦争の始まった年だった。このころ子規は一つの転機をむかえたようだ。子規は清国にいた弟子の瓢亭に「小生の哲学はわずかに半紙三枚なり」と言って、次のような手紙を送っている。

 (一)我あり (命名)我を主観と名く。
        (命名)主観ありとするものを自覚と名く。

 そして、「此我と云ふは言ふに言はれぬものなり世間の我といふ意味と思ふ可らず。」と説明している。
 「我」が世間の我ではない以上、単に世間の中の一人として自分を自覚することを言うのではない。主観自身が自らを「あり」とすることであり、世間の我よりも大きな超越的主観の自己限定でなくてはならない。この事は、明治二十九年の『松蘿玉液』の次の文で、より詳しく書かれている。

 「宇宙はわれにあり、方丈の中に八万四千の大衆を容れて息の出来ぬほど窮屈にもあらず。まだ八万由旬の蓮台も仏もはひるべき余地あり。さりとて入れ物が大きくなりたるにはあらではひる物が小さくなりたらんかし。一たびわが頭脳中に縮めたる宇宙の頭脳の外に投げ出せば宇宙はふたたび無量際にまでひろがりぬ。さてやわが頭脳を取りてこの宇宙に置けばこれはまた頭脳の小ささよ。おもしろきものは相対なり煩悩なり、つまらぬものは絶対なり悟りなり。

 出てみれば春の風吹く戸口かな」

 世間でいう自我は単に小さな頭脳に宇宙を縮め、矮小化して詰め込んでいるにすぎず、絶対だとか悟りだとかいうのも、こうした小さな頭脳の産物にすぎない。そして、こうしたものの相対性を知る自我が大なる自我ということになる。先の「我あり」が、こうした様々な思想信条や宇宙自然に対する様々な解釈を相対化する「我」の自覚であり、このことは俳句から思想性や自然を象徴として用いるための様々な技法を排除する子規の写生説へとそのまま結びつくのである。
 『芭蕉雑談』の中の古池の句の解釈は、半紙三枚の哲学の直後に書かれたものであり、「夢の醒めたるが如く」「破顔微笑を漏らしぬ」という表現は、芭蕉が古池の句を詠んだ時の心境というよりは、写生説の着想を得た子規の心境ではなかったかと思われる。『芭蕉雑談』の以下の文章も「蕉風」ではなく、写生説そのものである。

 「妄想を絶ち名利を斥け、可否に関せず巧拙を顧みず、心を虚にし懐を平にし、佳句を得んと執着することなくして佳句を得べし‥‥略‥‥而して彼の雀はちうちう鴉はかあかあ柳は緑花は紅というもの禅家の真理にして却て蕉風の骨髄なり。古池の句は実に其ありの儘を詠ぜり、否ありのままが句とならん。」

 自然に情を託すのではなく、一切の情を相対化することによって、言葉から象徴機能奪い去り、単なる対象を指示するだけの言葉が残る。これによって確かに形骸化した古めかしいメタファーは一掃されることになる。しかし、子規はこれを歴史的な一過程として理解していたわけではなかった。過去の月並なメタファーの一掃は、写生説として普遍化されると同時に、人々の生活の中で不断に作られつつある新しいメタファーをいつまでも破壊し続けるという宿命を負うことになる。
 これは近代俳句に限らず、日本の近代文学の宿命でもあった。彼らは不断に日本を破壊し続けるしかなかった。

2017年3月4日土曜日

 寒い寒いと言いながらも確実に暖かくなってはきている。Jリーグの始まる頃になると杏の花が咲くのは例年通りだ。大島桜のなかには、すでに開花しているものがある。芭蕉の句ではないが「ああ春々」ってとこだ。

 子規の『芭蕉雑談』の「彼佶屈聱牙なる漢語を減じて」は天和調からの脱却を言わんとしているようだが、実際の所、芭蕉のいわゆる天和調の句といっても漢語の比率はそれほど多くない。漢文の書き下し分の文体を真似ているだけで、語彙そのものは和語が中心となっている。

延宝八年
 於(ああ)春々大哉春と云々       芭蕉
 夜ル竊(ひそか)ニ虫は月下の栗を穿ツ  同
 枯枝に烏のとまりたるや秋の暮      同

延宝九年・天和元年
 愚案ずるに冥途もかくや秋の暮      同
 雪の朝独リ干鮭(からざけ)を嚙得タリ  同
 夕顔の白ク夜ルの後架(こうか)に紙燭とりて 同
 芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉       同
 櫓の声波ヲうって腸氷ル夜やなみだ    同

天和二年
 髭風ヲ吹て暮秋歎ズルハ誰ガ子ゾ     同
 貧山の釜霜に啼声寒し          同
 夜着は重し呉天に雪を見るあらん     同
 氷苦く偃鼠(えんそ)が喉をうるほせり  同

 このうち漢語は「云々」「月下」「愚」「案ずる」「冥途」「後架」「紙燭」「芭蕉」「櫓」「暮秋」「歎ずる」「貧山」「呉天」「偃鼠」だが、「芭蕉(ばせを)」は古今集にも用いられていて雅語でもある。
 この十二句の中で、「枯枝に」の句と「雪の朝」は漢語が入っていない。漢語が二語以上ある句は、「愚案ずるに」の句、「夕顔の」の句、「髭風ヲ吹て」の句の三句で、全体としてそんなに多くはない。この頃の句は漢文の書き下し文調というだけで、漢語がとりわけ多いわけではない。

2017年3月3日金曜日

 芭蕉にとって談林俳諧が物足りないと感じたとしたら、それは俳諧があくまで連歌の従属物であって、俳諧が和歌、連歌、漢詩などと対等のものとみなされていないという不満だったと思う。
 連歌と俳諧を二元的に考えるのではなく、『笈の小文』の冒頭部分に、

 「およそ西行のわかに置(おけ)る、宗祇の連歌に置る、利休が茶に置る、雪舟が絵に置る、皆その貫道する物は一なるべし。」

とあるように、そして『三冊子』に、

「詩哥連俳はともに風雅也」

とあるように、俳諧を俗語による詩として漢詩や和歌や連歌と対等に考えるという点では、貞門や談林に飽き足らなくなったといえるかもしれない。しかし、決して言葉遊びや滑稽味を否定したわけではなかった。
 このことは、蕉風確立以降の芭蕉の作品の中にもおびただしい数の言葉遊びがなされていることと、明らかに滑稽味を狙った作品がいくつも存在するという事実が証明するであろう。
 ただ、子規はそうは考えず、『芭蕉雑談』の子規の空想はこう続く。

 「第一に彼佶屈聱牙なる漢語を減じて成るべくやさしき国語を用ふべきなり。而して其国語は響き長くして意味少き故に、十七文字中に十分我所思を現はさんとせば、為し得るだけの無用の言語と無用の事物とを省略せざるべからず。さて箇様にして作り得る句はいかなるべきかなどとつくづく思ひめぐらせる程に、脳中濛々大霧の起りたらんが如き心地に芭蕉は只々惘然として坐りたるまま眠るにもあらず覚むるにもあらず。」

 当然ながら、これは子規自身の悩みだった。既に何千という俳句を作りながらも、その月並に悩み、新風を求め、模索していたのは子規自身だったし、貞門や化政調を模倣し、洒落や滑稽に興じていたが、それに飽き足らなくなったのも、子規自身だった。
 芭蕉の時代なら、漢語と国語という対比ではなく、雅語と俗語の方が大きな問題だったはずだ。芭蕉は俗語を解放するとともに、雅語の文脈の中に大胆に漢語や俗語を取り込む「俳文」のスタイルを確立したことも重要だ。むしろ国語の中に漢語を取り入れたことのほうが重要だった。それは『奥の細道』の文章を見ても明らかで、

 「月日は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行きかふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲(へんうん)の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜(かいひん)にさすらヘ、去年(こぞ)の秋、江上(かうしょう)の破屋(はおく)に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立てる霞の空に白川の関こえんと、そぞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取るもの手につかず」

と和文と漢文とを混ぜた「和漢混淆文」だった。
 発句でも、蕉風確立期以降も和漢混淆体を用い、和語だけで作る連歌発句とは明らかに異なっている。

 八九間空で雨ふるやなぎかな  芭蕉
 涅槃会や皺手合する数珠の音  同
 紫陽花や藪を小庭の別座敷   同
 秋ちかき心の寄や四畳半    同

 これはいずれも元禄七年の最晩年の句だが、「八九間」「涅槃会」「数珠
「別座敷」「四畳半」などの言葉が用いられている。
 子規が「国語」という言葉を用いているのにも注意する必要があるだろう。これは明治に入ってから生じた標準語制定への機運を受けたものと思われるからだ。雅語でも俗語でも和語でもなく「国語」なのは、国家が言語を管理し、規範言語としての標準語を定める動きを踏まえたものと見ていい。
 子規の文章はさらにこう続く。

 「妄想全く断ゆる其瞬間、窓外の古池に躍蛙の音あり。自らつぶやくともなく人の語るともなく『蛙飛びこむ水の音』といふ一句は芭蕉の耳に響きたり。芭蕉は始めて夢の醒めたるが如く、暫く考へに傾けし首をもたげ上る時覚えず破顔微笑を漏らしぬ。」

 「古池や」の上五が後からできたということや、この句が蕉風開眼の句であるということは各務支考の説を踏襲している。ただ、そこに「写生説」が付け加えられている。

2017年3月1日水曜日

 明治二十二年の段階で、芭蕉の古池の句はminor imageの句で、閑寂といわずして閑寂を表した句だとした子規は、明治二十七年の『芭蕉雑談』で更に新たな展開を図る。つまり、この頃から盛んに説き始めた写生説によって解釈しなおそうとする。
ここでまず子規は、

 「近時西洋流の学者は則ち曰く、古池波平かに一蛙躍って水に入るの音を聞く、句面一閑静の字を著けずして閑静の意言外に溢る‥‥略‥‥夫の西洋学者の言ふ処稍々庶幾からんか、然れども未だ此句を尽くさざるなる。」

と言っている。
 もちろんこんな西洋学者が本当にいたかどうかは知らない。どう考えてもこれは明治二十二年の正岡子規自身のことであろう。
 まあ、このあたりは子規一流のレトリックで、この句が閑静を表すという説すら初耳の読者は、それでもまだ「尽くさざる」という言葉に再度びっくりするという寸法だ。そして、その「尽くさざる」とは何かといった所で、子規は「写生説」を切り出す。
 以下、子規が述べるのはあくまで子規自身の想像であり、当時の史料に何らかの根拠のある説ではない。

 「芭蕉独り深川の草庵に在り、静かに世上流行の俳諧を思ふ。連歌陳腐に属して貞徳俳諧を興し、貞門亦陳腐に属して檀林更に新意匠を加ふ。されど檀林も亦一時の流行にして終に万世不易の者に非ず。是に於てか俳運亦一変して長句法を用ゐ漢語を雑へ、漸くにして貞門の洒落(地口)檀林の滑稽(諧謔)を脱せり。」

 間違ってはいけないのは、これは子規の説であり、芭蕉がこんなことを言ったなんて記録は何もない。ただ、こうした俳諧史観は今日の俳人にも大きな影響を与えているのは確かだ。だから子規の説でありながら、芭蕉がこう言ったと言われれば容易に信じてしまうところがある。
 松永貞徳は連歌が陳腐だから俳諧を興したのではなく、庶民向けに連歌入門のために、いわば句のつけ方、和歌連歌の基本的な技法、雅語の使い方などをわかりやすく学習するために考え出したものだった。それゆえに俗語の使用は一句に付き一語に制限され、雅語だけだと堅苦しいから俗語も交えるという程度のものだった。
 これに対し宗因の檀林(談林)の俳諧は、連歌の式目をより緩やかに運用して庶民のリアルの生活の表現を開放していった。しかし宗因自身生涯連歌師だったし、俳諧は連歌の余興のようなもので、おそらくは能に対して狂言があるようなものとして捉えていたのではないかと思う。
 「長句法を用ゐ漢語を雑へ」というのは『虚栗(みなしぐり)』の頃のいわゆる天和調のことをいうと思われるが、その前に『俳諧次韻』において、貞門談林の俗語は一句一語の制を打ち破って、漢詩調、謡曲調、芝居の台本やその他様々な文体のパロディーを試み、内容も古典のパロディーからシュールネタとでもいうような奇抜ものまでありとあらゆる実験を行っていたことを忘れてはならない。
 天和の頃になると、木版による出版文化が急速に庶民の間にまで普及し、古典や漢籍などのわかりやすい解説書などが次々と出版されたのを受け、それを全面的に取り入れ、連歌の式目に字余りの制限のないことを逆手にとって、字余りの句を多く詠むようになっていった。これは蕉門に限らず当時の流行で、伊丹では鬼貫らが伊丹流長発句を関西ではやらせている時期でもあった。
 「漸くにして貞門の洒落(地口)檀林の滑稽(諧謔)を脱せり。」と子規は言うが、これは大都市の都市文化の発展によって、笑いの質が大きく向上したと見たほうがいい。
 室町時代後期の宗鑑編の『新撰犬筑波集』は、宗鑑をして俳諧の祖と言わしめるとおり、俳諧の源流ともいえるものだが、その内容はというとシモネタが多い。それに比べれば貞徳の俳諧は言葉遊びに留めることで品性を保とうとしたと思われる。
 まあ、貞徳の発句はというと、

 霞さへまだらにたつやとらの年   貞徳
 雲は蛇呑みこむ月の蛙かな     同
 花よりも団子やありて帰る雁    同
 冬ごもり虫けらまでもあなかしこ  同

といった他愛のないものだったが。これが藤原惺窩に儒学を学び、古今伝授を受けた細川幽斎に和歌を学び、里村紹巴に連歌を学んだ、当時の第一級の文化人の句だというのが笑える。「松永」の名字も戦国武将の松永弾正の甥という家柄によるものだ。
 談林の俳諧の滑稽は、それに対し上方、江戸で急速に形成されていった都市文化を背景とした、都会的な笑いの台頭でもあった。芭蕉もまたそれに感化された一人だった。そして芭蕉は生涯笑いを極めようとして、最終的にはあるあるネタに至ったと考えた方がいい。近代的な意味での笑いを排除したような生真面目で重苦しい文学を目指したわけではない。