2017年3月21日火曜日

 今年は雨が少ないような気がしてたが、今日は一日雨が降った。そういうわけで、今日のテーマは春雨。
 土芳の『三冊子』「くろさうし」によると、

 「春雨はをやみなくふりつづくやうにする、三月をいふ。二月末よりも用る也。正月、二月はじめを春の雨と也。」

とある。今は旧暦で二月末なので「春雨」ということになる。まあ、確かに今日の雨は「をやみ(小止み)」なく降り続いた。
 実際、「春雨」と「春の雨」がこのように区別されていたのかどうかはよくわからない。曲亭馬琴編の『増補俳諧歳時記栞草』には「兼三春物」として、

 「春雨 春の雨 膏雨 [鬼貫独言]云、春の雨はものこもりてさびし。」

とある。特に区別されてない。
 とりあえず「春の雨」の句をいくつか拾ってみた。

 遍照の蓑さへもたじ春の雨   牧童『卯辰集』

 遍照の蓑というと、許六編『風俗文選』の巻之四「説類」にある山口素堂の「蓑蟲ノ説」に、

 「みのむしみのむし。玉虫ゆゑに袖ぬらしけむ。田蓑の島の名にかくれずや。いけるもの誰か此まどひなからん。鳥は見て高くあがり。魚は見て深く入。遍照が蓑をしぼりしも、ふるつまを猶わすれざる也。」

とある。
 「玉虫ゆゑに袖ぬらしけむ」というのは蓑虫が玉虫に恋をしてということらしい。蓑が非人などの卑賤の象徴だとすれば、身分違いの恋ということになるのだろう。
 「田蓑の島の名にかくれずや」というのは『古今和歌集』の、

   難波へまかりける時、たみのの島にて雨にあひてよめる
 雨によりたみのの島を今日ゆけど
      名には隠れぬものにぞありける
                 紀貫之

の歌による。名前は田蓑の島でも、名前の通りには行かずずぶ濡れになったというのだろう。濡れるというのは涙を流すという裏の意味がある。
 「いけるもの」以下は、動物だって恋に迷い、鳥は高く上がり魚は深くもぐるということか。そして遍照となる。
 これは『大和物語』第168段や『今昔物語集』巻十九第一話に記された物語で、遍照がにょうぼ子供を捨てて出家したものの、ある日暗がりで蓑を地面に敷いてお勤めをしていたら参詣の御一行がやってきて、聞くと夫が突然失踪してその消息を尋ねているようで、その声はまぎれもなく捨ててきた妻の声だった。当然ながら遍照は涙を流し、蓑をびしょ濡れにしたとなる。
 遍照は蓑があってもびしょ濡れになる。ならば春の雨は、ということで、

 遍照の蓑さへもたじ春の雨   牧童

 遍照といえばみのをびしょ濡れにして泣いた人ではなかったか。それがみのをぬらすどころか蓑すら持ってないとはどういうことか、と思わせて「春に雨」だったからだよ~ん、と落ちに持ってゆく。まあ、そんなところだろう。

  もるまでは庵にしらじ春の雨  雨邑『卯辰集』

 春の雨は音も立てずに降って来るから、雨水がある程度屋根に溜まり、雨漏りしてくるまで雨が降ったのに気づかない。

 こっそりと降出す音や春の雨  木導『正風彦根躰』

 これはそのまんまといっていいだろう。

 掃溜にくらす烏や春の雨    菊阿『正風彦根躰』

 これはカラスの濡れ羽色からの発想か。同様のものに、

 春雨の晴て烏の光かな     桃賀『陸奥鵆』

がある。この方がわかりやすい。

 桑の芽や蠶紙卵わる春の雨   越蘭『正風彦根躰』

 桑が芽吹くのは晩春だから、土芳の説とは一致しないが、実際「春雨」と「春の雨」はそんな厳密に区別されていたわけではなかったのだろう。「蠶紙」というのは、蚕種紙あるいは蚕卵紙とも呼ばれるもののことで、蚕の卵の産み付けられた紙のことをいう。桑の芽が芽吹く頃、蚕も卵を割って生まれてくる。それが春雨の季節だった。

 春雨や桑の香に酔美濃尾張   其角『皮籠摺』

 美濃、尾張はかつて養蚕の盛んな地域だったということで、やはり春雨の季節が桑の芽吹く季節だということでこの句となったのだろう。「酔う」という言葉の裏には蚕も生まれてきて、ということが含まれているのだろう。

 不性さやかき起されし春の雨  芭蕉『猿蓑』

 まあ、春の雨というのは何となく物憂くて起き上がりたくなかったんだろう。多分孟浩然の「春眠不覚暁」を意識して、それを俳諧っぽく「不性(不精)さや」っておどけてみたんだろうな。

 春雨や蜂の巣つたふ屋ねの漏  芭蕉『炭俵』

 「不性さや」が孟浩然の出典から離れないのに対し、『炭俵』の頃になると「軽み」ということで春雨の雨漏りが天井もなく剝き出しの屋根の萱か梁にかかった蜂の巣を伝って落ちてくる様を描写して、侘しい感じを出して隠棲する人の一場面を匂わせる。
 芭蕉というともう一句、

 春雨や蓬をのばす草の道    芭蕉『道の草』

の句がある。蓬は「蓬生」という『源氏物語』の巻の名前もあるように、荒れ果てた家でひっそり暮らす末摘花の姿を連想させる。そういえば末摘花の所を最初に尋ねたのが春の宵だったっけ。このあと春雨が降って蓬が育ち、そして蓬生になったということか。やはり出典に即しているあたりで、まだ「軽み」を説く前の句だ。
 さて、春雨の句はまだまだある。

 蛛の井に春雨かかる雫かな   奇生『阿羅野』
 春雨や屋ねの小草に花咲きぬ  嵐虎『猿蓑』

 無名の作者だけど、これはなかなか美しい句ではないか。
 最後に、

 さりとてはさりとては降春の雨 且流『二葉集』

 これは惟然流の超軽みの句。まあ、春雨は小雨だからたいしたことはないとは言っても、やはりしとしとしとしと一日中降られちゃ嫌になるね。

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