今日も冷たい雨が。ほとんど霙に近かった。午後から雨は止み、夕方には晴れ間も見えてきた。
今日は惟然撰の『二葉集』から花の句を。
こちとらも駕籠でやる衆も花は花 芳船『二葉集』
花見というのは寺社などの公界に様々な身分の人が集まる。
京は九万九千くんじゅの花見哉 芭蕉
の句はわかりやすい。「くんじゅ」は群衆のこと。
景清も花見の座には七兵衛 芭蕉
も、たとえ平家物語の悪七兵衛景清だろうと、「よお、七兵衛じゃねえか」てな感じで、身分関係なく屈託なく酒を酌み交わすような、それは理想でもある。
木のもとに汁も膾も桜かな 芭蕉
も、たとえ汁と膾だけの粗末なご馳走でも立派な花見になる、と芭蕉の花の句は大部理想が入っている。
それに比べると、芳船の句は「花は花」と言いながらも、どこか駕籠でやって来る衆を羨むような雰囲気が見えて面白い。「花は花」でも本音では、同じ花でも何でこう違うのかと思うのは自然な情だ。
どこぞでは何のいでいでよし野野を 擧桃『二葉集』
播磨では吉野が花の名所だといわれてもさすがに遠い。これはこれはの吉野山も「どこぞでは」になってしまう。
どつさくさ花の盛よさればなを 遅川『二葉集』
「どさくさ」という言葉は今では「ドサクサに紛れて」とは言うが、単独で使われることは稀だ。花の盛りには人がたくさん押し寄せて混雑する。どんなに花が綺麗でも、余り人が多いと辟易するのは仕方ない。古くは、
花見んと群れつつ人の来るのみぞ
あたら桜の咎にはありける
西行法師
の歌もある。
どさくさのまぎれに花を折てせう 鳥五『二葉集』
本来の蕉風の風雅では理想に走りすぎて、こういう句は付け句ではいいにしても、これを発句にしちゃう所が『二葉集』の面白さでもある。
昔は江戸時代というと貧農史観が支配的で、江戸庶民は搾取され、封建的な暗黒時代として描かれてきた。
80年代くらいから江戸学が流行し貧農史観が見直されたが、今度は逆に美化しすぎる傾向も出てきた。
江戸時代の法制度を中心に語ると、事細かに定められた禁令の数々と刑罰の過酷さに目を奪われ、自由のない暗黒時代に見えてしまう。
しかしそれは今日の道路交通法から21世紀初頭の日本の道路には一台の車も止まってなかった、なぜなら駐車違反は厳しく取り締まられ罰せられてたからだ、ということになる。サリン等による人身被害の防止に関する法律の存在も、こういう法律があるからサリンを撒く人なんていなかったということではなく、むしろ撒く人がいたからこういう法律が出来た。
逆に文学作品や芝居や落語などから江戸時代を描き出すと、これは「サザエさん」の世界をそのまま昭和の家庭はみんなこうだったと結論するような間違いに陥りやすい。
特に大衆向けの作品というのは、現実のつらい生活を忘れたくて求めるもので、大体は悪い人なんていない、みんな良い人ばかりの人情味溢れる世界になりがちだ。アメリカ映画を観てあれがアメリカの現実だなんて思ってはいけないように、日本のアニメを見てあれが日本人の生活だと思ってもいけないように、江戸時代の歌舞伎や落語の世界が江戸時代の生活だと思ってはいけない。
ブルーハーツの「トレイントレイン」という唄に、「ここは天国じゃないんだ、かといって地獄でもない、いい奴ばかりじゃないけど、悪い奴ばかりでもない」というのはいつの時代でも同じだと思う。
江戸の花見も別に天国だったわけではない。もちろん地獄でもなくそれなりに楽しかったとは思う。
0 件のコメント:
コメントを投稿