古池の句の続き。
前に真偽不明の知足宛書簡を引用したが、ここでもう一度それを見てみよう。
「先達而(せんだって)の山吹の句、上五文字、此度、句案(あんじ)かへ候間、別に認遣(したためつかは)し候。初のは反古に被成可被下(なされくださるべき)候。此度、其角行脚致し候。是又宜(よろしく)御世話頼(たのみ)入候。
知足様 芭蕉」
あくまでこれが本当だとしてという仮定の話だが、それだとすると、この句はまず「蛙飛び込む水の音」の下七五ができて、それに芭蕉が自分で思いついたか其角の案を採用してか、一度は、
山吹や蛙飛び込む水の音
の原案があったということになる。この句の切れ字の「や」の用法が、後に多く用いられるようになる詠嘆の「や」、要するに関西弁で語尾に用いられる「や」と同様のものではなく、古い係助詞的な「や」の用法だったとすれば、これは、
山吹に蛙飛び込む水の音(のする)や
の倒置ということになる。芭蕉の句はこうした古い用法の「や」が多く用いられている。詳しくは拙著『奥の細道─道祖神の旅─』の第五章、「帰り道」の一、「七夕の二句」を見て欲しい。
「古池や」の場合も「古池に」の「に」が「や」に変わったものだが、古池の場合、水の音のした場所だということが明白なのに対し、「山吹に」だとややわかりにくくなる。蛙は池には飛び込むが山吹に飛び込んだりはしない。山吹が咲いている水のあるところに蛙が飛び込んだという意味になる。
そうなると気になるのが、復本一郎の『芭蕉古池伝説』(一九八八、大修館書店)で紹介されている田文里(でんぶんり)著の『去来抄解』(文化三年)の一節だ。
「翁、古池ヤ蛙飛込ム水ノ音、初ハ上五、玉川ヤ、ト冠置レタルガ、サ有テハ上五文字云過タリトテ、古池ヤト改テ云々」
「玉川」というのは多摩川ではなく、『古今和歌集』の、
かはづなくゐでの山吹散りにけり
花のさかりにあはましものを
よみ人知らず
の「ゐで(井出)」、今の京都府綴喜郡井手町を流れる「玉川」を指す。この川は平成の名水百選にも選ばれている。
玉川や蛙飛び込む水の音
つまり、
玉川に蛙飛び込む水の音(のする)や
だと、確かに文法的にもわかりやすい。
そして、玉川だと確かに「云過(いひすぎ)」という感じがする。古今集の歌の趣向を借りたことが露骨にわかってしまうからだ。「山吹」だと、表向き場所は明示されていないが、山吹に蛙と来れば、やはり古今集のあの歌のことだとすぐわかってしまう。本歌を取る時には少し変えないとそれこそパクリになってしまうので、一応「かはづなく」ではなく「かわずとびこむ」には変えてはいるものの、それでも本歌の趣向を離れるものではなく、句の手柄は芭蕉にではなく古今集の無名作者の方にある。
「山吹」でも「玉川」でもどっちにしても大して良い句とは思えない。この形では後世に残るような名句にはならなかった。
この二つの原案が本当にあったとしたら、芭蕉は実際に蛙が飛び込むのを聞きつけて「蛙飛び込む水の音」のフレーズを思いついたのではなく、むしろ古今集の蛙の歌の本歌取りで発句を作ろうとした際、どこか本歌と変えなくてはいけないという理由で「蛙飛び込む」を導き出した可能性がある。
つまりこの句を最初に芭蕉が思いついたときには、卑近な水音に俳諧を聞きつけたのではなく、鳴く蛙を何か俳諧らしい卑近なものに言い換えられないかと思案しているうちに思いついたということになる。
案外それが正解だったのかもしれない。しかし、「古池や」の上五を思いついたとき、この句はとんでもないものに化けた。そして「古池や」の句が出来上がってみると、何で芭蕉さんは最初「山吹や」だの「玉川や」だのという上五を冠していたのが不思議になる。そこで「山吹や」は実は其角の案だったという後付の説明がまことしやかに広まったのではないかと思う。
上五を「古池や」とすることで、この句は化ける。井出の玉川という昔からある名所ではなく、誰もがどこかで見たことのある「古池」なら、そのイメージは聞いた人の各自の内面の記憶を掘り起こすことになる。
それはたとえば、「富士山」といえば誰もが同じあの富士山しかイメージしない。だが「名もなき山」といえば各自それぞれ自分の記憶の中を探るしかない。そのため各自の故郷の景色であったり、その人の最も思い入れのある場所が浮かんでくる。同じように「井出の玉川」と言われれば、行ったことのない名所に関するステレオタイプ的なイメージしか出てこない。「古池」ならそれぞれの記憶の中にある古池が再現される。
古池には大体二種類あるだろう。一つは農業用の溜池か何かで、廃村となって放置されたままになっているもの。もう一つは元は屋敷の庭に作られた池で、空き家になって荒れ果てているもの。いずれにせよ、何かしら悲劇的なものが連想される。村一つなくなったにしても、屋敷の主がいなくなってしまったにせよ、一体何があったのか想像を掻き立てる。
それこそ子供の頃に近所にそんな古池があると、その謂れに関する噂話があって、幽霊が出るなどと脅されたりしそうだ。恐いもの見たさに行ってみると蛙の飛び込む水の音に驚いて「出たーーー」なんてことにもなりかねない。
古池は確かにどこにでもありそうだ。そんな池で蛙が飛び込む水の音がするというのもいかにもありそうだ。それは確かに「あるあるネタ」に違いない。ただ、この「あるある」は当時なら誰もが思い描ける一種の原風景の域にまで達していたのではなかったか。
0 件のコメント:
コメントを投稿